伊吹すいかの酒酔い事情   作:夜未

25 / 29
いったいいつから、午前九時に投稿すると錯覚していた……?(予約し忘れ)
閑話ですが、ある意味本編です。
誤字脱字、描写に不足があれば指摘お願いします。


閑話 天狗と人 1

 

 

 彼にとって、天狗の長であることは、この世に生を受けた時から既に当たり前のことであった。

 天狗という人に良く似た社会的構造を持つ集団の中で、彼は生まれ落ちたその瞬間から既に他を圧倒する強大な力を持ち、誰もが彼が長となることに疑問を持たず、彼もまた、自分がそうなるであろうということに疑いは持たなかったほどに。

 事実、彼はその身に備わっていたその力を更に伸ばし続け、生まれて数十年という早さでそれまでの長を屈服させ、次の長に認められたのだから。

 そしてそれは、その天狗たちの集団の中で、もはや彼の寿命が尽き果てるその時まで、世代は交代することなく続くであろうということも、また、当然としてあった。

 強きこと、それ即ち、天狗の社会、いや、妖怪の世界にあっても、正義であり、権威であり、偉大であることに等しい。

 彼の強さは、それに従えば正に絶対的ですらあった。

 それまで天狗たちの縄張りに勝手に住み着いていた、それまでの長達ではどうしようもなかった妖怪たちは一匹残らずその土地を追い出され、他の場から自らの土地を求めてやって来た強大な妖怪すらも、誰も彼には勝てなかった。

 強大な妖気と、それを十全に扱う技量、そして流れを操るという特異で無比の能力。

 数多の天狗の中においても至高とすら称されるであろう、天狗の中の天狗。

 その名を、天厳と言った。

 

 

  ※  ※

 

 

 天狗の長としての仕事とは、自らの土地を治め、数多の天狗たちを統括することである。

 土地を治めるということは、妖怪の中でも偉大なる天狗が治めたる土地が、他の土地よりも貧しいなどということなど、誇りが保てぬという想いから来ている。

 他の種族の妖怪達の治める土地など、鼻で笑ってやれるほどに、天狗と言う種の優秀さを見せつけてやらなければならない。

 そうでなければ、彼らの誇りは、矜持は、軽くなってしまうのだから。

 それゆえ、天狗たちは自らの土地がより豊かになるように、そして同時に、自分たちが出来るだけ過ごしやすくなるようにと、日々様々な対策を練っている。

 人が治める方法ではなく、人外たる者たちが治める方法を日々模索し、意見を出し、改善へと繋げる。

 人外たる天狗の御業は、人が何百年もかけて辿り着く結果を導いていく程に、洗練されていた。

 その採決と、時にはそれを率先して実行する役として、長と言う存在は必要だった。

 口先だけでは何もならず、机上の空論も、実行してみれば上手くいくかもしれない。

 そのような空論に実をつけるため、天狗たちを導く存在として、長が在った。

 そして、また、それだけではなく、誇り高き天狗たちが、その誇りを保つために他種族の妖怪達よりも強くなるための鍛錬を施す者としても。

 天狗はその生まれついての誇りの高さから、自らが下になることをきちんと納得することが出来ない。

 彼らが上の存在として認めるのは、その自身を超える能力があって初めてのことだ。

 そうでなければ、あっさりと彼らは自らの長であろうと見限る決断をする。

 端的に言ってしまえば、全員が野心家なのだ。

 そんな彼らを統括するには相応の力が必要で、そして、天厳にはその求められる以上の力があった。

 ゆえに、天厳はその力を多くの、いや、全ての天狗から必要とされている。

 後にも先にもないであろうその力は、生まれてすぐの者であっても理解できる。

 彼こそ、自分たちの、天狗の長であるのだと。

 それを認めさせ、そして、けれど決して堕落し、向上心が無くならぬように、天厳は自らの部下に鍛錬を施す。

 あるいは、それは天厳の天狗としての誇りでもあったのかもしれない。

 自らがまとめる天狗たちが、愚物であってはならないという、天狗としての誇り高さが、そうさせていたのかもしれなかった。

 そのことに彼が疑問を持ったことなどない。

 何百年と続けてきたこの作業に終わりは無く、天厳にとって、それは当たり前のものとなっていた。

 当然のように、そうした長として在る。

 もはや、生きることとそうであることは等しい程に。

 彼はただただ上を見て、力を磨き、部下を鍛えて土地を治める。

 これが彼にとっての生きるということの全てであったのだ。

 しかし、永遠というものは、例え人外、天狗であったとしても、存在し得ない。

 何事にも変化は存在し、不変というものは幻想種から見ても尚、幻想という括りに当て嵌るものなのである。

 それがどれほど些細なことであっても、諸行無常の理から逃れられる者などいないのだ。

 たとえその身に、流れを操るほどの力を持っていようと、彼もまた、この流動する世界の中に在った。

 

