すいかちゃんは一貫して鬼のスタンスを貫くようです。
あべこべな鬼ごっこが開始されてから、すでに一週間ほどが経っていた。
あいも変わらず、毎日変わることなく同じように、茂吉は私を必死で追いかけているだけだ。
朝にやってきては熟睡している私を起こし、共に外へ出て、そして走る。
ただそれだけの日々を過ごしているのだ。
それにしても、ただ私を全力で追いかけるだけのことを、なんともまぁ飽きもせずによくやるものだと思う。
このぐらいの年頃は飽きやすい性なのではないだろうか、とは思うのだが、追いつくことなく終わっても、「じゃあ、明日も俺が鬼からね」と言って、本人は楽しそうに笑いながら去っていく。
こんなことが、それほどまでに楽しいのであろうか?
そんな疑問が湧いてはくるが、今の私はただただ茂吉に付き合ってやるだけだ。
そうする必要があって、そうするのが鬼である私の務めなのだと、勝手ながら思っている。
だから、今日も一人と一鬼で向かい合い、私の方から、「さぁ来い」と言ってやる。
「じゃあ、始めるよ」
茂吉も同じく、そう返してきた。
互いに了承の合図を持って開始する鬼ごっこ。
いつものように、初めの時から変わることなく、鬼役は
茂吉はやはり愚直なまでに私へ向かって真っ直ぐに走ってくる。
私もそれを見ながらいつもの如く、後方に進む。
見飽きた光景、見飽きた展開。
しかし、この行為自体には、飽きが来なかった。
それがなぜかはわからなかったが、しかしだからこそ、一週間という決して短くはない時間、こうして続いている。
しかしながら、それだけの時を掛けても、私と茂吉の間の距離は、一切縮まることは無かった。
どれほど茂吉が頑張ろうとも、変わらない距離を、私は保っている。
いつもいつも必死で追いかける茂吉は、このことに対し、何を思っているのだろうか、などと考えて、即座にそれを切り捨てた。
馬鹿馬鹿しい思考だ。
そんなことは、
今考えるのは、そう、また、このまま一日が終わるのであろうか、というものであった。
「っとぉ!?」
そんな風に思考の方向を変えていた時、私の足が空を踏んだ。
がくっと傾く体と視界。
目の前には木々の合間から空が見えている。
あまり良い天気ではなさそうだ。
そう思った直後に、浮遊感が私の身体全体を包んでいた。
振り向くと、離れた場所に地面が見えている。
どうやら、私は前を見ずに走っていたため、崖をそのまま突っ切ろうとしてしまったらしい。
どれほど低いとはいえ、山は山。
当然ながら崖くらいは存在しているものだ。
高さはだいたい六、七メートル前後だろうか。
人の身でこのように無防備で落ちれば重症、運が悪ければ致命傷を負うだろうことは確実である。
しかしながら、私に恐怖といった感情は湧いてこない。
確かに少なからず驚きはしたが、それだけだった。
なにせ、どう落下しようが、鬼である私が、この程度の高さで死ぬはずはないのだから。
「萃香!?」
落下していく私の名を茂吉が叫んでいる。
目の前から私が姿を消して、驚いたのであろう。
私は慌てることなく、空中で仰向けに寝そべるようにして上を見上げると、崖から茂吉が焦った表情を浮かべながら顔を出してこちらを見ていた。
とりあえず、私はぐいっと無理矢理にその状態で酒を呑みながら、にやりと、まるでこの落下が計算通りであったかのような顔をして、茂吉を見返してやる。
私から見える周囲の風景は、どんどんと上へ上へと落ちていき、口から零れた酒が飛んでいく。
それを少々勿体ないと思いながら、体にまとわりつく空気の心地良さを感じていた。
この程度のことで能力を使う必要もないので、来たるべき衝撃に備えつつ、空中で大の字になり、目を瞑る。
そして、数瞬の後、背に大きな衝撃。
脳内に、どんっ!、とか、がんっ!、といった音が響き渡る。
周囲には、なにか大きく固いものが落下した音が響いていた。
まぁ、事実、その通りではあるのだが。
「いっつ~……」
そう言って、私は手で腰を撫でながら起き上った。
地には少し小さいが、私の落ちた衝撃で出来た凹みがある。
