めんへらねっとすとーかーのいせかいてんい

2022追記:めちゃくちゃ気に入っているファンタジーもの。かなり壮大なプロットを組んだこれが10万字超えなかったことで、小説に限界を感じ始めた。

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WIZARD 正義の資格

 雨は嫌いだ。

 晴れの予報だったから、家を抜け出してきたのに。

 

 漁師の父は、晴れの日は漁に出かけて一日中家にいない。だから僕のことをよく知らないくせに、しきりに干渉しようとしてくる。

 父と遊べる時は、決まって大雨だった。遊園地も動物園もちっとも楽しくなかったし、この前の十歳の誕生日だって、父が祝ってくれたのは二週間も過ぎた、土砂降りの日だった。

 

 けれど、母はもっと酷い。

 土日も関係なく働きっぱなしの父の稼ぎは決して悪くないはずなのに、母は毎日僕より早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。

 弁当は冷凍食品ばかりだし、夕飯はレトルトか惣菜。学校の話をしても、いつもくたびれた顔をして全然聞いてくれない。そのくせ、テストの点数が悪いとぎゃあぎゃあ怒鳴りつける。

 

 だから僕は家を出た。最悪の両親への、ささやかな反抗だ。

 無謀で、似合わないのは分かっていた。大きな葛藤があったけれど、それでも動き出さなければ、何も変わらないような気がした。

 なけなしのお小遣いと、父の部屋から持ち出した大漁祈願のお守りだけが頼りだった。

 

 それなのに、この雨だ。

 出かける時にはあんなに晴れていたから、傘を持っていかなかった。そのせいで、僕は休業中のクリーニング店の隅でうずくまる羽目になっている。

 

 このままでは、親が帰って来る前にお節介な誰かに見つかってしまうだろう。

 僕は耳を打つ雨音を聞きながら、自動ドア越しに暗い道を睨みつけた。

 

 そのうちに、疲れが出たのかだんだん意識がぼうっとしてくる。

 雨音がだんだん小さくなる。瞼が重くなり、催眠術にかかったみたいに、体が全く動かなくて。

 

 そして、僕は眼を閉じた。

 

 

* * *

 

 眼を開けると、見知らぬ景色が広がっていた。

 ぼんやりとした意識の中、視界には芝生の地面と、大きな噴水が見える。その周りを、たくさんの子供が駆けずり回っていた。

 

 がばっと僕は起き上がる。

 記憶を辿る。さっきまで僕は確かに、焼津のクリーニング店にいたはずだ。だが僕の知る限り、焼津にこんな公園はなかった。

 

 遠くに、巨大な時計塔が見えた。

 僕は目を凝らすが、時計の針は五本もあり、文字盤には訳のわからない記号が並べられている。

 

「ここは、いったい......?」

 

 僕はゆっくり立ち上がり、噴水の方へ歩いていく。

 まだ頭がはっきりしない。形容しがたい不安が、次から次へと襲ってくる。

 僕はもしかしたら、どこか別の世界に迷い込んでしまったのではないか。そんな恐怖を、馬鹿馬鹿しい、と否定しきれない自分がいた。

 

 噴水の前では、ピエロの格好をした男の人がボールを次々と投げてはキャッチしていた。

 混乱する思考を整理するには、まずは現在地を確認したい。僕は彼に、ここがどこかを教えてもらおうと思って、彼の方へ近づいていく。

 

 そして、あることに気づいた。

 彼の手から放たれたボールは、重力を無視して空中に浮かび続けているのだ。彼がボールを掴むまで十秒以上、ボールは一ミリも落下することなく、宙に留まり続けている。

 タネも仕掛けも、僕には分からなかった。何だか恐ろしくなり、僕はその場からじりじりと後ずさりする。

 

 すると、背中が誰かにぶつかった。

 振り返ると、小さな子供が怪訝な顔で僕を見つめている。

 

「......ここは、どこ?」

 

 僕は子供に、恐る恐る尋ねる。

 彼はにこっと笑うと、白い歯を見せてはきはきと答えた。

 

「ペンデュル・シティだよ!」

 

 頭がくらくらする。

 ここはどこだ。もしかして僕は、とんでもなく遠い所まで来てしまったのではないだろうか。

 二度と、自分の家へは帰れないのではないか。

 

 僕はお礼も言わず、よろよろとその場を後にする。

 とにかく、誰か大人に助けを求めなければならない。そう思って公園を見渡しても、怪しげな杖を持っている誰かの母親や、物理法則を明らかに無視した髪型をしている老夫婦、それに人間と猫を足して二で割ったような顔をした青年など、奇怪な風貌の人しかいない。

 

 何だ、これは。

 どうすればいい。誰か、僕を助けて。

 半狂乱になりながら、しばらく公園内を走り回って、ようやく少しはまともそうな見た目をした二人組の男を見つけた。

 

「あ、あの、すみません。ここはどこですか。僕は、焼津......日本に帰りたいんですけど」

 

 綺麗な流し目の男が、訝しげに目を向ける。

 

「......あん?なんだこのクソガキ」

 

 予想外に汚い言葉遣いに僕の身体が硬直する。

 それを見て取った男たちは、顔を見合わせてにやりと笑った。

 

「てめぇ、俺たちに喧嘩売ってるのか」

「そりゃ大変だ。俺たちが社会の厳しさってやつを、教えてやらなくちゃなぁ」

 

 もう一人の体格のいい男が、手の甲をパキパキと鳴らす。

 僕は逃げようと背を向けるが、その腕を流し目の男に掴まれてしまう。

 

「歯、食いしばれよ」

 

 屈強な男の大きな拳が、僕の顔面に向かって突き出される。

 僕は思わず目を閉じた。

 

 しかし、いつまで経っても、痛みがやってくることはなかった。

 僕がゆっくり目を開けると、男たちはぷかぷかと宙に浮かびながら、じたばたもがいている。

 

 

「子供に躊躇いなく手を出すとは、なかなか見下げた奴だな。貴様らには恥というものがないのか」

 

 

 僕の後ろで、嗄れたような、若々しいような、不思議とよく響く声がした。

 振り返ると、紺の三角帽を被り、同じ色のコートを着た背の高い男が、視線を宙に向けて立っていた。

 

 ため息をつきながら彼が視線を外すと、二人はどさりと地面に落ちる。

 

「ま、マーリン大魔導士じゃねぇか。何でこんなとこに」

「さっさと逃げるぞ、おい!」

 

 二人は猛ダッシュであっという間にいなくなってしまう。

 マーリンと呼ばれた男は、こちらに射抜くような視線を向けた。

 

「......怪我はないか」

「だ、大丈夫です」

 

 年齢は肌の艶から推測するに、三十代後半だろうか。二十代と言われても、五十代と言われても不思議ではないような顔立ちをしていた。

 彼の鷲鼻を見て、これで鼻の形がもう少し綺麗だったなら相当な美形だっただろうに、と場違いな感想を抱く。

 

 僕は多少声を震わせながら、彼に尋ねた。

 

「ここは、どこですか。日本じゃないですよね。どの国ですか」

 

 マーリンは、一瞬ぴくりと眉を動かした。

 すぐに何を考えているのか分からない無表情に戻り、答える。

 

「『クニ』とは何だ?ここはペンデュル・シティ。ずっと東に行けばマーブル・タウン、西に行けばディエゴ・ストリートだ。......まぁ、あそこは子供の行くところではないが」

 

 彼は僕をからかっているようには見えなかった。

 僕は絶望感に苛まれながら、さらにいくつもの質問を重ねる。彼はその全てに首を振った。

 

「......貴様、一体どこから来た?」

 

 最後には彼のその質問に、僕はこう答えるしかなかった。

 

「分かりません。もしかしたら、僕は違う世界に紛れ込んじゃったのかも」

 

 マーリンは、笑わなかった。

 

  

* * *

 

「......ユウキ、と言うのか。変わった名だな」

 

 マーリンが机の上にカップを置いた。

 僕は不思議な香りの茶を啜り、予想外の苦さに顔をしかめる。

 

「これから、どうするつもりだ」

 

 ぶっきらぼうな調子で彼は僕の眼を見る。

 マーリンは泣き出しそうな僕を、ひとまず自分の家に連れて行ってくれた。僕の奇想天外な話を全て信じてくれたのかは分からないが、悪い人ではないのは確かなようだ。

 

「......帰る方法があるなら、今すぐにでも帰りたい」

 

 僕が本音を漏らすと、マーリンは困ったような顔をした。

 

「悪いが、それは私にも見当がつかん。そして街にはこの手の話に関して、私より詳しい者はいないだろうな」

 

 もちろん心当たりに聞いてはみるが期待はするな、と彼は言った。

 僕は悲しくなって、また目に涙を浮かべる。

 

「とりあえず、貴様はここでは孤児だ。落ち着いたら、市の施設に送ろう」

 

 施設、という言葉を聞いて、ふと僕の頭によぎるものがあった。

 元の世界の小学校は、周りの空気に溶け込むことができない僕にとって居心地の良い場所ではなかった。それでも他の子に敵視されなかったのは、僕よりも目立つ「標的」が他にいたからだ。

 

 僕より優しく、僕より賢く見えた彼は、施設で暮らしている、ただそれだけの理由で執拗に責められた。

 僕はそれを、ただ黙って見ていた。

 

「......嫌だ」

 

 口が勝手に動いた。

 まだ右も左も分からないけれど、これまでの体験から、この世界にも悪人はいる、ということは分かった。

 ただでさえ信じられないほどの苦境に立たされているのに、これ以上のハンディはまっぴらだった。

 

「マーリンさん。僕を、あなたの弟子にしてくれませんか」

 

 僕は自分でも何を言っているのか分からないままに、頭を下げた。

 マーリンが露骨に困惑の表情を示す。

 

「......貴様、本気か?」

「はい。何が起きてるのか、さっぱり分からないけれど......でも、こんな所で一人になるのは嫌なんです。誰かに、そばにいて欲しいんです」

 

 マーリンは自分のカップの茶を飲み干すと、眉間に皺を寄せ、しばらく思案を巡らせた。

 ぴくりとも動かないマーリンを見ているうち、時間が止まったような心地になった頃、彼は心なしか小さな声で言う。

 

「私は厳しいぞ。とんでもなく」

「......はい、構いません」

 

 僕は腹を決めて、マーリンの眼をまっすぐ見つめた。

 それが、契約成立の証だった。

 

 何の寄る辺もないこの世界での唯一の足場を、繋ぎ留めるために。

 僕は、大魔導士の弟子になった。

 

  

* * *

 

 明くる日から、「魔術」を使うための修行が始まった。

 

「魔術とは、万物を自在に操る力だ」

 

 マーリンは言いながら、掌の中の木の葉に目をやった。

 すぐに木の葉がふわふわと空中を漂い、彼の目の前で円を描く。

 

「......すごい」

「万物を形作る『マナ』の流れを変えることで、ものを動かす。原理は簡単だ」

 

 やってみろ、とマーリンが葉を手の中に収め、僕に渡す。

 

「魔術にはいくつかのルールがある。その中で最も初歩的なものは、『魔術が発動するのは、対象に視線を合わせている間だけ』ということだ」

 

 そう言われて、僕は木の葉に目を凝らす。

 だが、ぴくりとも動かない。

 

「それから、イメージしろ。木の葉が貴様の思った通りに宙を舞う光景を、全神経を使って想像するんだ。余計なことは何も考えるな。ただ、信じろ」

 

 僕は木の葉を凝視しながら、それがふわりと浮き上がる姿を必死に想像する。

 心なしか掌の中で葉が揺れ始めた気がした。

 

