夜になった。
天厳の後をつける、とは言っても、それはそう簡単なことではない。
彼の察知能力の高さははっきり言って、私程度の存在が敵うはずが無いモノである。
そも、鬼である私がそのような隠密の術を身に着けているわけもなく、稚拙な小細工程度、彼が長き時の中で磨き上げられた彼のそれに通用するものでもない。
けれど、ゆえにそれさえも、私にとっては娯楽となるものであった。
どうやって彼にバレずに着いていこうか。
それを考えることが、愉しくて仕方がない。
妖や夜行性の獣以外が寝静まる時になって動き出す彼を、いつものように大の字になり、地に寝転がって眠っているふりをして待つ。
彼の部屋で酒を飲み、様子を探りながらこうなったのはいいけれど、酔った頭を横にして眠るのは楽で、気を抜けばそのまま眠ってしまいそうだった。
むしろ、このまま眠ってしまってもいいかもしれない。
などという抗い難い欲求を、好奇心で捩じ伏せる
酔っ払いに狸寝入りは厳しいものだなぁ、などと思いながらじっとしていると、天厳は特に気にした風もなく、その場から動き出していた。
その今を動かす原動力となっている好奇心を満たすための手段が、既に目的と半ば化していることを自覚しながらも、私はその後をつけるために、自らをゆっくりと散らしていく。
空気を揺らがせる小粒では天厳の能力と並行されている察知能力を欺くには足りず、ゆえに、更に微細なまでに気化した状態にまで自身を散らし、霧とも呼べぬほどの希薄さで、私も彼の後を追うために動き出した。
傍から見れば、それは夜空に薄い靄がゆっくりと天へ昇っていくようなものに見えるだろう。
さすがの天厳と言えど、これほどまでに薄い状態の私を見つけることは容易ではないと思えた。
さて、行こうか。
と、改めてその姿を探そうとした時、
「なにをしている?」
上から声が聞えた。
見れば、宙に浮いている娯楽の対象がいる。
まさか、始まる前に終わってしまうとは。
仕方のないことかもしれないが、やはり少し悔しい。
一人嘆息しながら、せっかく散らしていた体を、もう一度萃めて、元へと戻る。
「あー、なんというか、その、いつからわかってたの?」
白々しく振る舞うのも癪であったので、開き直って聞いた。
天厳は特に気にした風も無く、淡々と答えた。
「貴様が眠っている時にも騒がしいのだ。狸寝入りしていることは見ればわかる。そも、貴様が儂の留守を知っている時点で探ろうとしてくることなどわかっていた」
どうやら、初めからお見通しだったらしい。
こうまで簡単に理解されているのが腹立たしいが、同時に少し心地良くもあった。
「ならいいや。で、どこ行くのさ?」
見つかってしまっては仕方がない。
直球で聞いてみる。
そのことに少し虚を付かれたのか、答えるまで少し間があった。
「後をつけようとしたことを何も感じずに、よく言ったものだな……」
生憎、私は罪悪感など感じるような弱さを持ち合わせていない。
「えー、別にいいでしょう。 それに、現にこうして失敗してるわけだし。それとも、見られたくなかったり、教えたくなかったりすることなの? なら、ますます興味が湧くね」
私が自分のしたいことをやって後ろめたさなど、感じるはずがないのだから。
ゆえに、軽く鼻で笑ってそう言った。
天厳もそれがわかっているのか、小さく溜息を吐いて、
「まぁ、いい。付いて来れば良かろう。
案外、簡単に承諾されたことに少し驚きながら、私はさっさと前を行くその後ろ姿を追っていくのだった。
※ ※
着いていった先は、山の麓部分であり、ちょうど、初めて私がここに来た場所でもあった。
私が来た時は日が昇っていて明るかったその場所は、夜になると雰囲気が少し変わる。
天狗の縄張り近くであるため目立った妖怪は居らず、辺りには静けさだけが漂っていた。
そして、更にその雰囲気を変えていたのは、その場にただ一人で立っている、人間の少女によってでもあるようだ。
どことなく寂しさを含んだ印象を受ける彼女は、ぽつりと世界から隔離されたように、私のようなモノが言うことではないかもしれないが、一枚の幻想的な絵画の様にも思える。
天厳は足を止めることなく彼女へと近付いていき、その後ろに従う形で、私も歩いていく。
夜目が効かない人間の視界にやっと入る位置にまで来ると、少女はすぐに私たちに気付いた。
天厳を見て、少しその寂しさを含んだ雰囲気が緩和され、その後ろにいる私を見て、少し驚いたような表情に笑みを混ぜて作る。
まさに、それは作ったような表情で有り、その美しく整った容姿と相まって、良く出来た人形のようですらあった。
「また、来てくださったのですね、天狗様」
声が届く位置にまで来ると、すっと頭を下げ、礼を取り、少女はそう言った。
