ヒュウガ・ココノエには妹がいた。幼い頃に両親を事故で失い、親戚をたらい回しにされた二人は強い絆で結ばれていた。
ユキメ・ココノエ。ヒュウガが失ってしまった、半身といっても過言ではない少女の最期。それは語るのも苦しいものだった。
遺産目当ての親戚は信用できない。クラスメイトからの同情と哀れみは友人関係を破綻させ、ヒュウガにはユキメしかいなかった。同様に、ユキメにはヒュウガしかいなかった。
疎まれた生活にも慣れた頃、ヒュウガはある日突然ユキメを忘れてしまった。
どうして忘れたのかもわからない。でもヒュウガは、自分に起きた異常に気付くまでユキメのことを一切忘れて生活を送ってしまった。
異常はそう、ヒュウガ自身も周囲から忘れ去られてしまったのだ。
一人暮らしをするには広すぎる部屋に首を傾げることは多々あった。
明らかに自分では使わない弁当箱を不思議に思うことは何度もあった。
気付かぬところで部屋の物が動いていた時は、泥棒の可能性を疑った。
でもそれらは違ったのだ。確かにそこに、ユキメ・ココノエが生きた証が残されていたのだ。
ヒュウガの存在が消えてしまった――それはつまり、バグの餌としてマーキングされたということだ。
ユキメのことを忘れてしまってから、どれくらいの日数が経ったかもわからない。
ユキメがバグになってしまってから、どれほどの日数が経ったかもわからない。
ユキメは、耐えていた。耐え続けていた。大切な兄を喰らおうとする衝動に、必死に耐えていたのだ。
それは誰からも賞賛してもらえない永遠の苦難。喰ってしまえば楽になれる禁断の蜜をぶら下げられた状態で、なおも兄を思い耐え忍んでいた少女の執念。
限界はついに訪れた。抗えなくなったユキメはついに兄を襲ってしまう。ヒュウガは喰われる最中にユキメを思い出し――全てを察した。
"ああ、ユキメはずっと耐えていたんだ"
"俺を喰わないために。俺のために"
"俺を喰えば、お前は少しは楽になれるのか?"
"なら、いいよ。妹を助けるのは、お兄ちゃんの役目だ"
元より家族を失い妹しかいなかった人生だ。その妹の血肉になれるのなら、それも悪くないと。ヒュウガ・ココノエは命を捨てた。最愛の妹のために。
そんなヒュウガを助けたのが、シェーン・アルジリオだった。
駆けつけたシェーンは大弓ロードバロンを振り回しユキメを引き剥がす。もう生きる気力を捨てていたヒュウガは、ユキメを傷つけようとするシェーンを糾弾した。
"やめてくれ。妹なんだ。妹だけは傷つけないでくれ!"
"――あれはもうあなたの妹ではないわ。世界はあなたの妹を拒絶した。あなたに『妹』はいない。……残酷だけど、それが今の世界なのよ"
"世界なんて関係ない! 俺は、俺にはユキメしかいないんだ。ユキメのいない世界なんて嫌だ。ユキメだって、俺がいない世界に耐えられない。俺たちは二人で一つなんだ。いいんだ。いいんだ、もう……この地獄から、俺を解放してくれよっ!"