 瞬きもせずに、そのまま五分、ただ念じ続ける。

 もう無理か、と諦めかけたその時、まるで一陣の風が吹いたかのように、木の葉が掌を離れた。

 

「やった!」

「意識を途切れさせるな。そのまま続けろ」

 

 マーリンの言葉に従い、僕はぐんぐん上昇していく木の葉に視線を向け続ける。

 木の葉はもはや完全に僕の支配下にあった。旋回しろ、と念じれば容易にくるくると回ったし、急降下しろ、と念じればそうなった。

 

 それを掌の中に戻した時、僕はくたくたになりながら確かな高揚感を感じていた。

 マーリンが抑揚のない声で言う。

 

「魔術のことを何も知らないのに、これだけ出来れば上等だ。良いだろう、貴様に私の全てを授ける」

「ありがとうございます!」

 

 僕は異邦の地で何かを成し遂げられたことが嬉しくて、無邪気にそう笑った。

 マーリンは頷くと、僕に箒を押し付ける。

 

「......えっ?」

「弟子なら師匠の身の回りの世話くらいしろ。まずは掃除からだ」

 

 マーリンはそう言うと、さっさと自室に閉じこもってしまう。

 僕は決して狭くはない屋敷にぽつんと佇むしかなかった。

 

  

* * *

 

 時間はあっという間に過ぎた。

 五年が経ち、背丈も伸びた。その間に、この街のこともある程度は分かってきた。

 

「ある程度は」というのは、マーリンが僕が外出するのをちっとも許してくれないからだ。

 彼は事あるごとに、

 

「修行以外のものは不要だ」

 

 と言って、僕を学校にすら通わせてくれなかった。

 自分から頼んで弟子にしてもらった訳だが、正直なところ僕は毎日が退屈でたまらない。

 

 だから僕は、ペンデュル・シティのことを主に書斎にある本と、窓から眺める景色で学んだ。

 

 この街は、雨が降らない。

 いや、おそらくこの世界に「雨」という概念がない。空は毎日雲ひとつない晴天だし、それで植物が育たないということもない。水が地下から無尽蔵に湧き出るからだ。

 

「何をさぼっている」

 

 三年経っても外見にまるで変化のないマーリンが、仏頂面で現れる。

 

「さぼっちゃいないよ。見てよ、箒は動いてる」

 

 箒は僕の手を離れて、勝手に床を掃いている。

 まだマーリンのように人体を操るほどには達していないが、毎日の鍛錬で僕もかなりの魔術が扱えるようになってきた。

 

 マーリンは箒を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「くだらないことに魔術を使うな。本当に必要な時に、スタミナ切れを起こす」

 

 それだけ言って、彼はまた自室へと引きこもる。

 彼の偏屈さにも相当慣れたとはいえ、この世界に来て初めての出会いが、よりにもよってなんでこんな奴なんだ、という思いはある。

 

 僕はため息をついて箒を手に取りながら、窓の外を眺める。

 木々は赤色に色づき、今年も秋がやって来たことを知らせていた。

 

 そして、そうした木々に囲まれた道を歩く一人の少女。

 僕はその情景をうっとりしながら見つめた。

 

 さらさらした栗毛の髪に、翡翠色に輝く瞳。

 そして快活そうな表情と軽い足取りを見ていると、僕まで元気になれるような気がした。

 

 この三年間、彼女は早朝と夕方に、ほとんど毎日この道を通る。

 僕はこの窓を通して、この街にも四季があること、そして、初めての恋を知った。

 

  

* * *

 

 ばたん、と僕は地に転がされる。

 もう少し丁寧に下ろしてくれたっていいのに、と僕は心の中で悪態をついた。

 

「どんな綺麗事を並べても、魔術は戦いから生まれた技能だ。実戦演習なくしてその真髄の理解はあり得ない」

 

 マーリンはそう言って、日々の鍛錬の最後に必ず実戦形式の演習を行う。

 その演習を通して、僕は自分の魔術が上達していくにつれ、彼に対する認識を改めざるを得なくなった。

 

「どうした?もう終わりか」

「......まだまだ!」

 

 僕は起き上がり、再び走る。

 視線は常にマーリンを捉えようと左右に動かしているが、その姿をしっかりと捕捉できたことはそれまでに一度もない。

 

 急に強い風が部屋に入り込む。

 マーリンが僕の視線を躱しながら、鉄の棒を動かして窓を開けたのだ。

 

 次は、外にある箒か何かが飛んでくる。

 僕はマーリンの思考を読み、咄嗟に頭を下げる。直後、バケツが僕の頭すれすれを通過していった。

 

「危ないな、バケツはないでしょ」

 

 僕は文句を言いながら、マーリンの魔術から離れたバケツに視線を合わせ、支配下に置く。

 それを僕の死角、背後に向かって飛ばした。

 

「......っ!」

 

 後ろで息を飲む声を聞きながら、僕は縦横無尽に部屋の中を駆け回る。

 マーリンもすぐに場所を変えながら、広げた新聞紙をばらばらに飛ばした。

 

 先ほどの局面、僕がバケツを投げていなかったら、僕の身体は再び宙に浮き、それから叩きつけられていたことだろう。

 三年もの間毎日戦っていれば、流石に相手の考えくらい分かる。

 

 それでもマーリンに勝てないのは、彼が圧倒的に速く、鋭いからだ。

 齢を考えれば僕の方が動けてしかるべきなのに、マーリンはまるでスポーツ選手のような敏捷性と底無しの体力で、常にこちらの視界の外を狙ってくる。

 そして、対象を視界に捉えてから自由に操れる状態にするまでの時間も、まだまだマーリンの方が圧倒的に短い。

 

 ここまでの実力差を毎日のように見せつけられると、魔道士として彼に敵うものなどこの世にいないように感じた。

 

 僕は懐の鉄製のカードを操って新聞紙をズタズタに引き裂き、その奥のマーリンを捉えようとする。

 だが、彼の姿はそこにはない。

 

「......やられた」

 

 僕は半ば諦めながら、破れた新聞紙を身体に纏って身を隠そうとする。

 だが、その前に僕の身体は空中に吊り上げられていた。

 

「今日はここまでにしよう。掃除しておけ」

 

 僕を床にどさり、と落としながら、マーリンは僕に背を向ける。

 あんたが散らかしたんだろうが、と僕はしかめ面をした。

 

 散り散りになった新聞紙を拾い集め、窓を閉めたところで、扉が開く音がする。

 振り返ると、マーリンが大きな袋を持って立っていた。

 

「私はこれから、部屋に篭って論文を書かなければならん。私の代わりに、買い物に行って来い」

「......えっ!?」

 

 僕は一瞬たじろぎ、次いで目を輝かせる。

 街に一人で出ることなんて、ここに来てからただの一度もなかった。

 

 明らかに浮かれた様子の僕に、マーリンは渋い顔で釘を刺す。

 

「林檎を買ってくるだけだ。寄り道などしたら、帰る家はないと思え」

「分かってるよ。早く、地図をちょうだい」

 

 眉間に皺を寄せながら、マーリンが地図を渡す。

 八百屋までは歩いて十五分はありそうだった。往復で三十分、夢にまで見た街の空気を吸える。

 

「それじゃ、行って来る!」

「急いて怪我をするなよ」

 

 マーリンの声を背中で聞きながら、僕は家を飛び出した。

 

  

* * *

 

 窓の外から眺めるばかりだった道を、二本の足で踏みしめる。

 これが、ペンデュル・シティ。僕の、新たな人生の出発点。

 うきうきした気分でいるうちに、あっという間に八百屋まで着いてしまった。

 

「林檎を二十個ください」

「その買い方......あんた、マーリンの弟子だね?全くあの子は、子供にまで林檎しか食べさせない気かい」

 

 ぶくぶくと太り、猫のような目をしたおばさんはそう怒りながら、袋いっぱいに林檎を詰めてくれた。

 林檎しか食べていない訳ではないが、マーリンが作る料理には確かに林檎が使われていることが多い。

 

「小さい時からずっとそうなのよ。野菜も肉も全然食べやしない。八百屋が言うことじゃないけど、こんな水っぽい果物のどこがそんなに良いのかね」

 

 おばさんがそう言って首をかしげるから、僕は思わず笑ってしまう。

 

「おばさんは、子供の頃の師匠を知ってるんですか?」

「そりゃあもう。学校の教師なんか軽々抜かしちゃってさ、向かうところ敵なしって感じだったもんねぇ」

 

 おばさんは話好きのようで、僕の方に顔をぐいっと近づける。

 僕も真似しておばさんの方に顔を近づけ、小さな声で尋ねた。

 

「師匠って、子供の頃からあんなに偏屈だったんですか」

 

 おばさんは、それには首を振った。

 

「昔はあんなんじゃなかったんだよ。何というか......生意気、って感じだった。それがある時を境に、急に家に閉じこもって出てこなくなっちゃったんだから。何があったか知らないけど、人は変わるわよねぇ」

 

 天才の考えることはわかんないわ、とおばさんは笑い、他の客の相手をし始めた。

 僕は袋を持って帰路につく。

 

「師匠が、生意気ねぇ」

 

 たっぷり髭を蓄えた老人に向かって、マーリンが高慢に振る舞う姿を想像する。

 それはとても非現実的な光景に見えて、僕は首をかしげた。

 

 もうすぐ家に着く、という時に、後ろから肩を叩かれた。

 振り返ると、毎日窓から見ていた栗毛の少女が、訝しそうな目をこちらに向けていた。

 

「わ、わわっ!?」

 

 驚きのあまり素っ頓狂な声が漏れる。

 

「あなた、見ない顔ね。クラスは何組?」

「えっ.......」

 

 咄嗟のことに思考が追いつかず、言葉に詰まる。

 その様子をどう解釈したのか、彼女はハルと名乗った。

 

「二年W組十三番。生徒会長もやってるから、分かるかしら」

 

 それであなたは、と彼女は改めて僕に聞く。

 どうやら彼女は僕のことを、学校に通っていない不良少年だと思っているらしい。

 

「ぼ、僕はユウキ。この先のマーリンっていう人の弟子だよ。学校に行ってないのは、その人が......」

 

 皆まで言う前に、ハルは僕の言葉を遮った。

 

「待って、あなたもしかして、マーリン大魔導士の弟子なの!?」

 

 僕は曖昧に頷く。

 彼女は目を輝かせて僕の両肩をつかみ、その拍子に唇から甘い香りが漏れて僕の鼻孔を刺激した。

 

「噂には聞いてたけど、初めて見たわ。ねぇ、マーリンさんはあなたにどんなことを教えてるの?」

「どんなことって、毎日ひたすら魔術の鍛錬ばっかりだよ。退屈なくらい」

「何言ってるの、マーリンさんと一対一で特別レッスンを受けられるなんて、とっても凄いことなのよ!?」

 

 ハルの圧がすごいので、僕は何度も首を縦に振る。

 彼女はようやく僕の肩を離すと、少し落ち着いた口調になって言った。

 

「魔術って、どのくらいのことまで出来るの?ネズミはもう浮かせられる?ネコは?」

 

 動物を操るなんて、やったことがない。

 僕は困惑しながらきょろきょろ周りを見回して、自分がたくさんの林檎を持っていることに気づいた。そして、三年前、噴水広場の前で見た光景をふと思い出す。

 

「......よおし」

 

 僕は袋から林檎を十個取り出し、地面に並べる。

 不思議そうに見つめるハルの視線を意識しながら、林檎に視線を合わせる。

 

