八雲紫は、その手に海の外で造られた酒を持って歩いていた。
昔馴染みに会いに行くための手土産だ。
彼女は少し行った小さな丘の上でたった一人の酒盛りをしている。
たった一人の宴、宴会、酒宴会、それでも彼女は楽しんでいるのだろう。
自分には到底理解できないことだな、と、その美しい口の淵を少しだけ歪めて笑う。
しかし、その姿を見る者は誰一人として、その場にはいなかった。
なぜなら、今、この場、この世界には、彼女以外に存在していないからだ。
『境界』
彼女はそれを操り支配することの出来る、ただ一人の種族である。
そして、今この世界の境界上に造られた空間の中に生物は彼女しかいない。
普段は様々な面倒事などを避けることも出来るため、ここを利用して移動しているのである。
しかし、それもそろそろやめておいた方がいいだろう。
このまま突然彼女の手前に現れるのは、あまりに無粋だ。
ゆえに、彼女はスキマと呼ばれるそこから出て、地に足を付けた。
時刻は既に深夜。
今日は月が高く昇り、妖怪にとっては絶好の日和とも言える。
1人で月を眺めて酒を吞むのも、また一興であるのかもしれない。
まだ、彼女との間には少し距離があるため、ゆったりと歩いていくとしよう。
お気に入り、とも言える知人から貰った日傘を差して、月光で出来た影の中に足を付けて歩く。
遮るものはなく、どんどんと近付いていき、そしてその小さな背に、声を掛けた。
「こんばんわ。いい月ね、萃と疎を操る小さな鬼さん」
その声に、本当は気付いていただろうに、今気付いたかのような顔をして、彼女は振り向いた。
いつもよりも少し顔が赤い。
おそらく、彼女にしては珍しく、深酔いしているのだろう。
いつも酔っているくせに、と笑いが漏れて、口元を扇子で隠そうとして、やめる。
彼女相手にそういうものは別に隠すものでもないのだから。
「あれ~紫ぃ? どうしたの~?」
とぼけた口調にとぼけた表情。
そして、実際にそうなのだろうその内心が、少し微笑ましい。
何も考えていないのではなく、何も考える必要がないからなのだろう。
「あら、少し海の外のいいお酒が入ったから、どうせ暇してるだろう貴女と飲みにきたのよ。それとも、こういうお上品なのは、その馬鹿になった御口に合わないかしら?」
持っていた酒を掲げて、ぷらぷらと揺らす。
ワインと呼ばれる、果実から造られた酒だ。
当然ながら安っぽいものではなく、上等な品である。
けれど、それを見て、どういうわけか彼女は少し嫌そうに呟いた。
「うぇ~、そんなのジュースじゃない。たまにはいいかもしれないけど、今、私は酔いたい気分。だから、ねぇ、他にはなにかないの?」
確かに、酔うには少し軽い物かもしれない。
厚かましくも別のものを注文してくる彼女に、仕方ないわねぇ、なんて呟いて、なにかあったかと思い巡らす。
しばらくして、思いついたものを取り出す。
「なら、これはどうかしら?」
取り出したのは、アラックと呼ばれる中近東付近で造られた、蒸留酒の一種である。
当然のように高品質なもので、その濃度は60%を優に超えている。
飲み過ぎれば、人ならば酔うどころか倒れてしまう可能性も出てくるような代物だった。
「なにそれ、知らない。ちょっと飲んでみたいかも……」
どうやら、今度はお気に召したようだった。
もしくは、ただ単純に知らない酒への好奇心からか。
酒を彼女の方に放り投げ、それを受け取ったことを確認した後、彼女の隣に椅子を取り出して、それに腰掛ける。
すると、彼女から軽くヤジが飛んできた。
「え~なにそれ。別に地面に座ればいいじゃない」
「嫌よ、服が汚れるじゃないの。それに、私はこの方が楽だもの」
ノリがわるーい、などと巫山戯た調子で言いながら、さっさと彼女は手に持ったその酒を飲もうとしていた。
目は好奇に輝き、その姿も相まってただの子供のようだ。まぁ、普通の子供はそんなに酔っていないだろうが。
人間たちは普通、水で割ってそれを飲んだりするのだが、彼女はそのまま無色透明なままで口に含んだ。
「ん~、いい香り。それに、日本のお酒にはないような味だし。いや、ちょっと酒粕っぽい? でも、うーん。なんでもいいや。美味しいし」
気に入ってくれたようだった。
紫は先程からしまうことなく手に持っていたワインを、スキマから取り出したワイングラスに注いで飲む。
果実酒らしく香りもよく、悪くはない。
「あれ~? 紫、そっちを飲むんだ」
「えぇ、いいじゃない偶には」
