いつもの場所で、彼と彼女らは仲睦まじく遊んでいる。 作:サンダーソード
「その……ごめんなさい、取り乱してしまって」
「うん……。なんか自分でもわけわかんなくなってたかも」
「や……その、いいんだ。気にしないでくれ」
どう返していいか分からなくて、そんな当たり障りのないことしか言えない。いや何言えっつーんだよ。なんで泣いたんですかって? 聞 け る か 馬 鹿 野 郎 。
夕日は沈んだが、蛍光灯を付けようとは思わなかった。月明かりと地上の灯りだけが弱々しく闇を祓う、優しい薄暗がり。
今はまだ墨色のヴェールにお互いの顔を隠してでもいないと、会話を続けられるかも怪しかった。
「ええと……。それじゃあ、解答ね」
「うん。……ねぇ、ゆきのん」
「ええ。私も……そう、したい」
僅かな言葉と交わし合う視線、重ねた手と手で繋がりあう二人のシルエットだけが見える。
二人の間で何かが通じ合ったんだろうが、俺だけ分からないことが少し悔しくもある。この仲良しカップルツーカーもいいところだ。
「大丈夫か? お題、忘れてたりは……」
「忘れるはずないじゃない。……忘れられるはず、ないじゃない」
「一生忘れないよ」
「……そうかよ」
まああれを繰り返せってのも正直辛いし助かるが……。そこまで言われるのも、その、なんだ……。ああもう、電気付けなくて正解だ。見せられるかこんな面。
「行くわよ」
「行くね」
声を揃えて解答の宣言をする雪ノ下と由比ヶ浜。ここで俺も遅ればせながら、二人が先程暗黙に通じ合った『したいこと』の中身をようやくのこと察し、また一つ気恥ずかしさに包まれた喜びが累積する。
雪ノ下と由比ヶ浜は並んで、そっと息を吸う。静寂に響く息遣いが俺の鼓膜を揺らした。
「『暇を潰しあった赤いバラ……飼い慣らしあった野のキツネ……心で見るべき人たち』」
そっと噛み締めるように、綺麗に重なった言葉を綴っていく。ただのお題だ、なんて。もうそんな言葉で自分を誤魔化すことも出来そうになかった。
「『暇を潰しあった赤いバラ、飼い慣らしあった野のキツネ、心で見るべき人たち』」
仄暗い夜陰の向こうから、熱の篭もった視線を感じる。きっと錯覚ではないはずだ。今ならそれを言葉に寄らずに信じられる気がした。
「『暇を潰しあった赤いバラ。飼い慣らしあった野のキツネ。心で見るべき人たち』」
三度繰り返す二重奏には一寸の狂いなく、雪ノ下と由比ヶ浜は楚々として言葉を結ぶ。
「比企谷くん」
「ヒッキー」
「…………雪ノ下。由比ヶ浜。……クリアだ」
二人からは言葉もなく、かすかな吐息や所作の起こす衣擦れで了知を返す。
自分の顔が熱を持っている自覚はある。心底から無限に湧き上がる焔が自らの身を焦がしているのだから当然だ。
発作的に叫び出したくなる衝動を切り刻みながら、荒く息を吐いてその残骸を吐き散らす。
椅子の端を掴む強ばった手指をじっくり解きほぐしながら、俺は雪ノ下の手番の始まりを待った。
× × ×
「……紅茶」
宵闇のゆりかごの中、雪ノ下がぽつりと呟く。
「そういえば、もう飲んでしまっていたかしら。淹れなおしましょうか」
言われて、夕日が出る前にはもう飲みきっていたなと思い出す。
シルエットの片方が繋いだ手をそっと解き、音もなく立ち上がる。闇に融ける濡れ場の黒髪が、窓を背にすることで月光に浮かび上がり、学校の一幕であることを忘れてしまう、誰もが息を呑む光景に仕立て上げる。
……改めて雪ノ下の規格外の美しさを目の当たりにした。
そのまま雪ノ下は部室の入口まで歩いて行き、蛍光灯のスイッチを入れる。そこでようやく夜の帳の魔法が解け、いつの間にか詰めていた息を俺は吐き出した。
雪ノ下はケトルのところまで歩いて行き、紅茶の準備を始める。
俺と由比ヶ浜は目を見合わせ、先程の幻想的なまでに美しい一枚絵の感動を、言葉に依らずに共有していた。視線でいいよね、いい……しているうちに水が沸き立つ音が聞こえ始める。
「…………拗ねるんじゃ、なくて」
それに重ねて、しかし水音に一切紛れることなく、雪ノ下がぽつりと呟く。自然、俺も由比ヶ浜も雪ノ下の後ろ姿を目で追う。
「一方的に求めるよりもまず、自分から伝える努力をすべきだったのよね……。ごめんなさい」
カチャカチャと陶磁の擦れる音が追加される。寂寞の混じる声はしかし穏やかで。
振り返った雪ノ下の口元には吹っ切れたような笑顔、手には茶器。