「それっ!」

 

 地面に置かれた林檎が、次々と宙に浮いた。

 僕はそれをお手玉のように投げたりキャッチしたりしながら、自在に空中で停止させる。

 

 ハルが感嘆の声を漏らした。

 僕は得意になってさらに袋も宙を舞わせると、頭上で口を開けた袋の中に、手を触れることなく次々と林檎を放り込んだ。

 

「......すごい」

 

 元通りに林檎が入った袋を床に置くと、ハルは小さく拍手する。

 

「同じ歳で、そんなに多くのものを同時に操れる人はいないわ。本当にすごい」

「こんなの、大したことないよ」

 

 僕は彼女に褒められたことが嬉しくて、ちょっと気取ってみせる。

 

「......ユウキ、くん」

 

 彼女が言いづらそうなのを見て、僕はユウでいいよ、と言う。小学校の最初の頃だけ、僕はそんな風に呼ばれていた。

 彼女はユウくん、と言い直す。

 

「お願い、ちょっとだけ私に魔術を教えてくくれない?今度のテスト、あんまり自信なくて」

 

 そうハルに手を合わせられた時には、時間のことなどすっかり頭から吹き飛ぶほどには、僕は浮かれていた。

 

 

* * *

 

 ハルは僕に教えられることなんて何もないくらいに、綺麗に魔術を操った。

 だから僕は教える代わりに彼女をひたすら褒め、彼女はその度に顔を綻ばせた。その顔を見られるのが嬉しくて、時間はあっという間に過ぎていった。

 

「......いやだ、もうこんな時間」

 

 だから彼女がそう言った時、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、もう帰っちゃうのか、という気持ちだった。

 次いで鮮やかな夕焼け空を見て、唐突にマーリンのことを思い出す。

 

「やばい」

 

 蒼白くなった僕の顔を見て、ハルも深刻そうな顔になった。

 

「ごめんなさい、こんな遅くまで付き合わせて」

「い、いや......」

 

 曖昧な返事をする僕を見かねてか、彼女はマーリンの家まで僕を送ってくれた。

 何度断っても、自分のせいだからと聞かない。びっくりするほど彼女は強情で、責任感が強かった。

 

 扉を開けた途端、仁王立ちしてこちらを睨みつけるマーリンと目が合った。

 有無も言わせず宙吊りにされ、今まで聞いたこともないような怒号が響き渡る。

 

「いったい貴様は、どこで何をしていた!こんなことならば使いになどやらなかった!」

 

 マーリンは本気で怒っているようだった。

 僕はとにかく、ごめんなさいと繰り返す。

 

「言ったはずだな。約束を破ったら、帰る家はないと!」

「それだけは、それだけはやめて。僕には他に行くところがないんだ」

 

 僕は悲鳴のような声でひたすら謝り続ける。

 一向に怒りが収まりそうにないマーリンは、本当に僕を追い出しそうにも見えて、僕はぞっとする。

 

 そこに、突然ハルが割って入る。

 マーリンの視界が遮られる形になり、僕は地面に頭を打ちつけた。

 

「ごめんなさい、マーリン大魔導士。私がユウキくんを無理に引き止めたの」

「......貴様、メインの」

 

 ハルに遮られてマーリンの表情はよく見えないが、彼の威勢が明らかに削がれるのがわかった。

 彼はしばらくハルを見下ろした後、何も言わず家の中に戻っていく。

 

「大丈夫みたいよ」

 

 ハルが僕の手を取り、立ち上がらせながら笑う。

 僕は信じられない、と呟いた。

 

「マーリンさんが許してくれるかわからないけど、もし良かったら、今度の感謝祭に一緒に行かない?私のパパが演説するのよ」

 

 感謝祭は、年に一度、冬の終わりに開かれるペンデュル・シティの一大イベントだ。

 僕も行ったことはないし、マーリンも行く様子はないから詳しいことは知らないけれど、街中に屋台が出て、色々なものが食べられるらしい。

 

「ハルの、お父さん?」

「そう。私のパパは、ベンデュル・シティの市長なの」

 

 ハルはそう言って空の一点を指差す。

 僕が初めてこの街に来た時、大いに恐怖したあの時計塔の針が、今日も複雑に動いていた。

 

 クロックタワーと呼ばれるそれは、この街のシンボルであり、市庁舎でもある。

 時計は単に時間を表しているわけではなく、マナの流れや疎密など、色々なものを計測しているらしい。マーリンに一度説明してもらったことがあるが、あまりに複雑すぎて頭がくらくらした。

 

 じゃあ、と手を振って帰るハルを見送りながら、僕はそういうことか、と合点していた。

 マーリンの突然の態度の変化は、ハルが市長の娘だったからなのだ。絶対的な存在だったマーリンが急に小さく見えて、僕は少しおかしくなった。

 

 扉を開けて、家の中に入る。

 マーリンは自分の部屋で、何をするでもなく座っていた。僕はその背中に声をかける。

 

「本当に、ごめんなさい」

「......もういい。林檎をしまっておけ」

 

 いつもより小さな声でそう言うマーリンに、僕は言った。

 

「こんなことを言える立場じゃないってことは分かってるけど、感謝祭に行きたいんだ。ハルと一緒に」

 

 ハルと一緒に、の部分を強調してそう言ってみると、マーリンは悩ましげに呻いた。

 そして、ゆっくりと口を開く。

 

「......思えば私は、貴様をこの家に縛りつけすぎたのかもしれんな」

 

 じゃあ、と言う僕の声を遮り、彼は続ける。

 

「ただし、条件付きだ。明日からは鍛錬の時間をさらに増やす。音を上げずについて来れたら、丸一日休みをやろう」

 

 わかった、と僕は言った。

 もともと魔術の修行は嫌いではない。それよりも、ハルと感謝祭に行けることが嬉しかった。

 

 それと同時に、マーリンがそれほどまでに市長を恐れる理由がわからなかった。

 もし彼がペンデュル・シティから追い出されたとしても、彼はそれを何とも思わないような人だ。そんな彼が、市長の何を怖がっているのだろう。

 

「あぁ、ちょっと待て」

 

 マーリンが部屋の隅を指差す。

 

「昼間の新聞のごみがまだ残っている。掃除はしっかりしろ」

 

 僕が近づいて目を凝らすと、確かに陰になって見えない部分に紙くずが散っていた。

 マーリンは林檎の入った袋を持って、僕と視線を合わせずに部屋を出る。

 

「......役割を果たせ」

 

 僕は彼がいなくなるのを待って、苦笑しながら箒を手に取った。

 僕には、マーリンのことがさっぱりわからない。

 

  

* * *

 

「魔術をより深く極める際に必要不可欠なのが、動体視力の訓練だ。対象をいかに早く視界に捉えるかが勝負を分けることもある」

 

 勝負ってなんだよ、と僕は心の中でため息をつく。

 マーリンはやたら実戦を想定した訓練を僕にさせるけれど、この街は何百年といたって平和だ。もし戦争になったって、マナの小さな動きを大きなエネルギーに変換できる魔術機構の研究がいっそう進むだけで、生身の人間同士の一対一なんてあり得ない。

 

 そもそも、マーリンだって魔術機構の研究で大きな実績を挙げ、今の地位を確立しているのだ。

 どうして僕には時代遅れの技術ばかり教えるんだろう。まぁ、訳のわからない理論を講義されても困るのだが。

 

「......いくぞ」

 

 マーリンの言葉で我に返ると、林檎の赤が視界いっぱいに広がっていた。

 

「うわっと!」

 

 慌てて制御し、マーリンに放り返す。マーリンはそれをいとも容易く操って床にそっと置くと、次の林檎を投げつけてきた。

 

「くっそ、何で林檎でやるんだよ、勿体無い!」

 

 次から次へとこちらに向かってくる林檎を、必死で目で追う。

 たった十分で、何時間も経ったかのような疲労が僕を襲った。トイレに行きがてら鏡を見ると、明らかに目元の印象が暗くなっている。

 

 これでは、感謝祭の頃にはどんなひどい顔になっていることか。

 僕は大きくため息をついた。

 

  

* * *

 

 あっという間に秋が過ぎ、冬の風が吹き込んで来た。

 待ちに待った、感謝祭の日だ。

 

「時間に気を配り、節度を持って行動しろ。今度こそだ」

 

 ぎろりと睨むマーリンに、僕は神妙に頷く。

 同じ間違いを二度繰り返すほど、僕も馬鹿じゃない。

 

 待ち合わせ場所の家の前の小道に向かうと、ハルが何やら三人組の男に絡まれていた。

 

「学校一の天才の委員長さんじゃねぇか。こんなトコで何してんだ?」

「俺たちと、祭りなんかより楽しいトコに行こうぜ」

 

 どうやら、彼女のことをよく思わないクラスメイトのようだ。

 明らかに迷惑そうな表情を浮かべるハルだが、三人は全く引く様子がない。

 

「あのー、ちょっと」

 

 僕は恐る恐る割って入る。

 髪が天空に向かって伸びている、特徴的なヘアスタイルの男が振り返り、訝しげに言った。

 

「誰だ、お前?」

「その辺にしときなよ。ハルが嫌がってるじゃないか」

 

 僕ができるだけ柔らかい物腰を意識しながら言うと、男はにやりと笑った。つられて僕もにこっと笑う。

 次の瞬間、三つの拳が僕の顔面に向かって飛んできた。

 

「......実践演習も意外と役に立つな」

 

 僕は護身用に携帯している鉄製のカードで彼らの拳を受け止め、逆に蹴り返す。

 彼らの動きはマーリンに比べれば明らかに散漫で、確認してからでも十分すぎるほどの猶予があった。

 

 三人はまだやる気なようだったが、僕としては彼らに構っている時間はない。

 彼らが倒れている隙に、ハルの手をとってその場から駆け出した。

 

 後ろを向いても彼らの姿が見えないことを確認して、僕はふう、と一息ついた。

 隣では、ハルがぜえぜえ息を切らしている。いつもの調子で早く走り過ぎた、と僕はこっそり反省した。

 

「お待たせ」

「許してもらえて本当に良かった。さ、行こっ?」

 

 僕は彼女の隣に並び、暖かそうな白いマフラーに下半分を埋めた彼女の横顔を眺める。

 彼女が不思議そうにこちらを見てきたから、慌てて目線を逸らして尋ねた。

 

「僕、感謝祭についてはあんまりよく知らないんだ」

「じゃあ、サルバードも食べたことないのね。勿体無いわ」

「さ、サル......?」

「ほら、ちょうど着いたわ」

 

 ハルにつられて立ち止まると、僕たちは噴水広場に出ていた。

 夕暮れ時の広場には至る所に色とりどりの屋台が並んでいて、形容しがたい、とにかく美味しそうな匂いが漂っていた。

 

「こっちよ、こっち!」

 

 ハルに誘われて、一つの屋台の前に立つ。

 

「あら、ハル嬢ちゃん。今日はその子とデートかい」

「冗談はいいから、彼にサルバードを食べさせてやってよ」

 

 鉢巻から紫の髪が四方八方に飛び出している屋台のおじさんとハルは以前から顔なじみのようで、軽快に会話が弾む。

 その様子をぼうっと見ていると、僕の前に紙皿に盛られた料理が差し出された。

 

「食べな。嬢ちゃんのボーイフレンドだから、お金はいらないよ」

「え、僕、そんなんじゃ」

 

 慌てて否定しながら紙皿とフォークを受けとり、改めて料理を見る。

 削ぎ切りの鶏肉と、何かのフライが一緒に炒められている。

 

