――腕に灯る熱さに、彰は馴染み深さを感じていた。炎を知覚するのは二回目なはずなのに、どうしてかずっと昔から慣れ親しんだようにも感じとれる。
右腕から溢れ出した黄金の炎は、ネールにも彰にも危害を加えることなく盛り続けている。
彰はそれを、どうすればいいかはわからない。
でもこれは、バグを討つための力では無いことだけはわかっている。
「ナンだ、その、炎ハ」
炎を見たバグがたじろぐと、その隙をヨシノは見逃さない。すぐさまバグへ接近したヨシノは、届かぬ首を引きずり下ろすために足首を狙う。
「っ!」
「くっ――」
だがバグも動揺は一瞬だけで、すぐさま左手で力任せにヨシノを振り払う。宙を舞ってしまったヨシノへ視線を向けた彰だが、すぐに意識をバグへと切り替える。
理解していない力を使うのは怖いことだ。もしこれを使ったことによって、自分のバグ化が進行してしまうかもしれない。それは恐怖となって彰の足を竦ませる。
けれど、バグの意識はヨシノに向けられたままだ。だからこの一瞬の硬直も、支障にすらならなかった。
左の手でネールをぎゅ、と守るために抱き締めて――右の手を、振り払う。
「オ――――!?」
振り払われた炎が広がり――瞬く間にバグを飲み込んでいく。だがそれはバグを倒すために放ったものではない。彰のその意志を映したかのように、炎は一切バグを焼却せず傷つけずそして――バグの中に染み込んでいく。
「……あ゛?」
間の抜けた声が、バグの口から零れ出た。光を取り戻した目に狂気の色は無く、バグは巨体をかがめると、両手をまじまじと見つめた。
彰には確信があった。根拠は無い。でも、自分の炎は、確かにバグを"ヒト"に戻せる――と。
「……私は。ネール。あぁ……メーナ? メーナ。私は、私は……っ!?」
「よかった。正気に戻れた。だったら――!?」
娘の名前をうわ事のように呟くバグに、彰は安堵のため息を吐く。その身は変わってしまったけれど、愛する娘の名を思い出したのならば、まだやり直せるのではないか。
彰はそう考えていた。例えネールが父の存在を忘れてしまっていても、愛情があれば、きっと乗り越えられると。
――――けれど現実は非情である。
彰は確かにヒトを救った。バグの脅威からネールを守った。賞賛に値する行動だ。
守護者として初めての任務であるならば、上出来以上だ。
だが、彰はまだ守護者というものを理解しきっていない。
誰も気付かなかった。気付いていなかった。
彼女がそこにいることに。そこまで接近していたことに。
あ、と言葉を漏らしたのはネールだった。ネールの視線の方を見た彰は驚愕に身体を硬直させる。
やめろ、と叫ぼうとしても間に合わなかった。
銀の炎が、迸る。
「バグは、討つ」
「――――」
バグは身を屈め両手を見つめたままだった。巨体も身をかがめれば、普通の人間の手が届く位置になる。まるで全てを見越していたかのように、ヨシノ・四宮はそこにいた。
誰に気付かれることもなく。銀の
剣が振り上げられる。何の音も無く、その一撃はバグの首を両断してみせた。
最初の音は、肉がズレる音だった。地面に首が落ちる音が続いた。最後にうめき声が漏れた。
「ヨシノっ、なんで、なんでっ!?」
「私はバグを討っただけよ。これで任務は完了。……早く帰投するわよ」
「そうじゃねえ! だって、最後にこの人は!」
「人、じゃないわ。バグよ」
「違う! ネールちゃんの名前を呼んで、お姉さんの名前だって――」
「人を喰らった存在がどの顔で『人間として』日常に戻るのよ。ましてやそいつは、娘を喰らったのよ」
彰はそれでも納得出来なかった。納得したくなかった。ヨシノの言葉は全て理解している。わかっているのだ。理性を取り戻したとしても、変容してしまった体躯が戻る保証はないし、何より――愛娘を喰らった事実が変えられないことくらいは。
それでも、諦めたくなかった。
バグを助けたいと――でも、それは叶わなくて。
「……お父さん、なの? わからないよ……顔も、名前も、なにもわからないよ……」
