伊吹すいかの酒酔い事情   作:夜未

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このままだとやばいと奮起し、もう一ヶ月が経つという焦燥感によってなんとか更新。
しかし閑話の上に短いという……(汗


閑話 人 3

 

 気が付くと、目の前に呪い師が立っていた。

 一瞬戸惑ったが、茂吉はすぐにいつものことだと思い直して、ただそこで待っていた。

 呪い師はじっとこちらを見ている。

 茂吉のことを見ているようで、その実、別の何かを見ているように感じる。

 話しかけても意味はなく、ただ待つということだけを為していく。

 

「もう少し、もう少しで……」

 

 呪い師の漏らす言葉を、命令以外で認識することはなくなっていた。

 最近は、こういったことが増えてきたなと、茂吉は一人そう思った。

 萃香との『鬼ごっこ』の途中で妖怪に襲われ、本来人に仇なす鬼であるはずの萃香の手によってその命を拾われてから、数多くの変化が、茂吉の身には起きていた。

 いや、正確には、以前から確かにあった微かな変化が、より大きくなり、完全に自覚するに至った、と言ったほうがいいだろうか。

 呪い師による日々の拷問のような行為に対して、初めはあれだけ酷かった痛みすらも、いつの間にか摩耗し、今ではなにも感じることはない。

 それは、まるで人間的な感情が自分から乖離していくかのように感じられていた。

 それと反比例するかのようにして、茂吉の身体能力は日々向上していることも知った。

 もはや萃香の住む洞窟へと村から全力で駆け抜いたとしても、それほどの疲労を覚えることはなくなっていたのだから。

 日常の中では、時折気絶とは別に、ふとした瞬間に意識を失い、見知らぬ場所で気付くと、呪い師と目の前で向かい合って立っていることが何度もあった。

 意識の無い間に、自分が勝手に動いているという、普通なら不安になるような状況にも、茂吉はいつしか慣れていく。

 自己と言うものが、少しずつ曖昧になっていることを、茂吉はなんとなく理解していた。

 なにか、小さなきっかけ一つで、もはや自分はどうにかなってしまうだろうという予感もあった。

 そして、これらの症状はおそらく、いや、確実に、今も自分の前に立っている、呪い師によるものなのだろうということも、わかっていた。

 しかし、いくら茂吉がそのように変化していこうとも、村人たちは我関せずと気に留めることはなく、当の呪い師もこれをやめることなどありはしない。

 また、当人である茂吉自身にも、自身がそのように変わっていくことへの恐怖はあるが、それと同時に、この変化を喜んで受け入れてもいた。

 それは一つの期待からくるものでもある。

 もしかすると、このまま変わっていけばいずれ鬼へと成り、萃香と同じ場所に立てるかもしれない、という淡い期待を胸に抱いたからだ。

 それを、決して有り得ない、とは言えないことだと、最近になってますます思えてきた。

 この身体に宿り始めている正体不明な力の源は、どことなく彼女の持つそれと酷く似通っている気がするのである。

 今まで必死で前に伸ばしていた手が、少しだけ近付いたような、そんな感覚を茂吉は掴んでいた。

 ゆえに、茂吉は萃香と『鬼ごっこ』をすることを辞めた。 

 もはや『鬼ごっこ』という自身の中の小さな願いを果たすまでもなく、鬼へと成れるかもしれない。

 そうであるならば、追いつくことなど出来ず、目の前を行く彼女をただ追い求めるだけの、ただ己の無力感のみを得るかのような行為をする気もなくなっていた。

 いずれ、ごっこではない、本物の鬼へと成れるかもしれないのならば、そうなった後に、もう一度彼女を追い掛ければいいのだから。

 そして、その熱は別の方向へと向いていき、今まで以上に、彼女自身のことをもっと知りたいと思うようになっていた。

 彼女と言う鬼を知りたいのではなく、彼女と言う存在を知りたいと、はっきり自覚して、問うていく。

 今まで、決して対等には成れないと思っていた彼女を、少しだけ身近に感じられるようになったから。

 本当は、これら全ては勘違いであるのかもしれない。

 呪い師から与えられる苦痛によって、思考が壊れ、おかしくなっただけと言う可能性もあるだろう。

 しかし、もはや茂吉には、そのような敢えて自身を苦難へと導くようなことを考えようとすることはなかった。

 折角持てた小さな希望を潰したくなくて、だから、己との差をまざまざと見せつけられるようなことはしたくはないと、誤魔化すかのように、茂吉は彼女に今までのことを訊ねていた。