「これ、何のフライなの?」

「ん?......あぁ、猿の手よ。猿(サル)と鳥(バード)で、サルバード」

「さ、猿ぅっ!?」

 

 何を驚いているのか、と言わんばかりに、ハルは自分も皿をもらうと、さっさと食べ始める。

 

「早く食べないと、冷めちゃうわよ」

「さ、さ、猿って......」

 

 かなり抵抗感があるが、食べなければハルに嫌われてしまうかもしれない。

 僕は意を決して、目を瞑った。

 

「......あれ」

 

 凄まじくエキゾチックな味を想像していたが、口の中に広がったのは思いのほか甘く、優しい味だった。猿の軟骨のコリコリした食感と、肉厚な鶏肉が口の中で丁度よく混ざる。

 

「美味しい。というか、懐かしい感じがする」

 

 思わず声が漏れる。

 

「おじさん、これ、調味料は」

「ん?......あぁ、カノホだよ。この辺じゃあんまり使わないか」

「カノホ......」

 

 懐かしさの原因は、これか。話を聞くと、その製法は醤油ととてもよく似ていた。

 あちらの世界への未練は、もうなくなったとばかり思っていた。でも、カノホの優しい甘みが僕に、心の深くに沈んだ寂寥を思い出させた。

 

「......なんで、泣いてるの?」

 

 こちらを覗き込むハルの顔が、ぼやけて見える。

 こんな風に泣いたのは、いつぶりだろうか。

 

「信じてもらえないかも、しれないけれど」

 

 僕は、彼女に僕の生い立ちについて話した。

 翼を広げ、人を乗せて空を飛ぶ鉄の塊について話した。世界中の情報を瞬時に閲覧できて、また自分も知識を共有できる仕組みについて話た。

 魔術なんてものはおとぎ話の中にしか出てこなかったことを話した。

 

 あちらの世界で、僕は幸せでなかったこと。この世界での日々は嫌いじゃないこと。

 それでも、帰りたいと思ってしまうことを、話した。

 

 料理を口にしながら、涙にえずきながら、時に言葉に詰まりながら。

 たどたどしい僕の話を、彼女はじっと黙って聞いてくれた。

 

「......私では、あなたの気持ちを理解することは難しいのだろうけど」

 

 僕の話が一通り終わると、彼女はぽつりと言った。

 

「もっと、あなたの話が聞きたいわ。見たこともない乗り物の話や、素晴らしい技術の話を。そして、あなたの両親や、友達についても」

 

 その世界なら、私はもっと父親とうまくやれてたのかな。

 彼女の笑顔が、少しだけ曇った。

 

「私は学校で、ティガー教授と一緒に『マナシェルター』の研究をしてる。特殊な素材で空間を密閉して、外から魔術で干渉できないようにするの。全世界をこのシェルターで覆うのが、私の夢」

 

 私、魔術が嫌いなの。

 彼女は浮かない顔のまま、ぺろりと下を出す。

 

「パパは私も仕事も放り出して、毎日毎日魔術の研究ばっかり。研究がうまくいかないとママに当たり散らすから、ママは愛想尽かして出ていっちゃった」

 

 それでも、彼女の父親は研究をやめないのだという。

 魔術の何が父親をそこまで突き動かすのか、それは分からない。ただ、世間的には彼は、優秀な市長であると同時に良き父親である、ということになっている。

 だから、彼はハルにだけは手を出さない。その代わり、干渉もしない。

 

「私、子供っぽいでしょ。この歳にもなって、パパ、パパって」

 

 彼女がそう言うから、僕は即座に首を振る。

 あの日クリーニング屋で聞いた雨音は、今も鮮明に覚えている。僕には彼女の気持ちが、痛いほどわかった。

 

「......さ、気を取り直して楽しみましょ。パパの出番まで、まだ時間があるから」

 

 ハルはぽん、と僕の頭を叩くと、軽い足取りで歩き出した。

 僕も乾ききらなかった涙を拭って、ついていく。

 

  

* * *

 

 屋台は何が使われているのか想像もつかないような料理や工芸品から、あちらの世界でも馴染み深い輪投げやカステラによく似た菓子まで、様々な種類があり僕たちを飽きさせなかった。

 そういうものだと割り切るようにしているが、全く違う世界のはずなのに、この街の文化の中に日本のそれが垣間見えることがある。その話をマーリンにしたら、並行世界と空間移動に関する訳のわからない講釈を延々とされた。

 

 そうこうしているうちに、クロックタワーから音楽が鳴り響いた。

 自分の演説の時間を大きな音で知らせるなんて趣味悪いわよね、と苦笑しながら、ハルと僕は噴水広場の中央に設置されたステージに向かう。

 

 赤いカーペットが敷かれた壇上には、スーツ姿の背の高い男が立っていた。

 特別端正な顔立ちではないが、眼には力がこもっていて、よく笑う。ハルから話を聞いていなければ、彼を一目見た瞬間に、性格の良さそうな人だと思っただろう。

 

「それでは、皆さんご存知ペンデュル・シティの顔、メイン=カース市長の登壇です!」

 

 司会の女性が大きな声で言うと、見ている人々からは拍手が起こった。

 カース市長はにこやかな顔で手を挙げそれを制止すると、女性からマイクを受け取り、ひとつ咳払いをする。

 

「えー、ご紹介に預かりました、カースでございます。皆さん、感謝祭は楽しんでおりますでしょうか。私は既に、苺のタルト、ベータホレス、ピカ=ソデスを頂きました。これでは家で娘に怒られてしまいます」

 

 聴衆から笑いが起こる。

 ハルを見ると、不機嫌そうな顔を作ってはいるものの、父親が自分の話をしてくれたことが嬉しそうだった。

 

「さて、私たちの祖先によってこの街が興ってから五百年余りが経ちます。つまり、感謝祭も同じだけの歴史があるわけです......」

 

 さして興味がある話題でもなかったが、市長の話術は巧みで、引き込まれる何かがあった。

 十分ほどの演説が終わり市長が頭を下げた時には、せっかくのお祭りの真っ最中に、彼の演説にこれだけの人々が集まる理由がわかった。

 

 ステージを下りた彼に、ハルが駆け寄る。

 彼はハルに白い歯を見せると、後から追いかける僕の方をちらりと見た。

 

「......君は、アルフレッドのところのユウキ君だね。彼から話は聞いてるよ、うちの娘と仲良くしてくれてありがとう」

 

 アルフレッドは、マーリンの名前だ。

 外に出たのは二回目とはいえ、彼のことをそんな風に呼ぶ人には出会ったことがないから、一瞬誰のことを話しているのか分からなかった。

 

「マーリンのことを知っているんですか?」

「ははは、呼び捨てとは感心しないな。......あぁ、よく知っているよ。彼と私は学校の同級生なんだ」

 

 そこで彼はちらりと時計を見ると、あぁ、とため息をつく。

 

「すまないね、これから外せない予定があるんだ。......それじゃハル、私は今日も遅くなるから。ユウキ君に迷惑をかけないようにね」

 

 彼は慌てた様子でその場を後にする。

 その拍子に、持っていたマイクが掌から滑り落ちた。

 

「おっと!」

 

 僕は思わず、そのマイクを魔術で操り、地面すれすれのところで止める。

 

「これは、僕が返しておきますよ」

「助かるよ。ありがとう」

 

 市長は律儀に頭を下げ、早足で歩き去って行った。

 

「......感じは、いい人だね」

「外面がいいのよ。さ、行きましょ」

 

 ハルは少しむくれた表情で、屋台が立ち並ぶ方へ歩いていった。

 

  

* * *

 

 あたりもすっかり暗くなり、人々も少しずつ帰路につく。

 夢のような時間にも、終わりが近づいていた。

 

「......そろそろ、帰らなきゃね」

 

 ハルが少しだけ寂しそうに呟く。

 マーリンもハルの名前に弱いとはいえ、今回はあくまで特別だ。次に会えるのがいつになるのか、僕には分からない。

 約束のない別れがこんなに哀しいものだということを、僕は知った。

 

「そ、それじゃ」

 

 その哀しさを隠そうとして、つい素っ気ない挨拶になってしまう。

 ハルも曖昧に頷いて、二人はそれぞれの家の方向を向いた。

 

「ねぇ、ユウ」

「ん?」

「......こっち向いて」

 

 振り返ると、彼女はめいっぱい背伸びをして、僕の鼻に熱を持った唇を押し当てた。

 頭の中が真っ白になる。心臓がばくばくと音を立て、破裂してしまいそうだった。

 

「ひどい顔」

 

 唇を離したハルが、顔を赤らめてちょっと笑った。

 

「また、いつか」

「うん、いつか」

 

 僕たちはそう言い合って、今度こそお互いに背を向け、歩き出す。

 心に刺さった棘の痛みが、少しだけ消えた、気がした。

 

  

* * *

 

 同時刻、クロックタワー。

 電気も消えた室内に、二つの人影があった。

 

「いったいどういうことだ、アルフレッド!なぜ、あの子が魔術を使える!」

 

 影の一つ、カース市長の怒鳴り声が響く。

 

「......ただの道楽だ」

 

 もう一つの影が、ぼそぼそと呟いた。

 市長は憤然とした様子で、その影を蹴り飛ばす。

 

「道楽?道楽でみなし子を拾って育てて、しかもマーリン大魔導士直々に魔術まで教え込むのか。いつからお前は、そんな人情派になったんだ?」

 

 椅子が倒れ、はずみでランプシェードのスイッチが入る。

 淡い光が、紺のローブを纏ったマーリンの姿を照らし出した。

 

「あの子は関係ない。メイン」

「気安く名を呼ぶな!」

 

 再び激昂した市長が、今度は倒れたマーリンの身体を靴で踏みつける。

 マーリンは抵抗する様子もなく、呻きながらされるがままになっている。

 

「.....アルフレッド、俺の恨みはまだ消えちゃいないぞ」

「あぁ、分かっているさ。仕事はちゃんとする」

 

 それが私の責任だ、とマーリンが呟いた。

 ようやく少し落ち着いた様子の市長が、足をマーリンの体から離す。

 

「いよいよ大詰めだ。余計なことはするな」

 

 見つめ合う二人の眼は、氷のように冷たかった。

 

  

* * *

 

「......あっ、マーリン。おはよう」

「あぁ」

 

 起きるとマーリンがいつものように、朝食をテーブルに用意していた。

 その顔は心なしか疲れているように見えたが、気のせいか、と思いテーブルに座る。

 

「昨日は夜遅くまでどこ行ってたのさ。せっかく林檎飴買ってきたのに、自分で食べちゃったよ」

 

 嫌味っぽくそう言ってみると、彼は相変わらず生真面目な顔で、

 

「それは、悪かった」

 

 とぶっきらぼうに言う。

 

「いいよ、別に」

「昨日は、急用が入った。そんな時もある」

 

 アップルパイが冷めるぞ、とマーリンは勧める。

 僕はそれにかぶりつきながら、あたかも会話の流れで、というように言った。

 

「ところで、来年の感謝祭なんだけど......」

 

 言った瞬間、マーリンの眼が見開かれる。

 それは怒りの表情ではなく、なんと、私たちには来年というものが存在したのか、と言わんばかりの驚きの顔だったものだから、僕の緊張はいっぺんに解けてしまう。

 

「来年か。うん、来年......もちろん、構わんさ。鍛錬を積めばな」

「本当!?」

「ああ。......さぁ、早く食べてしまえ。今日も古代文字の勉強だ」

 

