伊吹すいかの酒酔い事情   作:夜未

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閑話…心静かにする話。今回はこっちの意味です。地味に本編に関係あります。
まぁ、かなり一方的な閑話ですが。


閑話2 妖

 呪い師の正体は、かつて名も無き妖怪だった。

 人語を解し、妖怪の中でも低くはない程度の、そこそこの妖力を持って生きていた。

 しかし、所詮は発生し、生まれ落ちた瞬間から覆すことがほとんど有り得ぬほどに力量差が決定する妖怪の世界の中では、その一部分を除いて(・・・・・・・・・)、決して凡庸という境界を超えることは無かった。

 それでも、日々をどうにか自身よりも下級の妖怪や、弱い人間を捕らえ、喰らい、生きていた。

 その生には満足が無く、当然のように欲望も無く、ただただ、人を襲うという本能を満たしていくだけのものであった。

 そして、多くの力無き妖怪は、そのような生に疑問を浮かべることすらなく生き、そのままで死んでいく。

 当然のことである。

 なぜなら、皆、知っているのだ。

 疑問を浮かべたところで答えが返ってくるわけではなく、仮に答えを得たところで、その生が変わることも無いだろうということを。

 そして、本来ならば彼もまた、他の多くの妖怪たちと同じように、そうなっていくはずであったのだ。

 しかしある時、彼はそれを目にしてしまった。

 直視した瞬間に心を飲み込まれ、その在り方に魅せつけられたのだ。

 自分よりも遥かに身体が大きく強大な妖力を持った妖怪を、体躯は自身と同じ大きさほどであるにもかかわらず、ソレ(・・)は笑いながら圧していた。

 圧し、砕き、壊し、そして踏み躙っていった。

 一目で、存在の違いを根本に叩き付けられる。

 ソレが戦っている姿を見て、見惚れ、憧憬し、焦がれ、そして嫉妬した。

 ある種の絶対性すらをも持つ、力の権化。

 妖怪とはもはや別種の力を内包しているかのような、そんな存在。

 人はそれを妖怪とは分け、こう呼んでいる。

 

 『鬼』

 

 と。

 それからの生はまさに地獄とも言えた。

 今までなんとも思わなかった自身の力を、それからはどうしても不足に感じてしまう。

 普通の妖怪ならば、その恐ろしさを見て服従を決めるか、関わらぬことを願うかだけであったが、中途にあった彼の賢しさが、それに焼かれてしまった。

 あぁ、あの力が、欲しい。欲しい。欲しい。

 本来、妖怪では有り得ぬほどの狂った渇望。

 その本能ではなく、中途半端にあった理性へと焼き付いたソレ。

 寝ても覚めても、頭からついて離れない。

 努力どうこうでどうにか成るものではなく、身分違いであることは分かっていた。

 その力が、自身の身にはどうしようもないほどに不相応なものであると。

 しかし、心の底から焦がれることはやめられない。

 どうしても、欲しい。

 諦めきれない。

 狂ったように求め続けた。

 そう、彼が通常の妖怪のように凡庸ではなかった一部分は、その欲望であった。

 およそただの妖怪が持てるはずがないほどに、大きな欲。

 本能ではなく理性からくる抑えきれぬ欲を内に秘め、葛藤しながら生き続けるその姿は、人間によく似ていた。

 そして、どうしようもない程に膨れ上がった葛藤を抱えて燻り壊れてしまうかのような時、一匹の、美しい妖怪に、出会ったのだ。

 

「自身の身に適わぬ力であるのなら、その力を持つ存在ごと手に入れてしまえばいい」

 

 彼にとっては、まるで天啓を得たかのようであった。

 自身の身にその力が不相応ならば、直接の力ではなく、器ごと手に入れる。

 その考えは、どうしようもなく、彼を変えた。

 その大きすぎる欲以外は凡庸であるだけだった彼を、大きく変えたのだ。

 手段がなく、無理な目的のみを追い求め続けることをやめる。

 そして、そこに至るまでの道を描いた。

 そこには、もはやかつての本能に従い生きるだけの妖怪の姿はない。

 妖怪でありながら、そこから大きく変わってしまった、ナニカ。

 しかし、それは彼が自身でそのように自身を変えたのではなく……。

 そして、美しい妖怪に与えられた不思議なローブに身を包み、彼はゆっくりと、人間の群れへと溶け込んでいった。

 

