伊吹すいかの酒酔い事情   作:夜未

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 遅くなった上に閑話です、申し訳ない。
 しかも長い上に、爽快感皆無です。
 展開が少し早いかも……


閑話 人 2

 茂吉はその日、早朝に目が覚めた。

 覚醒と同時に、あの鬼へ会いに行くことが許可されたことを、ゆっくりと記憶を確かめるようにして思い出していく。

 昨日、村の総意によって呪い師へと茂吉は引き渡され、何をされるのかとびくびくしながらついて行った先、元自分の家。

 そこで、呪い師は茂吉に小さな皿に入った無色透明の液体を渡し、この液体を飲むことと、もうあと二つの条件を飲むことによって、その鬼へと会いに行っても良い、と告げられたのだ。

 村人たち全員から絶対の信頼を寄せられている呪い師の言葉に、逆らう村人は誰一人としていないであろうことは、茂吉にも理解できていた。

 ゆえに、これは抗いがたい誘惑で、また、抗う意味が見えない誘惑であり、ただ茂吉は首を縦に振ることしか出来なかった。

 例えそこにどれほどの思惑があろうと、彼女に会えるのであれば、と、ほとんど盲目的に、呪い師の言葉に従い、その無味無臭の液体を飲み干していた。

 その瞬間、突如とした眩暈に襲われ、自分自身の身体と精神の境界が曖昧になるかのような錯覚に陥る。

 しかし、それは僅か数秒で落ち着き、少しの違和感を残しながら、元に戻っていた。

 そのことに戸惑う茂吉へ、呪い師は先の見えない暗闇だけが在るフードの顔を向けていた。

 そのまま、特に何をさせるでもなく、呪い師は茂吉に残る条件を手短に伝え、そのまま帰るように命じる。

 結局それは茂吉にとって、なにからなにまで解せぬ行動であったが、気にする余裕などあるはずもなく、その言葉に従い、寝床へ帰ると、あっさりと眠りについたのだった。

 茂吉は、昨日の出来事、液体を飲んでからの身体の節々に至るまで存在している微妙な違和感も、二つの言われている条件も、今ある大きな喜びの感情によって押し流され、意識がしっかりとした瞬間に、昨日見た綺麗な鬼の居る山へと向けて走り出していた。

 寝床を出て、時々感じる周囲からの嫌な視線を無視し、村を出て、茂吉は自身の出せる最高速度で山の中に入り、突き進む。

 道のりは、前に来たのは夜中で、しかもふらふらと、ただ無心に移動していただけであったにも関わらず、まるで地図を持っているかのように正確に覚えていた。

 茂吉は昨日と同じく、しかし、真逆のベクトルの感情によって、別の妖怪に襲われる可能性を思考の隅にすら入れられていない。

 走って走って、体力の限界が来ようとも、それすらも無視して走り続ける。

 一刻でも早く、彼女に、あの鬼に会いたい。

 そして、その結果、無惨に殺されることになってもいい、願わくば話を、一言二言でも、言葉を交わしてみたい。

 そんな溢れるような思いを抱き、茂吉は目的地へと向かって走って行った。

 

「はっ、はぁ……っ、はっ……」

 

 昨夜と違い、明るい光が満ちている中、その場所を見つける。

 あの時見た、彼女の酒盛りしていた洞窟である。

 おそらく、その中に彼女はいるのだろう。

 そこまで考えて、そのまま、さぁ、行こうと、踏み出すという直前で、息が乱れたままであの鬼に会うことが妙に恥ずかしく思い、必死で整えようとする。

 しかし、それがなかなか上手くいかない。

 喉には粘性の唾が溜まり、汗が今も発熱している身体から吹き出し続けていた。

 村からの距離を、山道も含めてずっと走り通していたため、今まで精神的高揚で無視していた体力の限界がここにきて実感させられていた。

 早く会いたいという思いと、もう少し息を整えたい、という思いの衝突に、茂吉はジリジリと炙られているような気持ちになる。

 

「ふぅ、はっ……、ふぅーーーっ……」

 