 うげ、と僕の口から変な声が出る。

 最近、マーリンは魔術の訓練に加えて、古代文字の解読を教えるようになった。実践的で、やればやるだけ身についた感じがする魔術に比べて、ぐにゃぐにゃした文字が何を表すのかを読み解く作業は終わりがなく、つまらない。何より、有用性がさっぱり分からなかった。

 

「魔術の秘伝が書かれた古文書は、古代文字で書かれている。原文で読まなければ分からないことも多いし、仲間内で暗号としても使える」

 

 とマーリンは言うが、何十年も古代文字を研究している翻訳家が翻訳したものを読むのと、素人の自分が原文を辞書を引きながらどうにか読むのとでは、圧倒的に前者の方が得るものは大きいだろう。

 暗号として使うにも、この街で学校でも教わらない古代文字が読めるのは僕とマーリンくらいしかいない。

 マーリンが言うからには何らかの意図があるのだろうが、正直、今回ばかりは納得できない気持ちでいっぱいだった。

 

 僕は四苦八苦しながら、どうにか今日も大昔に書かれた物語の一節を解読する。

 止むに止まれぬ事情で盗みを犯した主人公が、罪の意識に苛まれながらも行為をエスカレートさせ、最終的には殺人を犯してしまう物語。

 

「ねぇ、マーリン。この男は、罪を犯さなくても生きていけるようになったんだろ。それなのに、どうして罪を重ねるの?」

「それは、難しい問題だな」

 

 マーリンはほんの少し口角を上げる。

 

「彼は......正義の資格を、失ったんだ」

「正義の、資格」

「彼は一度罪を犯した。どれだけ更生しようとも、善良な人間になろうとも、彼の中で永遠にそれは残り続け、彼に正義を名乗ることを拒絶させる」

 

 またマーリンが難しい話をしている、と僕は顔をしかめる。

 マーリンはそんな僕の様子は意に介さず、続けた。

 

「もし彼が、盗みを働こうとする人を見たとしたら。彼は絶対に、それを止めない。それどころか、それに加担さえするだろう。それによってどれほどの人が不幸になり、どれほど自分が良心を痛めることになったとしても。......なぜなら、彼がそれについて述べ、誰かを説得しようとする時、彼の中の罪が必ずその胸を刺すからだ。そんなことを言う貴様はどうだ。貴様の罪を棚に上げて、人にものが言えるのか、と」

 

 虚ろな眼で、淀むことなく言い切った後、マーリンはふっと息をついた。

 

「......という解釈もあるが、貴様の好きに捉えればいい。そういうものだ」

 

 そう言うと、マーリンは自室に戻っていった。

 僕は首を傾げながら、手慰みに鉛筆を空中でくるくる回す。

 

 練習量を増やしてから自分の魔術の腕が急速に上がっていくのを、僕はひしひしと感じていた。

 夏祭りの時もほぼ無意識のうちに魔術が使えるようになったし、日々の実戦演習もマーリンには及ばないまでも、もはや絶対的なものではない。

 

 それでも、僕は驕る気にはなれなかった。

 僕が強くなるたびに、マーリンの表情は翳っていくような気がする。それでも、マーリンは僕に魔術を教え続ける。

 

 この世界に来たばかりの時は分からなかったが、今まで一人の弟子も取っていないマーリンが僕を拾ったのは、ただの気まぐれではないと確信していた。

 僕は、何か大きな理由があって、これほど熱心に魔術の手ほどきを受けている。

 

 でもその理由が何なのかまでは、僕には分からなかった。

 そしてそれをマーリンに聞くこともまた、僕は出来ずにいた。

 

  

* * *

 

 喜びは一瞬だった。

 後から後から、嫌な予感が押し寄せてくる。

 

「明日から三ヶ月ほど、ここを留守にする」

 

 マーリンはそう言って、大金を机の上に置いた。

 

「留守にするって、どこに行くのさ」

「......それを貴様に教える義理はない」

 

 そう言うマーリンの声は鳥肌が立つほど冷たくて、僕はどきっとする。

 今まで、それほど長期間彼が家を離れることなどなかった。

 

「ご、ご飯はどうするの」

「だから今、金を置いた。三ヶ月の間は、その金でどこへでも行くがいい。メインの娘と遊び呆けようと構わん」

 

 魔術の鍛錬だけは毎日やっておけ、と付け加えこそしたものの、僕は無邪気に「わかった、そうするよ」とはとても言えなかった。

 呆気にとられる僕をよそに、マーリンは言いたいことを言うと自室に籠もってしまう。

 

 その晩、僕はなかなか眠れなかった。

 冴えた眼を開けながら毛布にくるまっていると、まだ日は登っていないというのに自室からマーリンが出てくる音がした。

 

 彼はそのまま一直線に外に出ようとしているようだった。

 ここで止めなければ、彼はとんでもないところに行ってしまうのではないか。そんな恐怖が僕を襲った。

 

 僕は数秒考えた後、飛び起きる。

 急いで玄関の扉を開けると、空はどんよりと曇り、辺りは真っ暗だった。

 

 そこにマーリンの影は、既になかった。

 

  

* * *

 

 翌朝から、マーリンがいない日々が始まった。

 ハルは毎日家の前を通るから、彼女に会うことは簡単だった。僕が彼女に事情を説明すると、彼女は手を叩いて喜んだ。

 

「それなら、私がこの街を案内してあげる」

 

 それから毎日、彼女が学校に行っている間は魔術の鍛錬をし、帰ってきたら街を回った。

 

 マーリンが買ってきた古くて野暮ったい服を脱ぎ捨て、ハルに見繕ってもらった服を着た。

 うんざりするほど食べた林檎入りカレーライスではなく、あちこちのレストランで食事をとった。

 そして、何度も唇を重ねた。離した後の照れ笑いも、次第になくなっていった。

 

 休みの日に、ハルが通っている学校も見学した。

 ハルが研究していると言っていたマナシェルターは、既に体育館ほどの大きさのものが完成していた。透明の壁一枚を挟むだけで本当に魔術が一切通らなくなって、僕は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になり、彼女は大いに笑った。

 

 そんなこんなで冬が過ぎ、春になっても何事もないまま、日々はあっという間に過ぎていった。

 僕の不吉な予感は杞憂だったのかもしれない。僕はだんだんそう思い始めていた。

 

 マーリンにうるさく言われなくても、家が汚れれば掃除はしなくてはならない。

 ちょっとさぼった間に埃があちこちに溜まっていて、僕はせっかくの一日を潰す羽目になった。

 

「よーいしょっと」

 

 と言っても、魔術で箒や雑巾を動かすだけなので、僕自体はただ見ていればいい。

 マーリンがいた頃からこっそり使ってはいたが、堂々と魔術を日常生活に使えるのは快感だった。このまま帰って来なければいいのに、なんでことをちらりと考えたりもした。

 

 掃除があらかた終わったところで、僕はちらりとマーリンの部屋の方を見た。

 彼の部屋まで掃除するようには頼まれていない。......とはいえ、神経質なマーリンが帰ってきた時に埃まみれでは、少し可哀想な気もした。

 

「まぁ、何だかんだ言っても、養ってもらってるわけだし」

 

 僕はそっと扉を開け、中に入る。しばらく人の出入りがなかったからか、中はじめじめしていた。

 箒を動かしていると、何となく机が目に入った。

 

「うげ、難しそう」

 

 僕は箒から眼を離し、机の上の図面や書類の数々を見て顔をしかめる。

 しかし、そのうちの一枚に、見覚えのある物体が描かれていた。

 

「......クロックタワー?」

 

 この街のシンボルであり、カース市長の住む市庁舎。この紙は、その設計図のようだった。

 何でこんなものがここに、と僕は訝しみながら、目を細めて文字を追う。

 

 『クロックタワーの設計に際し、時空間制御魔術機構の原型を埋め込むことに成功。依然問題多数、実験は失敗続き。改良が必要』

 

 駄目だ、何が書いてあるかさっぱり分からない。

 僕は何かヒントが書いていないかと、他の紙に目を通す。

 

 『第三十八回目の実験。有意な成果は無いが、マナの微細な位相変化を観測。要確認』

 『マナと空間の関係に対する飛躍的な解釈を発見。計画の成功に一歩前進か』

 

 そんなメモがいくつも殴り書きされている図表を捲っていると、不意に一つの文字が眼に飛び込んできた。

 

 『世界同時時間停止計画 project.Hera』

 

「......何だこれ」

 

 それは学術的な他の書類と違い、比較的容易な文章で書かれていた。

 一行読むごとに、血の気が引いていく。紙を持つ手がぶるぶる震えた。

 

「本当に何だよ、これ......!」

 

 僕は紙を床に叩きつけた。

 マーリンの馬鹿馬鹿しい空想には思えなかった。不可解な図表の数々が、この計画を実行するために必要なものだったのだと、解った。

 

 考えろ。

 僕は、どうすればいい。

 

 本来なら、街の治安を守る警護隊に連絡するのが筋だ。だが警護隊は、市長の管轄。

 そしてこの内容が事実ならば、この計画を立案したのは、むしろ市長の方だ。

 

 そして、最大の問題は。

 僕が何も知らず遊び呆けている間に、機構は完成し、計画は最終段階に入っていることだ。

 

 決行日は、明日。

 今から誰かに理解してもらうのでは間に合わない。そもそも、マーリンが本気で実行しようとしている計画を止められる魔道士など、この街にはいない。

 もしいるとすれば、それは。

 

「......僕だ」

 

 そう思い至った時、再び腕が震えるのを感じた。

 全部、夢であればいい。あるいは、マーリンが柄にもなく僕を驚かせようとしていて、物陰からピエロの格好で飛び出して、「びっくりした?」と笑ってくれればいい。

 

 けれどいつまで待っても夢は覚めなかったし、マーリンも現れなかった。

 これは、現実だ。

 

 ならば、僕は逃げるわけにはいかない。

 

  

* * *

 

 翌朝。

 休まなくては、と思うけれど、結局ほとんど眠れないままに夜が明けた。

 

 敢えて一晩を睡眠に充てたのは、保険を掛けるためだ。

 僕はいつもの道で、ハルが来るのを待っていた。

 

「ユウ!」

 

 彼女はいつもの調子で、僕を見つけると大きく手を振る。

 でも今日だけは、それに応じることはできなかった。

 

「......どうしたの?」

 

 訝しげに問うハルに、僕は一つ息をついて応じた。

 冗談や嘘じゃないと分かってもらえるように、真剣な表情を作る。

 

「今から、大切な話がある。難しいと思うけど、僕を信じて欲しい」

 

 僕は彼女と眼を合わせる。

 ただならぬ雰囲気を察したのか、ハルの笑顔を引っ込んだ。

 

「これを見てくれ」

 

 僕はマーリンの部屋で見つけた書類を地面に並べる。彼女なら、この意味を僕よりも早く理解できるはずだ。

 

 万物は、マナで構成されている。

 そしてここには、時間や空間といった概念もまた、マナによって作られているということが示されていた。

 

 仮にこれが事実なら、非常に大規模で、かつ革新的な魔術機構を用いることで、空間を歪めたり時間の流れを操ったりすることも可能になる。

 これまで身近なものだった魔術を、世界の理を曲げてしまえるほどの存在に押し上げる、歴史に残る大発見だった。

 

 だがマーリンは、この偉大な発見を何故か発表することはしなかった。

 それどころか市長と協力して、世界の時間を一斉に停止しようとしているのだ。

 

 そんなことをすれば、歴史は止まり、未来は消滅する。

 