 

  ※  ※

 

 

 自身を慕う、愚かな人間に用意させた家の中で、茂吉という名の素体を見て、彼、呪い師は一人嗤っていた。

 当初は本当に期待などしていなかった駒の、その著しいまでの成長を。

 本当にただの捨て石でしかなく、それも池に投げ込みその波紋を調べようとするためだけの、ほんの小さな石程度でしかなかった。

 ゆえに、それが想定外の成果を挙げて返ってきた時、ただただ驚くことしか出来なかったのだ。

 茂吉という人間の子供に、擬似的な吸魂の術の依代として肉体を変質させる術を掛け、相手の弱体化目的で、あわよくば鬼の一部を奪ってくるようにと送り込んだ、成功するはずもない馬鹿げた策とも言えない策。

 術に気付かれればその場で殺され、およそ帰ってくることすら不可能だろうと思っていた。

 ゆえにこそ、他の人々を焚き付け、別の駒にしようとしていたのだから。

 しかし、奇跡的にも、その策とも言えぬ策を完璧に成功させ、茂吉は戻ってきた。

 有り得ないことだ。

 普通、如何なる妖怪であっても、人間は下等なものであるとして扱っている。

 下級の妖怪などは餌としてしか見ていないのだから。

 確かに一部の知恵ある大妖、正に鬼などは、その元来の気紛れさから、人と戯れたりもするのだろう。

 しかし、それでも、それが自身に何らかの害を与える存在であったならば、容赦なく排除するはずだ。

 それとも、術に気付いていないのか?

 否、それはない。

 なぜなら、茂吉の身に吸収され、注がれたその妖力は、相手が並の妖怪であれば即座に衰弱死するか、例え高位の妖怪であっても、その力は半分以下にまで弱ってしまうだろう程にまで大きい。

 これは、本当に当て馬として扱うつもりであったがために、無茶な、それこそ精神に異常をきたす手前程にまで深く術を掛けたがゆえの成果である。

 如何な力を持っていようとも、この変化を見逃すことなど有り得ない。

 間違いなく、気付いているといってもいい。

 しかし、どうして見逃されたのか、理解できない。

 それも、髪の毛一本とはいえ、自身の一部分を持ち帰られているにもかかわらず。

 たかが髪一本であるが、それでも、それを媒介に作用させる術は多く存在している。

 それこそ、あの妖怪から自身の存在を曖昧にするローブを受けとり、長く人の世に溶け込みながら、呪術を学び、研鑽し続けた呪い師にとっては、無数の選択肢がある。

 そして、根本的に、呪術は人の持つ霊力よりも、妖怪の持つ妖力の方が相性が良かった。

 ゆえに、この一本の髪を媒介にして呪殺を仕掛けることすらも出来るだろう。

 そうであれば、いくら強大な力を持つ鬼であっても、少しは状態に異常を来たすかもしれない。

 そのような危険がある中で、不用心にも程があるのだ。

 そして、しばし熟考した後、それに思い至った。

 

(まさか、それほどまでに、無知なのか……?)

 

 強大な力を生まれながらにして持つ妖怪は、無知無学である率が高かった。

 生きることをその力のみで成し得て、それ以上に知る必要も学ぶ必要もなかったからである。

 低位の妖怪が、その生存に必死であるがゆえに得る知識を、得る理由が無いのだ。

 その可能性が無いわけではない。

 相手は鬼である。

 それこそ生まれた瞬間から強力であったに違いない。

 ずっと力で圧倒し、押しつぶして生きてきたのだろう。

 自分がどれほど弱くなろうとも、人間などに負けはしないとでも思っているのかもしれない。

 そうであれば、自身の一部を簡単に渡す不用心さも、自身の弱体を歯牙にもかけぬその傲慢さも、少しは理解出来ないことでもない。

 そして、呪い師は決めた。

 試してみることに。

 もう一度、茂吉という駒を使い、今度はより多くの妖力を吸わせる。

 そして、その反応を見て決めるのだ。

 それに、もしもの場合があったならば、また常の如く、この場から逃げればいいだけなのだから。

 