鈴の音に、透明さを加えたような声だ。
「あぁ。俺は約束を違わすことはせん。今晩は一つ、興味本位で釣られた者がいるがな」
チラリと私の方を見て、天厳が言う。
少女も言われた私の方へと目を向け、また、頭を下げた。
そんな態度がどうにも耐え切れず、
「私に礼なんて取らなくていいよ。鬼が人に礼を持って接されるなんて、あんまりいい気分でもないからね」
いつしか、礼を取れと人に言ったことを棚に上げている自分が、少し阿保らしい。
人が礼を払う存在が、鬼であるはずがない。
「鬼……ですか……」
目を丸くして不思議そうに笑い、そう呟いた彼女に、私は少し目を惹かれながら、自身の二本の角を両手で指して言ってやる。
「うん、そうだよ。鬼さ。見てわからない? 第一、こいつら天狗みたいにいつもしかめっ面なんてしてないでしょう?」
天厳から視線が向けられるが、無視して鼻で笑い、とぼけたよう振りをする。
そして、女から視線を外して、天厳へと言った。
「あんた、人間の女と逢引してたんだね」
天厳は少しだけ殺気を含んだ視線を向けてきた。
彼にとって、気に障る言葉だったのだろう。
「貴様には関係無いだろう。それで、好奇心が失せたのならさっさと何処へなりとも消えていろ」
着いてきてもいいと言ったかと思えば、消えていろと言う。
なんとも意見が忙しい奴だ。
そんなことを思いながら首を竦めると、ほんの戯れのような軽い応酬であったのだが、女は少し肝を冷やしたらしく、戸惑いながらも、困ったような笑みを浮かべた。
どう声を掛ければいいのかわからず、ただ私と天厳の間を視線が飛び交っている。
その様がなんとなく面白いと思った。
「いや、逆にもっと興味が湧いたよ。もう少し、この場に居させてもらうね。まぁ、特に私から話したいこともないし、ここらでちょっと酒でも飲んでるからさ。お構いなくすることをしてくれていいよ」
女はおろおろしながらも、こちらをチラチラ見てくるが、私が後ろにある木の根元に腰をおろして酒を飲み出すと、彼女はゆっくりと、天厳の方を向いた。
本当に私がここから動く気がないことを悟ったのだろう天厳は、ちっと小さく舌打ちをして、女の方を見る。
「さっさと始めるぞ、女。こいつの相手は面倒くさいのだ。早く終わらせねば余計な野次が飛んでくる」
馬鹿にしたように皮肉って、彼は言った。
それに対して女はただ笑顔を浮かべるだけだ。
そして、女はその場の地へと直接正座の形で腰を降ろした。
「わかりました。今日もお願い致します、天狗様」
そう言って、土下座でもするかのように、頭を下げる。
私に対して愚痴を零しながら女に近寄る天厳と、少し緊張しながらも笑みを浮かべ、その場、地べたに直接正座をする女。
いったいなにが始まるのだろうか。
酒を飲みつつその様子を楽しみに窺っていると、天厳は女のすぐ傍にまで近寄って立ち、その大きな手を女の頭の上に乗せた。
そして、
「んっ……」
一瞬、女は声を漏らす。
それは少し気持ちよさそうに、けれど、色を含んだものではなく、ただ癒されることへの安心感から洩れた言葉のようだった。
天厳の手がその能力を行使していることを証明するかのように、夜の闇を淡く照らしている。
していること、されていることを理解して、
「へぇ~。あんた、天狗の長のくせして、こんなことしてたんだ」
私が
「俺がこんなことをしていることが、悪いのか?」
そう、吐き出した。
正しく、吐き出すような口ぶりだった。
そんな天厳の姿を見て、私はふふっと、口元を歪めて笑う。
いや、笑ってしまう。
彼がその問いを私にすることがあまりに愚かで、そして、彼のその行為があまりに哀れで……。
「さぁねぇ……。そんなの知らないよ。だって私は鬼だから、ね……あっはは!」
自分でわかっていることを一々聞くなと、そんな意味を込めて、笑い飛ばす。
苦々しげにこちらを見る天厳の手の下で、女は私が出会った瞬間よりも血色が良くなっているように見えた。
いや、それは見えるだけでも気のせいでもない。
確かに、そうなっているのだろう。
それまで停滞していた体の中の澱みが、ゆっくりと、正しい流れに乗って、身体を循環し、薄くなっていく。
天厳の持つ能力によって、女の身体は正しく働いているのだ。
そう、天狗の長であり、天狗たちから敬われる大天狗たる彼、天厳は、人間の命を救っていた。
他の天狗たちが見ればなんと言うであろうか。
天狗が、人の命を救うなど、異常なことである。
まして、それが長という上に立つ者の行為であれば、尚更だ。
それは天狗たちの持つ種族意識がそうさせるのか、或は別の理由からかは知らないが、天狗は基本的に人に利を為すことをしないのだから。
