小屋の屋根あたりを視認できる距離まで帰ってくると、私はそこで煙が小屋から煙が上がっていることに気付いた。
いつの間にか後ろから妖怪の気配は無くなっていたが、私は、その煙を認識した瞬間に、それ以上の悪寒を感じる。
速度を緩めず、むしろ、もっと、もっと速く、早くと、私は爺様のもとへ向かった。
そこでは、小屋は破壊され火が着き、私と爺様で造っていた酒は地へと流されていた。
そして、その小屋の残骸の前では何人もの村人が円のように集まり、中央へと向けて鋤や鍬を振り下ろしている。
何かを耕しているのだろうか。
そんなことを思う。
本当はわかっていた。
わかっているのだ。
その中央には何があるのかを。
走る、走る、走る、そして、あと数十メートルというところまで近づいて、村人たちの間から、それは見えた。
見慣れていたのに、赤く染まってしまっている服と、その横に転がっている瓢箪。
あぁ、あぁ、あぁ。
村人たちは口々に叫びながら、ソレへ向けて、持っているものを打ち付ける。
「クソ爺が! 俺たちに、何を飲ませた!?」
「おのれ、鬼子め、この鬼めが! 我々に酒を提供していたから、これまで見逃していたものを!!」
「やはりすぐに殺しておくべきだったんだ!」
「あれはいったいなんだ!? 何なんだ! いつもの酒と味が違うことに、俺たちが気付かないとでも思ったのか!」
「親から名も与えられなかった鬼子が! 大人しく酒を造っておれば良かったのだ!」
聞こえてくる、村人たちの声と、鬼の私の聴覚が僅かにしか聞き取れないほどに小さな呻き声。
その光景を認識した瞬間、私は口から形容しがたい叫び声をあげ、走りながらも、空の手に何かを萃めて掴み、爺様を囲んでいる大勢のうちの一人の村人へと投げつける。
私ですら視認が難しい速度で放たれたその弾丸は、村人の頭へ直撃し、赤く爆ぜた。
突然のことに悲鳴を上げる村人たちは、それでやっと近づく私に気付いたのか、私を見て、爺様へ罵詈雑言を投げつけた。
「鬼だと!? くそっ! やはり本物の鬼と手を組んでいたのか!! この忌子が! 」
「あの鬼と協力して怪しげな酒を飲ませ、我々を殺す気だったのか!」
「うわぁっ! 早く逃げろ! 殺されるぞ!」
「村には結界が張ってある! そこまで走れぇ!!」
情けない悲鳴を上げながら逃げていく村人たちに向かって、更にいくつもの弾を投げつける。
ほとんど狙いを付けていないため、幾つかが村人に当たったが、半分ほどは地面へと着弾していった。
弾丸の当たった箇所は小さく爆発を起こし、当たった村人の肉体が抉れ、外れた弾によって、地は小さなクレータでいっぱいになっていく。
やがて村人たちの姿が見えなくなると、私は血まみれで倒れ伏している爺様のもとへ駆けた。
爺様の身体は、村人たちによって耕されていた。
無事な部分はほとんどなく、左腕は完全に潰れ、脚は骨が砕かれているのが目に見えていて、唯一まだマシなように見える、青痣だらけの右腕がそれらをさらに無惨なものにしていた。
腹からは、腸がこぼれ、顔は大きく腫れあがっている。
もはや生きているのが不思議な状態であった。
私は必死で爺様に呼びかけながらも、能力を全力で行使して、爺様の生命力を萃める。
「爺様! 爺様!!」
私の声に気付いたのか、爺様は切れた口から小さな声を漏らし、途切れ途切れになりながらも、私に向けて語りだした。
「童子、童子よぉ。すまねぇ、俺ぁ、おまえに嘘ついた。ほんとは、森に酒虫なんざいねぇんだ。ただ、おまえをからかってやろうと、そんで、最後に、お前に、俺の瓢箪、やろう、と、思ってよぉ。ははっ、こんな様になっちまって、なさけねぇなぁ」
「爺様! いいよ、そんなの! そんなの、別に!」
酒虫のことなど、この状況に至ってはもはやどうでもいい。
今はただ、爺様に生きて、生きて、また、私にあの暖かさを……。
能力によって、少しづつ治っていく怪我は、しかし、気休めにもなっていない。