 

  ※  ※

 

 

 然して、概ねは呪い師の目論見通りであったと言ってもいい。

 動かないのだ。

 その力がどれほど弱体していこうとも、頑としてこちらを襲撃してくるような気配さえない。

 もしや、遠回しな自殺を図っているのかもしれないと考えることすら不思議なことではないほどに。

 その理由はわからない。

 本当に気付いていない可能性も皆無ではなく、無知であることもあるのだろう。

 しかしながら、どのような理由があったとしても、この状況は、呪い師にとって都合の良いものではあるのだ。

 ゆえに、本来ならば考えるまでも無く却下していたその計画を主軸へと移すには、十分すぎる切っ掛けであった。

 もしかすると、成功するのではないか? という思いが湧き出てくる。

 叶うかもしれない、自身の夢、野望、欲望。

 鬼を自分のものにする、と新たに目標を立て、人の世で長らくその計画を立てては来ていたが、やはり、本物の鬼を手に入れるなど、危険すぎる上に、可能性が低すぎた。

 だからこそ、人の世に紛れつつも、プライドを捨て、人の書物でもって術を学び、考え至った、一つの答え。

 自身の手によって一から『鬼』を造り出し、それを使役する。

 人の持つ技術の中には、式神と呼ばれるものがある。

 それは、人の手によって『神を用いる』とする、力の無い人間が生み出した傲慢な術だ。

 直接人が神の力を得ることが出来ないがゆえに編み出された一つの答えであり、形を成してして完成させられているもの。

 神の力を、僅かながらではあるが借り得て、依代に宿し、それを意のままに操る。

 しかし、これは本来、神などではなく、鬼を使役する手段としてあった。

 

 『式鬼(しき)

 