「......嘘よ、こんなの」

 

 ハルは全て読むと、震える声でそう言い、書類を踏みつけた。

 紙の上に涙を垂らしながら、靴底をぐりぐりと擦り付けるように、踏み続けた。

 

「辛いのは分かるよ。でも」

「嘘よ!パパが、こんな事するわけない!」

 

 その眼には、絶望感とともに、彼女の諦観がありありと示されていた。

 父親が怪しげな動きをしていることに、聡明なハルは気づいていたはずだ。それでも、知らない振りをした。

 

 自分に構ってくれなくても。

 母親は出て行ってしまっても。

 そうしていれば、彼はハルにとって「自慢のパパ」だったから。

 

「.....ハル、聞いてくれ。僕は今から、この計画を止めに行く。もし僕の勘違いだったら、一生軽蔑してくれて構わない。だから、お願い。町のみんなを、どこか遠くへ避難させて」

 

 もし計画が実行されれば、どこへ逃げようと結果は同じだ。

 それでも、出来ることは何でもやっておきたかった。

 

 だが、僕の言葉は、彼女には届かない。

 彼女はしばらく泣きじゃくり、やがて涙が治まると、とんでもなく鋭く、冷たい眼を僕に向けた。

 

「......そんな言葉、あなたの口から聞きたくなかった」

 

 彼女は僕の制止を無視して走り去ってしまう。

 腕を掴んでまで止めることは、僕にはできなかった。僕はただ、その後ろ姿を呆然と見つめるしかなかった。

 

 保険はない。

 止められるかも、分からない。

 それでも、僕は行かなければならなかった。

 そして、なぜマーリンがこんなことをしたのか、尋ねなければならなかった。

 

 この世界に不意に産み落とされた僕。

 その意味を、初めて考えた。今日この時のために、僕はこの世界に来たのだろうか、と思った。

 

 だとしたら、その結末はどこへ向かうのか。

 僕は、それを見届けたかった。

 

  

* * *

 

 近くで見ると、クロックタワーは本当に高く、精密な建物だった。

 透明の壁の中はどの方向にも一面に機構が張り巡らされていて、その全てが、この塔に重要な機能を与えている。

 

 壁は強固な素材でできていて、中の機構もしっかりと固定されていた。目の前に世界を崩壊させる仕組みがあるのに、僕の力ではどうすることもできない。

 その歯痒さを噛み締めながら、開いた自動ドアの奥へと進む。

 

「本日休館」の看板を無視して、誰もいない塔の中を歩いていく。

 館内は書類が机の上に置きっぱなしだったり紙くずが床に落ちていたりして、昨日までたくさんの人がここで働いていた名残を感じさせた。

 明日には、人々は一日の休みを満喫して、またここに戻ってくるだろう。そんな日々の流れが永遠に断ち切られるかもしれない、という事態の深刻さを、完全には実感できていない自分がいる。

 

 エレベーターに乗り込むと、止まらない階があることに気づいた。

 市長が実際に住んでいる、住居部分だ。

 

 その下の階、市立研究所でエレベーターから降りる。

 本来なら警備がいるはずだが、今日は彼らすら居ないようだった。

 

 研究室は広く清潔で、よく整理されていた。

 薬品の類は一切見られず、空のガラス瓶や実験器具、紙の束や掃除用具などが、それぞれの持ち場に置かれている。

 この階全体が、几帳面で神経質な雰囲気を纏っていた。

 

 そして、一人の男が現れる。

 切れ長で冷徹な眼に、年齢不詳のやけに整った顔立ち。紺色のローブは皺だらけで、鷲鼻だけが彼に人間らしさを与えていた。

 

「......来たな」

「マーリン、なんで!」

 

 僕は現れたマーリンから殺気を感じ取って、一瞬で手近にあったガラス瓶をマーリンに投げつける。

 顔面を狙って、殺すつもりでやった。そうでなければ、彼の視界を遮ることはできない。

 

 彼は容易くそれを脇に退けると、両眼をあちこちに向けながら僕の視界から逃れるために駆ける。

 僕もマーリンを捉えようと必死に視線を動かしながら、脚を動かした。

 

「......っ!」

 

 粉々になった瓶の破片は、この世界の弱い靴では完全には防ぎきれない。

 僕はカードを何枚か操り、一瞬だけ足場にして渡った。

 

「いい判断だ」

 

 マーリンの無愛想な声が、びっくりするほど近くで耳を打つ。

 慌てて飛び退くが、勢い余って棚にぶつかり、口から呻き声が漏れた。

 

「マーリン......あなたは、ここにいるべき人間じゃない!」

 

 次にマーリンは、こちらの脚を止めようとする。

 左右を見回すと、大きな顕微鏡が床に転がっていた。

 

「......これか!」

 

 同時に、顕微鏡が僕の方へ飛んでくる。

 咄嗟に回避し、背後にカードを飛ばす。顕微鏡は棚に激突し、幾つもののガラス瓶が粉砕された。

 

「くっ......!」

 

 マーリンが呻く声が聞こえた。

 避けた先の死角を突いてくるという読みは正しかったらしい。

 

 顕微鏡が飛んで来てから判断していれば、間に合わなかっただろう。

 新聞紙や箒、バケツで戦っていた普段の演習とは、緊張感がまるで違う。ぼくは、背筋がぞわりと寒くなるのを感じた。

 

 僕はちらりと視界の端に移るマーリンの動きを先読みし、カードを飛ばす。

 再び命中、今度は皮膚が切れて血が床に滴った。

 

 普段のマーリンなら、一度や二度ダメージを受けたくらいで僕の視野に入るようなヘマはしない。

 短い戦いの中で、僕はマーリンが僕と戦う前からひどく消耗していることに気づいていた。

 

「.....何日も、寝てないんだね。そんなに計画が大事?」

 

 カードとガラス瓶が飛び交う中、二人の荒い息遣いだけが響く。

 特に傷を負ったマーリンの呼吸は浅く、その脚は満足に動けていないようだった。

 

 彼はここで、勝負を決めに来る。

 僕は身構え、マーリンに追いつこうと一層走る速度を早める。

 

 そこで、ぱたりとマーリンが足を止めた。

 長い間走り回っていた僕は、急に止まることができない。

 

「——っ!」

 

 二人の距離が、どんどん縮まっていく。

 僕が彼の視線から逃れようと身を翻したところに、狙い澄ましたかのように箒が飛んでくる。

 

「があっ......!」

 

 額に箒の柄が猛スピードで衝突し、僕は悶絶する。

 その動きは、完全に止まっていた。

 

 瞬く間に僕は空中に吊り上げられた。

 マーリンが無感情な眼で、わずかな笑みをたたえてこちらを見上げる。

 

「勝ったと思ったか?慢心など、貴様には百年早い」

 

 表情とは裏腹に、その口調はどこか残念そうだった。

 僕は魔術になんとか抗おうともがきながら言う。

 

「でも、僕に百年後はやって来ない。マーリンが時間を止めるから」

「その通り」

 

 頷きながら、マーリンはさてどうする、と言わんばかりにこちらに顎をしゃくる。

 僕は真っ直ぐ彼の瞳を睨みつけながら、視線の端にあるものを捉えていた。

 

「機構は完成している。もうすぐ、この世界は変化を止め、固定される。人の想いと共にな」

「想い?......想いっていうのは、変わっていくから意味があるんだ。好きだった奴を嫌いになったり、嫌いな奴を見直したり。それが、それこそが人生の醍醐味じゃないか!」

 

 マーリンに気づかれないように、少しずつとそれを動かしていく。

 宙にふわりと浮かべ、そして——。

 

 僕の、一番使い慣れた武器。

 先ほど僕の額を突いた箒が、今度はマーリンの後頭部を痛打した。

 

「.......がっ」

 

 変な声を上げて、マーリンが頭から倒れる。

 彼の目線が僕から外れ、重力が僕を地面の上に連れ戻す。僕はすぐさま懐から麻紐を取り出すと、それでマーリンを縛りつけ、ハンカチで目隠しをした。

 

「流石、私の唯一の弟子だ。強くなったな」

 

 マーリンが、今度は優しく笑った。僕は涙を零しながら、なんで、と叫ぶ。

 

「マーリンが、市長に言われて手を貸してることくらい分かってる。同級生だったんでしょう?なんで、止めなかったんだ!」

 

 ローブの襟を掴んで上下に揺すると、マーリンは後頭部を抑えて呻いた。

 

「......資格が、なかったからだ」

 

 そして、消え入りそうな声で呟く。

 

「私は、人を殺めた。過ちを犯した私には、メインの過ちを正す権利がなかった」

「殺めたって、誰を......!」

 

 マーリンはそれには答えず、静かに顎をしゃくる。

 

「メインはもう装置を起動しようとしている。取り返しがつかなくなる前に、行け」

 

 僕ははっとして、マーリンが示した方向を見た。

 そこには住居スペースに続くと思われる、幅の狭い階段がある。

 

 僕はよろよろとそちらの方へ向かいながら、何度も振り返ってマーリンを見た。

 その度にマーリンは、早く行け、と笑う。

 目元はハンカチに覆われているものの、彼の表情が今までになく豊かに変化することに、僕は気づいた。

 

 僕はついにしっかりと前を向いて、階段を登る。

 永遠のお別れになんてするつもりはなかった。僕はマーリンに、まだ聞かなければならないことが山ほどある。

 

 そのために、全身全霊をかけて、僕は悪意を止める。

 その決心が、また一つ、深く胸に刻まれた。

 

  

* * *

 

 使命に臨む青年の背中を見られないとは、口惜しい。

 そう思ってから、どの口が言うのか、と苦笑が漏れた。

 

 彼は、もともとなんの荷物も背負っていなかった。

 ひどく重い使命を彼に与えたのは、他ならぬ私だ。

 

 私には、メインを止める資格はなかった。

 けれど世界を静寂させる狂気の計画に加担している自分を、許すことはできなかった。

 それでも、自死を選べなかった。計画によって時間が止まることよりも、自分の心臓の鼓動が止まる方が怖かった。

 

 我儘で、臆病で、愚かな大罪人。

 それが、私の正体だ。

 そんな私を、彼はもう師とは呼んでくれないだろう。それを寂しく思う自分がいることに、また苦笑する。

 

 頭がくらくらするのは、殴られたことだけが理由ではない。

 体中に晴れ晴れとした解放感が訪れ、張り詰めていた緊張の糸がするするとほどけていく。そうして闇に包まれていると、睡魔が恐ろしい速さで迫ってきた。

 

 いいさ。

 もう、眠ってしまおう。

 彼なら、必ずやってくれる。この闇が、私の見る最後の光景になることはない。

 

 私は、意識を混濁した海の底に、沈めた。

 

  

* * *

 

 夢を見た。

 二十年以上前の記憶。私たちがまだ、学生だった頃。

 

「アルフレッド。ほ、本当に、大丈夫なんだろうな?」

「おいおい、私を誰だと思ってるんだ?構築した理論に誤りはない。必ず成功する」

 

 不安そうなメインに、私は笑いかける。

 この頃は、メインは少年のように小さくて、気が弱かった。私たちは親友だったが、どこかで私は彼のことを見下していたし、彼も対等な関係だとは思っていなかっただろう。

 だから、メインが愛しく想う女性を危険な研究の実験台にするという私の提案にも、彼は強く抗うことができなかった。

 

 そして、私は間違いなく天才だった。

 飛び級を重ね、論文をいくつも執筆し、いくつかの革新的な研究を成功させた。

 周りも私を天才と呼んだし、私もその称号を気に入っていた。

 

