伊吹すいかの酒酔い事情   作:夜未

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伊吹醉香は逃げ惑う

 私は確かに人であった。

 

 しかし、今、私は鬼である。

 

 この相反するものは、肉体的な違和感は無くとも、かなりの戸惑いを私に生んでいた。

 

 いっそ、記憶さえなければ、とも思うが、そんなことを思ったところで、記憶が消えてなくなるわけでもなく、ただただ、折り合いや、割り切りというものを付けようとした結果、さして気にしないことに決めた。

 

 なにせ、鬼と言ってもただ角が生えて少々怪力なだけである。

 

 姿形はほとんど人の童女だったことも大きく、私は比較的早く精神的に安定することができた。

 

 服装はみすぼらしい衣のようなもの一枚ではあるが、不思議と寒くはない。まぁ、気候も冬のような寒さではなく、適温であるし、鬼でなくともそんなものかもしれない。

 

 ただ、両手に鎖で繋がれた赤の三角錐と、黄の球体の分銅のようなものが、少々邪魔であったが。

 

 長くなった髪が、後ろに少し引かれる感覚があったので、髪を手繰って見てみると、これまた鎖で水色の立方体がついている。

 

 髪が纏めてあるだけなのに、引っ張っても何故か取れない。

 

 じゃらじゃらと鬱陶しいが、結局、これらは放って置くしかなかった。

 

 なんとなく、取れたとしても、取ってはいけないような気もしていたからでもある。

 

 そうして、内面的なものや外見的なものに決着を付けると、改めて周囲へと意識が及んだ。

 

 本当に何もない草原である。

 

 ぐるりとその場で見渡してみても、緑一色しか見えない。

 

 いや、少し違いがあった。

 

 だいたい右の遠くのほうには、森のようなものが見えている。

 

 遠く離れた濃い緑が見えるのは、鬼ゆえの視力の高さゆえか。

 

 しばしどうするか迷い、私は結局、森の方向へと向かうことにした。

 

 目印がない方へ行くよりも、何らかの目的地がある方へ向かう方が、精神的に楽だから、という考えが主なものだ。

 

 もしかすると、森で暮らしているような人に出会えるかもしれない、という期待もあった。

 

 一歩踏み出して、あっ、と気付く。

 

 私は、今、裸足だったのだ。

 

 だからどう、というわけではないが、何となく、裸足で地を歩くというのは、子供の頃を連想させられる。

 

 人の頃よりもかなり小さくなった私の足は、しっかりと地についている。

 

 容姿が童女であるからか、地を踏む感触や、足に当たる草の感触が、なんだか嬉しくなって、駆けてみたり、飛び跳ねてみたりしながら、私は森へと向かっていくのだった。

 

 第二の生に、期待をしながら。

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 しばらくして、森に到着した。

 

 小一時間ほど歩いたのだが、鬼となったからか、私の足の裏は、裸足にもかかわらず、一切の怪我など負うことはなかった。

 

 一人きりであるため、もし怪我をして、そこから病気にでもなってしまったなら、二度目の人生、いや、鬼生をあっさりと終えてしまうところであったかもしれない。鬼が病気にかかるかは謎であるが。

 

 じっと前方に広がる森を見ると、中は木々が密集して生えており、太陽の光が遮られているためか、薄暗い。

 

 入ろうかどうか悩んでいると、奥の方で、少しぼやけて光るものが見えた。

 

 もしかすると、人かもしれない、という思いが胸のうちにわき、私は意を決して森の中へと足を向けることにする。

 

 鬼の丈夫な足裏はもう充分知っているため、ずんずんと奥へ奥へと光の方へ向かっていく。

 

 中はやはり薄暗かったが、そこまで視界が悪くなる、ということはない。

 

 やはり、視力も人ではなく、鬼なのだろう。

 

 しかし、光はまだぼやけてハッキリと視認することが出来ない。

 

 完全に近寄らなければ見えないのだろうか。

 

 はたして、それは本当に人の持つ提灯なのか?

 

 もしかすると、人魂、というやつかもしれない。

 

 鬼がいるのだ。それくらいはあるだろう。

 

 などと、あまり期待し過ぎないようにして、近づいていく。

 

 奥へ向かうほど、なんだか寒くなってきているような気がした。

 

 そして、やっとの想いで其処へとたどり着き、光源がなにであるかを目視できると

 

「げひひゃッ、こいつぁ、運がぁいい。見たとこ生まれたてたぁいえ、鬼じゃぁねぇか。げひっ、さぁ、おいで子鬼ちぁゃん。おいらぁが、うまぁく、うまぁく、くってやるかぁらよ……」

 

 提灯鮟鱇の化物がいた。

 

 いや、正式には提灯らしき発光しているものが頭の先から生えているだけで、鮟鱇には見えはしない。

 

 なにせ、二足で立っているし、顔も鮟鱇のような生物を上から潰して目を大きくしたようなものだ。

 

 そして何よりも、口が大きすぎる。

 

 ぬらぬらと唾液が滴り落ち、頭の先の提灯の光を受けて不気味に映る噛み合っていない牙が並ぶ。

 

 そのひょろ長い体の腕の先には、あまりに長すぎる爪が伸びていた。

 