落下自体にそれほどの痛みはなかったが、実は後ろの髪留め代わりの鎖についた水色の立方体が、ちょうど私の背に突き刺さる形になってしまい、落下ダメージよりも遥かに高いダメージを私に与えていたのだ。
少し涙目になりつつも、落ちてきた崖を改めて見上げる。
崖はそこそこに険しく、人ではまず降りることも登ることも難しいだろう。まして、子供の身である茂吉には不可能と言ってもいいレベルだ。
上を見上げると、先程までこちらを見ていた茂吉の姿はすでに無い。
おそらく、私が大丈夫であると理解し、早々にこちらに回り込んでこようとしているのだろう。
私はその場に座り込み、茂吉がやってくるまでここで酒を呑んでいようと決めた。
「……ふぅー」
溜息と共に、少しだけ熱くなっていた息が外へ漏れた。
※ ※ ※
「遅い……」
少し苛立ちながら声を出した。
私は待つことがあまり好きではなかった。
それは昔の爺様のことが関係しているのかもしれないけれど。
とにかく、待たせることは別にそれほど気にならないが、待たされることにはとてもイライラさせられる。
なんとも勝手ではあるが、おそらく、このようなことは私が鬼だから、ということだけでもないだろう。
単純に、私の一つの嗜好の話だ。
そして、段々と無意識でやっていた貧乏揺すりが、動かしている足が速くなり過ぎ、地に足形をつけてから、それに気付いて止めた。
「………………あーあ」
一度、ゆっくりと深呼吸した後に、声を吐き出して、考える。
そもそも、どれほど遠回りをしたとしても、茂吉のいた場所からここに来るまで一時間はかかりはしないはずだ。
しかし、茂吉を待ちながら呑気に酒を飲みだして、既に二時間以上は経っているだろう。
いや、途中で少し昼寝を挟んでしてしまったので、もしかすると、もっと経っているのかもしれないが。
考えられることを挙げていくのならば、私を置いて帰ったか、もしくは、私を上で待っているのか。
などと、自分でも思ってもいない選択肢をいくつか挙げて、馬鹿馬鹿しいと首を振る。
まぁ、十中八九、ここに来るまでに何かがあったのだろう。
「はぁ……」
溜息が出てしまう。
私と茂吉が何をしているのかは、わかる。
そもそも、この戯れに付き合っているのは私側の理由であり、ある意味自業自得なのだろう。
しかし、どうして私がここまでしなければならないのか、という思いはそう簡単に消えてくれない。
「あぁ、あぁ、面倒だよ……。本当、いっそ殺してしまおうか。でも、私のためでもあるし、はぁ……。もう少しだけ、付き合ってやるけどさ。こんなことは、今回だけにしてほしいよ、全く」
そう言って、私は茂吉を探すために、その場からゆっくりと立ち上がって歩き出す。
おそらく、次に同じような状況になったなら、間違いなく私は探すことをしないだろう。
それは流石に限度を越えているし、意味も違ってくる。
そもそも、ただでさえ、端からみて馬鹿な行動をしているのだから、これ以上馬鹿げたことはやろうとは思わない。
「自分で自分の首を絞めている、なんて、ね」
出てきた言葉はさっきよりも冷めていて、空に溶けて消えていった。
※ ※
思っていたよりも早く、探し始めて十分足らずで発見することが出来たが、少し面倒なことになっている。
茂吉はどうやら妖怪に襲われていたようだ。
まぁ、いくら私が暴れまわり、それに怯えていたとしても、彼らの腹が空くのはどうしようもないことである。
腹を空かせてうろつき回り、山の中で人の子なんぞを見つけた日には、それは喰らおうとするだろう。
おそらくは、見つかってから必死で逃げ回って、疲れ果て、その場で力尽きて倒れこんだ茂吉と、今まさにそれに追いつき、捕らえて喰らおうとしている妖怪、という状況である。
如何に鬼だとて、少々これは勝手が過ぎるか、とは思うが、獲物を狩ることに成功した妖怪に声をかける。
「ねぇ、ちょっといい?」
見た目と妖力からして、下級、良くても中級そこそこ程度の位だろう。
別に弱者を無為に殺そうとは思っていない。
身の程を弁えているのなら、であるが。
「……あぁ? なん……っ!? あんたかよ……。なんだ? 悪いが今、やっと獲物を捕らえたんでな。後にしてくれ」