 

  ※  ※

 

 

 ある日のことだ。

 その日の業務がいつものように特に大きな障害も無く終わり、ゆっくりと身体と精神を休ませる前に、少し自分の縄張りでも見て回ってくるかと、軽い気持ちで天厳は外に出た。

 自分たちの布いている土地の改善が上手く行っているのかを確かめたかったこともある。

 自らの屋敷の外に歩いて出て、そこからふわりと体を浮かせる。

 天狗にとって、空と地には大した違いなどない。

 ただ、足を動かすか動かさないか程度のものだった。

 空を見れば、星が浮き、月が薄雲によって弱く輝いていた。

 時刻は既に深夜。

 別段夜行性という性質を持っているわけでもない天狗たちは、その多くが寝静まり、そうした淡い月と星の光のみが周囲を照らしている。

 山の中心に位置する自らの住処から、まず北へと飛び、そこからぐるりと一周しようと決めて、空を駆った。

 浮いた身体に風を受け、その風の流れを自らの速さに加えて速度を上げる。

 途中、幾人かの警邏の者と会うが、少し見回ってくると言えば、長自らのその言に誰も逆らうことも出来ず、また、そのような気も元から抱くことも無く、了解される。

 天狗の中で最強たる彼に護衛など不要であることは誰もが理解していたがために、彼の後を追うものはいない。

 そも、彼の速さに誰もついて来れないという理由もあるだろうけれど。

 そして、特に変わったこともなく、平穏豊かな自身の土地に小さく満足感を得ながらも、北の山の麓へ到着し、次に同様に西、そして南と巡っていく。

 たまには、こうして自らの成果を直に目で見ることも良いかもしれないと思いながら、東の麓まで来たとき、彼の人外たる広さを持つ視野の端に、何かが映った。

 今まで特に変わったこともないままであったがゆえに、それは一層良く映えて見える。

 その場、宙に浮いたままで少し目を凝らすと、はっきりと確認できた。

 

「人間、か……」

 

 声に出して言えば、より明確に意識が向かった。

 それは、ただ一人で夜道を歩く人間の女の姿であった。

 ふらふらと、この近辺には天厳が追い払ったがために妖怪がほとんどいないがゆえに、人にとっても安全な土地を、無警戒に歩いている。

 馬鹿な奴だと、内心呆れる。

 おそらく、夜目の効かぬ人の身で外を出歩き、特にわけもなくここまで迷い込んできたのだろう。

 そうでなければ、わざわざ人間たちも天狗の山として理解している筈のこの地に入ってくることもない。

 女が一人でいるというのは少し妙な話ではあるが、何であろうと、天狗である自分には関係の無い話だ。

 たまには哨戒天狗の真似事でもやってみるかと、天厳は敢えて大きく音を立てながら、その女の前に降り立った。

 天狗の中でも哨戒という任は下っ端の部類に入る役柄だ。

 それは主に外部からの侵入者が概ね天狗たちより弱いという、一種の自負心から来ている。

 か弱い侵入者にわざわざ警告を与えるなど、幹部ほどにまで至った者のやるべきことではない。

 ましてや、頂点に立つ天厳自らがそのような事をするなど、他の天狗たちが見れば目を疑うような行動だったのだが、天厳からすれば、下の者の仕事が如何ほどのものであるか、上に立つ者としての当然の確認作業であるだろうという程度の認識であった。 

 さて、これ以上立ち入るなと警告を与え、抵抗すればとっとと処理をしてしまおうと思っていると、どうにも女の様子がおかしいことに気付く。

 手で胸元を押さえ、俯いたまま額には珠のような汗を浮かべて、目の前に足音を出して降り立った天厳に気付いてすらいないようだった。

 

「女よ」

 