爺様の生命力の霧散は、私の萃める速度を遥かに上回っていた。
必死で爺様に直接手を当て少しでも多く萃めようとする私に、爺様は安心したような声で、言った。
「ただ、あぁ、最後に、おまえの願い、叶えてやれそうだ……」
そう言うと、まだなんとか無事なほうの腕で、爺様は近くに転がっていた瓢箪の紐を引っ張って手繰り寄せると、自身の腹から飛び出た一つの臓器を掴み、瓢箪の口の部分に押し付ける。
「爺様!?」
私が叫ぶと、爺様は言った。
「俺の腹の中にゃ、鬼でも飲めるような、極上の酒を造る、酒虫がいんだ。どうだぁ、童子よぉ、これが、名もねぇ、鬼子だった俺の造る、最後の酒だぁ。存分に、味わって飲みやがれ」
爺様は瓢箪へぐいぐいと自らの臓器の一部を押し込み続ける。
そこから滴る血が、瓢箪を赤く染め上げる。
萃めていた爺様の生命力が、さらに速度を増して散っていく。
本能的に理解する。
爺様は、もう助からない。
そんなことを知ってか知らずか、爺様は、こちらに顔を向けて、優しげに、困ったように言った。
「童子、童子よぉ、おめぇ、伊吹すいかってんだろ……? 字ぃ、難しくていけねぇよ。三つめの、忘れちまった……」
爺様の臓器を押し込み続けていた手が離れ、瓢箪に貼られた幾つかの札のうち、一つをなぞっている。
そこには、下手くそな、まるでミミズののたくったような字で【伊吹萃香】と書かれた札が貼られていた。
私が爺様の指を差した瓢箪へ顔を向け、集中の途切れた一瞬の後に、爺様の生命力が完全に霧散する。
後には、名も無き老人の死体が残っていた。
「酒を造ってるんだから、酉辺くらい、覚えておいておくれよぉ……」
そう呟いて、私は、赤く染まり、【伊吹萃香】と書かれた札の貼られた瓢箪を拾い上げる。
あぁ、爺様……。
そして、無意識的に、付着していた爺様の血を舐めた。
「えっ……?」
口に、少し鉄臭い、しかし、はっきりと、『美味い』と感じる味が広がる。
「あ、あぁ、あぁあああぁあ!!」
瓢箪から、爺様の死体へと、もう一度目を移した時、私は、絶望に打ちのめされ、口から叫びが漏れ落ちる。
私は、最低だ。
恩人の、今まで共に過ごし、親のように思っていた爺様の死体を見て、『美味しそう』などと、思ってしまうなんて。
そんなこと、人の考えられることではない。
そう、人の……。
「あぁ、そっか」
有無を言わさず、もう何度も言い聞かせていたことを、理解しようとしていたことを、今、完全に理解させられる。
私は、やはり、人間じゃないのだ。
爺様の死体を見て、美味しそうと思うなど、その感情は、まさに人を喰らう鬼そのものだ。
それを認識した瞬間、一気に今までの熱情が冷めていく。
そう、私は、鬼なのだ。
人とは違う、ただの、妖怪。
思い出すのは私を喰らおうとしてきたあの姿。
「寒い、寒いよ、爺様……」
私は急速に温度を失っていく、私の中の何かに、凍えそうになる。
この身が人であれば。
いっそ、この身に、人であった時の記憶など無ければ。
そう思いながら、ただ、手を抱きしめるように体へと回す。
じゃらりと鳴る鎖の音と、ちゃぽん、という水の音。
音の元は、私の手の中。
爺様の瓢箪。
不意に、私の頭の中に、暖かな声が聞えた気がした。
『童子、童子よぉ』
あぁ、爺様、あなたの、暖かさが、私は……。
ゆっくりと、瓢箪へと口を付けた。
爺様の血の味の後、少しづつ、酒のような味が、口の中へ広がる。
けれど、その味はやはり
「あはは、水みたい」
口をついて出た感想。
体が、さきほどよりも暖かい気がした。
そこで思い出す。
「そうだ、酒虫……」
爺様の言っていた、爺様の中にいた酒虫。
見ると、爺様の腹の中からは、小さな妖気を感じる。
そして、私はやることを決める。
「そうだね、爺様。お酒を造ろう。爺様の、最後の酒を」
私は能力を未だに美味しそうと思ってしまう爺様の死体に行使する。