彼は、どうしてこれを私に見せたのか、改めて疑問が湧く。
けれど、それを打ち消して、ただその馬鹿げた行為を肴に酒を飲んだ。
天厳は私に何も言わない。
そして、私も天厳にもう何も言わない。
私が何かを訊ねても、彼は答えられないだろうことを私は知っているし、また、彼も自覚しているだろうから。
けれど、それがどうしてなのかはきっと、彼自身わかっていないのではないかと思う。
にやにやと彼らを見ているだけの私に気付くと、天厳が睨んできた。
それを見て益々私の笑みが深まる。
そうして、しばらく、おそらく一刻ほどであろうか、が過ぎた時、
「あの、天狗様……」
彼と私が何も喋っていないにもかかわらず、少し険悪な雰囲気になりそうだったところで、天厳に未だ治療されている女が、声をあげる。
その女の顔には、透明な笑みがあった。
少しの違和感と、嫌悪感。
そんなものを抱きながら、私は彼への笑いを止めて、女を見た。
天厳も私から視線を外し、女を見る。
二つの人外の視線に晒されながら、女は怯むこともなく言った。
「私はもう、ここには来ることが出来なくなってしまいました……」
女は心底、辛く、苦しそうな声音でありながら、しかし、顔だけは笑みを浮かべたままで。
そう言ったのだ。
ただただ、その時の透明なその笑顔は、どういうわけか、深く私の心に、突き刺さった。
※ ※
女の話によれば、どうやら彼女は結婚するらしい。
都の大臣の一人と義を結ぶための、言わば政略結婚のようなものだろう。
また、横から聞いている限りでは、十日に一度天厳に病を治して貰わねば生きてはいけないほどに悪いらしいのだが、お互いにお互いの家を一度結びつければ良いらしく、むしろいつ死ぬかわからぬ彼女の、悪い言い方ではあるが、廃品の有効活用として都合が良かったらしい。
確かに女は美しかったが、病弱で子を為すことすら難しい身体では、そういう風に使われても仕方がないのだろう。
そこのところを、どうにも女は自覚している節がある。
結婚しさえすればその翌日に死んでもいいとは、なんとも親として薄情なものであるが、権力に狂った人間とはこんなものなのかもしれない。
つらつらと、そんなどうでもいいことを考えながら帰路についていると、隣を行く天厳が言ってきた。
二匹揃って、空は飛んでおらず、帰りは敢えて歩いている。
「あの女の顔を見て、何か思ったことはないか?」
そう言いながらも、彼は歩みを止めない。
前を向く彼の横顔からは、私では何もわからなかった。
言われてから考えて、私は女の笑顔を見て感じた違和感と嫌悪感を思い出す。
確か、彼女は、その表情が……
「なんでか、ずっと笑ってたね。それがなんなのさ」
そう、なにが楽しいのか、何が愉快なのかしれないが、ずっとにこにこと笑っていた。
悲しげに天厳へ別れを告げる時ですら、笑みを浮かべているほどに、その顔には笑顔が張り付いていた。
私がここに来る前からの邂逅はきっと彼女の中で大切なものであったろうに。
それでも、彼女は笑っていた。
天厳が、その場で立ち止まる。
釣られて、私もその場に止まる。
前を向いていた天厳が、こちらに顔を向けて、言った。
「あの女は、『笑顔』以外の表情を知らぬのだ」
それを聞いた時、私は理解してしまった。
あの透明な笑みの意味。
あれは、自分のために浮かべたものではない。
楽しいから浮かべたわけでも、嬉しいから浮かべたわけでも、可笑しいから浮かべたわけでもなく、そして哀しさを誤魔化すために浮かべたものですらもない。
ただただそれは
「全ては相対する者に対して不快をもたらさぬ様にと、そう教えられて育ってきたらしい」
それを聞くと同時に、私は鼻で笑っていた。
「くっだらないねぇ……」
自分の顔が、自分以外のためにあるなんて、愚か過ぎるだろう。
きっとそれを教えた人間は、あの女を人形のように捉えて育てていたに違いない。
自我が擦り切れてしまうほどに、笑顔を植え付けられながら。
彼女は感情ではなく、相手の為に笑っていた。
私が最初に抱いた人形という例はどうやら的を射たものであったらしい。
正しく、それは人形のような笑みなのだ。
私がそう切り捨てて言う姿を、天厳はただなにも言わずに見ていた。
そうして、少ししてから
「あぁ、くだらない。本当に、くだらないな……」
そう言って、また前へと向いて進み出す。
その言葉の後に、ぽつりと、彼は小さく言葉を漏らした。
「だが、それ以外に、自分を知らぬのだ……」
その言葉は私に向けたものではなく、ただ、夜の月が輝く暗い空へ溶けて消えた。
本当にくだらない話だと、そう、思った。
頭の中の情景を文にまとめるのは難しいものですね。
描写不足を感じられた部分がありましたなら、教えてください。