 しばらくして、やっと息が正常に戻る。

 流れる汗をさっと手で拭い、出来るだけおかしな部分が無いようにして、茂吉はゆっくりと、昨日は眺めるだけで逃げてしまった存在の居る場へと近付いていく。

 自分でも、どうしてそんなに気を付けているのかわからないが、茂吉は出来る限り、変な部分がないようにしていた。

 一歩一歩、近づいていくことを認識している。

 それまでは一気に詰めていた距離が、ここにきて長く感じられる。

 茂吉には、ここまでの距離と、今、この場にある数十メートル程度の距離が、同じように思えた。

 一刻も早く会いたいと、どこまでも遠く思えたあの道が、いざ近くに立ってみると、一歩一歩、踏み出すことを躊躇ってしまう。

 それまでのように駆け寄ってしまえば一瞬であるのに、なぜかそうする気にはなれないのだ。

 少しずつ、各自治に近付いていくまでの時間、茂吉の頭の中には、あの時に見えた鬼の横顔が浮かんでいた。

 一人、岩に腰かけ瓢箪を煽り月を眺める鬼の姿。

 それは自分では、いや、人では決して届かないものに見えて、その差のあまりの大きさに圧倒され、驚き逃げてしまった。

 そのような存在に、今、自分は声を掛けようと、語り合おうとしている。

 それは、ただ、会って喋る。

 言葉にすればそれだけのことであるのに、そうすることがとても貴いもののように感じてしまうほど、茂吉の中では重いものであった。

 もう、洞窟の入り口手前にまで来ている。

 出会い頭に殺されるかもしれない、という思いが浮かんだが、気にすることでもないと、頭の隅へ追いやる。

 どのような結果になろうとも、後悔など感じることはないと断言出来た。

 足に洞窟の中の暗く冷たい地面の感触が伝わってくる。

 そして、昨夜見たソレは、会いたいと恋焦がれていたその存在は、入って直ぐ、少しだけ日の届くほどに浅い部分で、大の字になって眠っていた。

 見た目はまるで人の童女のようで、しかし、しっかりと捻くれた二本の角を頭から生やし、人ではない雰囲気を眠っていても漂わせている。

 彼女の横には瓢箪が転がっており、中からポタポタと酒であろう液体が漏れていた。

 胸は息と共に小さく上下し、その開いた小さな大口からは涎が垂れている。

 幸せそうな寝顔だった。

 それまで待ち望んでいた彼女の姿を見て、口からは知らずのうちに一言が出てくる。

 

「……お酒臭い」

 

 いまだ小さな寝息を立てて眠る鬼の居る洞窟に、そんな人の子の声が、響いて消えていった。

 

 

  ※  ※

 

 

 意識の戻った彼女と初めて言葉を交わした時、茂吉はまるで夢の中にいるかのような錯覚に囚われていた。

 自分の発する一言一言がどうにも軽く感じられて、彼女の言葉の一つ一つが重く感じる。

 話す言葉を上手く考えることすら出来ずに、思った傍から口に出ていた。

 自分の中にある彼女への好奇心と羨望。

 いつ、彼女自ら言った様に、殺されてしまってもおかしくはないと自覚していながら、茂吉は今の、少々横柄な態度を改めようとは思わなかった。

 殺されても別に良い、という想いは大きく胸を占めて存在し、何より、彼女を相手に取り繕った言葉を吐きたくないという気持ちが強く在った。。

 だからこそ、彼女の前では、自分の思っている全ての想いをぶつけるかのように、湧き出た意志を伝えていく。

 しかし、その想いの中に、彼女によって殺されてしまいたい、とそのような気持ちがあることには気付くことが出来なかった。

 茂吉はひたすら自由に話した。

 初めに寝起きの彼女の真正面に対峙した時に感じた命の危機すらも受け入れて、思ったことを素直に訊ね、聞いていった。

 そのうち、自分に対して、彼女から呆れたような様子が漂い始めた時には、もう少し長くこの時間を楽しめるだろうことを確信し、喜んだ。

 楽しい、嬉しい、などといった、長らく抑えつけ、状況に合わせて無理矢理に絞り出していた偽りの感情ではなく、自分の中にはもう湧き上がることなどないだろうと思っていた本当の感情を思い出していく。