 彼、呪い師にとって、喉から手が出るほどに求めていたものである。

 長年研究に研究を重ね、やっと見えた一筋の光。

 辿り着くまでの道筋は、今では既に出来ていた。

 そして、足りないものはあと一つだけ。

 それは、依代と成る存在である。

 当然ながら、式札などのような、言ってみれば軽いものでは、そこに鬼の力を封じ宿すことは難しい。

 仮に成功したとしても、耐久力が持たずに壊れ、使い捨てのような形に成るだろう。

 それでは完全に鬼の力を得たとは言い難い。

 彼の求めることは、鬼を手に入れることなのだから、一々使用する度に壊れてしまうようなものなどは達成したとは言えないものだった。

 ゆえにこその、人である。

 式札よりも頑強で、力が宿りやすく、精神を上手く馴らしてやりさえすれば、操ることも容易い。

 これまで、呪い師は多くの人を鬼へと変えるために手に掛けて、試してきた。

 そして、どれもこれもが失敗している。

 ありとあらゆる手段でもって、実験を繰り返した。

 注ぐ力が足りないのかと、量を増やせば肉体が崩壊を始め、力の量に気を削いで、少しずつ進めていけば、力と人の元来持っている抵抗力との争いの果てに、衰弱死していく。

 他にも多々問題はあったが、大きくいってしまえば、失敗の理由は、力が肉体と合わないということ。

 それに、その妖力が純正の鬼のものではなく、単純に自身の妖力を注ぎながら鬼へと変質するように手を加えていたことも大きいだろう。

 ただでさえ結合の難しいものが、更に難度が上がり、百を超える実験の内に、僅かでも力を宿すことに成功したのは十にも満たない。

 そして、その満たぬ十の内でまともな精神、操れるような精神が残っていたものは存在してすらいなかった。

 成功に最も近かった以前の素体も、その獣性に駆られ、無意味に暴れ出し、単純にその矛先を逸らすことしか出来はしない。

 結局は、この村を囮にしつつ、処分することとなったのだ。

 しかし、今回は違う。

 呪い師には成功する自信があった。

 素体に注がれるのはこれまでと違い、純粋な鬼の力だ。

 癒着する難易度は手を加えていたこれまでよりも低い。

 更には無限とも言えるほどに多くの力を持っている存在であったがため、注がれている量は申し分ないと言える。

 後は力に完全に吞まれて壊れぬよう、精神を補強していけばいいだけだったのだから。

 これまで失敗続きだったそれが叶うかもしれない。

 素体の吸魂をより強いものとするために持ち帰ってこさせた髪を使い、吸収する方向性を絞って相手の鬼に特化させ、より多くの力で器を満していく。

 簡単な作業である。

 これまでの努力がなんであったのかと思うほどに簡単で、順調に進んでいく。

 あの妖怪から与えられた妙な薬も、その力が完全に肉体へと馴染むための後押しと成っているのだろう。

 肉体の変質が、最大効率でもって進んでいく。

 そして、目の前で一度経過を確認するためにその力を行使させた時、彼は成功を確信した。

 ようやくだ。

 ようやく、あの力を手の中に収めることがことが出来るのかと思うと、悦びが抑えきれない。

 あとはただ、時期を見計らってその力の源を吞みこませて、完全なものへとしてやればいいだけ。

 この村の人間は、念を入れて鬼を油断させるための当て石にした後は、完成した鬼の力を試すための的にすればいい。

 祈願の達成はもはや、約束されたも同然であった。

 

 

  ※  ※

 

 

 そして今、呪い師はその力の完成を目前としていた、筈だった。

 案の定、相手の鬼は、弱った身体でありながらも油断していて、本物の鬼をも圧倒するほどの膂力でもって、不意打ちを成功させ、あとは微々たる抵抗しか出来なくなったそれを蹂躙していくだけであった。

 そして、そこらの中級妖怪に毛が生えた程度の力しか残されていなかった鬼は倒れ伏し、後はそれを自身の鬼へと吸収させてやれば、手の中には完全と成った鬼の力が手に入るだろう。

 そうなる、筈であったのだ。

 

「なにそれ」

 

 また、同じ言葉を繰り返す、童女の姿をした鬼。

 後ろでは、今まで簡単に押し勝っていた筈の自身の最高傑作にして、未だ未完成なままである鬼が、手を潰されて呻いている。

 目の前にあるのは異常な現実。

 それまで順調だったことが、成功を目前にして、突き崩された。

 今までの高ぶりが一気に冷め失せていく。

 

「なんだ……それは……」

 

 思わず口をついて出たのは、そんな言葉だった。

 掠れつつも出した声に、意味は詰まっていない。

 彼の持つ妖怪の本能とも言うべき思考は止まっていたからだ。

 理解が出来なかったのだ。

 今、それまで襤褸雑巾のように振り回されていただけであった筈の彼女、萃香の周囲では、それまでその身に僅かしか残されていなかった妖気で溢れかえっている。

 

「なんなのだ、それは……」

 

 否、それもまた、正しくはない。

 彼女の濃密という言葉では足りぬほどに濃い妖力でもって、それは可視化されていた。

 そう、本来ただ第六感によって感じるのみであるはずのものが、肉眼でもって見えているのである。

 それは萃香の周囲十メートルほどの半球型を取り、淡い朱色で彩られている空間だ。

 まるで結界のようでありながら、結界という形を成した術ではない。

 ただただ濃すぎる力の密度によって、そう見えているだけ。

 それは有り得ぬことであった。

 それは有り得てはいけないことであった。

 

「はぁ……」

 