 天厳はこちらの存在を知らせるために、声を掛けた。

 彼にとって、無視されるというのは、中々に新鮮な体験である。

 普段、彼を無視するような者など傍にいない。

 皆、彼を認めれば即座に礼を払う。

 長とはそういうものだ。

 しかし、天狗の常識を人に理解しろということが如何に不条理であるか、天厳は理解してもいた。

 それでも、人間の癖に生意気な奴だと思いながら、女の反応を待つ。

 そこで、女はようやく目の前に立つ天厳の存在に気付いたようで、ゆっくりと顔をあげた。

 すぐ目の前にいる大きな天狗の姿を見て、一瞬驚いたようだったが、顔には笑みが浮かんでいる。

 しかし、その顔色は青白く、胸にやった手は震えるほどに力を込め握りしめられていた。

 そんな状態で、女は笑みを浮かべていたのだ。

 何も知らぬ人外の者からすらも、一目で辛いであろうと察するほどの身であっても、それはまるで水面に映った月のように、薄く、しかしはっきりと笑みの形に浮かべられていた。

 

「……はい。私になんの御用でございましょうか。天狗様」

 

 酷く、透明な笑みであった。

 自分のことの全てを下に置き、ただ、相手を不快にさせないように向けられた、意味の籠らぬ透明なその笑みを浮かべた女を見て、天厳は少しの間、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。

 それは媚びているわけではない。

 媚びているのであればそこには媚びの色、何らかの下心の色が入る。

 しかし、女の笑みには、そのような色はなく、ただひたすらに無色であった。

 それは喜んでいるわけではない。

 喜んでいるのであれば、そこにはどれほど隠したところで、底には感情の色が在る。

 しかし、女の笑みには、ただただその底すら透き通るほどに、何もなかった。

 そして、少しばかりの間を置いて、天厳はするべきことを思い出し、言った。

 

「これより先は、我ら天狗の住まう地だ。早々に立ち去るがいい」

 

 突き放すようにそう言うと、女はしばし困った様子を見せる。

 しかし、それでも一切反論することもなく、女はまた、笑って言った。

 

「はい、わかりました……」

 

 無色透明なその笑みは、やはり彼女の感情が一切込められてはいないものである。

 いったい、何を思って笑うのか。

 了承の声を出したすぐ後に、顔を下に向け、胸元にあった手で口を抑え、咳き込みながら女は血を吐いた。

 粘ついた咳の音が、周囲に響く。

 女の唇が、吐いた血によって紅く染められた。

 肌の青白さと、その紅の対比によって、まるで人ではないような印象を受ける。

 

「患っているのか……」

 

 知らず、天厳はそう女に問い掛けていた。

 そして、自らが出したその言葉に、天厳は混乱する。

 既に伝えるべきことは伝え、相手は了承の答えを返した。

 もはやこの場に何ら用は存在しないだろうに、どうしてわざわざ女を引き止めるかのように言葉を掛けたのか。

 そのまま何処へなりとも去る様子を見届けていれば良かったのだ。

 そうやって自身に戸惑う彼をよそに、女は問われたことに素直に答えた。

 

「……はい。死病を、患っております」

 

 その顔には、やはり笑顔があった。

 それを見て、天厳はますます混乱した。

 全く理解出来ないのだ。

 死病、つまり、患えば人の技で治すことは不可能な病であり、言ってしまえば死が未来に確定しているのである。

 遠からず自分は死ぬのだと言いながら、どうして、この女は……

 

「お前、何故笑う? 病んでいることが嬉しいとでも言うのか」

 

 自死を望んでいるほどに、生に絶望しているのか。

 人は稀に、そういった状態になることを、天厳は知っていた。

 そうであれば、成る程と、理解できる。

 けれど、その問いに、やはり女はすぐに、首を振って答えた。

 

「いいえ。そのようなことはありません」

 

 私も、死ぬのは怖いですから。

 そう言って、女は笑う。

 そこには微かに、本当に僅かなものであったが、恐れが見て取れた。

 しかし、そうであるなら、何故なのか。

 

「ならば何故だ。どうしてそのように苦しさを隠し、笑うのだ」

 

 何故、そのような笑みを浮かべることが出来るのだろうか。

 辛さも苦しさも何もかもを表に出さず、ただ顔に張り付いているわけでもない、笑み。

 その様は、人外の感覚をしてさえ、妖しくもあった。

 

「………………」

 

 しばしの間。

 天厳からのその問いに、女はどう答えるか迷っているように見えた。

 やがて、言葉をまとめ終えたのか、女は言う。

 

