「お前、誰だよ」
何の冗談だよと、一ノ瀬彰はクラスメイトに聞き返した。しかしすぐに、クラスメイトの表情を見てそれが冗談ではないことに気付く。
朝、何事も起きるわけもなく学校に着いた彰は教室に入り愕然とした。昨日までは確かにあった自分の机がなくなっていたのだ。
「なあ、あいつ知ってるか?」
「知らないわ。制服を着てるけど……見掛けたことないわね」
「先生呼んでくるか?」
教室がにわかにざわめき出す。その原因は他ならぬ彰なのだが、当の本人は事態を理解しきれずに混乱している。
「いや……むしろ警察を呼ぶべきなんじゃないか?」
「ッ!」
ここは確かに自分の教室なのに。昨日まで他愛ない話で盛り上がっていたクラスメイトの冷たい瞳があまりにも息苦しい。警察、という単語を言い出したクラスメイトがスマホを取り出したところで、彰は何かに駆られるように衝動的に走り出した。
「逃げたぞ!」
「早く先生を呼べ!」
「不審者だ!」
後ろから聞こえてくるクラスメイトの声が、今はとても怖く感じる。仲の良かった友人も、挨拶を交わす程度だった顔見知りも、彰の味方をしてくれる人は誰一人いなかった。
気付けば学校を抜け出していた。どうやって校門を抜けたかも覚えていない。無我夢中で走り続けた彰は、自宅近くの公園でようやく足を止めた。
「……何が起きたんだよ」
彰はまだ自分に何が起きたかを理解出来ていない。まるで世界中から拒絶されたような感覚は、あまりにも孤独で身が竦む。
とりあえず、家に帰ることにした。一眠りすれば、きっと全てが元通りになる。そんな淡い期待を抱いて。
だがしかし、世界は非情である。
「あれ、俺の家……どこ、だっけ」
異常は彰の身に起きる。家の近くの公園にきた、ということはわかっているのに、肝心の自宅の場所が思い出せない。おかしい、とすぐに生徒手帳を開いた。
住所を頼りにすればすぐに思い出すだろう。が、開かれた生徒手帳には自宅の住所は書かれていなかった。そればかりか、なにも書かれていない。
「なんだよこれ。なんなんだよ!?」
もう何が起きているのかわからなかった。理解しきれない謎の現象を前に、彰は叫ぶことしか出来ない。
逃げる事も出来ない。何処に逃げればいいかもわからない。何処へ往けばいいかもわからない。目的もなにもわからない。
わからないことだらけ。わからないこともわからない。わからなくて足が止まり、疲れ果ててへたり込んでしまう。
人の往来が激しい道であるはずなのに、座り込んだ彰に誰も視線を向けない。いや、気付いてすら、いない。
「……腹、減った」
朝の食事はきちんと食べてきたはずなのに、妙な空腹感が彰を襲った。
慌てて鞄の中から昼飯用に入れておいたパンを取り出し、一口齧る。
大好物の焼きそばパン。いつもは一口食べるだけでもパンと焼きそばのダブル炭水化物の味わいに幸せを噛みしめるのだが――。
「足りない。腹が……腹が、減った……」
すぐに焼きそばパンを平らげたが、満たされることはなかった。
お腹を押えたまま彰はコンビニに駆け込み、帰るだけのパンを買う。公園に戻るまでの道のりも我慢出来ずに歩きながらパンにかぶりつく。
「んぐ、あむ。んぐ……」
しかしそれでも、満たされない。いくら食べても飢餓感が襲い、十数個のパンはあっという間になくなってしまった。
自分の身に何かが起きている。それも、とんでもない何かが。
はっ、はっ、はっ、と断続的に短い呼吸を繰り返し、早鐘を打ち出した胸を押える。
訴えてくるのは終わりのない空腹感だ。立っているのも辛くなった彰は、ベンチに座ることも出来ずに地面に横たわった。
何を食べても満たされる気がしなかった。とにかく眠ってしまおう。寝て起きたら考えようと、くたびれてしまった思考に蓋をする。
「おにーちゃん、だいじょうぶ?」
「……あ?」
意識を手放そうとした彰に声を掛けたのは、小さな女の子だった。くりくりっとした丸い目を彰に向けている少女は、木の棒で彰の頬を突いていた。
「――――」
ドクン、と衝動が彰を襲った。
小さな女の子は不思議そうに首を傾げ、何度も何度も木の棒で彰を突く。
それがなんだか楽しいのか、にこにこと笑顔を見せるほどだ。その眩しさを感じさせる笑顔に、彰は羨望の感情を抱く。
(……うま、そう)
頭を過ぎった思考は、とても普通では考えつかないものだった。
だが今の彰は飢餓感に襲われており、とても正常な判断が出来る状態ではない。
だから、思い浮かんだことをすぐに実行に移そうとして――自分を見下ろしている女の子へ、手を伸ばした。
「君を、食わせて」
「え?」
「おなかが、すいたんだ。パンじゃだめだったんだ。そう、わかったんだ。おれが、たべたいのは――」
女の子の腕を掴んで、強引に引きずり倒す。口からは涎が溢れ、彰は女の子を押し倒して逃げられないように覆い被さった。
「まぶしい。ああ、まぶしい。羨ましい――」
「ひっ――!?」
大口を開けた彰は女の子にかぶりつこうとして――激しい衝撃を受けて地面を転がった。
腹部に感じる強烈な痛みに、自分が蹴られたということを自覚した。地面を転がり、腹部を押えつつも彰は立ち上がる。顔を上げると、恐怖に顔を歪めている女の子が見えた。そして。
「が、が、え……?」
「あ、あ、あ……」
「早く逃げなさい!」