辛く険しい人生でも、ユキメがいたから耐えられた。ユキメの為に生きることが出来る。
だから、ユキメを失うくらいなら――自分が死ねばいい。
ヒュウガの独白を、シェーンは静かに聞いていた。言の葉が終わると同時に、冷たく言い放つ。
"バグは討つわ。バグは世界にいてはならないから。……あなたは私を恨むといい。恨んで、憎んで、それを糧に生きればいい。いつか私を殺しに来ればいい。私は守護者として長い時を生きるから、待ち続けるわ"
冷たい言葉の中に、暖かな感情が込められていることにヒュウガは気付いた。
この時のシェーンが初めての任務であったことをヒュウガは知らない。知らないが……それでも、シェーンがユキメを想って武器を構えていることは、理解出来た。
ヒュウガに選択肢はなかった。どう足掻いてもユキメは討たれる。そうなったら、ヒュウガはユキメを想い復讐に生きるしかない。欠けた半身の為に、これからの人生を犠牲にするしかない。
ヒュウガにはもうわからなかった。どうすればいいのか。ユキメを殺したシェーンを恨むことなど、出来そうにない。ユキメを想って、ユキメの為に討とうとしているシェーンを見てしまえば、恨むことなんて出来るわけがない。
足がガクガクと震え、断続的な短い呼吸を繰り返しながらヒュウガは立ち上がる。ユキメはもう正気を失っており、今にも飛びかかってきそうだ。
そこにはもう、最愛の妹の面影はほとんどなかった。
"俺は……君を恨めない。君は、ユキメを想ってそんな苦しい言葉を吐いてくれている。俺は、そんな人を憎めない。君だけが、心の底からユキメを想ってその武器を向けてくれているから……!"
――――だから。
"お願いだ……。ユキメを、楽にしてあげてくれ……っ"
"……わかったわ。全部終わったら、私の胸くらいでよければいくらでも貸してあげるわ"
そしてシェーンは、ロードバロンをユキメに向ける。ユキメが動き出すとほぼ同時に、ロードバロンから光の矢が掃射された。
"穿ちなさいロードバロン、悲しみを払え。兄を想う妹の為に、妹を想う兄の為に、今ここで、バグを討てッ!"
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「そうして俺は、シェーンに救われた。でも、俺は一人で生きることは出来そうになかった。だからシェーンにお願いして、守護者となることを選んだんだ。ユキメを想ってくれたシェーンに、少しでも恩返しがしたくて。共に世界を守ろうと、誓ったんだ」
空を見上げながらの独白に、彰は言葉を失ってしまった。
正直な気持ちとして、彰は自分以上に悲惨な目に遭った人はいないと考えていた。
バグにされて、世界を憎んで、普通とは違う人生を歩まされる。
でも、違った。ネールの父親もそうだった。ヒュウガの妹もそうだった。
バグは、被害者なんだ。世界のシステムの。
けれど、バグは加害者になってしまう。それはもう止めることの出来ないもの。
それもまた、ある種世界のシステムなのだ。
守護者は、世界のシステムに抗っている。
本来は失われてしまうバグの犠牲者を、少しでも抑えようと日夜戦いに身を投じている。
誰もがみんな、世界の犠牲者なのかもしれない。
それだけは言葉にしてはいけないと思い、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「……俺は」
「彰、ヒュウガ。迎えが来たわ」
言葉を絞りだそうとした彰の声を遮って、ヨシノが空を指さした。
空に出現したのはヘリコプターでも飛行機でもない。ましてや車やバイクでもない。
『戦艦』だ。
音もなく、静かに
「ヨシノちゃん、彰くんっ。……それに、ヒュウガくん。無事で、よかったです」
「無事じゃないわよ。こんな状態の私が一番マシなのよ。早く彰とヒュウガの治療を始めて」
「そうですねっ。皆さん、二人を運んでください!」
同伴していたスタッフがストレッチャーを取り出した。どこから取り出したかは、おそらく魔法によるものだろう。
彰とヒュウガはストレッチャーに乗せられ、動けるヨシノは一人で光の柱に潜り込む。
「三人とも、お疲れ様です。シェーンちゃんは……残念ですが」
「いえ、いいんですシオン先生。……今は少しだけ、寝かせてください」
「……はい、わかりました。ゆっくり休んでください」
運ばれる中でシオンは彰とヒュウガの頭を撫でる。暖かな心地良さに、彰も自然と意識を落とす。
「ごめんなさい彰くん。辛いだろうけど……これが、守護者の日常なんです」
その言葉は、眠ってしまった彰には届かない。艦に戻るまで、シオンは寂しげな表情で彰の頭を撫で続けていた。