「……ネール。すまない。すまない。私は、私はしてはならないことをしてしまった……」
「どうすればいいの。私、どうすればいいの。お姉ちゃんもわからない。お父さんもわからない。私、私……?」
今すぐにでもヨシノに掴みかかろうとしていた彰だったが、困惑するネールに言葉を失ってしまう。どんな言葉を掛けてあげればいいのか、彰の中で答えが出てこない。
ちらり、と縋るようにヨシノに視線を向けた。ヨシノは少しばかり気まずげに頬を掻くと、ネールとバグの間に割って入る。
「大丈夫よ、ネール。わからないなら、大声で叫びなさい。悲しいって、辛いって、助けて、って叫びなさい。大声で泣きなさい。そうしたら、必ずあなたを助けてくれる人がくるわ」
「……お姉ちゃんたちは?」
「私たちは、行かなくてはならないから。ずっとここにいることは出来ないから。……でも、安心して。私たちは、常にあなたの心にいる。あなたがいる世界を、守っているわ」
「……わからないよぉ」
「わからなくていいのよ。あなたが無邪気に笑える世界があることが、何より私たちの心を支えてくれるのだから」
ヨシノが優しくネールの頭を撫でると、ネールはぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。わんわんと大声で泣きじゃくるネールをあやすヨシノに向けて、か細い声が掛けられる。
「あり、がとう。私を止めてくれて」
「……いいえ。止められなかったわ。この子の姉を、守れなかったわ」
「そうだ……な。私が、喰ってしまった。はは……ははは」
「悔やむ必要はないわ。あなたはもう死ぬし、バグとなって人を喰らうのは、普通だから」
「そうか。……そうか」
首だけで喋るバグの声には安堵の感情が込められていた。これから死ぬというのに、どうしてここまで穏やかな声が出せるというのか彰には不思議だった。
激しく糾弾するかと思った。よくも殺したな、と怨嗟の声を吐くのかと思った。
だがバグは瞳を閉じる最後の瞬間まで、ヨシノに感謝の言葉を吐く。
「それと……君も、ありがとう。君のおかげで、ネールを喰わずに済んだ」
「違う。俺は……俺は、あなたを助けたくて」
「助けてくれたさ。娘を喰う前に……止めてくれた。それだけで、十分だ」
「違う、違う、違うっ! 帰りたかった筈だ。家族がいる日常に、あの寂しい孤独の世界から、帰りたかった筈だ!」
「……そうだね。帰りたかったよ」
「だったら!」
「だからこそ、ありがとう。君のおかげで、私は人として死ねる」
「……っ!」
「ありがとう、少年。ありがとう、ありがとう。……ああ、もう、げんか――――」
言い切る前に、そっと瞼が降ろされる。まるで示し合わせたかのように、泣き叫んでいたネールも疲れ果てて眠ってしまう。
「起きた頃には、もう父親も姉のことも忘れているわ」
「……」
「悔やんでいるの? 悲しんでいるの? それとも、私を憎んでいるの?」
「……俺は、ありがとうって言われるために、この人を戻したかったんじゃない」
「そうね。あなたはこの人を帰るべき場所に帰したかった。あなたと違って、ね」
「でも、出来なかった」
「そうよ。だって、この人は自分で自分がいた場所を喰らったのよ。――帰れる場所を自分で壊したのよ」
でも、と彰は言葉を絞りだそうとした。それ以上は出てこなかった。やりきれない思いが胸の中をぐるぐると渦巻く。
バグの身体が崩れていく。
さらさらと砂のように崩れていき、最後にはなにも残らない。
ヨシノはネールの身体を公園のベンチに寝かせる。身体を冷やさないようにしっかりと服のボタンを締め、灰色の空を見上げた。
「アキラ。もう一度言っておくわ。人に戻る方法を探したいなら、その道を進むことだけを考えなさい。その道は孤独の道、誰も信用してはいけないわ。シオンも、私も。――誰もかも」
覚悟を問うかのように、ヨシノは冷たい瞳で彰を見つめるのであった。