 しかし、それと同時に、自分の生がもう少し続くことへの絶望感や、この時間の終わりへの恐怖が、渦巻いていた。

 そして、当然だが、時間は永遠ではない。

 この時間はそれほど長く続かず、また、続けるわけにもいかない。

 自発的に切り上げねばならないのだ。

 突き付けられた条件はしっかりと覚えている。

 その一つが、初日、つまり今日は、彼女と接触した後、速やかに戻らねばならない、と言われていた。

 その後の日々も、彼女と会う時間は、日が暮れ始める前に戻ることを条件にさせられている。

 自己紹介も、もう片方の条件も、既に終えている。

 後は翌日、改めて語り合えばいい。

 頭ではそう理解している。

 しかし、茂吉は「帰る」という言葉をなかなか言い出せないでいた。

 条件を破ればおそらくもう彼女とは会わせてもらえないだろう。

 だが、自分でこの幸福に満ちた時間を終わらせることがとても辛いのだ。

 彼女にとっては、少しの時間でしかないだろう。

 現に、本当に自己紹介を終わらせただけのようなものだ。

 時間にすれば一刻も経ってはいない。

 けれど、その僅かな時間は茂吉にとって何より貴重なものであったのだ。

 そして、この一瞬の思い出さえあれば、自分は大丈夫だと、必死で言い聞かせながら、彼女へと帰る旨を伝える。

 傍から見れば、慌てたように言った風に見えたかもしれない。

 しかし、茂吉はただそういう行動で、己を、あの幸福など微塵もない場へ戻るために奮い立たせていた。

 そうして、すぐさま反転してその場から走り去る。

 一瞬でも振り向いたら、もうここからどこへも行けなくなる。

 だから、即座に彼女の姿が見えないように木々の間を抜けていく。

 立ち止まったり歩いてしまえば、戻ることなく死んでしまいたくなる。

 だから、少しも足を緩めたりはしない。

 向かう時と同じく、ただ、走り続けている。

 茂吉の握りしめて汗ばむ手の中には、呪い師に言われた通り、彼女の、伊吹萃香という鬼の髪の毛が一本、握られていた。

 彼女を起こす前に拝借したものだ。

 最も難しかっただろう条件は早々に解決され、二つの条件を達成できたために、茂吉はまだ絶望によって押し潰れることはなかった。

 彼女の髪を手に入れることは、呪い師の最も念を押していた条件でもあった。

 しかし、普通に考えれば鬼の髪を人が欲しがったところで貰えるはずがない。

 また、片方の条件に会って早々に戻ってくること、とあることから、達成はほとんど不可能でもあると、茂吉は考えていた。

 呪い師の雰囲気から、この二つの条件のどちらかでも破れば、二度と会わせてはもらえないことは理解していた。

 茂吉には、彼が彼女に何をするのかわからないし、わかりたいとも思っていない。

 しかし、自分は確かに条件を遂げている。

 ならば、例え苦しかないあの場へ戻ろうとも、翌日という希望を見ることができるのだ。

 茂吉は、明日という光を見上げて、帰路を急いだ。

 

 

  ※  ※

 

 

 日が昇りきり、折り返しを迎え始めた頃に、茂吉は村に戻ってきた。

 山から下りてきた茂吉の姿を見た村の人々は驚いており、遠巻きにひそひそと茂吉を見ながら話している。

 それに構うことなく、呪い師のいる場へと向かっていく。

 村の中に入ってしまえば、茂吉の中からは、彼女の入り場所へと戻りたいという気も、目の前を覆う絶望から死を望む気も薄れていた。

 それまで必死で走っていたために、少しその場で立ち尽くして休んだ後、前へ進む。

 茂吉は湧き始めていた感情を、なんとか磨り潰そうとしていた。

 目的地へと着く前になんとか完全に消してしまおうとしているために、自然と足は遅くなる。

 今のこの感情は、きっとこの場では邪魔でしかなく、継続して余韻に浸っているわけにはいかない。

 快楽から苦へ変化した時の落差は、致命傷になってしまうこともあるからだ。

 ゆえに、茂吉はこれから待ち受けるかもしれぬ苦を耐えるためにと、ひたすら無心であろうとする。

 やがて、明日への希望はそのままに、内から湧いていた感情が消え果てようとした時、その道程で呪い師と出会ってしまった。

 

「ほぅ……」

 

 呪い師は帰ってきた茂吉を見て、少し驚いたように声をあげる。

 その昼間であるにも関わらず闇を抱えたフードの顔が、茂吉を見ていた。

 未だ無くなっていなかった、あの場で感じていた暖かさが、一気に冷めていった。

 その急激な精神温度の変化について行けず、茂吉は嘔吐しかけ、えずいた。

 

「帰ってこれたのか」

 

 それは茂吉を心配しての言葉ではない。

 そのような温かみなど一切含まぬそれは、単純に、予想が外れた、というだけの意味だろう。

 いまだにえずいている茂吉を気にすることもなく、呪い師は聞いた。

 

「で、取ってくることは出来たのか?」

 

 そこには言外に、どうせ無理だったのだろう、というものが含まれている。

 茂吉はその問いに口で答えることもなく、ただ、握りしめた手を前にして、開く。

 細く、長い、一本の髪の毛が、茂吉の掌に張り付いていた。

 

「なんだと……? どうやって取ってきたのだ?」

 

 これは、呪い師に、茂吉が戻ってきたことを遥かに凌駕する驚きを与えていた。

 そもそも期待など一切していなかっただけに、受けた衝撃は大きい。

 なんとか、えずきが治まった茂吉は、その問いに下を向いて答えた。

 

「眠って、いたので……。そのまま抜いて、取ってきました……」

「馬鹿な。いくらなんでも鈍すぎる……。いやしかし、高位の鬼という存在であれば……。ふむ、そうか」

 

 茂吉のその答えに、いくらか信じられぬ、という態度を露わにして、呪い師はそのまま考え込むような仕草を取った。

 そして、その後、自己完結して納得したように、何度か頷きを繰り返す。

 その様子を、茂吉はただぼぅっと、何をするでもなく、眺めていた。

 唐突に、呪い師がくるりとその場で反転し、背を向け、その背中越しに茂吉へと声を掛けてきた。

 

「ついて来い。もちろん、その髪を持って。家に戻る」

 

 茂吉はその言葉に逆らえない、逆らう理由など、思い付くことすらも出来はしない。

 ゆえに、ただ、「はい」と小さく呟いて、目の前を歩き出した背を目指してついて行く。

 なんとなく、理解していた。

 これから自分は悲惨な目に会うのだろうと。

 しかし、茂吉にはそれを拒否することなど出来ようはずもなかった。

 いつも通りのことだと、自分に言う。

 彼女との出会いが明日に控えているだけ、まだマシなのだと、そう言い聞かせて、何度も立ち止まり掛けたその足を、必死で動かしていた。

 

 

  ※  ※

 

 