「ふーん、せっかく私の酒を分けてやろうかと思ってたのに」
「嬉しい申し出だけれど、今回は遠慮しておくわ。今はそこまで深く酔いたい気分じゃないの」
そう返すと、そっか、と納得して、またアラックを口に含んで美味そうに飲んでいる。
しばらく、二匹で月を見ながら酒を飲むだけの時間が過ぎていく。
そして、唐突にぽつりと萃香が言葉を漏らした。
「全部、紫が裏にいたんでしょ?」
確信をもって言われた言葉なのだろう。
そうでなくとも、否定はしなかっただろうけれど。
紫は何も答えることなく、黙って聞いていた。
「別にさ、だからって殺り合おうとか、言わないよ。そんなの、途中で見抜けなかった私のせいなんだから。それに、最後はちゃんと、本物だったしね……」
ゆえに、ただ、彼女の言葉だけが紡がれていく。
そこには、本当に自分に対する恨みなど含まれておらず、紫は密かに思った通りだと、薄く笑った。
そして、萃香は突然その場で大の字になって後ろ向きに仰向けで倒れこむと、下から紫を見上げながら、言う。
「でさぁ。見ててどうだったの? 満足した?」
純粋な疑問。
彼女は自身の瓢箪からいつもの如く酒を吞んでいる。
見れば、いつのまにかアラックの器が空になって傍に置かれていた。
紫はこれに沈黙を返すのは頂けないだろうと、曖昧に応える。
「一応は、ね」
その答えに、萃香はただ、ふーん、とだけ気にした風も無く返し、じっとこちらを見つめていた。
また、紫もワインを注ごうとして、とうにそのボトルが空になっていたことに気付いた。
彼女が飲むペースに知らずの内につられていたのだろうか。
飲み過ぎないように自制しようと思っていただけに、少々戸惑う。
「ありゃ? 無くなったの?」
すると、そう、声を掛けられた。
特に否定するような場面でもなかったので、えぇ、とだけ答えると、萃香は立ち上がってこちらに寄ってくる。
なにをするのだろうとそのまま見ていると、紫の持っていたワイングラスに、その瓢箪の酒を注いでいた。
「うっふふ。ソレでその酒を飲むなんて、ちょっと変かも……。まぁ、ワインと違って味は変わらないだろうから、遠慮せずに飲めばいいよ。それとも、鬼の勧めた酒が飲めないなんてこと、ないよね?」
おそらく、彼女なりの小さな意趣返しを含んだそれを、断ることは出来ず、甘んじて受けることにする。
仕方なしにその注がれた酒へとゆっくりと口を付けた。
相も変わらず強い酒だと、そう思う。
先程まで飲んでいたものとの差でもって、少々舌が焼かれていく感覚を味わう。
しかし、二口目にはもう、それも美味しいと思えるようにはなっていた。
同じ酒を飲みながら、同じように月を見ているその事実に、何とも言えない気持ちが紫の胸を満たした。
「人のさ……」
また突然、萃香が口を開いた。
続くその言葉には少々驚くが、表情には出さない。
少しは予想も出来ていたのだから。
「紫は私に、人の弱さを見せたかったんでしょ?」
こちらの思惑が少しは見透かされているかもしれない、と。
今まで会ってきた中で、どこかが違う、そんな妖怪、そんな鬼である彼女ならば、そう不思議なことではないとも思える。
ゆえに、自身のその驚きすらも予測の内に入れて、一瞬の動揺すらなく、変わらぬペースで酒を飲んでいく。
ちょっと喉が熱い。
「私に思わせたかったんでしょ? 人の弱さをああしてまざまざ見せて、人がどれほど弱い存在なのかって」
そのためにあんな存在までわざわざ用意してさ、と、彼女は少しだけ苛ついたように言った。
けれど、あぁ、そこまで理解していたのかと、そう思う。
しかしながら、あのように終わらせたのだから、それも仕方ないことなのかもしれない。
それでも、紫は自分のペースを乱さない。
どこまで理解されていようとも、幾重に掛けたその予測、予想が完全に覆されてはいないのだから。
だから、私はこう返そう。
あんなの全て
「偶然よ」
その言葉に、彼女はわかってるよ、とそう言って、また酒を飲みだした。
そう、全て偶然なのだろう。
偶然紫がその境界を弄って生み出された妖怪が、偶然見た鬼に憧れて、偶然そこに訪れた紫がその力を込めたローブを渡し、偶然その妖怪が流れ着いた村に、偶然萃香が近寄って、偶然その妖怪の気配に気付かずに鬼退治を受けてしまった。
それだけの話である。
全て偶然の産物であり、それ以外の何物でもない。
最後などは特にそうだ。
流れるに任せて、見ていただけ。
だって、そうでしょう?
