短いですが、本編からでもこちらからでも、どうぞお好きにお読みください。
最近では感じることが無くなっていた『痛み』を感じて、茂吉はゆっくりと目を開けた。
周囲では村人たちが騒ぎ、悲壮な顔を浮かべて萃香に祈りを捧げている。
しかし、当の本人は、つまらなそうな顔をしていた。
どうなっているのか、どうしてそうなっているのか、茂吉にはなにもわからない。
しかし、突然、ほんの一瞬でしかないが、萃香がその顔を歪ませた。
悲しそうに、辛そうに。
いつも浮かべていた笑みがそこにはなく、満ちていた余裕が失われていた。
それは本当に少しだけで消えてしまい、今はもういつもの姿がそこにはあった。
けれど、彼女は今、とても悲しそうだった。
自分な勝手な思い違いなのかもしれない。
あの萃香に限ってそんなこと、あるわけがないとも思う。
しかし、それでも、その一瞬だけ見えた悲しげな横顔が、どうにも上手く動くことのない頭から離れなくて、茂吉は耐えられなかった。
彼女はいつものように酒を飲んでいるが、どこか壊れそうに思えて仕方がない。
今、彼女は命乞いを続ける村の人々を殺そうとしている。
鬼であるから、それは当然なのかもしれない。
けれど、どうしても、茂吉にはそれが失望によって為されるものであるように思えた。
彼女の期待は踏み躙られ、彼女の想いは遂げられず、今も内心では苦しそうにしているのだろうと、勝手に思う。
だから、茂吉は、どうしてこれほど体を動かすことが辛いのかすらもわからなかったが、彼女の傍に行こうと思った。
ゆっくりと、一つ一つ確かめるように、立ち上がる。
それだけで、膝から崩れ落ちてしまいそうになる。
しかし、なんとか堪えて、歪ながらも、その場に立てた。
何故か自分の片手は潰れて、酷く鈍い痛みを伝えてくる。
それでも、ふらふらと、転んでしまいそうであったが、立つことは出来た。
人々は茂吉の姿を見て逃げ出す。
そうして、今は少し小さく見える萃香が、こちらに気付いた。
少し嬉しそうに笑ってくれる。
その笑顔から、力強くて綺麗な声が漏れる。
その声を聞いた時、あの時思った言いたいことを伝えようと、そう思った。
あぁ、おれは、とても弱い人間だ。
でも、だから、こうして強く在る彼女の為に在れる。
いや、強く在ろうとしている彼女の為に、自分も強く在ろうと出来るんだ。
そして、そんな
だって、鬼は強いから。
口癖のように、彼女は言っていた。
初めから強い鬼が、弱く在ることなんて出来ない。
彼女は鬼は強いと言った。
それは、その下に強い人がいるからこそだと。
だから、おれは、そんな人として萃香を支えていることが、とても嬉しかったんだ。
人は鬼に成れないし、鬼は人に成れない。
そんな当たり前のことを、ずっと間違い続けていたなんて、なんて馬鹿だったんだろう。
だから、
(触れ、ないと……)
一歩、その足を進める。
バランスを崩して転びそうになるが、なんとか堪えた。
また一歩足を進める。
酷く縺れて、焦れったい。
けれど、急げば転んでしまう。
落ち着いて行かねばならない。
彼女はそこで動かず、今もいつもの如く、待ってくれている。
茂吉はそれだけのことがとても嬉しいと思う。
一歩ごとに、自分が血を流していることを自覚させられるほどに、辛く苦しい。
それでも、あの地獄のような日々にあったものとは、意味が違うから、耐えられる。
歩いて、歩いて、そして、彼女の前に立っている。
前は霞んでよく見えていないけれど、彼女はきっと、ずっと動かないでいてくれたのだろうから、茂吉はそこに向かって手を伸ばす。
それだけでいい。
これで終わる、やっと、終わるんだ。
そうして、
(これで、いい)
そう、これで、萃香が『鬼』だ。
そして、おれが、『人』なんだ。
当たり前と言えば当たり前だけれど、そんな事実をもう一度、彼女に聞いて欲しくて、口を開く。
「ねぇ、萃香、人は鬼に、なれないんだね……」
目を見開いて、彼女はいつも通り、いや、いつもより楽しそうに、笑ってくれた。
鬼ごっこは、おれの勝ち。