 呪術師に連れられていかれた茂吉を待っていたのは、ただただ思考を塗りつぶされるような程に大きな痛みだった。

 木造とは思えないほどに暗く冷たい呪術師の家は、そこが本当に元は自分の家であったのか疑ってしまう程に、雰囲気が変化していた。

 過去、両親が生きていた時にあった、質素だが、しかし確かに感じられた温かみなど微塵も残ってはいない。

 暗く、冷たく、そして、辛さだけを、茂吉に与え続けてきていた。

 この空間の中で、茂吉は叫び、呻き、しかし、もがくことすらも許されず、ひたすら意味も解らずに与えられている激痛へと耐えている。

 そこに至るまでの説明などは何もなく、ただ茂吉は呪術師の後をついて行き、少しだけ懐かく思えた家へと入った瞬間に、唐突に意識が途切れていた。

 そして次に意識が戻ったのは、体中に湧き上がる激痛によっての覚醒からだった。

 いつの間にか、体は薄い木の板に四肢と腹を縄でくくり付けられて、貼り付けにされている。

 そのことに気付いたのは、ほとんど本能的に、今ある苦痛から逃れようと体を動かしてからだった。

 何をされているのか。

 茂吉には全く、理解できない。

 ただ、痛みで震え、涙が滲み、薄れた視界には、呪い師が自分の身体に触れている光景だけが写っている。

 いや、それは本当に、触れているだけ、と言えるのだろうか。

 呪い師の露わになったその指は、青白く、異様なほどに細長い。

 爪は五㎝を優に超えて長く、その先は棘のように鋭くなっている。

 そんな人差し指が、茂吉の胸の中心に突き立てられ、沈んで(・・・)いった。

 深く、第二関節付近まで、呪い師の指が入り込んだ時、痛みの概念そのものが流れ込んできていると思うほどの激痛が茂吉の身体全身に走り回る。

 まるで小さな虫が身体の内側から、直接的な肌でも肉でもない、自分自身(・・・・)としか言えぬ何かを食い荒らしているかのような痛みと恐怖に襲われる。

 今、自分はいったい何をされているのか。

 繰り返しそのようなことを考えようとするが、茂吉にはやはりなにもわからないままだ。

 そして、既にそれを考えようとすることすら難しくなってきていた。

 痛みを感じる以外に、茂吉には何かをするような余裕が無いのだ。

 

「痛いか」

 

 呪術師がそう声をかけてくる。

 茂吉にはそれに言葉で反応を返すことができない。

 ただただ痛みに耐え、唯一自由に動かすことのできる首を縦に振る。

 

「苦しいのか」

 

 その問いに、また、首を縦にして答える。

 突然、呪い師が、その闇を抱えているフードの顔を近づける。

 至近距離、茂吉のすぐ目の前、それこそ、呪い師のフードが茂吉にかかるほどの距離だ。

 しかし、やはりその顔は見えない。

 フードの奥にはただ闇が広がり続けている。

 しかし、底冷えするその不気味な声は、茂吉の耳元程の近さで聞えて来た。

 

「安心しろ。どうせ明日からもまだ続く」

 

 それは、茂吉に明日という希望を塗り替えようと迫る、絶望を含んだものだった。

 

「鬼と会うことを許可してやっているのだ。当然のことだろう」

 

 当然。

 そう、当然のことなのだこれは。

 自分のような弱い人間が、明日に希望だけを抱こうなどと、甘すぎる考えだったのだ。

 希望と同時に絶望を孕んで、自分のような弱い人間は、やっと釣り合いが取れる。

 当たり前のことだ。

 ゆえに、茂吉はただ、その言葉を理解し、首を縦に振り続けるだけだった。

 

「さすがに、高位の鬼相手となると、ある程度は覚悟しなければならないか……」

 

 呪い師はそんな茂吉を大して気にすることもなく呟いた。

 そんな呪い師は自分から意識が逸れている、という一つの事実から、茂吉は痛みが少しだけマシになった様に感じた。

 しかし、実際には、そんなことなどありはしない。

 いくら呪い師が茂吉をしていなくとも、行為自体は変わらず続いているのだ。

 ゆえにそれはただの茂吉の思い違いであり、そうであるはずだ、という思い込みによるものであった。

 それでも、その感覚によって、茂吉はなんとか口から声を振り絞ることに成功する。

 

「こ、殺す、の?」

「む?」

 

 その問いは、今、このような拷問と言っても良いほどのことが為されている自分に対してのものなのか。

 それとも、彼らが退治しようとしている、自分の唯一の希望である鬼に対してのものなのか。

 どちらに向けてのことかは、茂吉自身も、極限にまで磨り減っている精神ではわからない。

 そして、呪い師は、茂吉が大の大人ですらも苦しみのたうち回るであろう激痛の中、明確な質問として言葉を発することが出来たことが、意外だったようである。

 

「ふむ……。成る程」

 

 呪い師は茂吉の言葉に返答せず、興味深げに意識を向ける。

 それと同時に、茂吉の身体を襲っている痛みが強さを増した。

 気のせいや、先と同じように、自身の思い込みによるものではない。

 明確に、全身に走っている痛みが増していると理解できる程のものだった。

 

「あ、がぁ、ひ……ぃ、あ…………」

 