 彼女は、どのようにして生きてきたのか、それを知ることは、もしかすると、『鬼ごっこ』をするとき以上の至福を齎していたかもしれない。

 尊敬する鬼でもない、ただ、彼女という存在のことを聞くことが、とても大切なことに感じられて。

 

 

  ※  ※

 

 

 彼女のことを知っていけば知るほどに、茂吉は人の弱さも同時に改めて知っていった。

 彼女の話すこれまでの道筋はどれも到底人では出来ぬようなことばかりで、だから、それと比べてしまえば、人がとても弱く儚く思えてしまう。

 

「茂吉、おまえ、もう仕事はしないのかよ」

 

 いつものように、彼女との話を終えて少なくない高揚感と共に村へと戻ってきた茂吉に、そうやって声が掛けられた。

 振り返ると、村人の、以前の仕事の時、常連でもあった男がいた。

 彼女との邂逅によって得ていた感情の熱が、冷や水を浴びせられたかのように冷め、錆ついていく。

 熱に浸るなど、自分には許されていないのだからと、無理矢理打ち切って整理する。

 そして

 

「わかりません」

 

 端的に、そう答えを返した。

 事実、茂吉には決定権などありはしないのだから。

 どうするか、と問われ、自身がどうしたいか、どうするか、などと答えても、そこに意味などありはしない。

 そもそも、彼が聞いてきたのは、そのような茂吉の意志などではなく、「呪い師様からどう言われているのか」ということであった。

 ゆえに、それを聞かされていない茂吉は、ただ真実として、「わからない」と答えるしかないのだった。

 

「そうか……。なら、今から少し相手しろよ……」

 

 茂吉のその言葉をどう受け取ったのか、男はそう言いながら、こちらへと近寄ってくる。

 嫌悪感から、感情が錆びつかせていなければ、吐いていたかもしれないと、胸のうちで茂吉はそう独り言ちる。

 当然ながら、拒否の言葉など、茂吉の中には存在してはいけない。

 弱者である、という根本まで染み着いたこの想いは、簡単に覆るようなものではなく、今も根強く残っている。

 ただ小さく頷いて、ついて来いと言った男の後を素直に歩いていく。

 足音だけがざりざりと鳴る。

 間に言葉はない。

 男が命じて、茂吉がそれに従う。

 それだけの関係であり、その関係が茂吉の今までの人間関係の全てでもあった。

 徐々に目的の場所へと近付いていく。

 あと数分も歩いていれば、なんの問題なく到着するだろう。

 これから課されるだろう自身への行為を何度も想定し、微かに残っている拒絶の感情をこそげ落としていく。

 意味をなさない感情なんて、邪魔なだけだと、茂吉は知っていた。

 しかしながら、その行為は意味なく終わった。

 道の途中で、呪い師が向かい側から歩いてきていたのだ。

 前を行く男が、見えている背だけからでもわかるほどに強張ってきている。

 男の歩みはどんどんと遅くなっていき、反対に呪い師の歩みは一切変わらぬ速度でこちらへと近付いている。

 やがて、男が立ち止まり、茂吉もそれに伴って止まる。

 変わらず歩き続けた呪い師は、男のすぐ目の前、向かい合う位置で、立ち止まった。

 しばし、沈黙だけが流れる。

 その間も男はきょろきょろと助けを求めるかのように周りを見ていた。

 当然ながら、それに関わってくる村人などはいなかった。

 やがて、焦り含みながらも、男は口を開く。

 

「ま、呪い師様、これは、その……」

 

 まごまごとなにやら言い訳のようなものをしようとしている男に、呪い師は静かに言った。

 

「なにをしている?」

 

 驚くほど、一切の感情が含まれていない声であった。

 呪い師のその問いへと、狼狽しながらも、男は答えた。

 