いくらそれが連続して繋がっていようとも、偶然と必然の境界なんて、誰にもわかりはしないのだから。
「人が弱いだなんて、自分でも思ってないくせに……」
不機嫌そうに、萃香はそう吐き捨てた。
紫はそれに笑みを返すことしかしない。
確かに、その通りではある。
八雲紫は、多くの人の弱さを知りながら、人が弱いなどと微塵も思っていない。
けれど、彼女とは根本的に違う。
紫は、実際に知っているからそう思えるだけだ。
人間がどれほど強い存在であるのか、その可能性を知っているのである。
彼らは遂には妖怪など歯牙にも掛けぬ存在へと成り果てる。
弱いなどとは口が裂けても言えぬような程に強大なものへと至り、この地を捨てて、去って行ったのだから。
そんな未来を持ち得る人間を、どうして弱いと言えようか。
やがて、神のような位階にまで辿り着くであろう存在が、弱いわけがないのだ。
八雲紫はそれを知っているから、その結論に達していた。
「ほら、また無くなってるよ。もっと大きい器を出せばいいのに、そんなちびちび飲んで……」
萃香はまた紫へと酒を注ぎ足しながら、ぶつぶつ文句を言っている。
しかし、目の前のこの鬼は違うのだろう。
アレらはまだ紫にしか知り得ないものである。
ゆえに、本当に本心からそうであるのか、確かめたかった。
そして、結果は、伊吹萃香という鬼は、その自身の今までの生のみによって、人は強いと確信しているのだ。
人の弱さを知らない無垢からではなく、知っていながら尚も、そうだと言っている。
馬鹿げたことだ。
これがまだ発生して千年単位の妖怪であったならば、まだ理解できる。
だが、この鬼はその身に如何に強大な力をもっていようとも、未だ二百に届かぬ短い歳月しか生きていない。
到底、それを確信できるような月日ではないだろう。
しかし、それでもあの様子を見ていれば、それを疑うことはもはや出来ない。
精神の支柱を壊された人間の脆さ。
絶望に浸っていた人間の弱さ。
妖怪に利用されてしまう程度の鈍さと、その醜さ。
それら全てを見ていながら、人は強いと言い続ける。
自身の強さをなによりもその証明に置いて。
そしてそれは、何よりもその在り方こそが
(あまりに、異質過ぎる)
紫はぐいと、ワイングラスから零れそうな程に注がれた鬼の酒を飲み干した。
隣で萃香がいい飲みっぷりだと、けらけら笑っている。
鬼は妖怪の中でも特に気紛れで、その行動は理解しがたい傾向にある。
しかし、その中にあっても、伊吹萃香という鬼は異質な存在であった。
彼女は、自分自身に鬼であれと、敢えて自らそう課しているのだ。
何もおかしいことはないと思うかもしれないが、充分におかしいものである。
なぜなら、本能と共に、理性に置いても、それを課しているからだ。
考えてみて欲しい。
例えば、獣に理性が在ったとして、そこまでストイックに本能的であれるだろうか。
獲物を捕らえて喰らう、ということは、獣にとって一種の本能であり、そこに理性が介入する余地などない。
そこに理性が出てくれば、そこまで盲目的に獲物を捕らえて喰らうという行為をすることなど出来やしないだろう。
しかし彼女は、理性を本能と同一のものとして、そこへ介入させているのである。
理性的に本能的。
あまりに外れた在り方だ。
現に、彼女以外のこれまで紫が見てきた鬼は、「自分は鬼として在る」などと考えてすらいなかった。
しかし、それも当然と言える。
例えるなら、普通、人が人であるというのに『人らしさ』など生きていく上で必要であろうか。
人らしさなど無くとも、人として生まれたその瞬間から人であるように、変わることなく人は人であり、鬼は鬼であるのだから、『そう在る』ことなどほとんど意味がない。
けれど、鬼で在ろうとする以前に彼女は鬼であるのにもかかわらず、尚、彼女は自身が鬼で在ろうとしている。
到底、理解できるものではなかった。