いや、きっと、勝ちとか負けはないのだろう。
だって、元に戻っただけなのだから。
※ ※
気が付くと、茂吉は山で倒れていた。
辺りを見渡して、さっきのことが夢でもなんでもないことに気付く。
多くの潰れた村人たちの死体や、変わってしまった地形があるからだ。
しかしながら、茂吉の姿は以前の、人のものへと戻っていた。
あの時に見えた彼女の小さな姿だけが、もうどこにもない。
けれど、それでいいのだろう。
彼女は今も鬼として、どこへなりとも歩いていったのだろうから。
立ち上がって、いつの間にか差し込んできていた朝日の眩しさに目を細める。
昨日の夜は土砂降りだった雨が止み、少々雲が多いながらも、空では太陽が暖かく輝いていた。
胸の内にあった悲しさも、それを押し流すほどの爽快感で、消えていく。
自分は彼女が好きだった。
その事実だけがあればそれでいい。
伝えることなく終わったその心は、しかし満足していた。
そうして、しばらく、朝日を眺めてぼぅっとしていると、がさがさと音がして、村の人の一人が現れた。
知っている顔だ。
しかし、いつも感じていた不快感は、どこか弱くなっている。
これからも広がっていく絶望だらけの世界でも、自分はきっと、なんとか生きていけると思うから。
死んでいるのか生きているのかすらわからなかった時は終わって、自分は確かに生きていると、そう思える。
男は、目を細めてこちらを呆然と見ている。
朝日が茂吉の背に重なっているからだろう。
そして、まるで意を決したかのような顔をして、言ってくる。
「も、茂吉か? 死んだはずじゃ……」
そんな恐る恐るな声に少し笑いが零れた。
そして、はっきりと、応える。
あの時はきっと、言えなかった言葉の一つを。
「生きてるよ、おれ」
自分は生きていると、そんなことを誰かに告げるなんて当たり前だけど、きっと大切なことだ。
茂吉の言葉を飲み込んで、辺りをきょろきょろと見渡しながら、男は言葉を続けた。
「お、鬼は? 鬼はどうなったんだ!?」
そう聞かれた時、茂吉はあの時かすかに聞こえた声を思い出す。
「……退治した」
小さく、声に出した。
「は?」
今度ははっきりと、言った。
「退治したよ」
確かめるようにゆっくりと。
彼女は笑って退治された。
もしかすると、本当は、人の強さを見たかっただけなのかもしれない。
彼女はあの時、人の弱さを見せつけられて、失望と共に悲しんでいたと思うから。
理解されなくてもいい、なんて言っていて、本当は理解していて欲しかった。
人は強いと、そう在って欲しかった。
なんて、勝手なこちらの押し付けた弱さかもしれない。
男はしばらくずっと周囲を見渡していたが、おそらく、その言葉が真実だと悟ったのだろう、少しして喜びの声をあげた。
きっと、彼は鬼の強さも、人の強さも知らないのだろう。
けれど、それでいい。
その弱さこそが、人を強くするもので、鬼を強くするものなのだろうから。
やがて、小さかったその個人の歓声は、村全体の歓声へと変わり、残っていた人々は互いの無事を喜んだ。
茂吉はそれが少しだけ、誇らしく思えた。
※ ※
これは、山の小さな村で起きたどうでもいいような鬼退治。
ただただその村だけの小さな出来事。
伝えるものは誰もおらず、今、その村はどこにも存在していない。
なぜなら、しばらくしてその村は、まるでその全体が神隠しにでもあったかのように、その場から姿を消していた。
このお話のネタは『鬼ごっこ』でした。
予測できていた人も多かったと思います。
少し駆け足気味になってしまいましたが、出来るだけ王道展開を目指していたつもりです。
いかがでしたか?
お互いのすれ違いなどに、少しでもなにか(それが悪いものであっても)感じて頂けたのなら、嬉しいです。
でも、実はあともう一話続くんですけどね!
このお話には平均文字数を低下させる目論見もあるため、ちょっと分けました。
次回は出来るだけ早く投稿しようと思ってますが、わかりません。
エピローグだけ遅れるとか、笑えない……。