「その、茂吉のやつに、し、仕事を……」

「茂吉……その人間の子供への接触は最小限に抑えるようにと、言ったはずだ」

「は、はぁ。でも、そのぉ、こいつに聞いたら『わからない』とのことだったので……」

「接触を最小限に抑えるようにと、言ったはずのだが。ならば、コレ……茂吉にその問いをかけるということ自体を、避けて欲しいという意味でもあったのだが、そうは伝わらなかったのかね?」

 

 男の言い訳を呪い師は冷たく切り返していき、次第に項垂れていく男をしり目に、茂吉の様子を窺っている。

 最上位者の禁を破った罪を背負った男は、何も言うことが出来ない。

 そして、なにかを思いついたかのような仕草を呪い師が取り、男に言った。

 

「まぁいい。とりあえず、ついて来るように。今回のことは、実験に付き合ってもらうことで一応は不問としよう。あぁ、勿論だが、お前もついて来い」

 

 呪い師は男と茂吉にそう言うと、くるりと背を向けて、そのまま自身の家へと向かって歩き出した。

 茂吉のすべきことは何一つ変化していない。

 ただ、従う対象が移ったことと、目的地が変わっただけのことだった。

 是非もなく、ただ無言で呪い師の後へと続く。

 男はしばしその場で右往左往とし、やがて諦めたかのように、そのまま挙動不審気味ではあるが、二人について歩き出した。

 あの場からはそれほど離れていなかったため、少し歩いて、ここ最近で再度見慣れてきた場所、茂吉の元自宅へと到着する。

 いまだ少し怯えている男を引き連れ、呪い師と茂吉は中へと入っていった。

 そして、それに続いて男が玄関に足を踏み入れ、完全に家の中へとその身体が入った時、ピシャリと、玄関のドアが独りでに閉まった。

 「ひっ」という情けない声を漏らし、男は呪い師へと話しかける。

 

「あ、あのぉ、呪い師様、いったいなにを……?」

 

 しかし、その問いに、呪い師が答えることはない。

 ただ、茂吉の方へと向かって歩いてくる。

 茂吉がその場で動かずにじっと立っていると、呪い師は茂吉の頭を掴み、無理矢理に男の方へとぐるりと顔を向けさせた。

 戸惑う茂吉などを気にすることはない。

 

「……っ!」

「あの男をよく見ろ」

 

 茂吉の耳のすぐそばで、感情の無い声が囁かれる。

 

「あの男は今まで散々お前を慰み者にしてきたのだろう。憎いか?」

 

 まるで頭に直接染み込んでくるかのような声に対し、茂吉は、首を横に振ることで答えた。

 それは紛うことなき事実である。

 茂吉は彼を憎いと思ったことはない。些かの不快感は覚えていたが。

 ただ、人間の弱さが全ての原因であると思っているがゆえに、その弱さ以外を憎むことなどありはしないのだった。

 その答えに対し、呪い師は少し残念そうにして言った。

 

「そうか。まぁ、所詮興味本位の些末事だ。あれば良い、程度だった。さて、本題を済ませるとしよう」

 

 完全に置いてけぼりにされている男が、声をあげる。

 

「あ、あの……」

「とりあえず、慣らしとしては充分な標的だ」

「呪い師様?」

 

 男の声が、まるで聞こえていないかのように呪い師は喋っている。

 事実、聞いてなどいないのだろう。

 男は戸惑うばかりで、何も把握できてはいない。

 茂吉は、ただ黙って、呪い師の言葉を聞いていた。

 

「さぁ、見せてくれ……」

 

 そして、茂吉はどんどんと意識が薄れていき、ふらふらと視界が不安定であるのに、地に足は立っているという不思議な感覚に襲われる。

 やがて、茂吉の目の前は真っ暗になり、意識が溶けて消えていった。

 

 

  ※  ※

 

 

 錆び臭さが鼻につく。

 茂吉はその不快さから目が覚めた。

 立ったまま意識を失っていたらしく、足の裏には地面の固さが感じられる。

 その場で一瞬バランスを崩しかけて、たたらを踏む。

 そして足元で、ぬちゃりと、液体の感触を感じた。

 呪い師の声がかかる。

 