「苦しさを隠しているわけではございません……私は、この顔(笑み)以外、知らないのです、天狗様」

 

 言って、女はまた、笑った。

 相手が不快にならないように、自分の為ではない、ただただ、相手のことだけを想った、そういう笑みだけしか、そして、その笑み以外を知らないのだと言う。

 透明に笑う女に、天厳は一歩、身を引いてしまっていた。

 それは無意識の行動だった。

 それまで、その力で多くの者を退け続けてきた、天狗の長は、患った人間の女に、退けられている。

 そのような馬鹿げた事実すら、今の天厳の頭には入ってこない。

 目の前の存在に、気圧されている自覚があった。

 

「なにを、言っているのだ、お前は……」

 

 天厳は、今度こそ、その表情を混乱で歪めながら女に問うた。

 もはや、今の彼の中には自分がどうしてこの女の前に降り立ったのかを覚えてはいない。

 ただ、知りたかった、目の前の未知を。

 彼女はいったい、何であるのか。

 その笑みはいったい、何なのか。

 その様をゆっくりと見て、女はぽつりと、呟いた。

 

「『笑いなさい』」

 

 それまでの、どこか優しく儚げな女の声の調子ではない。

 冷たく、どこまでも心の奥に突き刺さるような声音だ。

 

「な……」

 

 天厳は不意をついたその声に、何を言えばいいのかわからなくなる。

 ただ、また、一歩下がっていた。

 そうして固まっている彼を見ながら、女は言葉を続けた。

 

『笑いなさい。人の為に。

 笑いなさい。相手の為に。

 笑いなさい。貴女の顔に笑み以外は不要です。

 笑いなさい。その顔は貴女の為にあるのではありません。

 笑いなさい。その顔は貴女を見る者の為にあるのです。

 笑いなさい。それ以外を忘れてしまうまで。

 笑いなさい。ただ貴女の前にいる相手を不快にせぬために。

 笑いなさい。それがどのような時であっても。

 笑いなさい。それがどのような場であっても。

 笑いなさい。さぁ、笑い続けなさい』

 

 それは、一つの呪詛であった。

 一切の己の表情を許さず、ただ、相手の為に笑顔で在ることを強制する、呪いにも似た言葉。

 実際には、それはただの、何の力もこもらぬ言葉である。

 そこに物理的な効力など何もない。

 それでも、その言葉には確かに呪いが込められていた。

 未だ笑顔を浮かべた女の口から漏れたそれに、天厳は生まれて初めて、恐怖する。

 それと同時に、そういって笑うこの女に、彼は別の、生まれて初めての感情を知らずのうちに抱いていた。

 

「母から、私はそう教えられて育ってきたのです、天狗様」

 

 それは、母が娘に幼き頃から言い続けた言葉だという。

 生まれてからずっと、そう言われ、それを為してきたのだと。

 自身の感情を、浮かべた笑みで押し潰し続け、何もかもを捨て、ただ笑えという、幼少から続く教育。

 それが果たしてどのような結果をもたらすのか、その答えが、今の女の笑みにあった。

 

「ですから、天狗様。私は、この顔以外、知らぬのです……」

 

 そして、また、女は咳をした。

 苦しそうに、けれど、こちらを見ている目は何も映さず、口を笑みの形に歪めたままに。

 抑えた掌は血で染められ、紅くなっている。

 辛く、苦しそうにしながら、けれど、天厳を見上げる彼女は笑っていた。

 ただただ、今は相手(天厳)の為だけに、それは向けられている。

 やっと、理解する。

 女の笑みには何も見えなく当然なのだ。

 ただ、相手の為に浮かべられたそこには、女のものは一切無いのだから。

 未だ苦しそうに血を吐き咳をする女を見て、思う。

 おそらく、このままであれば、女は今夜中に死ぬであろう。

 天厳の人外たる目には、女の身体にある澱みがどれほどのものかが見えている。

 それは人にとってもはや深刻な状態であり、ここから踵を返して背が見えなくなる前にひっそりと死ぬかもしれない程であった。

 天厳はまた、女に問いを掛けていた。

 

「お前は、どうして、ここに来たのだ?」

 

 そのような瀕死の状態で、なぜ、住んでいる都を出て、たった一人で天狗の治める山の麓にまで来たのか。

 女には、そのような、自身の為の行動を移すほどに、自らの意志があるようには見えなかった。

 逆に、どれほど意を蔑ろにされようと、笑って耐えるのだろう性である。

 その問いに、女はしばし黙し、ゆっくりと、まるで自身で確かめるように答えた。

 