その妖怪は初めは煩わしそうに、しかし私を見てすぐに顔色を変えると、申し訳なさそうな声でそう言った。
どうやら、
これほど近くにいて、気付かないのだから。
私はそんな妖怪に向けて、気を失っている茂吉を指さしながら言った。
「
出来ればこれで察して欲しいとは思う。
「……どういう意味だ?」
だが、相手は些か察しの悪い奴のようだ。
しかし、それでも訝しげにしながらもその意味を聞いてきたのは、やはりどこかに違和感があったからだろう。
私はその質問に答えずに、言いたいことを言ってやる。
まぁ、わからない奴にわざわざ説明してやるのは面倒であるし、説明したところで、ただの妖怪に私のしていることを理解されるとは思わない。
だからただ、率直に
「さすがに私もこれは申し訳ないとは思うけど、やめてくれない? 今、私はそいつ
言いたいことを言うだけだ。
しかしながら、どうやら、察しが悪くても、それほど鈍い奴ではなかったらしい。
私のその言葉から、妖怪はもう一度茂吉をその大きな一つしかない目でじっと見て、更に一度私を見て、納得したかのように頷いた。
ようやく理解したらしい。
「あぁ、わかった。というか、流石にこいつは喰わねぇさ。逆に礼を言っとくよ。止めてくれてありがとな」
素直に、その妖怪は茂吉から手を離し、地面へ捨てた。
その衝撃でも茂吉が目を開けなかったのは、余程疲れていたからか。
「あぁ、わかってくれて嬉しいよ。ほんとはもっと早くに解れと言いたいけどさ」
そんな土だらけになった茂吉を見ながら、私は一応礼を言っておく。
本音は後半が全てであるが。
その一つ目妖怪は、その言葉に疲れたように言って返した。
「獲物を獲物以上に探ろうなんて余裕、俺ら中級妖怪にはねぇさ。そもそも、こうなったのは、あんたがここらで色々暴れ回るからさ」
「別に。私がどこで誰と喧嘩しようがいいじゃない。直接あんた達を壊しちゃいないんだから」
「そら、そうなんだが……。あんたみたいな大物に、いきなり暴れ回られると、俺らとしては、いつとばっちり喰うかわからねぇ。実際、あんたとこの山の元主との戦いで、何匹もの奴らが死んでんのさ」
その困ったような言葉を、私はただ、笑い飛ばした。
「ははっ! そりゃ運が無かったね。だってそれ、私はなにも悪くないもの」
そういうと、その妖怪はただ、「あぁ」と頷いて、その場を去ろうと背を向けた。
しかし、そのまま何も言わずに行けばよかったのに。
その妖怪は、わざわざ振り向いて、言ったのだ、この私に。
おそらく、言葉を交わして、少し勘違い、思い上がりをしてしまったのだろう。
しかし、それをもっと端的に言ってしまうのなら
「……でもあんた、大丈夫なのか?」
「…………は?」
運が無かった。
偶々、茂吉と出会い、獲物と定めたことが。
偶々、私が捕らえた獲物を喰らう前にこの場に来たことが。
偶々、日々の溜まっていくストレスによって私の機嫌の上げ下げが激しかったことが。
そして、よりにもよって、この私に、気紛れであろうと、そんな言葉をかけたことが。
そのいくつもの偶然は、全て一つに起因している。
直後、私の今まで溜まっていた苛立ちが漏れる。
今まで無造作に垂れ流していた妖力が、無意識的に己へと萃まっていく。
燻っていたイライラとした感情は、一瞬で頂点へと高まり、我慢の限界を突破する。
なにせ、この妖怪は、このたかが一妖怪風情は、この私相手に、そんな言葉を向けたのだ。
到底許容できる範囲ではなかった。
詰る所、身の程を弁えなかったのだ。
私は瞬時に妖怪の目の前に萃まって、一つしかない目玉がある顔のような部分を掴みあげる。
「ぎぃ!?」
自身の弱点を握られた瞬間にそう悲鳴が漏れるが、特にそれを気に留めることはない。
そして、私の方が背が低いために浮いていた分、その妖怪の目玉を持つ私の手も含めて、下の地へと落下する。
「あぎっ!」
そのまま私につられて前かがみのような状態になる一つ目妖怪。
私が未だその目から手を放すこともなく、後ろへ、ぐいと力を込めて引くと、ぶずっという、音と共に、目玉がその顔から飛び出てきた。