「ふむ。なかなかの出来だ」

「えっ?」

 

 なんのことかまるでわからず、茂吉は戸惑いながら、自身が目を開けていないことに気付いた。

 ゆっくりと、暗闇に閉ざされていた視界から、目を開いて、先程までとは変わらない、呪い師の部屋の中の周囲の風景を眺める。

 いつの間にか男が消えていた。

 しばし目をしばたたかせ、完全に意識が安定することを待つ。

 そして、何を踏んだのかと、茂吉は自身の足元に目を向けた。

 

「なっ! ひ、ぁ!?」

 

 紅い、血に塗れた肉塊が、そこにはあった。

 よほど強い力で上から叩き付けられたのだろう。

 辺りにも血が広範囲に飛び散っている。

 地ではその肉塊から溢れだした血によって、小さな水たまりが出来ていた。

 茂吉は慌ててその場から飛びずさる。

 そして、目の前の肉塊……男の死体と、呪い師を交互に見た。

 どうして死んでいるのか、どうしてこんな死体が出来ているのか、どうして、どうして、と、何を疑問としているのかすら、茂吉は自分自身で判断がつかない。

 その様子を見て、呪い師は言った。

 

「なんだ? ソレがどうかしたのか? 言葉も把握できん猿を殺処分しただけだ」

 

 いつも聞いている、平時の感情を含まぬ声。

 今までも恐ろしかったそれが、はっきりとした恐怖へと形を成して変化していく。

 呪い師は気にした風も無く、言葉を続けた。

 

「あとは、お前の性能確認も兼ねてだ。こちらの方が主題ではあったな」

 

 その意味が、茂吉には理解が出来ない。

 

「おれ、の、せいのう?」

 

 耳に残ったそれを、呆けたように繰り返した。

 

「そこそこ役には立った。現段階でも、もしかすると十分かもしれんが、確実性を求めるにはもう少し伸ばした方がいいとわかった。もういい。また夜になればこちらにこい」

 

 呪い師は言うべきことだけを言うと、部屋の奥へと消えていく。

 しばらく、茂吉はその場で呆然としていた。

 そして、自分自身の手を見て、血で濡れていることにようやく気が付いた。

 アレは自分がやったのだ、ということへと、やっと思考が繋がっていく。

 意識が戻りアレを見た時に訪れた、微かな実感とも言えるその感覚が、事を確信させていた。

 おそらく、今までもあった自分の意識の無い時にした行動なのだろう。

 けれど、覚えていなくとも、その実感だけが残っている。

 

(おれは、人を殺したんだ……)

 

 その実感だけが、胸の奥から湧いて出て、目を逸らすことすらも出来はしない現実を尚鮮明に直視させる。

 しかしながら、この現実を前にして、茂吉は自分が人を殺したことに対する罪悪感などありはしなかった。

 ただ思うのは、ついにここまで成れたのか、という達成感と、更に上へと行けるかもしれないということへの期待感。

 茂吉はのそのそと、血に塗れた姿のままで呪い師の家を出る。

 引き摺るようにして、倦怠感の残る体を動かしていく。

 もし今、他の村人たちがその姿を目にすれば、叫び声をあげたことだろう。

 茂吉は手だけでなく、その全身が真っ赤な血に染まっていたのだから。

 それを洗い流すために、近くの川へと向かって歩いていく。

 その間、茂吉は思う。

 やっぱり、人間って弱いんだ、と。

 どうしてか、川までの道中で、村人たちと遭遇することはなかった。

 

 

  ※  ※

 

 

 また、それから幾日かが過ぎる。

 その間、茂吉の手がいつの間にか血に染まっていることが何度かあった。

 ふらっと唐突に気を失って、気付くと潰れた肉塊を目の前に、赤く染まった身体で立っている。

 傍では呪い師がじっとこちらを観察していて、初めのうちはされていた質問も、大した答えを返せずにいると、されることはなくなった。

 茂吉はただただ、人間の弱さを見つめていた。

 人間は、彼らは弱いから、こうなったのだと、呪い師は茂吉に言う。

 どうして人は簡単に死んでしまうのか。

 そんなこと、弱いからというもの以外に理由など在りはしない。

 弱者に価値などありはせず、ゆえに、生きても死んでも同じこと。

 そのことを、茂吉は知っていた。

 そう、既に知っているのだ。

 両親が死んだあの日から。

 如何に人が弱く、如何に弱い人の生に意味がないのかを。

 苦しくて苦しくて、辛くて辛くて、どうして生きているのかが、わからなくなる。

 その瞬間、人は生きる意味を無くし、価値が無くなる。

 

