「……あれ? 私、寝ちゃってたの……?」
眠たげに瞼を擦りながら、少女ネールが目を覚ましベンチから立ち上がった。
灰色の空から降り注ぐ雪はネールにとって見慣れた物で、当たり前の光景だ。
それでも何故だか、今日は空を見てると寂しくなる。
「うーん、どうしてだろう」
きょろきょろとあたりを見渡しても、原因はわからなかった。
きっと気のせいだろう、ということにして、ネールは雪の降りしきる道を歩き出す。
公園にいた理由もわからない。残る理由もないのだから、帰るのは当然のことだ。
「……おなかすいたなぁー。晩ご飯、なにかなー」
帰れば暖かいご飯が待っている。
優しい母が、笑顔でネールが帰ってくるのを待ってくれている。
母とネールの
だって――ネールが生まれてからずっと、母とネールの二人で暮らしてきたのだから。
「かーえろかえろーおうちへごーごー」
寒空の下をネールが歩いて行く。その様子におかしなところは一切見られない。
おかしなところが無いのが、おかしいというのに。
小さくなっていくネールの後ろ姿を、彰とヨシノは見守っていた。
バグの消失と同時に結界は解除され、二人とネールはもとの世界に戻ってきた。
そのまま帰ろうとした彰だったのだが、ヨシノに引き留められてネールが目覚めるのを待っていたのだ。
「これでわかったでしょ?」
「……なにも、覚えてないんだな」
「そうよ。バグになった者、バグに喰われた者。世界はそれら全てを世界から消去する。最初からいなかったことにする。当事者は不都合から強制的に目を逸らされ、何事もなかったかのように振る舞うことになるわ」
「……おかしいのは俺なのか?」
「あなたの感覚は狂っていないわ。誰だって最初はバグを救おうと宣言するわ。……でも、戦っていく内に、救えない命があることを理解していくわ。バグはどうしても、救えないって」
「……」
ヨシノの言葉に彰はなにも言い返せない。
元々自分が特別なのだ。バグになりかけたのに、人に戻れた特例なのだ。
自分と同じようにバグになった人を救いたいと考えるのは当然のことで――黄金の炎がその答えになってくれるとも考えている。
だが――だが。
「俺の炎は、俺の手が届く場所にしか伸ばせない」
バグを討つ時の冷たいヨシノの目を、彰は忘れることが出来ない。
自分と同じくらいにしか見えないヨシノが、あそこまでどうして冷徹になれるのか。
それは――かつてはヨシノも、自分と同じようにバグを救えるかもしれない、と考えたことがあるからだろう。
でも、ヨシノは彰よりも長く守護者としてバグと戦い続けてきた。
その中で、人を喰らってしまったバグがどういう存在かは嫌というほどわかっている。
もしかしたら、人を喰らった後に正気を取り戻したバグがいたのかもしれない。
たらればの話はするものではない、が――彰は考える事しか出来ない。
ヨシノはきっと、過去に悔やんだことがある。
だから、私情の全てを投げ捨ててバグを討っている。
それは、彰もこれから背負わなければならないことなのだ。
目の前のバグだけ助けても――バグになってしまう人を助けられるわけではないのだから。
「そうよ。今この時も、世界はバグと戦っているわ。バグとなり、世界から消えた人間たちは……救いを求めることすら忘れて、人を喰らい世界へ渇望する」
「救おうとする気持ちは悪いことじゃないわ。でも、死んだバグが救われたバグがいることを知ったら――救っているあなたを見たら、より絶望するわ。より憎むわ。それは他の守護者を危険に晒すことになるわ」
ヨシノの言葉はまるで呪詛のように染み込んでいく。
それでも、と彰はヨシノの瞳を見つめて固めた決意を言葉にする。
「俺は……俺は、救えるバグは救いたい」
「……そう。あなたって馬鹿だったわね」
「そうだよ。馬鹿で情けないけど……誰かを助けたい思いだけは、一人前でいたい」
彰の宣言を聞きながらヨシノは歩き出す。ヨシノの背中を寂しげに見つめながら、やがて彰もヨシノを追って雪道を歩き出す。
「……でも、あなたのその考えは嫌いじゃないわ。あなたはそのまま、真っ直ぐに進むといいわ」
背中越しの言葉を聞いて、彰はほんの少しだけ心が軽くなった。
足取りは重いものの、確かな信頼がそこにはあった。冷たくも厳しい、温かな言葉であった。
「……バグになって、バグに喰われて。それで家族のことを忘れられたのだから、あの子はまだ幸せな方よ」
そして――最後にぽつりと呟かれたヨシノの言葉は、誰の耳に届くこともなく虚空に消えていった。