爺様の死体、爺様だったもの、爺様を構成していたものを、散らす散らす、塵より細かく、中の酒虫ごと、霧のように。
そうして、霧のようになったそれを含めながら、瓢箪の中へと萃める。
瓢箪を構成している中の、空いている部分に、密度を高めるように、萃めていく。
一粒も残さずに、爺様の、爺様だったものの全てを、そこに詰め込む。
後に残ったのは、一つの瓢箪。
中にはちゃぷちゃぷと音がしている。
そして、私は、それに口を付けた。
「暖かい。暖かいよ、爺様」
きちんと、私にも感じられる、酒の味、いや、極上の酒の味。
体が少しずつ火照っていく。
冷えていった心に少しずつ熱が戻っていくような感覚が心地好い。
頬を伝う涙に似た、その温度。
酒を、飲んで、吞んで、呑んで。
ごくり、ごくりと咽を鳴らし、胃の中にカッと火がついたようになるけれど、気にせずに。
あぁ、そういえば、爺様に隠していた悪癖が、あったなぁ。
そんなことを片隅で思い返しながら、しかし、今ここで呑むのを止めてしまえば、一気に冷たくなってしまいそうで、私は、ずっと、酒を呑み続けた。
※ ※ ※
どんどんと、火照る体に、巡る思考。
そして考えるのは爺様のこと。
あぁ、私は確かに鬼だろう。
爺様の死体を見て美味しそうと思うなど、まさに鬼そのものだ。
鬼畜生である。
では、爺様を殺した人はなんだ?
そも、爺様はなぜ殺された?
美味しい酒を造ったからか?
どうして?
私の疑問に、私の中の人だった頃の記憶が答えを導き出していく。
『いき過ぎたからだ。人は、優れ過ぎたものを恐怖するものである』
ならば、爺様は人ではないのか?
その考えに、先ほどの村人たちの言っていたことを思い出す。
そもそも、爺様は何だったのだ?
『名も無き鬼子だった』
そう、鬼、鬼だ。
爺様は鬼の子と、疎まれ、逸れていた。
そうして、最後は、美味い、美味過ぎる酒を造り、人に殺された。
否、否、否。
爺様は殺されたのではない。
私の中の人の記憶が訴える。
『退治されたのだ。鬼ゆえに』
どうして鬼は退治されねばならない?
鬼だって生きている。
鬼だって……。
『そこに理由などない。ただ、鬼であるからこそ』
自問自答で得られた、その答えに、私は、やっと、納得をした。
そう、
理解していた。知っていた。しかし、納得はしていなかった。
今、ようやく納得した。
そして、爺様は、確かに人だった。
だが、人より優れ過ぎていた。
よくよく考えて見れば、爺様は酒造りをどうやって知ったのだ。
村で、爺様以外に酒を造る方法を知らぬ中で、どうやって。
答えは、そう、自分で、自ら、
おそらく、それは、爺様の中にいた酒虫と、酒虫のいる瓢箪を研究してだろう。
まだまだ、思い返せば山ほどある、爺様が人としては、有り得ないことが。
もう限界だったとはいえ、鬼の私が少し重いと感じるあの荷台を引いていた。
老人の身一つで、それは本当に可能であったか。
爺様は人の身で有りながら、鬼のように、優れていた、優れ過ぎていた。
そして、人から鬼として退治されたのだ。
それは人にとっては当然の行いなのだろう、鬼を退治するということは。
それを仕方ない、などと言えれば、どれほどいいか。
しかし、納得はしてしまった。
「爺様、あんたは、ほとんど鬼だったんだよ。きっと、酒虫がその身の中にいた瞬間から」
私は、爺様と一体化させた瓢箪へ向かって話しかける。
そう、爺様は人でありながら鬼であった。
それでも人と対等であろうとしていた。
それが思い違いを生んだ。
「爺様、言ってたよね。違いがあっても、一緒に生きていけるって。でも、それは、お互いにその違いをわかっていたらの話だよ」
人でありながら爺様は、鬼として退治された。
納得して、だからこそ、我慢できない。
「私が、違いをわからせてやる……」
本物の鬼が、退治されるほど弱いものかどうか。