「だが、違う。今のお前は強いのだ」

 

 感情の無い声が聞える。

 呆然と、ただ自分が何をしているのか、どこにいるのかすらも曖昧なまま、その声だけが、聞えてくる。

 視界が紅に染まっているまま、考えることすら出来ぬまま。

 

「今のお前は、強く在る」

 

 そう、今のおれは、強いのだろう。

 弱者である人よりも、圧倒的に。

 目の前で屍を晒している人よりも。

 尚も続いて聞こえてくる声が言う。

 

「ゆえにお前は弱者たる人ではなく」

 

(ゆえにおれは、弱い人ではなく)

 

「(鬼に、成れるのだ)」

 

 その声と、茂吉の中の何かが、繋がったような気がした。

 

 

  ※  ※

 

 

 その日、村の様子が何処かおかしかった。

 そわそわとした空気が流れ、緊迫した表情を浮かべる者が多い。

 覚悟を決めているような顔や、不安そうな顔、そして、どこか縋るような顔をしている人々。

 しかし、茂吉はその変化に気付かなかった。

 いや、もうそのようなことを感じ取ることすら出来なくなっていた、とも言える。

 茂吉にはもはや萃香と共にいる時以外、自分が何をしているのか、何を考えているのか、そして自分がなんなのかすらわからなくなっていた。

 まるで義務であるかのように彼女へ会いに、ただ山を登っていく。

 彼女の前で、彼女の話を聞いている時だけが、自分が自分として存在していると言える時であった。

 精神は日に日に限界へと近付き、半ば夢遊病のようにふらふらとした足取りは、しかし不安定な山の地をしっかりと踏みしめて、前へと進んでいく。

 今日は何を話そうか。

 それだけを頭に思い浮かべて、考える。

 それ以外のことを、考えることが出来なくなっている。

 彼女の今までのことは、既にあらかた聞き尽くしていた。

 ならば何を話すべきなのか。

 そんな風にして、話題を頭の中から探る。

 ちらりと目に自分の手が映った。

 その瞬間、

 

「!」

 

 頭の中に、血で汚れた自分の掌が見えた。

 咄嗟に手を目の前に持っていき、じっと見てみるが、そこに血はこびり付いていない。

 当然だ。

 それは、きちんと洗い流したのだから。

 なにより、血で汚れているから、なんだというのか。

 弱い人間を殺しただけのことだ。

 茂吉は首を振って、思い出す。

 その言葉を。

 

「おれは、強いんだ……」

 

 今の自分は、人より強い存在なのだと。

 それだけが、今の自分の拠り所でもあった。

 それに、萃香も言っていたではないか。

 鬼はただただ圧倒的に強いのだと。

 そして、思いつく。

 今日は、彼女に人についてを聞いてみよう。

 きっと、彼女も、笑って人は弱いと言うだろう、言ってくれるだろうから。

 それは願望のようでもあった。

 茂吉はそうして、ふらふらとしていた足取りに、力を持たせて歩いていく。

 

「おれは、人よりも、強いんだ」

 

 ぽつりと漏れたその言葉は、どうしてか、とても薄っぺらくて、まるで自分に言い聞かせているように思えた。

 

 

  ※  ※

 

 

「人は強いよ」

 