 茂吉の口からは、もはや言葉どころか悲鳴すらもまともに出すことが出来なくなる。

 既にこれ以上の痛みなどないというほどに思えていた数秒前の痛みが、まだマシであったと錯覚するほどの激痛。

 今度こそ茂吉の頭の中は苦痛の一色で染まる。

 一瞬一瞬の意識が繋がらず、失神と覚醒を同時に繰り返していく。

 今、いったい自分はどこにいるのかすら、わからなくなる。

 

「これは、嬉しい誤算だ。まさか、これほど適性が高いとはな……。ほとんど捨て駒のつもりだったが、鬼の態度を考慮すると、もしかするかもしれん……。頃合いを見て、こちらを主軸に置いてみるか……」

 

 呪い師は顔の見えぬそのフードから、嬉しそうな声をあげる。

 茂吉にはその意味など理解できていない。

 ただ目を見開き、体を震わせ、呻くような音を無意識的に出しているだけだ。

 茂吉はこの時、本気で死を望んでいた。

 持っていたはずの明日の希望すら塗り潰され、生きているという苦痛を終えたいと、願う。

 しかし、同時に知っていた。

 自分の望みや願いなど、この世に叶うはずがないのだと。

 そうして、無限に続くかのような拷問が終わり、茂吉が解放されたのは、深夜の静けさが世界を満たし始めた頃であった。

 ただ、その身に受けた拷問に等しい行為によって体感的な時間が延長され、精神はほとんど摩耗していると言っても良い。

 そんな満身創痍を通り越した状態の茂吉に、呪い師は声をかけた。

 

「生きているのが、辛いか?」

「…………」

 

 呪い師の言葉に、茂吉は言葉を返せない、返すことが出来ない。

 口を動かして喋る、という行為すら、今の茂吉には難しく、ただ、唇は痙攣するだけだ。

 ゆえに、ただ、こくり、と小さく頷いた。

 辛い、そう、生きているのが辛いのだ。

 呪い師は言っていた。

 明日も、そして明後日も、毎日これと同じようなことをすると。

 一度経験し、二度と知りたくもないこの感覚が続いていくのならば、今この瞬間にも死んでしまいたかった。

 しかし、そんな茂吉の心を、呪い師の言葉が、生へと繋げる。

 

「どうしてだ? 明日も、鬼に会いたいのだろう?」

 

 鬼……彼女と触れ合ったあの一瞬。

 茂吉にとって、あの鬼ともう一度出会い、言葉を交わしてみたい、という想いは、もはや願いではなく、唯一の生きる目的であるとすら言えるものへと昇華されていた。

 しかし、明日もこの苦痛を味わうと言うことが、これ以上の生を拒む。

 呪い師は茂吉の顎の下に、その長い爪を添わせて顔を自身に向けさせると、言った。

 

「明日は、今日よりも多くの時間、その鬼と共にしてもいいのだぞ?」

「……ぇ?」

 

 茂吉は呪術師の言ったことがわからず、小さく声、というよりも、喉から音を漏らす。

 

「幸せなのだろう? あの鬼との時間が。今日のような短い時ではなく、日が暮れる前までに戻ってくればそれでいい」

 

 その言葉に、激痛で疲労した頭は、ただ、なんとか意味を理解して、嬉しい、という感情が現れる。

 知らずのうちに、先程の痛みの中で枯れていたはずの涙までもが目から零れてくる。

 

「ぁ……ぅ」

「さぁ、何を嘆くことがある? 先程の苦痛には耐えきることが出来たのだ。現にこうしてここで言葉を交わし、明日の幸福を噛み締めようとしている。また同じように、繰り返していけばいい」

 

 「一度出来たことだろう?」と、呪い師は茂吉へ語り掛けていく。

 訪れている嬉しさと、呪い師のその言葉によって、絶望への恐怖が僅かに緩和される。

 そして、茂吉の心が死から生へと傾いた時、ゆっくりと世界を認識できなくなっていく。

 やがて、茂吉はそのまま何も考えられなくなり、意識が溶けて消えていった。

 

「あぁ、なんて、単純で弱い生き物なのだろうな、ニンゲンは……」

 

 暗い暗い部屋で、ただ、そんな声が響き渡っていた。

 

 

  ※  ※

 

 

 それからの、彼女と過ごした日々は、茂吉にとって、それまでの人生すべてに匹敵するほどの、いや、それまでが、まるで泥沼のようにゆっくりと沈んでいくものであったがゆえにこそ、大きく輝き上回っていたようであった。

 伊吹萃香という名の鬼は、鬼と言う存在は危険極まりない、獣の上に位置しているという人間の思っていた認識から遠く、むしろ、人と同じく知性を持ち、それどころか、少なくとも、茂吉のこれまで知っている全ての人間よりも優れた存在であるように見えた。

 それと同時に、彼女からの人ならざる雰囲気、と言うような、なんとも気の抜けない、死と隣り合っているかのような感覚は、常に危機感を感じさせられる。

 しかしながら、不思議と茂吉は、彼女の隣で安心し、安堵していられた。

 通常ならば有り得ぬことである。

 いくら言葉が通じるからとて、根本からして人と違い、いつ気紛れで殺されるかもわからない状態で、誰がほっと一息つくことが出来ようか。

 それでも、自分がそう思ってしまうのは、ある意味当然なのかもしれない、と茂吉は毎夜訪れる拷問じみた行為に耐えながら考えていた。

 もはや、この行為に数日以上耐え、思考する余裕すらあるほどに、慣れてしまった自分を振り返って、思うのだ。

 