 そんな生物が、私に向かって、ぎらぎらと目を光らせ、笑みのようなものを浮かべているのだ。

 

 私の口からはなさけなくも「ひっ」というような悲鳴が漏れた。

 

 逃げなくては。

 

 私の頭の中はそれで占められていた。

 

 もはや森へ来るまでの童心に浸っていたあの楽しみなぞ微塵もない。

 

 身を翻そうとして、先が何もない草原であることを思い出す。

 

 もしかするとこの生物は太陽光が苦手で森から出てこれないのかもしれないが、もしそうでないのなら、隠れる場所もないあの場は格好の狩場へと姿を変える。

 

 判断は一瞬。

 

 私には命がけの分の悪い賭けをする度胸などなく、真横へと駆け出した。

 

 じゃらじゃらと、腕と後ろの髪の先から鎖の音を立てながら、人であった時には考えられぬほどのスピードで森の中を突き進んでいく。

 

 しかし、私が人ではないのなら、相手もまた、人ではない。

 

 後ろからは未だ、げひげひという気味の悪い笑い声が聞こえてくる。

 

 もはや振り向くことさえできない。

 

 ただただ前のみを見て、木を躱し、時には倒木を飛び越え、私は走り続けた。

 

 

 ※  ※  ※  

 

 

 命がけの鬼ごっこの末、私は大木の根元の穴へと身を隠していた。

 

 本来、鬼であるはずの私が逃げ惑うというのは、中々に洒落が効いている。

 

 疲れ果てた精神でどうでもよいことを考えながら、必死で気配を殺していた。

 

 肉体的な疲労は、実はほとんどない。

 

 鬼であるこの超常の身体能力を活かしてすることが、逃げ惑うこととは、我ながら何とも臆病なものだと思考の端で呆れ果てる。

 

 これからどうすればよいのか。

 

 幸いなことに、あの化物はこの身の生み出す速度には追いつくことはなかったようで、追ってくるような気配はない。

 

 しばらく、この場で気持ちを落ち着けることに決める。

 

 ふーっと、息を吐いて、背を後ろの壁へとつけると、期待したようなトンっという感触ではなく、ぬちゃっという気持ちの悪い、粘性の水分が張り付いたような感触が返ってきた。

 

 迷わず、さっとその場を出ようとしたが、出入り口の穴が急速に狭まっている。

 

 本能的に理解した。

 

 自分は今、化物の口内にいるのだ、と。

 

 私は即座にもはや二十センチもないほど狭まった穴へと両の手を差し込むと、思い切り横へと広げる。

 

 この、鬼という身には、もはや感謝の念が尽きない。

 

 その怪力によって、何とか穴を、身を通れるほどへ押し広げて、滑り込むように外へ出る。

 

 脱出に成功したかと思えば、頭が後ろへと引かれる。

 

 私の髪を縛っている水色の分銅が植物の中へと取り残されていた。

 

 髪を持って、思い切り引っ張ると、ばきばき、という音を立てて、木の化物に小さな穴を空けて取り出すことに成功した。

 

 私はさっさとその場から走り去ろうして、足に何かが引っ付いていることに気付く。

 

 見ると、白く、長い、蜘蛛の糸のようなものが脹脛(ふくらはぎ)についていた。

 

 これがただの蜘蛛の糸であれば、どれほど良かったか。

 

 それは、普通の蜘蛛の糸ではなかった。

 

 何せ、その糸は、太さが十センチほどもある。

 

 目で出所を窺うと、案の定、馬鹿でかい、人間の子供程もある蜘蛛が、木の幹に張り付いていた。

 

 私はその糸の張り付いた感触の気持ち悪さと、その大きすぎる蜘蛛の気味の悪さに叫び声を上げながら足を左右に振る。

 

 しかし、千切れることはない。

 

 もう一度様子を窺うと、幾つもある蜘蛛の目と、目があった気がした。

 

 その瞬間、私は、その場から背を向けて逃げ出した。

 

 方向なぞ、もはや気にもしていない。

 

 ただただ、この森へ来たということへの後悔を抱えながら、私は泣きながら走り続けた。

 

 走り続けている間に、蜘蛛の糸はいつの間にか千切れていたが、もはや私はそれに気付くような余裕などなかった。

 

 

  ※  ※  ※

 

 

 それからも、私は数多くの化物と遭遇していた。

 

 どいつもこいつも、私の頭の角を見て、鬼と知るや、嬉々として喰らおうと襲ってくる。

 

 それらすべてから逃走し続けているうちに、私の精神はもはや限界が来ていた。

 

 走る速度は変わらないまま、しかし、精神は諦めに支配されて。

 

 そして、私はいつしか、地へと倒れ伏していた。

 

 起き上がる気力が、もはやない。

 

 香ってくる草木の匂いを嗅ぎながら、私は目を閉じる。

 

 体は無茶なルートを走り続けていたので、見た目がボロボロであったが、最後まで、肉体的な疲労は感じてはいなかった。

 

 しかし、心が限界を迎えていた。

 

 もう、恐怖することに疲れた。

 

 そんなことを思い私の意識は遠ざかっていく。

 

 最後に、枯れた声が聞えたような気がした。

 

 

 

 


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