 目の前にいる理解の及ばぬ力を持った存在が、溜息をつく。

 それだけで、呪い師には、ここが山の中という広がる世界の中にあるにも関わらず、息が出来ぬような程の閉塞感を感じさせられる。

 まるで、密閉され、水で満たされた空間に閉じ込められているかのような錯覚すらも覚えた。

 ちらりと目だけを動かして、見れば、萃香の可視化された妖気の中にいる彼の絶対的力の象徴は、その身を泡立たせながら倒れ伏し、起き上がる気配はない。

 いったい、可視化される程の密度を持った妖力に埋め尽くされたその場には、どれほどの圧迫が掛かっているのか、見当もつかない。

 そして、呪い師は、その事実に気付いた。

 今まで降り続き、その身に当たっていた雨が、彼女の周囲だけでは止まっていることに。

 雨が、彼女の濃すぎる妖気によって阻まれているのである。

 有り得ない、という思考で呪い師は現実を認めることが出来なかった。

 もう一度言うが、本来、妖気妖力は、純粋に存在しているだけでは、なんら影響力を持っていないのだ。

 影響力を持ち始めるのは、意識的にか無意識的にか、持ち主によってそうなるように変質させられた時に、初めてそうなる。

 それこそ、単純な妖力や妖気を放っているだけでは、どうあっても精神的に幾らかの負荷をかけるだけで、物理的な作用を及ぼすことなど有りはしない。

 度が過ぎれば、その精神的な負荷によって、相手の精神を介し、その肉体に影響を与えることもあるかもしれない。

 しかし、それはあくまで間接的なものであって、妖力、妖気が直接影響させているわけではないのである。

 それは、一つの当然でもあった。

 力や気はあくまで、何かを生み出す原料でしかない。

 それはどうあろうとも、ただの力であり、ただの気でしかないのだから。

 例えるならばそれは、ただの蒸気でもって、上空より落下してくる岩石を支えようとするが如き事象である。

 力としての方向性すら与えられぬ状態で、そのようなことが、起こり得るはずがないのだ。

 しかし、今、目の前に、その『常識』という絶対の法を覆した力を持ったものがいる。

 そこに存在しているだけで、全てを押し潰していくような絶対性を持ち、そのただあるだけの力の密度だけでもって、圧倒する。

 あまりに、馬鹿げた存在であった。

 

「なん、なのだ……」

 

 また、その言葉が口から漏れた。

 理解しがたいものを前にして、それを理解したいから出た言葉ではない。

 ただ、僅かに残っていた、先程出した口の中の言葉が漏れただけのことである。

 いまだ、呪い師には正常な思考は無く、ただ、背を木に預け、腰を抜かしたように座り込んで、その存在を呆然と見ている。

 目の前の、今尚、そこにいるだけしかしていない存在は、ただ一言、答えた。

 

「鬼だよ」

 

 鬼であると。

 自分こそが、呪い師がかつて焦がれた力を持つような、鬼なのだと。

 そう言った。

 

「馬鹿な……」

 

 その言葉を認識したとき、呪い師の口から言葉が出てくる。

 閉塞感に舌をもつれさせ、その人外の顔を歪ませながら。

 しかし続ける言葉が、吐き出せない。

 萃香は呪い師の漏らしたその言葉が気にくわなかったのだろう。

 眉間に少々皺を寄せて、馬鹿にした口調で言った。

 

「馬鹿? 私が馬鹿だって? はっ! そうかもね。だってこんなの、私の空回りもいいとこだよ。なにこれ? あんたなんなの? 妖怪って……。はぁ、もう。独り相撲もここまでくると笑えないね」

 

 萃香はただ、その手に持った酒を呷った。

 言ってしまえば、いつも通りの姿である。

 そのような、圧倒的な力を顕現させながらも自然体でいる彼女を見て、ようやっと、呪い師の止まっていた思考が動き始める。

 時が経つにつれて、彼女の可視化された力の領域はその範囲を広げ、じりじりと周囲を圧していた。

 その力を、今度は冷静に、出来るだけ冷静に考える。

 なぜ?

 どうして?