(俺は、少しずつ死んでいっているのかもしれない)

 

 と、そんなことを。

 明らかに、痛みに慣れ始め、そして痛みを感じにくく(・・・・・)なっている自身の身体を考えて、至った結論であった。

 先日から始めた彼女との『鬼ごっこ』なる遊びでは、自身の走る速さに驚いていしまった。

 普段、最近こそ毎日のように山を登りってはいるが、茂吉はそれほど走るのが速くも無いし、体力も並み程度にしか無かったのだ。

 それが、彼女の姿を追って自分の知っている頃よりも遥かに速く、そして長く走り続けることが出来ていた。

 確かに、彼女に追いつきたい、触れたいという想いはあるが、それ以上に、自分自身のその変化に酔いしれてもいたのである。

 それでも、鬼である彼女とは隔絶した差があることを認識させられたが。

 そしてそれは、茂吉に、終わりを前にして激しく燃え盛る蝋燭の火を思わせた。

 今も、呪い師は茂吉の身体に指を突き刺し、ぶつぶつと何かを呟いている。

 昨日まではまだ、痛みが感じられていたのだが、今日はただただ自身の内部に何かの感触があるだけであった。

 それと同時に、以前は感じていた、自分自身とでもいうべき痛みの元とも言える何かを、見失ってしまっている。

 それは本当に恐ろしことのようにも思うのだが、茂吉には、今、自分に行われていることの全てがどうでもよく思えていた。

 ただただ、早く彼女に会いたいと思い、言葉を交わして、出来ることなら、彼女に追い付きたいと願った。

 そして、もし、叶うのならば、彼女に、触れたい(・・・・)と。

 もはや、茂吉の世界には、それしか存在していなかった。

 

 

  ※  ※  ※

 

 

「ちっ。これもやはりあの薬によるものか? まぁ、いい。幸いなことに、あの鬼は高位とはいえ、力が強いだけの愚かな奴のようだ。本格的に、こちらの計画を主軸にして動いていくか……」

 

 思い通りに過ぎ去っている日々の中、呪い師は、順調な様子である茂吉の身体へと手を加えていく。

 中には少しの不満もあるが、しかし、ほとんどが自身の計画通りにきているのだ。

 呪い師は、ここに来て、今のこの計画を主軸へと完全に定めた。

 実際、こうなればほとんど成功していると言っても過言ではない。

 成功率は低く、全く期待していなかった分、それが成功した時の見返りは大きい。

 そして、今、そのような博打のような計画が成功しようとしている。

 自らの手の中では、長年の夢とも言える目的が実を結ぼうと脈動しているのだ。

 しかし、ここで焦ることも無い。

 今はただ、このじりじりと成功していく状況をゆっくりと進行してやればいいのだから。

 

「鬼よ、もう少しで……」

 

 噛み殺した喜悦はしかし、声となって部屋へと響く。

 しかし、今は自分と、この計画の元となる者だけである。

 そして、その、計画の元、茂吉には、呪い師のことなど、意識できていはしない。

 ゆえに、彼の声の歪さに、誰も気付くことはなかった。

 そして、知らず、彼らの世界は伊吹萃香という鬼一色に染められていた。

 思考の全てが彼女へと向かい、彼女以外の全てを上手く思考することがで出来ていない。

 目的としてなのか、手段としてなのかはわからないが、伊吹萃香という鬼を中心として見ていることだけは変わらない。

 それが、本当に己だけの意志なのかどうかすらもわからずに、ただただ茂吉は、そして呪い師すらもが、彼女という鬼へと、焦がれ続けていた。

 

 

  ※  ※

 

 

 茂吉は今、彼女との至福の時間を過ごしていた。

 鬼ごっこはもはや予定調和が如く、茂吉が『鬼役』から変わることなく、続けられている。

 いつもと称されるほどに、長くはないが、同じような毎日の中、彼女へ向かって全力で走り続ける。

 茂吉にとって、今やこの『鬼ごっこ』は、一つの希望になっていた。

 

(もし、彼女に、萃香に触れることが出来たのなら……)

 

 今はただの役柄にしか過ぎない鬼である自分も、彼女と同じ、本物の鬼に成れるかもしれない、と、そんな有り得ない筈の想いを抱いていたのだ。

 頭では有り得ないと理解しつつ、諦めきれない。

 だからこそ、この鬼ごっこのことを聞いた時、どうしてもやりたいと言ったのだ。

 ただの弱い人間でしかない自分も、役だけとはいえ、鬼になれるのだから。

 そして、初めはそれだけで満足だった。

 たかが『鬼ごっこ』でも、自分は鬼へとなれている。

 そのことが楽しくて、そして、目の前に、本物の鬼がいることも嬉しくて。

 彼女を追いかけ続けている限り、自分は鬼役でいられる。

 そして、おそらく、彼女に追いつけることはないだろうから、それは永遠なのだと。

 しかし、その喜びは、数日が過ぎ、彼女と共にいるうちに、変わってしまった。

 今、目の前で快活に笑って、酒を飲みながら自身の前を行く彼女と、変わらない絶対の距離で前にいる彼女の場所へと、茂吉はどうしても行きたいと、思ってしまったのだ。

 それは、初めに抱いた鬼への憧れだけでなく、『伊吹萃香』という個へ向けられた、一つの気持ちだ。

 もはや鬼役では、満足できなくなってしまった。

 どうしても、本物の鬼へと成りたいのだ。

 そして、どうか彼女の隣で……。

 それはかつて、親が生きていた頃、幼い茂吉へと教えられていた気持ちの一つである。

 つまるところ、茂吉の持っていた鬼への憧れは

 