そして、それゆえに彼女は普通の鬼を遥かに上回る傲慢さを持ち、普通の鬼以上に気紛れで、普通の鬼以上に強く在る。
あまりにも模範的過ぎる鬼として、彼女は異質な存在であったのだ。
忠実過ぎるほどに鬼であるがゆえに、『ただの』鬼とは外れた存在。
今回のことによって、それがよく理解できた。
そして同時に、紫にとっては、自身がそうまでして理解しようとした相手など、なかなかいない。
「んぁ~? なに? じっとこっち見て」
悩みの源泉である彼女は既にその機嫌を直してごろごろと地を転がっている。
きっと、本当に自分が紫によって嵌められたことなど心底どうでもいいと考えているのだろう。
自分とは全く違う、その気持ちの良い在り方が、少し羨ましくも思う。
けれど、この在り方を変えるつもりはなかった。
「あ、そういえば。私に向かって喧嘩を売られたの、あの時の紫以来だったよ。あの時は、あんなあっさりした終わりじゃなくて、すっごく楽しかったなぁ……」
ふと思い出したかのようにそう言って、昔、お互いが初めて出会った時に始まった戦闘にでも想いを馳せているのか、その顔はにやにやと緩んでいる。
けれど、紫にとっては、それほど楽しい思い出などではない。
割りとお互いに命の危機を感じるような程に切羽詰まった危ないものであったのだから。
それでも、
「そうねぇ。まさか生まれたばかりの貴女にあそこまで追いつめられるとは思わなかったわ」
あの時初めて、
興味本位で藪を突いてみれば、とんだモノが出てきたものであるとも思った。
まぁ、実際に彼女は鬼であるし、藪を突いて鬼が出ただけなのだろうが。
その言葉を受けて、萃香は唐突にすっと立ち上がると、こちらを見て言った。
「強さに年月は関係ないよ。私は鬼で、ただ強いからこそ強いんだ」
昔と全く同じ言葉に、紫は浅い笑みがこぼれた。
そう言って、本当に有言実行、それを証明して見せた彼女。
世界と
生まれて百数年ほどの妖怪が、持ち得るような力ではないと。
「貴方は本当に、なんなのかしらねぇ……」
呆れたようにそう呟くと、すぐさま彼女から「私は鬼だ!」という声が返ってくる。
その反応が楽しくて、今度は、ふふ、と声を漏らして笑ってしまった。
萃香はただただそう言うけれど、紫は本心からはそう思っていなかった。
彼女が鬼である、というのは、確かに疑いようのない事実であるのだろう。
けれど、紫は確かに感じたのだ。
彼女が全力でその能力を行使した時に。
はっきりと、
『同胞だ』
と。
そう感じ、そう思い、同類と出会えたことに思わず涙を流しそうになった。
不意に孤独を癒されてしまったその感覚だけは、今も心に強く残っている。
だから、
(また、それも確かめないとね……)
そんなことを考えながら紫は、また空になったワイングラスに注がれた酒を飲み干した。
「よーし、それじゃあ、飲み比べでも始めようか! あ、そうそう、あの、あ、アラック? って酒、また出して。あれだけじゃ全然飲んだ気がしないよ」
紫はそのお願いに、はいはい、と苦笑しながら応じてやる。
うぉー、今夜は飲むぞー、と月に向かって吠える彼女が、どうにもこうにも微笑ましい。
二匹きりの酒宴は、まだまだしばらく終わりそうになかった。
これで本当に二章の第一部の終りになります。
一昔前の物語のように、王道的な、全て紫さんの掌の上というやつですね(ちょっと違うけど
二章での一貫したテーマとしては『伊吹萃香という鬼』とはなんなのか、というものです。
一部では紫さんによるその精神性への謎の追求となりました。
元は、どうして原作萃香は同族からも外れているの?
と言う疑問からこの物語は始まっているので、ある意味一番書きたい部分、話の核でもあります。
ちなみに説得力などは皆無なので、それほど深く考えずに読みましょう!
萃香ちゃんはミステリアスで可愛い、それでいいじゃないか!
それと、ちょっとしたお知らせが活動報告にあります。
お暇なら目を通して頂ければ嬉しいです。