 途端に呪い師は疑問で頭が埋め尽くされた。

 どうして、ここまでの力を発現させることが出来るにもかかわらず、彼女は今の今まであのように弱弱しい反抗しかしてこなかったのか。

 なぜ、今になってこの力を出し、状況を一変させてしまっているのか。

 彼女は、遠回しな自滅を望んでいたのではなかったのか。

 その疑問を悟ったのか、萃香はぽつぽつと周囲を圧する力を持っている声を出した。

 その一言ごとに、閉塞感が強くなる。

 

「……鬼退治は、人がやるものなんだよ」

 

 呪い師は動けない。

 動くことが、出来ない。

 どうしてか、今、この場所がとても狭く感じる。

 

「人がやるから、どんな策に私を嵌めようが我慢できるし、たとえ妖怪を嗾けられたって、最後まで鬼として相手したよ」

 

 彼はただ、その言葉を聞いていた。

 理解出来ぬ力を持っている存在の、理解出来ぬ精神を。

 身体は指先一つ動かすような隙間もない圧迫に、この広がる山の中で有りながら、苛まれている

 

「でも、これは違う。あんた、妖怪が主犯で、人を道具に使ってるだけ。鬼退治なんかじゃない」

 

 もし仮に、ではあるが、萃香にとって、もしもこれが、人が正当にこの妖怪に鬼退治の助っ人として頼んだのであれば、大人しくあのまま喰われていただろう。

 妖怪を妖怪と知っていながら、鬼退治のための協力を依頼する。

 それは人が人の手だけでは無理だと悟り、頼る、という権利を使ったがゆえに、認められると、萃香は考えている。

 しかし、既にその線は消えていた。

 あのローブによって、この妖怪が自身を人と偽り、頼らせたのだ。

 そして、その妖怪は策によって、鬼退治を利用して、萃香を討ち取ろうとした。

 もはやそれは、人の特権である、鬼退治ではなくなっていた。

 そんなものはただ、

 

「こんなの、ただ、『私』に喧嘩を売ってるだけじゃないか」

 

 その言葉に、呪い師は、強烈な圧迫と熱量を感じた。

 今、この場、萃香の存在している場の密度が、呪い師の存在よりも高くなったがために起こりかけた、空間によって押し潰されるという、馬鹿げた現象。

 そうなる前に、萃香は少し、場の密度を下げた。

 呪い師は、詰まっていた息を整え、荒い息を吐いている。

 鬼退治をされる時、伊吹萃香という鬼は、力を意図的に下げて人を相手にしている。

 これは本気を出していないわけではない。

 ただ、自身の能力を使わず、それまでの状態、鬼退治が開始された状態から、力が少しも増さないようにするだけだ。

 全力ではないが、本気ではあった。

 ゆえに、そのまま殺されてしまえば、彼女は大人しくそのまま死んでいくだろう。

 なぜなら、彼女は『伊吹萃香』という鬼の存在がすごいと証明したいわけではないからだ。

 ただ、伊吹萃香という『鬼』の存在がすごいと証明したいのである。

 だからこそ、彼女固有のものである能力は使わない。

 使ってしまえば、それは萃香がすごいのか、鬼がすごいのかが曖昧になってしまう。

 しかしそれでも、充分鬼としては上位に位置しているほどの力があるわけであるが。

 そして今、この呪い師、妖怪のしていた行為は、伊吹萃香という『鬼』ではなく、『伊吹萃香という鬼』自体に対して、喧嘩を売ったのである。

 それまで抑えていた能力を解放し、妖力の吸収によって弱っていた体は、自身の身に、周囲で漂う力を少し萃めるだけで回復し、増大した。

 本来、能力を万全に扱う萃香を弱らせる、などとは、一切の存在が無い状態、『無』の空間内でしか成功しないとすら言えた。

 しかし、当然ながら、そのような勝手な事情など、呪い師には一切理解できはしない。

 

「鬼相手に喧嘩を売るなんて、あんたこそ、馬鹿なんじゃないの?」

 

 萃香は呆れたように、そう言った。

 まるで、妖怪として出来損ないの存在を見るかのような目で、呪い師を見ていた。

 

「私が鬼だと分かった時に……」

 

「違う!!」

 