(俺は、萃香が好きなんだ……)

 

 慕情と言うものへと成り果てていた。

 人が鬼に恋をする、などと、この時代では考えられぬことであり、茂吉自身もどれほど自分がおかしいかを理解している。

 ゆえに、茂吉にはそれを言葉として外に出すことはしないと決めていた。

 しかし、もしも自身が彼女と同じ場所へと至れたのならば、その時は……

 

「えっ?」

 

 と、茂吉がそんな淡い気持ちを抱いている『想い鬼』の姿が、突如として目の前から消失する。

 何が起きたのか。

 彼女は今までからかう様に目の前の一定の距離を行くだけであり、姿を消すというようなことをしたためしが無い。

 先程までも、こちらを見て笑いながら後ろ向きに走っていたのだから。

 茂吉は駆け寄って、すぐに彼女の消えた場所へと到着すると同時に叫ぶ。

 

「萃香!?」

 

 そして、その場に辿り着いた瞬間、彼女の消えた原因を理解した。

 いや、正式には、消えたのではなく、落ちた、ということなのだろう。

 つまり、彼女は崖から落ちたのだ。

 下を見ると、彼女は落下しながら横になり、こちらを見てにやりと笑う。

 まるで、計画通りだ、とでも言う様に。

 しかし、今まで一定の距離を保つ、という条件を自らに課していた彼女からすれば、これは少々逸脱している。

 つまり、これは偶然であろうことが、茂吉には理解できていた。

 空中で寝そべっている彼女は、茂吉がそのような姿勢でこの場から落ちようものならまず助からないであろうものでも、彼女にとってはなんでもないことである、ということを強く意識させる。

 それを意識することで、ますます茂吉の中の彼女への想いは強くなった。

 少し硬い音を立てて地に激突した彼女を少し見守る。

 とはいえ、いつまでもここにいても、なにも出来ない。

 何故なら、茂吉にはこの崖から飛び降りることは出来ないからだ。

 身を翻して、茂吉は即座に崖の下へ回り込もうと山の中を駆けていく。

 おそらく、彼女はこちらが到着するまで待っていてくれるのだろう。

 どれほど差があろうとも、彼女は常に見える位置にいてくれたのだから。

 それがなんとも嬉しく、無理かもしれないのに、手を伸ばすことが諦められないのだ。

 退屈そうに自分を待つ彼女の姿を頭に思い浮かべ、茂吉は全力で脚を動かしていた。

 しかし

 

「っ!!」

 

 それは、偶然と言うものなのだろう。

 茂吉は逸る気持ちを抑えられず駆け、目の前にあった枝を避けようと体を屈めたところで、無理矢理に動かしていた脚が木の根に取られてバランスを崩し、うまい具合にころりと、転がってしまった。

 そして、それと同時に、今まで茂吉の上半身のあった場所に、何かが通り過ぎていた。

 シュッと言う音を響かせて、茂吉の避けた木の枝が両断され、ぽとりと地に落ちる。

 

「あー? 外した? くそ。でも、いいかぁ。久々の大物だからな……。狩りも含めて楽しまねぇと」

 

 その声を聞いた瞬間、茂吉は即座に体勢を整えて走り出していた。

 チラリ後ろ手に見えたその姿は、まさしく人外のものである。

 同じ人外とはいえ、萃香とは随分と違うそのおぞましい妖の気自体は、しかし茂吉の心に恐怖を一滴も齎すことは無かった。

 しかし、この妖怪によって自分が死ぬかもしれない、ということに、恐怖する。

 死にたくないと思った。

 だから、茂吉は生きるため、そして萃香の元へと行くために、走る。

 混乱も戸惑いも迷いもなく、茂吉はしっかりとした足取りで、その場から即座に逃げ出すことが出来たのだ。

 

「あぁあ!!?」

 

 そのあまりの判断の速さに、妖怪が戸惑い、数瞬出遅れる。

 それでも気を取り直し、久々に訪れた美食との出会いを逃してたまるかと、追いかけ始めた。

 唐突に開始された命懸けの鬼ごっこ。

 鬼役は妖怪で、逃げ惑う哀れな弱い人間役は茂吉である。

 それを考えると、茂吉にはどうしようもなくやるせない気持ちがこみ上げてきた。

 しかし、なんとかそれを頭から追い出して、必死で走り抜ける。

 追いつかれそうになりながら、なんとかその度に引き離して、傷だらけになりながらも、決して足を止めることはない。

 茂吉にとって幸運だったのは、この山の上位の強者、それこそ茂吉が逃げる間もなく殺されるような存在は、全て萃香によって殲滅されたか、彼女から遠い場へと移動していたことだろう。