「どうして……でしょうか。私にも、わかりません。けれど、私が病を患ったと知った時、父が、笑みを浮かべている私に、こう言ったたからかもしれません。『お前など、もう要らぬ』と。その言葉を聞いた後、私は何故かふらふらと、このような場にまで来てしまったのです」

 

 そう言って、女は笑った。

 おそらく、女自身も、自らの行動の意味をよくわかっていないのだろう。

 けれど、笑みを浮かべた女に対し、女の父は『要らぬ』と言った。

 笑み以外の全てを捨て去った、そんな女の笑みを否定するという。

 それは、女にとっての、存在を否定する言葉だったのだ。

 今までずっと、そのように生き、そう在ると定められ、定めさせられてきた。

 それが、根本から『不要』と切り捨てられた。

 それは、女の薄まった心に、生まれて初めてだろう、女のなけなしの生存本能からか、逃避という行動を選ばせたのだ。

 初めて、どれほどの歪みにも耐えてきた、壊れた、壊された女は、耐えることが出来なかった。

 そこまで気付いた時、天厳は思う。

 おそらく、この女は、この後、都に戻ろうとするのだろう。

 それまで命が持たぬかもしれぬ。

 しかし、それでも、この女は笑うのだろう。

 それ以外に知らぬからと。

 その命が尽き果てるまで、女は最後まで笑みを続けるのだろう。

 なんと愚かで、無意味なことか。

 そして、そこまで考えた時、天厳はふと気付いてしまった。

 では、自分は(・・・)

 

()は、なんだ……?)

 

 自分は、天狗の長であること以外を知らない。

 そしておそらく、自分はこの命が尽き果てるまで、天狗の長で有り続けるのだろう。

 それが当たり前だったからだ。

 それに意味があると、そう信じ続けてきたからだ。

 けれど、しかし、あぁ、笑み以外を知らずに育ったこの女と、長となること以外を知らずに生きてきた自分。

 そこにどれほどの違いがあるのだろうか。

 自分では当然だと思っていたことは、本当に当然であったのだろうか。

 今まで、そんなことを考えたことは無かった。

 けれど、一度気付いてしまった、湧いてしまった疑問から、目が逸らせない。

 ()として、天狗の長として生きている自分に、どれほどの価値があるのだろうか。

 それは、『天厳』の価値であるのだろうか。

 そして、天厳は、思ってしまった。

 長であること以外の自分を知りたい、と。

 長で無い自分というものの本当の意味を、知ってみたいと、そう思ってしまったのだ。

 だから、天厳は、笑う女へと、手を伸ばした。

 今にも死にそうな身体で、しかし未だ透明な笑みを浮かべ続ける女に、片手を向けて、その力を使う。

 不思議そうに、こちらを見て笑う女に、言った。

 

「お前の病を(おさ)めてやろう。しかし、それはあくまで一時的だ。死にたくなければ、十日に一度、またこの時間に、ここに来るがいい」

 

 そう、言ってしまった。

 まるで、そうすれば自分が天狗の長である以外のことが知れるかのように思えたから。

 そして、女の透明な笑みに、色を見たいと思ったから。

 天厳は、どうして自分がこんなことをして、こんな風に思ったのかわからない。

 けれど、心にはっきりと理解できるものがあるとすれば、この哀れで愚かな女の……。

 

「……()はお前の笑み以外の顔を見てみたい」

 

 それだけが、自分という、天狗の長としてではない、一つの想いとして、あった。

 そうして、深夜の薄く淡い光の中、一匹の天狗と人の女は逢瀬の約束を交わした。

 それが、この時代でどれほど異常なものであるのか。

 けれど、女はただ、少し良くなった顔色で、笑った(・・・)

 

 

  ※  ※

 

 

 それから、天厳と女は十日に一度、必ず顔を会わせていた。

 人間を治療していることなど、立場上の問題からも種族上の問題からも、他の天狗達には言えず、女もまた、天狗と会っていることなどとは人には言えず、互いに互いのことを周囲に秘めながら、出会い続けた。