 呪い師は、萃香の言葉を遮るため、渾身の力を振り絞って否定した。

 拭いがたい拒絶感が、そこにあったのだ。

 認めるわけにはいかない。

 それを認めてしまうわけにはいかないと、必死で声を張り上げた。

 そうしなければ、自分自身を保つことすら出来ないことになる。

 

「お前は……お前のような存在が、鬼であるなど断じてない!!」

 

「……はぁ?」

 

 その言葉を受けて、萃香は思わず呆気にとられた。

 なにを言い出すのか、こいつは。

 自分が鬼以外のなんだというのか。

 しかし、そのような萃香を無視し、呪い師は更に言葉を重ねていく。

 

「お前が鬼など……そんなこと、あっていいわけがないだろう!」

 

 それは、呪い師の心の底からの言葉であった。

 目の前にいる存在を鬼と認めてはならないと、自分に向かってそう叫ぶ。

 なぜならば、彼女を鬼と認めたならば、昔焦がれた鬼の力を前にして、呪い師の中には僅かな憧れすらも湧いてはきていないのだから。

 一目見た時より、ずっとその力が欲しいと思っていた。

 届かなくとも欲し続け、歩みを止めようと思ったことすらなかった。

 そのために努力し、そのために生きてきたとも言えるだろう。

 ああ成りたいと思い、それが無理だと悟ったからこそ、手に入れたいと願った。

 それでもやはり、奥底にある初めに抱いたその想いは消えていない。

 鬼になりたいと言う想いは色褪せず、今もずっと、この内に残っているのだ。

 だから

 

「違うだろう! お前のような存在が鬼であるなどと!!」

 

 その羨望の心すらも圧し折る力を持つ存在を

 

「違う違う違うっ!!! 私の求めたものは、こんな、こんな……」

 

 鬼と認めるわけにはいかなかったのだ。

 

「わけわかんない」

 

 突如叫びだし、散々喚いた後に、静かに蹲った妖怪を前に、萃香はただどうでも良さげにそう言った。

 彼の奥底からの、自身の存在理由を失うものかという切なる想いを含んだそれを、一切己の内に響かせることなく、切り捨てた。

 当然である。

 彼女にとって、彼の叫びが如何なるものを含んでいようが、全て弱者の戯言であり、踏み潰して歩いていくだけ。

 理解しようと思うことすらないのだから。

 

「こんなことが、あっていいわけ……ないだろう……」

 

 呟くようにして言った呪い師を見て、萃香はもう一度溜息をついた。

 どうやら、もはやこちらに向かってくる気すらも無くなったらしい。

 そして、彼女は、その力を呪い師へと静かに向けた。

 

「だいたい、妖怪の癖に鬼に焦がれること自体、烏滸がましいよ」

 

 それまでの、その存在を根本から否定する言葉と共に、呪い師の理解の外にある力がゆっくりと行使されていく。

 徐々にではあるが、しかし、致命的に、変わっていく。

 呪い師は、唐突に自身の身体が急に軽くなったことを感じた。

 それまでの閉塞感が、一転して、解放感へと変化している。

 まるでどこまででもいけそうなほどに、自分の世界が広がっていく。

 見れば、萃香がこちらに向けて、その小さな拳を握りしめ、こちらへと向けていた。

 それで攻撃するような素振りはなく、その場から動こうとする気配もない。

 しかし、呪い師には、その握った拳を開かせてはいけないという、生存本能からの警鐘が鳴り響いていた。

 

「でも、久々だったよ。鬼じゃなくて、『私』に向かって喧嘩を売られたのは」

 

 萃香は少しおどけた様に薄く笑っていた。

 なにせ、彼女のその闘争に満ちた生において、このようなことをされたのは、いまだ一つや二つほどしかないのだから。

 だからこそ、このように、敢えて力の差を見せつけてやっているのだ。

 危険であると、理解しながら、それでも、呪い師の体は動かない、動けなかった。

 その身に感じた解放感がいよいよもって、違和感を感じる域にまで達していく。

 広がっていた自分の世界は、今やどこまで続いているのかわからない。

 否、それはもはや解放感などという生易しいものではなくなっていた。

 まるで、自身の存在が世界へ向けて散らされて、溶け込んでいくかのようであった。

 