 確信を持ってそう言った彼女が、信じられなかった。

 しかし、同時に、理解させられた。

 自然と涙が流れ出る。

 茂吉自身にも、どうして泣いているのかはっきりとはわからない。

 萃香による、人の強さの肯定は、茂吉の中にあった、ただ一つの依存とも言える精神の支柱を破壊していた。

 もしこの言葉が、他の、自分自身と同じ人間であったのならば、茂吉の心には欠片も響くことなどなかっただろう。

 いや、もしかすると、別の鬼から言われたとしても響かなかったかもしれない。

 しかし、他でもない、彼女の言葉であったがゆえに、それは大きく茂吉の根幹へと届いていた。

 『人間が弱いから』という、大切な言い訳は、彼女によって消え失せて、そこにはたった一つの事実が残る。

 認めたくないと、目を逸らしていた。

 理解したくないと、耳を塞いでいた、その事実。

 この最低な世界にあって、弱いがゆえに受けた数々の害を、全て人間という大きな言葉によって覆い隠して濁していた。

 そうしなければ、耐えられなかったから。

 そうしなければ、生きていけなかったから。

 けれど、あぁ、もはや、誤魔化すことなど出来はしない。

 だって、本当はとっくの昔に自分で納得していたことなのだから。

 怖くて怖くて、向かい合えず、今まで逃げてばかりいた。

 それを、まざまざと、彼女によって、突き付けられたのだ。

 人間が弱いのではない。

 ただ、そう、つまりは、

 

(おれが、弱いだけなんだ)

 

 それは、本当はもっと早くに認めるべきものであった。

 絶望的状況に陥った時、必死で努力してそれでもどうしようもない程の、そんな状況になった時、茂吉は、自分ではなく、『人間』という大き過ぎることのせいにしてしまった。

 ゆえに、自分に責はなく、『人間』であるということが悪いのだとでも言うかのように、嘆き、苦しみ、そこから抜け出すことを考えるのをやめてしまったのだ。

 決して、自分では変えられぬことなのだからと。

 しかし、これはある意味当然のことでもある。

 普通、茂吉のような幼い時分で冷たく苛酷な世界に放り出され、その結果、絶望の底へと行きついた時、どうしてそれを正面から受け止めることなど出来ようか。

 多くの人は、それを認めることなど出来はしないのだ。

 そして、ほとんどの人はそのまま、弱いのは自分ではないと考えて、弱い人間だからと考えて、生きていくのだから。

 けれど、

 

(萃香は、信じてるんだ……)

 

 そう、彼女は信じていた。

 なにより強い鬼であると自負するがゆえに、人の強さを。

 なにより強い鬼であるために、人は強いと。

 理解してもらえなくてもいいと、本当は、どこかで自分でも人の弱さを理解しているだろうに、信じている。

 だから、遠回しに、彼女はこんな自分が強いとも言っている。

 鬼の彼女は、その自身の強さと共に、人の、茂吉の強さをも証明しているのだと、そう言っているのだ。

 茂吉の涙は止まらない。

 だって、知ってしまったから。

 こんな自分でも、彼女はきっと、強いのだと思っていることを。

 こんな自分でも、真正面から、強い人間として、見ていてくれていることを。

 涙が止まらない。

 痛みと苦しみ以外で流した涙は、こんなに暖かかったのかと、そんなことを思いながら、茂吉はその場で泣いていた。

 薄っぺらな強さを引き剥がされて、そこにはただのちっぽけな人間である茂吉だけが残っている。

 辛く、苦しいこの世界で、なにもすることが出来なかった茂吉だけが。

 おそらく、また深い深い絶望に飲まれるのだろう。

 当然だ。

 茂吉はただ事実を知っただけで、希望など何処にも見当たらない。

 それでも、必死で今までしがみ付いていた鎧は無くなって、直接自身が傷ついていくのだとしても。

 萃香の、彼女の強さの一端であるということだけで、茂吉は満足していた。

 少なくとも、自分の存在に価値はあったのだと、そうわかったのだから。

 

 

  ※  ※

 

 

 やがて、雨によって、萃香と一晩共にすることになった茂吉は、若干の気恥ずかしさを覚えながら、床に就く。

 恐ろしいまでの、これまでに無いほどの睡魔に襲われる中、茂吉はただ、一つのことだけを、想っていた。

 そして、意識が、徐々に消えていく。

 暗い暗い世界へと引き摺りこまれるようにして、そのまま茂吉は眠りに就いていった。

 

 

 




 一月なんて、嫌いだ……

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