 しかし、その出会いが十を過ぎても、天厳は未だに女の笑顔以外の顔を見ることは出来ていなかった。

 また、天厳自身も、天狗の長たる自分に対し、日々疑問を募らせていくのみで、何が変わったとも言えない。

 渦巻く疑問はそのままで、それが解決されることはなく、ただ時が過ぎる。

 ただただ、女と出会い、病を治め、互いに話し、日が昇る前に互いに去る。

 それを幾度も繰り返す。

 そうした日々、天厳の中で、日々の天狗の長たる自分に生じた疑問と、女へのちっぽけな執着だけが、大きく育っていった。

 馬鹿な話だと、己自ら、そう思う。

 けれど、それを辞めることを、したくない。

 そして、天厳は自らを慕う天狗たちとの間で揺れてもいた。

 今までと同じような長としての作業を、今までと同じようにこなしながら、辛いと感じる。

 それは、自分がなんなのかがわからなくなっているからである。

 自分というものが曖昧になり、天狗たちの長としての『儂』と、女といるときの『俺』のどちらが自分であるのかがわからない。

 『儂』として生きてきた年月の方が遥かに長く、そして、価値はあるだろう。

 けれど、ならばどうして、あの時、自分は『俺』などと言ったのだろうか。

 今でも、『儂』は天狗の長であると断言できる。

 しかし、『俺』はなんであるのか、天狗の長以外の自分がなんであるのか、わからない。

 どうしてあの時、咄嗟に口から『俺』と漏れたのか。

 今まで、『儂』と言っていた自分がどうして……。

 その疑問が天狗の長としての業務を滞らせ、素直に為すことが出来ずにいる。

 今していることは明らかに天狗たちに対する裏切りに他ならない。

 たかが人間の女程度に絆されているのだから。

 おそらく、天狗たちに女のことが知れれば、女の治療を止められるだろう。

 もしかすると、女は部下たる天狗たちによって、病で死に至るほどの時を待たずに殺されるかもしれない。

 そうすれば、『俺』というものは一時の過ちであったように消え果て、今まであった『儂』だけが残り、これまでと同様に、天狗の長として生きていくのだろう。

 そのことを考えると、天厳はそれで良いということと同じ程、それは嫌だと思ってしまった。

 そのまま頭の片隅に疑問を残し、それまでと同じように生きていく自信もなかった。

 自分がどうしたいのかがわからない。

 そもそも、自分が何であるのかがわからない。

 天厳は、これまで浮かべることすらしなかった当然への疑問に苦しんでいた。

 あるいは、それはそれまでの生をただの一つも悩まず生きてきたがゆえに訪れた、ツケであったのかもしれない。

 そうして、頑丈な身体の内で、誰からもわからぬまま擦り切れていく心を持って過ごし、更に幾日かが過ぎた頃、一匹の鬼が、やってきたのだ。

 

 

  ※  ※

 

 

 治める土地に、暇潰しと称してやってきた鬼、伊吹萃香は、己が何であるかということの答えを持っているように見えた。

 威風堂々たるその様に、鬼以上の何かが見える。

 

『だって私は鬼だから』

 

 そう言って、そう在る。

 部下の天狗たちから問われたことに、その己がなんであるかということでもって答える小さな鬼。

 天厳にはそれが眩しく見えた。

 かつての『儂』がそうであったようでありながら、かつての『儂』が浮かべることすらしなかった、己とは何か、という問いへの答えを持っている。

 女のように、そうすること以外の全てを捨てられたわけではなく、『儂』のように、それ以外の全てを知らないわけでもなく、ただ、己を己として、そう自分で定めているのだ。

 まるで当然のようにその力は膨大であり、まるで当たり前のように、その心は強大だった。

 自らに匹敵する程の力を持った、種のことなる人外に、天厳はただ羨望する。

 そして、自身が直に出て始めた戦いの最中、思った。

 同じ天狗では話せぬあの哀れな人の女のことを、この鬼ならばどう思うのかと。

 そして、このような疑問で潰れてしまいそうなほどに惰弱となった己のことを話せば、どうなるのかと。

 だから天厳は、言った。

 

「遊びは終わりだ……。余興としては充分すぎる」

 

 今まで、ただただ女と共に会い、語っているだけだった遊びを終わらせようと。

 今も胸の内で大きくなり続けるこの気持ちに、決着を付けるために、そう言った。

 興を添えていただけだった今までは、確かに満ち足りた何かを与えてくれていたが、それももう、充分すぎる。

 あぁ、だから、どうか鬼よ。

 この愚かな自分を、壊してくれ。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。