 人間は、失敗して初めて己を知り、成長する。

 人生で一度も失敗したことのなかった私は、あまりにも未熟で、稚拙な精神の持ち主だった。

 私は、自分がど(・)こ(・)に(・)で(・)も(・)い(・)る(・)天(・)才(・)だということに、気づいていなかった。

 貪欲で底知れぬ好奇心を持つ学者たちがそれでも守った、禁忌の意味すら知らなかった。

 

「心配しすぎよ、メイン。マーリン君を信じましょう」

 

 ヘラは、笑顔が素敵な女性だった。

 私たちより五つほど年上で、その五歳の差が、彼女がとても成熟した大人の女性であるように思えた。

 彼女を初めて紹介された時、私はメインの幸せを喜ぶとともに、なぜこんなに魅力的な女性が私ではなくメインを選ぶのだ、と憤然とした気持ちになったことを否定しない。

 せめてほんの少しの時間だけでも彼女を自らの手で征服したい、という邪な気持ちがこの実験の背景にあったこともまた、否定しない。

 

 今はわかる。

 ヘラもまた、二十代そこそこの浅薄な娘に過ぎなかったことを。何しろ、ちょっと持ち上げられて調子に乗った、年下の高慢で無知な学生を信頼し、その身体を預けたのだから。

 

「......それじゃ、始めよう」

 

 私は学術書に目を凝らしながら、試行錯誤を重ねて創り上げられた機構に、魔術でマナの流れを作り出す。

 その流れはどんどん増幅されて、やがて大きな奔流となり、ヘラの頭に取り付けられた機械を通して、彼女の脳に意識を強く定着させる作用をもたらす。

 そして、彼女の時間が、完全に停止する......理論上は、そうなるはずだった。

 

 今から考えれば、この理論は根本から誤っていた。

 マナと時空間に対する根本的な解釈が間違っていたのだから無理もない。太古の昔から偉人と呼ばれた研究者が幾度も挑戦し、失敗したのもこれが理由だった。

 私より遥かに優れた頭脳を持つ彼らが、失敗の原因すら分からなかった。だから、研究そのものを禁忌とすることにしたのだ。これ以上いたずらに犠牲を増やさないために。

 

 機構はなんの意味も成さず、膨大なマナの流れは、そのままヘラの脳に突き刺さった。

 異常事態が起きていることに気づく私の横で、メインはわくわくした表情で私とヘラを交互に見る。

 彼女の身体がぱたりと倒れた時さえ、メインは実験が成功したものだと思っていた。

 

「すげえ......本当にぴくりともしない」

 

 目を閉じて倒れる彼女の頬をぺちぺちと叩くメイン。

 しかしヘラの口から血が滴ってくると、その表情が半笑いのまま凍りついた。

 

「そんな......そんなはずはない。私の理論に、誤りなどあり得ない」

 

 私は頭が真っ白になり、ただ自分の研究のどこが間違っていたのか、それを反芻してみることしかできなかった。

 いざ失敗してみると、なぜあれほど自信が持てたのか分からないほどに、私の理論は矛盾だらけだった。私は愕然とし、ただただ後悔した。

 メインのことを考える余裕など、その時はあるはずもなかった。

 

 結局、才能のある私の未来と学校の名前を守るため、この件は防ぎようのない事故として内々に処理された。

 手続きが終わった頃には、私は自分が何をしたのか、何を間違えたのか、少しは客観的に見直せるようになってきた。

 

 事件から半年ほど経ったある日。

 私はようやく、謝ることに思い至った。ヘラの家族に真実を告げることは禁じられていたし、狡猾な私は頭の中でそれをしないいくつもの理由をこしらえた。

 けれどいくら考えても、メインに謝らない理由が思いつかなかった。

 

 何も知らない彼の母親が、気疲れした顔で部屋に通してくれた時のことを今でも覚えている。

 半年ぶりに顔を合わせたメインは、人が変わったようだった。背丈は異常に伸び、眼は爛々と輝いている。母親も彼の変わりように困惑しているようだった。

 

「.....アルフレッドか。何しに来た」

 

 メインは机から顔を上げることのないまま、そう言った。

 机の上には、芯が折れた鉛筆とぐしゃぐしゃに丸められた紙屑が大量に転がっていた。私は部屋の中の異様な熱気に圧倒されながら、会話のきっかけを掴もうと紙屑の一枚を手に取ってみた。

 

 そして、私は自分の顔色が変わるのを感じた。

 

「......何だ、これは」

 

 私は戦慄した。

 メインは恐ろしい構想を築き上げていた。彼は勉強ができる方ではなかったはずだが、その構想は荒唐無稽と笑うにはあまりに具体的だった。

 こんなものを実現させてはならない。私は、今度は語気を強めて言った。

 

「何だこれは。貴様、正気か!?」

 

 その瞬間、メインは弾かれるように立ち上がり、私の胸倉を掴んだ。

 私は蛇に睨まれた蛙のように、その体勢から一ミリも動けなくなる。

 

「俺は正気だ、アルフレッド。邪魔をするな」

「いいや、これだけは看過できない。私を裁きたいなら裁くがいい。だが、他人を巻き込むのは違う!」

「狡いな。自分は何の咎もないヘラの命を奪っておいて」

 

 メインはその一言で何も言えなくなる私を嗤い、そっと目を伏せた。

 

「......忘れるのが、怖いんだ」

 

 そう呟いた瞬間は、半年前のまだ背の小さかったメインがそこにいるような気がした。

 だが、すぐにまた狂気を宿した見知らぬ顔が戻ってくる。

 

「俺は、お前を殺したいと思っている。ヘラが今俺の枕元にやって来て殺せと囁いたなら、俺は間違いなく貴様を手にかける」

「......貴様には、その権利がある」

「だが。その恨みも、ヘラを喪った悲しみも、彼女への愛さえも。一秒ごとに、今この瞬間も、少しずつ薄れていく。あの日の慟哭を俺は今、再現することができない!」

 

 メインは涙を流していた。涙を流しながら、少年のように瞳を輝かせていた。

 

「私は、彼女に対して誠実でありたい。いつか私が年寄りになった時に、彼女の顔すら思い出せなくなって、お前を許す気持ちになった時のことを想像すると吐き気がする。日々薄れていくこの気持ちを、永遠に保つにはどうすればいい?」

 

 私が何か言う前に、彼は続けた。

 

「時を、止めればいい。お前ならそれができる、アルフレッド」

「......私に、協力しろと?」

「拒否権はない。それとも、お前はヘラの犠牲を無駄死ににするつもりか?」

 

 結論から言えば、私はメインの圧力に屈した。

 忌まわしき研究に、それが邪悪だと分かっていながら、加担したのだ。

 そして皮肉なことに、私はこれまで誰も発見できなかった真理に到達してしまった。

 

 私は、どこにでもいる天才だった。

 だが素晴らしい発見をするのは、必ずしも天賦の才を持つ者とは限らない。悪魔の悪戯によって、私の研究は実を結び、世界は沈黙しようとしていた。

 

 だが私は、持ち腐れていた私の正義を、良心を、一人の青年に託した。

 後はは夢の中で、ただ彼を信じ、祈ることしかできない。

 

 頼む。

 クロックタワーを、止めてくれ。

 

  

* * *

 

 扉を開けると、カース市長が血走った眼をこちらに向けていた。

 だが彼が僕を捕捉するより、僕が市長を紐で絡め取る方が遥かに早い。市長は一瞬でその身体の自由を奪われた。

 

「......流石、アルフレッドの弟子だな。まったく、忌々しい」

「機構はどこ?」

 

 僕の問いに、しかし彼はにやにやと笑う。

 

「もう、遅い」

「......まさかっ!」

「予定よりは少々早いが、君が来たのを見て慌てて起動したよ。もう、俺でも止めることはできない」

 

 僕は慌てて部屋の奥へと向かう。

 壁中を伝う絡繰が集まっている一点。そこに示された大型のモニターには、「作動中」の文字と、残り時間を示した数字だけが写っていた。

 

「あと数分で、時間は止まる。美しい終わり方ではないが、まぁ良しとしよう」

 

 市長は満足気に何度も頷く。

 その視線は、どこか遠くに向けられていた。

 

「そんなっ......!」

 

 何か、何か方法はないのか?

 だが機構は、僕の魔術では少しも動かすことができない。物理的に破壊できるようなものも、ここにはなかった。

 刻一刻と、モニター内の数字が減っていく。僕は焦燥に駆られ、呼吸が浅くなって、必死にモニターを凝視した、その時。

 

「......何か、写ってる?」

 

 画面の端に、十秒につきコンマ何秒かだけ、何か文字のようなものが点滅している。

 僕は目を凝らして、次にそれが表示されるのを待つ。

 

 

《ヨコノ クボミヲ サンカイ オセ》

 

 

 一瞬。

 ほんの一瞬だったが、マーリンに動体視力を鍛えられた僕は、その文字をはっきりと読み取った。

 今では読める者はほとんどいない、東の文明で使われた古代文字。

 

 『魔術の秘伝が書かれた古文書は、古代文字で書かれている。原文で読まなければ分からないことも多いし、仲(・)間(・)内(・)で(・)暗(・)号(・)と(・)し(・)て(・)も(・)使(・)え(・)る(・)』

 

 僕は、マーリンの言葉を思い出していた。

 あの鍛錬は、今この瞬間のためにあったのだ。彼は僕を信じて、僕だけが分かるこのメッセージを残した。

 

「......マーリンっ......!」

 

 僕はこの状況でも、マーリンが僕を信じてくれたことが、嬉しくて仕方なかった。

 モニターの横を触ると、言われなければ分からないだろう窪みを見つけた。それを、力強く三回押し込む。

 

「......止まれ」

 

 僕は、祈った。

 マーリンを、ハルを、みんなのことを考えながら願った。

 

「止まれぇぇぇぇっっっ!」

 

 

* * *

 

 

 静寂が訪れる。

 モニターのカウントダウンは、止まった。

 身体は、動く。

 

「......やった」

 

 僕はよろよろ、とその場にへたり込む。

 市長が縛られたまま、がっくりと項垂れるのが目に入った。

 

「ヘラ......嫌だ、ヘラ......忘れたくない。君と、ずっと一緒にいたい......」

 

 彼に何があったのか、僕は知らない。

 だから彼を糾弾することも、憐れむこともできない。誰かを評価するためには、その人のことを知る必要がある。

 

 マーリンも、そうだった。

 マーリンは自分が、恐ろしく真面目で、けれど優しい人間であることを知らなかった。師匠として、人にとても上手に魔術を教えられることを知らなかった。

 十歳で見知らぬ世界に放り込まれた少年を、時に厳しく、時に悩みながら、それでも道を踏み外させることなく育てられることを知らなかった。

 

 そこまで思い至ったところで、ふと両親のことを思い出した。

 大嫌いだった両親。それでも、もしこの世界に来ることがなかったのなら、と夢想してしまうのは。

 

 心のどこかで、わかっていた。

 きつい肉体労働の日々の数少ない休みの日に、父は必ず僕をどこかへ連れていってくれた。僕が楽しくなさそうな顔をしても、文句ひとつ言わずに。

 母は僕の将来のために、自分も朝から晩まで働いて貯金していた。それでいて、僕の成績をちゃんと気にして、時には厳しく叱り、決して疎かにしなかった。

 

 ほんの少しの視点の違いで、こんなにも世界は様相を変える。

 毎日強い日差しに晒されると、時には雲が恋しくなるように。

 

 罪は、罪だ。

 けれど、生涯に一度きりの過ちで、人間を判断することなどできないと、僕は思う。

 それを、マーリンに早く伝えなければ。

 

 僕は脱力してそんなことを思いながら、ふと窓を見て、愕然とした。

 

「......そんな」

 

 世界は、変わっていた。

 時間が止まることこそなかったものの、膨大なマナを動かそうとした代償は大きかった。地面は歪み、建物は一部をカッターで切り取られたかのように切断され、ペンデュル・シティ全体の空間がパッチワークのように滅茶苦茶になっていた。

 

 ハルは。

 ハルは、どうなった?