――銀色の少女が、そこにいた。少女の体躯にはとても似合わない二丁の銃を携えて。
少女の怒号交じりの声に女の子は自我を取り戻し、後ろを向いて逃げ出した。
「ああ、行かないでくれ。君を食べないと、食べないと」
「食べさせないわ。バグになってしまったあなたに、ヒトを襲わせはしない!」
女の子を追おうとした彰の道を遮るように少女が立ち塞がる。
銃口が向けられていることに気付いた彰は咄嗟に身を翻す。それとほぼ同時に、銃声が響き、彰が立っていた場所は大きく抉られていた。
「な、んだよ。なんだよお前は! 俺はただ、腹を満たしたいだけだ!」
「……会話は出来そうね。でも、衝動に負けている以上はもう手遅れ、だから――」
少女は一定の距離を保ったまま何度も引き金を引く。
どれも全て彰の急所を狙っており、彰の命を奪わんとしていることは言わずもがなだった。
「……でだよ」
「っち、ちょこまかと逃げ回って……!」
「なんで、邪魔をするんだよっ!」
これまでの人生で銃撃を回避したことなどあるわけがない。漫画やゲームの中で常人離れした動きで銃弾を回避するシーンは見たことがあるが、あんなものは所詮漫画やゲームの中の出来事でしかない。
だが彰は銃弾を躱した。回避してみせた。どうして出来るのかはわからない。銃弾が来る場所を本能的に理解し、常人離れした動きを披露した。
少女はすぐに次の手を打った。二丁の銃を捨てたと思えば、白銀の剣を虚空から引き抜いた。
「――――カムイよ目覚めろ。今、バグを討つためにッ!」
少女の声に応えるように、白銀の刀身に炎が宿る。
少女の髪色と同じ、銀の炎。あまりにも荘厳で美しい炎を前に、彰は思わず気を取られる。
その隙を少女は見逃さない。剣を振るうと同時に炎が彰を襲う。
眼前に迫る銀の炎。確実に彰を殺すために放たれた炎。
自分が死ぬと、理解した。
どう考えても逃げられない速度と勢いを前に、彰は正気を取り戻した。
全てがスローモーションに見える中で、彰の心は安堵していた。怯えつつも、かろうじて逃げられた女の子を思い浮かべて。
自分が何をしようとしていたか、今でも理解出来ないし納得出来ないでいた。
でも、確かにあの瞬間、自分は女の子を食べようとした。そうすれば、この餓えが満たされると根拠のない自信に後押しされて。
どうかしてた、と思い返して――自分を止めてくれた少女を見た。
見れば見るほど綺麗な少女であった。年齢は自分と同じ十七、八だろうか。美しさの中に幼さを感じられる少女は、憎悪でも何でもなく、決意の篭った瞳を彰に向けていた。
炎が迫る。
どうせ生き残る事は出来ない。いや、女の子を襲おうとした自分のことを考えるなら、いっそのこと死んでしまった方がいいとまで思えた。
……でも、最期の瞬間に、どうしても伝えたいと思った。
「ありがとう、止めてくれて。俺は君が、大好きだ」
一目惚れだ。確固たる信念を感じた少女に、彰はどうしようもなく惹かれたのだ。
声は炎の轟音にかき消され、少女には届かないだろう。それでもいいと、とにかく口にしたかったのだ。
人としての過ちを止めてくれた少女に感謝を。そして、愛を言葉にして。
彰は炎に飲み込まれた。
『死にたいのか?』
それは分かりやすい問答。消えた筈の意識へ向けて、答えが決まっている質問が投げられる。
"死にたくないさ"
当たり前の返答。人間誰だってそう簡単に死にたいとは答えない。
ましてや彰はまだ学生だ。学生で死を望むなど、よほど辛い現実を生きている時以外は有り得ないだろう。
『それなら、生きよう。死を諦めるには早すぎる』
"……いやいや、無理だろ。どう考えたって俺は死ぬだろ"
『大丈夫。お前を信じろ。生き残りたいと考えた、お前自身を信じろ。右手を挙げて、念じるんだ。生きたいと、さあ!』
"ダメだよ。俺は女の子を食おうとした。もし生き残れても、また女の子を襲ったら……"
声には強い感情が込められていた。それでも彰の感情は動かない。死を受け入れてしまった彰には、何の言葉も響かない。
『好きな女が出来たくせにか?』
"――――"
『お、やっと感情が動いたな。正直になれよ。今のお前は、惚れたあの子を、どうしたい?』
"……あの子を"
『惚れたまま死んではい終わりじゃねえだろ。そんなつまらねえ人生はない。だからよ――今のお前は、誰よりも生きたいって望んでるだろ!』
"……そうだ。そうだよ。こんな思いは初めてだ。俺は、あの子が、あの子が欲しい! あの子の笑顔が、見たい。冷たい眼差しだけでなく、俺に、俺だけに、笑顔を向けて欲しい! あの子の全てを、俺のモノにしたい!"
『良い答えだ。じゃあやることは決まってるなぁ!』
"応ッ!"
「な――私の炎が!?」
少女の声が耳に届いた。今思えば、とても心地良い声だ。まるで天女の歌声のように、聞いているだけで心の底から安らぎを得る声だ。
言われるがままに右手を掲げた。突き上げた拳から放たれた黄金の炎が、銀の炎の全てを飲み込んでいく。
そのまま掲げた手を振り払うと、黄金の炎は追従するように宙を舞う。
炎の熱さは感じない。胸の内にあるこの熱さは、炎の熱ではないことを知っている。
昂ぶった感情のままに、口を開く。言葉にしたい気持ちは固まっている。
「俺は一ノ瀬彰。あなたに恋をしました。俺と、付き合ってください!」