 下位の妖怪は戦おうとすれば脅威だが、逃げるだけならば、今の(・・)茂吉にとって、そう難しいものではなくなっている。

 そして、そういう意味では、今も見失わずに茂吉の背を追うことの出来ている後ろの妖怪は、下位でも上位でもない、中位程度の妖怪であったと言える。

 追いつかれれば容易く殺されるだろう。

 逃げることは出来ても、戦うことなど出来はしない。

 捕まれば、抵抗むなしく、あっさりと死ぬしかないと、わかっていた。

 茂吉にとって、死ぬということへの直接的な恐さよりも、それによって萃香と会うことが出来なくなってしまうのが、何よりも嫌だった。

 茂吉にとって、殺されるということへの恐怖よりも、鬼の、萃香ではない別の存在によって殺されてしまうことが、耐えられなかった。

 彼女に会いたいから死にたくない。

 そして、彼女に殺されたいから、殺されたくはないのだ。

 そんな想いを糧にして、走り続ける。

 しかし、このまま逃げ切れるかに見えた鬼ごっこは、やはり妖怪と人との地力の差によって終わりを告げる。

 茂吉は既に限界を振り切り走っていた。

 息はとうに切れ切れになり、脚はもう完全に回り切っておらず、今も転ばず走り続けていられることが奇跡だった。

 そして、その奇跡は当然であるが長く続かず、茂吉は足が縺れて地へと倒れる。

 顔に着いた土の冷たさが、心地好い。

 迫る妖怪を見て、茂吉は、あぁ、やはり、自分は無力で弱い人間であるのだと、そう思った。

 そんな自分は、救われることもなく、死んでいくのだと。

 それを仕方ないと、諦めようとした時、妖怪の後ろに憧れの姿を見て、茂吉の意識は途切れた。

 

 

  ※  ※

 

 

 気が付くと、洞窟の中にいた。

 目の前にいる見慣れた彼女、萃香は、少し不機嫌そうにしている。

 覚えているか、という萃香の問いに、今更ながら恐怖がぶり返して、両手で震える体を抱きしめる。

 鬼である萃香は、なにも言わずに、そんな自分を見つめている。

 先程まで自分が生きるか死ぬかの状況であったことは理解していた。

 しかし、その恐怖以上に、いや、その恐怖があったからこそ、それをいとも容易く切り抜けた彼女に対しての想いが積もっていく。

 助けてくれたのか、という問いには否定を返されたものの、萃香にどのような意図があったとしても、茂吉が今、ここでこうして生きているのはあの場から救ってくれた彼女のおかげであるのだ。

 そんな自分が恥ずかしくなった。

 どうして、自分はこんなにも弱いのだろうか。

 何をすることも出来ず、ただ、助けられて生き、利用されるために生かされている。

 萃香と出会う前の、両親が死んでからの、地獄のような気持ちの悪さによって彩られた世界を、その汚泥の中に沈みながら、なんとか生きていた。

 そして、今はあの呪い師によって、なんらかの形で使われて生きている。

 自分の意志で生きているのではなく、茂吉はただ生かされているだけだ。

 どうしようもなく、弱い人間である。

 なによりも、茂吉は今、自分の口から洩れてしまった言葉に、一番の弱さを感じた。

 

「ねぇ、萃香。俺をさ……」

 

 きっと、それは何よりも大きな本音なのだろう。

 茂吉という存在が、ずっと言えない言葉で、言いたい言葉だ。

 しかし、言ってしまえば、わかってしまう。

 ゆえに閉ざしていたものを、他の誰でもない、彼女、伊吹萃香という鬼へと、人である自分が言おうとしてしまった。

 その言葉を吐き出そうとする自分への嫌悪で最後まで声にすることは出来ず、また、鬼である萃香からも、どうでもいいと言われた。

 間違ってはいけない。

 伊吹萃香は鬼だ。

 人とは違う、そして、人ではない。

 茂吉はそれを自分に深く刻み込んで、わかっていたはずなのに、言おうとしてしまった。

 それ以上はこの場に居られず、立ち上がる。

 きっと、彼女は既に気にしていないのだろう。

 茂吉がわかっていることを、わかっているから。

 それでも、今はもうこの場にはいられなかった。

 何故なら、こうしている今にも、口をついて言葉が出そうになっているからだ。

 

 (助けて)

 

 と。

 人が鬼に救いを求めるなど、あってはならない。

 茂吉はそれを、知っていた。

 そうして村に向けて歩みを進める茂吉が、自身にあった筈の大小の傷がなくなり、またどうしてか、限界まで酷使していた筈の体力が、全て回復していることに、気付くことはなかった。

 

 

 

 

 

 




 妖怪遭遇→逃げる→助けられる展開逆ver

補:茂吉の感じた痛みはだいたい群発頭痛の全身版に近いものを想定しています(なったことないですが

注:作者は別にショタが嫌いなわけではありません。

 誤字脱字表現方法の不備などありましたら報告お願いします。

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