鬼のようにすごい人など、結局、それはただの人に過ぎないのだ。
爺様はほとんど鬼だった。
だが、その鬼に足りない少しの部分が、どれほど遠いか。
「爺様程度が、鬼だって? はっ! 笑わせるねぇ……」
人が優れ過ぎた程度で、鬼と同列として扱われ、退治されるなど、あってはならない。
だから、きちんと理解させてやる。
本物の鬼というやつを。
鬼と、人の、いや、鬼とそれ以外の格の違いを。
「私がっ! この私が鬼だ! 鬼なんだ! 本物のっ!」
私はこの世界に発生した瞬間から既に鬼だった。
しかし、人の記憶が邪魔をして、納得できていなかった。
そして、今、人の記憶をもとにして、自身が鬼だと納得した。
前の記憶の、【伊吹醉香】は人だった。
だけど、この私は違うのだ。
爺様の瓢箪に刻まれた、【伊吹萃香】という爺様から貰った名を持つ
今一度、その違いを叫ぼう。
しっかりと、絶対に見失わないように。
そう、私はこの世界で発生したその時から
「私……伊吹萃香は、鬼だった!!」
だから、生きてやろう、鬼は精一杯鬼らしく。
そして、皆に理解させてやるのだ、本物の鬼のすごさを。
そうすれば、もう、間違えることなどしやしないだろう。
それは、皆が格下だというわけでなく、鬼が格上だったということだ。
人は確かにすごいのだろう、それは私の人だった頃の記憶で知っている。
しかし、鬼はただそれよりも、もっと、ずっとずっとずっと、すごいのだ。
「あぁ、爺様、私は勘違いしやしないさ。あんたは人で、私は鬼だった。だから、私は、鬼は、ただただ鬼らしく、嘘などつかず、真っ直ぐ堂々、勝手気ままに生きてやるさ」
言って、酒を呑み、胸のうちで淀んでいた、鬼らしくないものを酒で一気に流してしまう。
爺様の復讐なんて、しやしない。
恨みなんてそんなものはありはしないのだから。
爺様が死んだのは、私のせいだ。
本物の鬼のすごさを知らせてやらなかった、私の責任だ。
だから、村人たちに復讐なんて真似はしない。
だって私は鬼だから。
復讐なんてものは、人の特権である。
鬼の私は、復讐をする側ではなく、される側。
さっき殺した人の復讐を、受ける側の立場なのだ。
勿論、大人しく退治されてやるつもりもない。
鬼は強いから鬼なのだ。
真正面から打ち負かし、とことんその強さを知らしめてやらなければならない。
そうさ、鬼は鬼らしくしないとね。
瓢箪の酒を、ぐいっと、一気に呑む。
今の私は酔っているのだろう。
だけど、酔いの冷めた私では、鬼らしく生きていくことなど耐えられないかもしれない。
今の、酔っているぐらいの、この気分が丁度いい。
それになにより、酔ってる今は、爺様と一緒にいるみたいで、暖かいから。
この暖かさを、ずっと、感じていられるように、生きていこう。
さぁ、もう一口、酒を……
「げひ、げひひゃ、やっと見つけたぁ、子鬼ちゃぁん。今度こそ、喰らぁってやるからぁな」
後ろから、声が聞えた。
振り向くと、ついさっきまで恐怖していたあの妖怪。
今は動じることも、ましてや、恐怖するなんて、しやしない。
「あぁ、ちょうどいい。今、酒の肴が欲しいと思ったとこだったんだよ」
だって、相手はただの妖怪で、私は鬼なんだから。
ほら、怖がることなんて、何もないじゃないか。
「げひゃっ? あぁん、なんだぁ、酔っ払ぁってんのかぁい、子鬼ちゃぁん。さっきは泣ぁいて逃げてたぁくせに。酔って気が……」
「ぐだぐだぐだぐだ鬱陶しいねぇ。いいからさっさとかかってきなよ」
遮って言うと、妖怪が目に見えて苛立っているのがわかる。
さぁ、ここから私の、伊吹萃香の、鬼としての生の幕開けだ。
いっちょ派手に、行こうじゃないか。
※ ※ ※
森の中に突如出来た、大きな大きなクレーター。
その中心部分で、一匹の、小さな鬼が、千鳥足で歩いている。
ふらふら、ふらふら、まるで酔っ払いのように、しかし、進む先は真っ直ぐと、無限に酒の湧く瓢箪を片手に、歩いて行った。