雪ノ下は静かに由比ヶ浜の元まで歩き、マグカップに紅茶を淹れる。由比ヶ浜は照れとはにかみを浮かべてそれを受けた。
「本当に……。敵わないわ」
彼女は由比ヶ浜を眩しそうに見て、そう、零す。
長机をぐるり回って、俺の隣まで来てくれる。
声に入り交じる穏やかさが表に現れたような微笑。至近で紅茶を淹れてくれる艶やかな立ち姿に、俺は礼を言うのも忘れて見惚れていた。
「与えずに求めるばかりでは、不実というものよね……」
むしろそれは俺の方だ。俺はこの二人にもらったものの十分の一も返せている気がしない。
雪ノ下は自分のティーカップにも紅茶を淹れ、ポットを片付けた後に着席する。その目は俺を真っ直ぐ見ていた。
「……そうね。少しだけ、考えさせてちょうだい」
「うん。待つよ。幾らでも」
由比ヶ浜がいらえを返し、俺は黙って頷いた。
「ありがとう……。私、由比ヶ浜さんには負けたくない……ううん、少し違うわね」
途中まで言いかけ、首を振ってキャンセル。
「対等で、いたいもの」
凪ぐように笑んで、目を閉じる。そのまましばしの静寂。由比ヶ浜は黙ってじっと雪ノ下を見守っている。こういうとき、由比ヶ浜は不思議なくらい大人びる。同じ高校生徒は思えない程に。
やがて雪ノ下が目を開き、自分から由比ヶ浜の手を取った。由比ヶ浜は一瞬虚を突かれたように驚きを顔に出すが、すぐにそれを年相応の微笑みで塗り替え、両の手で優しく包み込む。
そうして雪ノ下は、真正面から俺の目を見て。
「『誰よりも、凄い人』」
たった二言。わずか十文字。
それだけの言葉で、俺の頭は天地が引っ繰り返るほどに掻き乱された。
雪ノ下が。
あの雪ノ下が。
俺なんかを、誰よりも、と。
身体全体がバグっているんじゃないかってくらい、焼け付くような熱を持つ。恥ずかしく、しかし喜ばしく。面映ゆく、されど誇らしく。
同じ構図で座っていた、夕暮れのあの日。理解されたいんじゃない、理解したいんだ、なんて考えたあの時を思い出す。浅薄だったと認めざるを得ない。
焦がれるほど理解したいと思う人に認められることが、これほどまでに揺さぶるものだったなんて。俺はまるで知らなかった。
「ゆきのん」
「ええ……。あなたの言葉も、届けてあげて」
「ヒッキー……『誰よりも、すごい人。誰よりも、すごい人。誰よりも……すごい、ひと』……あたしにとっても、だよ。あたしの……あたしたちの、ヒーロー」
「っ……!」
由比ヶ浜の言葉が、乱れた心に響き渡る。
「由比ヶ浜さん、クリ、あ……?」
「ヒッキー……?」
熱くて熱くて、まるで麻痺したように身体の自由が利かない。視界がぼやける。二人が、俺の顔を見て呆然としているような気がしたが、それももう分からない。大丈夫か俺。このまま死ぬの?
一瞬それでもいいやと思ってしまうくらいの多幸感に塗れているのが自分でも、気付いたら正面の席がもぬけの殻になっていた。
反射的に左右を確認、する間際。ふわり、と優しい感触に挟まれる。
「あ……?」
「ごめん、ヒッキー……がまん、できなかった」
「あなたにも……あったのね。心の弱さと言うものが」
雪ノ下と由比ヶ浜に、抱きしめられていた。
「嬉しかったの? ヒッキーがそんなにも喜んでくれたのが、あたしも……嬉しい」
「あなたの涙を見ていると……胸がどうしようもなく切なくなって……。気付けば、こう、していたわ」
涙? 俺の?
俺、泣いてるのか……?
頬に触れようにも両の腕は二人に抱き取られたままで、温感は振り切れたままの役立たず。
分かるのは、視界が暈けていることばかり。
「ゆっ……きの、した……」
声を出して、始めて自分がしゃくり上げていることに気付いた。追って、自分が泣いていることをようやく理解した。
「何かしら……?」
「お題を……俺も……」
「……ゆっくりでいいわ。落ち着いて」
はは……。早口言葉、勝負だったろうが。トチらせんならダメだろ、急かさなきゃ。
「『誰よりも……凄い、人……誰よりも、凄い人。誰よりも、凄い人』」
「ええ……比企谷くん、クリア」
泣き濡れた声が本当にまちがっていなかったかは、自信がない。だが、雪ノ下は認め、由比ヶ浜からも否はなかった。
あぁ、と言う口籠もった返事は聞こえただろうか。抱きしめる力は弱まらず、視界は暈けたまま。それでも、俺の心はどこまでも晴れやかだった。