血管のようなものがその途中で千切れ、ぶちぶちという小さな音と、共に手に伝わるその感触が、少し気持ち良い。
「ぎぃ、ぁ、が……ひぃぃいいぃ!!」
なんとも、脆いものである。
私は手にある未だいくつかの線で顔と繋がっている目玉を放り投げ、顔の半分を占めていた目の無くなった顔を抑え、地に倒れ伏す妖怪の元へと歩み寄る。
「ぃ、いぎぃぁ……」
しゃがみこんでいる妖怪の顔を掴んで引き起こし、血を流す、その目無しの顔に語り掛けた。
「たかが木端妖怪風情が、鬼の私に、そんな言葉を使って許すとでも、思ってたの? いや、それとも、もしかして本心から? あっはは。それなら笑える話だね……」
目無しの妖怪は、ただただ震えて、小さな鳴き声を出している。
「あ、っひぁ……」
「まるで人みたいなこと言うなんて、さ」
手に、少しずつ力を込めていく。
ぎりぎり、ぎりぎりと、ゆっくり指がソレに埋まっていき、そして
ぐちゅり、と、辺りに何かが潰れるような湿り気を帯びた音が響いた。
※ ※ ※
後ろに意識の戻らぬ茂吉を引き摺って、洞窟へと戻っていく。
しかし、一歩一歩を、妙に重く感じる。
やはり、八つ当たりはよくなかったか。
などとは思うが、それ以上に、奴は身の程知らずであったので、どちらにせよ殺していただろうとも思った。
ならばやはり、この戯れのせいであろう。
引き摺られながら、全く目を覚ます気配の無い茂吉を見て、そう思う。
やがて、洞窟の前まで辿り着き、この阿呆を蹴り起こしてやろうかと考えていたところ、
「あ、れ、萃香? おれ……」
やっと、茂吉が目を覚ました。
「覚えてる?」
そう言うと、はっと辺りを見渡して、震えながら茂吉は言った。
「お、おれ、妖怪に……」
どうやらしっかり覚えてはいたようだ。
「まぁ、最近山の中を走り回ってたしね。たぶん、あんたの、人間の匂いがそこらに残ってたんだろうさ。当然と言えば、当然の結果だったね」
そうしたのはほとんど私のせいではあるが、しれっとただそう言ってやる。
「助けて、くれたの……?」
茂吉はただ、私が助けたことが意外であったのか、そう聞いてきた。
助けるなどと、なんともおかしなことを言う。
「違うね。途中だからさ。相手を途中で横から攫われるのは、ちょっと、ね。単純にムカついたのもあったけど……」
私がそう答えると、茂吉は以前と同じく、眩しげに私を見ているようだった。
しかし、その眩しさに、なにか誤ったものがあると気付く。
苦しげに、まるで絞り出すかのように、茂吉の口から声が出てきた。
「ねぇ、萃香。俺をさ……」
茂吉が私に何を言おうとしているのかは知らない。
しかし、それに対する私の答えは決まっている。
だから、
「そういうのは、どうでもいいよ」
話を遮って、私はそう言った。
「えっ?」
何かを話し出そうとしていた茂吉は、一瞬、私の言葉が理解できなかったのか、呆然とした表情を浮かべ、しかし、次第に理解の色を示して、儚げに笑った。
「そっか……。そう、だよね……。萃香は……」
どうやら、それがわかってはいるらしい。
しかし思わず、口をついて出てしまったのであろう。
だから一応、許してやる。
私が無言でいると、茂吉は居ずらくなったのか、「今日はもう帰るね」と言って、走ってこの場を去っていった。
私以外に誰もいなくなった洞窟で、また溜息をつく。
どかっと、その場で胡坐をかいて座りこむ。
首や関節を回して、音を鳴らす。
ふと目をやったところにあった石を拾い上げ、手を握り、開く。
笑いがこみ上げてきた。
「……っく、あっはは!」
そろそろだろうと思う。
日に日に溜まっていく疲労感を胸に、私は酒を呑んだ。
結局のところ、私は鬼なのだ。
そんなことを思って、今や当然となり、そうで在れる。
伊吹萃香という、一匹の鬼に。
それがなによりも、心地良く、誇らしい。
今か今かと、期待に胸を膨らませて、待ちかまえる。
拾った石は、罅割れて、その手の中から零れ落ちていた。
次回、閑話。
え、既に鬱展開が予測できる?
ははっ、なにを馬鹿な……(汗)