 

 僕は絶望的な気持ちで、部屋を飛び出した。

 この塔自体も、立っているのがやっとなくらいにダメージを受けている。エレベーターは動かず、僕は階段をひたすら駆け下りる。

 

 息を荒らげながら、ようやく外に出た。

 つい先ほどまであれほど賑わっていたのに、人々の姿がどこにも見えない。

 

「ハル!?ハルっ!」

 

 僕は泣きそうになりながら呼びかける。

 

 遠くの方から、返事が聞こえてきたような気がした。

 

「ハル!?」

 

 徐々に、聞こえてくる声が大きくなる。

 僕の目が、手を振るハルの小さな姿を捉えた。後ろには、見覚えのある八百屋のおばさん、そして街の人々の姿もある。

 

「ユウーーーっ!」

 

 僕は走り出し、向かってくるハルと抱き合った。

 

「......何で」

「酷いこと言っちゃったけど、やっぱりユウが嘘をついているなんで思えなかった。心のどこかでは分かってたんだ、パパが普通じゃないってこと。それで、マナシェルターに」

「マナシェルター......そうか!」

 

 外部のマナの変化を完全にシャットアウトするマナシェルターの中なら、クロックタワーによる影響も受けない。

 父親への反発から始まったハルの研究が、この街のみんなを救ったのだ。

 

「ユウ。......パパを止めてくれて、ありがとう」

 

 僕は曖昧に頷いた。

 クロックタワーの周りを、警護隊がぐるりと取り囲んでいた。

 

 

* * *

 

 

 手錠だけでマーリンを制約できるとはとても思えなかったが、彼が逃走することはないのだからいいか、と思い直した。

 マーブル・タウンの鉄臭い留置所で、僕はマーリンとガラス越しに対面していた。ペンデュル・シティは崩壊した街の再建で手一杯で、マーリンと市長はもう二ヶ月以上ここに半ば放置されている状態だ。

 

 皆が尊敬していた大魔導士と市長が犯した世界規模の大罪を、人々は持て余しているようでもあった。

 遠方の街からわざわざ使者が来て、ぎりぎりまで事態に気づけなかった街を責めることもあった。僕はその度に説明に追われ、ゆっくりマーリンと話すのがこんなにも遅れてしまった。

 

「......そんなことが、あったんだ」

 

 僕は、マーリンから殺人の告白を聞いた。

 彼の表情からは、深い悔恨が読み取れた。彼は事件の後、びっくりするほど表情豊かになった。長い間ずっと感情を押し殺していたんだな、と、僕はまずそんな感想を抱いた。

 

「失望したか?」

「いいや。僕とマーリンとの五年間は、そんなに軽くないよ」

「......そうか。そんな気がしていた」

 

 彼は嬉しそうに、けれど哀しそうに、笑った。

 

「マーリン」

「分かっている。分かっている......もう、計画のことを考える必要はない。だから、ここでは思考の全てを自分を省みることに費やした......ずいぶん、久しぶりの感覚だ」

「そう。ならいいんだ。......ハルは、苦しんでるよ。学校にも行けていないみたいだ。もう少し落ち着いたら、顔を見に行かなくちゃ」

 

 すると、マーリンは複雑な顔をした。

 そして何かを言いかけ、また首を振る。

 

「どうしたの?」

「いや......いや、やはり言うべきだな。その上でどうするかは、貴様が決めることだ」

「......?」

 

 僕が座りなおすと、マーリンは話し始めた。

 

「そもそも、私が計画の根幹、マナが時空間をも形作っているという真理に気づいたのは、貴様が原因だった」

「僕?」

「あの日、私は噴水広場の近くのマナを動かそうとする実験をしていた。人通りの多い場所だったが、その頃の私にはそんなことを気にする余裕はなかった。何十年も研究しているのに成果が一向に上がらないことを、メインにもなじられていたしな」

 

 いや、メインのせいにするのはよそう、とマーリンは恥じた。

 彼は罪の全てを自分で抱え込むつもりなのだろうか。そんなことは不可能だと、知っていながら。

 

「......実験は失敗に終わった。私は落胆しながら、何か手がかりが残っていないか確認するために実験現場に向かった。......そして、貴様を見つけた」

「それって......」

「貴様がこの世界に来たのは、私の実験のせいだ。ずっと隠していて、すまなかった」

 

 マーリンは座ったまま、深く頭を下げた。

 僕は何も言えなくなる。正直なところ、元いた世界での記憶は僕の心の中で居場所を失い、宙を彷徨っていた。

 それがこのタイミングで、急に腹の底に引き戻されたような気がした。

 

「異空間との扉を再び開くことは、可能だ。だが私は今や囚われの身。研究ができる立場ではない」

 

 マーリンは真剣な口調を崩さぬまま、続ける。

 

「もし、元いた世界に帰りたいと願うなら、明日の午後五時にクロックタワーの跡地に向かえ。時限式の小さな機構がセットしてある」

「......帰れるの?」

「保証する。私はもう、間違えない」

 

 こんなことが貴様の平凡で幸福な人生の三年間を奪った償いにはならない。だが、私は自分がしたことの尻拭いをしなければならない。マーリンはそう言って、立ち上がった。

 

「......どうするかは、お前が決めろ。だがこれを逃せば、次に機会が来るのは私がここを出る時だ。それがいつになるかは、私が決めることではない。永遠にやって来ないかもしれない」

 

 マーリンの後ろ姿を見送りながら、僕の頭の中では、元の世界で過ごした十年間の記憶が何度も、何度も繰り返されていた。

 父と行った動物園。母の冷凍食品ばかりの弁当。そのどれもが、今や違った景色として映る。

 この三年間、僕はついぞこの街に馴染むことはできなかった。色々なものを食べてきたけれど、醤油とよく似たカノホの香りだけがいつまでも舌に残っていた。

 僕の居るべき場所は、ここではないのかもしれない。

 

 けれど。

 最後に僕の脳裏に浮かんだのは、ハルの姿だった。

 傷心の彼女を放って、自分だけ家族のもとへ帰るのには大きな抵抗がある。僕は、これからもハルの人生を見守りたかった。ハルとともに、生きていきたかった。

 

 

* * *

 

 

 翌日。

 疲労のせいか、起きた時には昼過ぎだった。僕は遅い朝食をとり、家を出る。

 向かう場所は、ハルと何度も待ち合わせをした小道。学校は休みだけれど、彼女はきっとここにいる。そんな確信があった。

 

「......行くの?」

 

 ハルは、果たしてそこに立っていた。

 不安げな表情で、けれど背筋を正して、何か覚悟を決めた様子だった。

 マーリンは彼女に話したんだ、と僕は思った。少しだけ腹立たしく思うと同時に、一度固めた決心が揺れるのがわかった。

 

「決めたよ」

 

 僕は迷いを振り払うように彼女に笑いかけて、続けた。

 

「ここに、残ることにする」

 

 それが、僕の答えだった。

 ハルを見捨てて元の世界に戻っても、僕はきっと彼女のことを忘れることができない。

 また会いたいと願っても、扉は一方通行。それは二度と叶わないのだ。

 

 彼女は、息を飲んだ。

 

「ハルのせいじゃない。自分で、決めたんだ」

 

 僕はそう強調する。ただでさえ疲弊しているハルに負い目を作りたくはない。

 けれど彼女は目を閉じると、小さく首を振った。

 

「......駄目だよ、ユウ。ユウは、家族のところに帰らないと」

 

 僕ははっとさせられる。

 彼女は涙ひとつ溢さず、その口調は決然としていた。

 僕はハルを守るつもりで、自分が納得するために彼女の強さから目を背けていたことに気づいた。言い訳するかのように、僕は声を荒げる。

 

「いいよ。この街の方が大事だ」

「家族より大事なものなんてないよ。それは、私が一番分かってる」

 

 あんな父親でも、大好きだったんだから。

 ハルの言葉に、僕は黙らざるを得ない。

 

 父は、母は、どうしているだろうか。

 忽然と消えた僕を、今もまだ探しているだろうか。完璧ではなかったかもしれないが、彼らは彼らなりに愛情を注いで、僕を十年間育ててきた。その息子が居なくなった心境は、どれほどのものだろうか。

 

 僕がハルを失ったとしても、それは自分の選択の結果だ。

 覚悟も、用意もできている。

 けれど両親は、まったく準備もしていない状態で、突然僕を失ったのだ。

 

「私は、大丈夫だから。ユウに心配されないように、精一杯頑張るから」

 

 だから、ユウも。

 いるべき場所で、やるべきことをして。

 

 僕は赤子のように泣き叫んだ。

 離れたくない。僕が、僕が、魔術もない世界で、一人で何ができるというのか。ハルがいたから、僕はこんなにも頑張れたのに。

 動揺したし、頭は決断することを拒否した。

 でも、道は一つしかなかった。僕は、この街を去らなければならない。愛する人を、悲しませないために。

 

 ハルは僕が泣き止むまで、ずっと頭を撫で続けてくれた。

 そして僕たちは、何度もキスをした。舌を絡ませるような大人のキスではなかったけれど、名残惜しむように、互いの唇を痛いくらいに強く押しつけた。

 

 そして、クロックタワーの跡地。

 もはや人が立ち入らなくなったその場所の、何もない空間に、人が一人ぎりぎり入れるくらいの裂け目がぼっかりと空いていた。

 裂け目の奥はどうなっているのか全く見えなくて、入るのには抵抗があった。

 

 けれど、これは最高の大魔導士マーリンが創り出した、おそらく最後の研究成果だ。それだけで、信じるに足るだけの根拠になる。

 

「さよなら、ハル!君と出会えて、本当によかった」

「私も、あなたに出会えてよかった」

 

 またいつか、と自分でも意識しないうちに声が漏れた。

 いつか、なんて訪れるはずがない。僕は後悔して、俯く。

 

 しばらくして、またいつか、と小さい声が返ってきた。

 顔を上げると、ハルが顔を赤らめて、目には涙をぽろぽろ零しながら、笑っている。

 

 残酷な約束だ。

 けれど、僕とハルには、この終わり方しかあり得ない。僕はふと、そんな気持ちになった。

 

 彼女の姿をもう一度だけ目に焼き付けてから、僕はゆっくりと、背を向ける。

 そしてそっと目を閉じ、裂け目の中に、飛び込んだ。

 

 

* * *

 

 

 目を開けると、見覚えのあるクリーニング店の中だった。床にうっすらと埃が積もっている。

 自動ドアの外では雨がざあざあと降り続いている。雨、というものを、本当に久しぶりに目にした。僕は懐かしい気持ちでいっぱいになる。

 

 やがて、その雨の中に二つの黒い影が現れた。

 影はだんだん大きくなり、傘の形をなす。それらは自動ドアの前で、何かに気づいたように立ち止まった。

 

 扉が、がたがたと音を立てて開いた。

 息を飲む声が、響いた。

 

 

 

 fin.

 

 

 


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