「う、ぁ……」

 

 力が抜けて、どさりと、もたれ掛っていた木に背が当たる。

 その瞬間、自身の身体とその木がの間がどこまでであったかが、わからなくなった。

 今、背に当たった木は、どこまであって、自身の背はどこまであったのかが、わからない。

 慌てて目で後ろを向いて確認するも、変わった様子などは見当たらない。

 それでも、感覚が違和感を訴えてくる。

 ただ一つだけ、目の前に在る存在が、自分に向けて何かをしているだろうということだけが分かった。 

 

「あんた相手に、究極の密度なんて必要ない。そんな間接的にじゃなくて、ただ、直接疎めてやるだけでいい」

 

 あんた、それに抵抗出来ないほどに、弱いからね、と、彼女は言った。

 呪い師には、その言葉の意味がわからない。

 萃香の拳がゆっくりと、開かれていく。

 

「やめて、くれっ!!」

 

 必死で声を張り上げて、その行為の意味も理解していないままに、停止を求めた。

 無理であっても、無理矢理に力を込めて、その手を萃香の方へと伸ばす。

 そして、改めて自身のその手を視界に収め、愕然とした。

 その手は、薄く、ぼやけていた。

 悲鳴をあげようとするが、その時には、声が音になって響くことが無かった。

 幻術などでもなんでもなく、現実として、自身の存在自体がぼやけていることに気付いた。

 なにをされているのか。

 未知の恐怖が湧き上がり、その恐怖が薄れていく。

 何もかもが曖昧と成っていく中で、呪い師は強く想った。

 

(こんな力を持った存在が……鬼、なのか)

 

 しかし、その想いは、彼女の手が半分ほど開かれた時にはもう、思考することすらも出来なくなり、消え失せていく。

 気付けば、もはや自分がどこまで在るのか、そもそも自分が本当にここに在るのかすらもわからない。

 内に秘めていた抑えきれぬナニカが薄く拡散されていき、存在している理由すらもが薄く、淡くなって、消えていく。

 

「あんた程度じゃ、『私』相手に戦うことすら出来やしないね」

 

 萃香はただ、無感動に、常識を語るかのように、そう言った。

 そして、萃香の呪い師へ向けられていた手が、完全に開き切った時には、そこにはなにもなくなっていた。

 呪い師と呼ばれていた妖怪の影も形も残っておらず、千切られ破れたローブがあるだけだった。

 いや、もしかすると、本当はそこに彼はいるのかもしれない。

 けれど、もはや妖怪として形を成すことはおろか、この世界に僅かな影響を齎すことすらない存在として、である。

 ただただ散らされ、薄い漠然としたなにかとして、この世界に万遍なく在る。

 かつて彼を構成していたものは周囲に溶けて同化し、別のなんらかのエネルギーへと変化しながら、この世を巡る。

 そこには、個としての意識はない。

 ただ、全なる、世界と呼ばれるものとなったのだ。

 人はそうなることを死と呼び、妖怪はそうなることを消滅と呼ぶ。

 そして、萃香はこれを単純に『無』と呼んだ。

 

「そこに在るのに、そこには無い。生きながらにして無に帰していくなんて、我ながら優しいなぁ……」

 

 そして、彼女はゆっくりと、自身の力をまた疎めていった。

 それまで可視化されるほどにまで密度を高められていた妖力妖気が拡散していき、世界へ散らばる。

 彼女の力もまた、ここに在って、ここには無い。

 今までその力でもって塞き止められていた雨が、ぽつぽつと萃香の身に落ちるようになる頃には、そこにはもう、何も変わらぬ、伊吹萃香という鬼が在った。

 

 

 

 

 

 




 私の文章力ではこれが限界でした。
 たぶん、表現したいことの一割も書けてない気がする……。
 うぐぐ、皆さまの想像力に期待します……。

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