伊吹醉香は人だった
仕事終わりの深夜、残業を終えて帰ろうと席を立つと、同じく残業を終えた上司にこのまま飲みに行かないか、と誘われた。
一人暮らしでこのまま家に帰っても、さしてすることなどないのだが、正直断りたかった。
昔から、酒を飲んで酔っ払うと意味もなく気が大きくなってしまい、尊大な態度をとってしまうのだ。
しかも、どうやらそこまでアルコールに強い体質でも無いようで、一口二口なら大丈夫だが、缶ビールなど二缶あければ完全に酔っ払ってしまう。
その間、余計なことや恥ずかしいことをしていないか心配で心配で仕方ないのだ。
後から記憶は残っているので、行動を振り返って死にたくなることも多い。
まぁ、その反面、二日酔いなど、後にひくようなことはなったことはないという不思議なことになっているのだが。
そんなわけで、この日もどう断ろうか、と言葉を探していると、思いの外強引に連れていかれた。
上司相手に逆らうことも出来ず、そのまま諦めてついて行くしかない。
覚悟を決めて、酔っ払った時に、失礼がないことをひたすら祈りながら居酒屋へと夜の街を歩いた。
やたらと話しかけてくる上司に少々辟易としながら、ただただ目的地へと向かう。
くだらない愚痴に相槌を打ち、全く笑えない笑い話に少しの笑顔を浮かべる。
とてもとても面倒だった。
だが、どうやら、私はこの何の面白みもない上司のことを、それなりに慕っていたらしい。
そんなことに気付いたのは、横転したトラックが火花を散らしながらこちらに向かってきた時だった。
その時の私は、火事場の馬鹿力、とでも言うべきか、上司を片手で5、6メートルほど、突き飛ばしていた。
最後に見たのは、長年見慣れた冴えない上司の驚いた顔だった。
走馬灯などなく、まして、後悔さえも、特に無かった。
※ ※ ※
気付くと、私はそこに発生していた。
辺り一面に広がる草原のど真ん中で、私は一人、立ち尽くしている。
わかっているのは一つだけ、私が
自身の手をみると、もはやそこにはごつごつしていた指も無く、小さく、柔らかな手があった。
視点は低く、足も短い。
しかし、不思議と違和感は無い。
そして、近くにあった今の手でも握れる小石をとって、思い切り握りしめる。
ぱきぱき、ぴきぴき、という小さな音を立てて、石は砂へと姿を変えた。
驚きはなかった。
理解していたから。
そう、【私】は、もう、人ではないのだ。
頭の上には、二本の歪な角が、天を向いて生えている。
こうして、かつて、人間だった【伊吹