欲しいものは何だったのだろう。
得たかったものは何だったのだろう。
本当に自分が望んでいたものは、それはきっとただ一つ。
幼い頃、抱いた初めての感情。育てていたかった、とても大事なもの。
ただ護りたかった。平穏という揺りかごの中を望んでいただけなのに。
けれど、それはあまりにも無惨に壊された。あぁ、どうしようもなく木っ端微塵に。
――風が唸る。
振り下ろした竹刀は地を叩く寸前で静止する。すぐさま一歩踏みだし、強く大地に踏みつける。すぐさま呼吸を吐き出し、体を捻るように横凪ぎに一閃。そして静止。
一つ一つの挙動が綺麗に止まり、しかし流れるように描かれる剣閃はある種、芸術に近いものを感じる。
ふぅ、と吐き出される息に篭もるのは熱気。額に浮かぶのは汗がゆっくりと滴り落ちていく。汗の感触が不快感を呼び起こす。服の袖で汗を拭い、再び息を吐き出しながら空を見上げた。
「……ふぅ」
力を抜くように吐息する。手に持っていた竹刀を抱えて壁際へと歩いていく。壁が迫れば背中を投げ出すように預け、そのまま壁に背を預けたまま座る。座った先に置いていたスポーツ飲料を口にして乾いた喉を潤す。
大きめのペットボトル。そのまま口にするのには少々行儀が悪い品物かもしれないが気にはしない。咎める他者などいない。ここにはただ一人しかいないのだから。
水分を得た身体は渇きを潤し、熱していた身体を冷ましていく。大きく息を吐いて、沸き上がった思いを零すように口にした。
「……足りない、な」
修練が足りない。
技術が足りない。
研鑽が足りない。
足りない、足りない、と心は訴えている。けれど体は悲鳴を上げている。動く事すら億劫で、息をするのすら体力を消費しているのではないかという錯覚。それでも求めている。もっと強くなる為に。もっと、もっと、まだ足りない、まだもっと、と。
視線を移す。壁の高い位置にかけられ、額に納められた表彰状がある。それは剣道の全国大会で優勝した際に送られたものだ。栄誉の象徴である表彰状を見ても感慨も何も浮かばない。浮かぶのは、ただ一つ。
「……あんなものじゃ、足りない」
気迫が足りない。
危機が足りない。
緊張が足りない。
足りない、足りない、と心は叫んでいる。あれは自分の求めているものではなかった、と。あれは既に自身が踏破した領域であった。故に優勝という結果は当然で、あの場にそれ以上を求める事が不可能だという事は理解している。
目標はある。目的もある。それが一度たりともブレたことが無い。それを彼女は、“篠ノ之 箒”は誰よりも自覚していた。
彼女の名は、篠ノ之 箒。
現在、中学三年生の女子中学生。所属は剣道部。その腕前は全国大会を圧勝したと、その名を囁かれる程の技量。サムライガール、という言葉を表したかのような人となりこそ篠ノ之 箒を知る者の評判だろう。
だが篠ノ之 箒をもっと広い視野、世界的に見ればこれはまた異なる評判を得る事となる。――それは“篠ノ之 束”の妹、だという事だ。
箒の姉である篠ノ之 束の名を知らぬ者は少ない。何故ならば篠ノ之 束は世界に激震を起こし、今なお世界に影響を与え続ける人だからだ。
――“IS<インフィニット・ストラトス>”。
通称、ISと呼ばれる兵器がある。元々は宇宙空間での活動を想定して作られたマルチフォームスーツ。だが制作者の意図とは異なり、宇宙開発は一向として進まなかった結果、ISは兵器へと様変わりした。
その性能はIS一機があれば当時の世界と戦争が出来る程だった。何せIS一機でミサイル二千発を叩き落とすという神業をやってのけたのだ。
更に偉業を成し遂げた後、ISを拿捕ないし破壊しようとした軍事力はISの圧倒的なまでの戦闘力の前に無力化されてしまった。
このインフィニット・ストラトスを開発した者こそ、篠ノ之 束。故に世界的に見れば篠ノ之 箒の評価は「ISを生み出した博士の妹」という評価がついて回るのだ。
それを、篠ノ之 箒は心の底から疎んでいる。
* * *
引っ越しするのよ、と、親が告げた言葉が箒には信じられなかった。
どうして、と問う声に応えようとする両親は困ったような顔で、口に出すのも苦しそうに、姉が原因だと箒に告げた。
箒は自分の姉を変だと思っていた。自分や、自分の幼馴染み、その幼馴染みのお姉さんには笑顔を振りまくのに、それ以外となるとまるで反応がない。
反応したとしても、それは人を見るような顔ではない。まるで鬱陶しい虫でも見たかのような反応だった。
そんな姉が恐かった。理解が出来なかった。どっちが姉の本当の顔なのか、そんな事ばかり考えている内に姉が理解出来ず、恐い人になっていた。
優しく撫でる手も、明るい笑顔も、それがまるで嘘塗れにしか見えなかった。そんな理解出来ない姉が嫌い、とまではいかないまでも苦手だったのは事実だろう。
だからあまり関わり合いになろうとせず、自分は剣道という道を見つけた。それを通じて出会った幼馴染みとの時間が何よりも幸福だった。
姉という奇妙な人がいた所為か、人の表と裏を見ると姉が連想され、どうにも人付き合いが得意になれなかった自分が唯一胸を張って友だと、幼馴染みだと言えた人がいた。
大好きだったのだ。きっと、初恋だったのだろう。今だって忘れない幼馴染みとの日々。ずっと、このまま続くのだろうと期待してやまなかったあの日々。
――それを、壊したのは姉だった。
束が作った「IS」によって箒たちは引っ越しをしなければならなくなった。その頭脳と技術を狙い、人質とされる事を恐れられた為だ。そうして箒は別れを経験しなくてはならなかった。それは箒に取って孤独の始まりだった。
幼馴染みは純粋な人だった。真っ直ぐで、優しくて。まるで箒にとって太陽のような人だった。箒の凍てついた心を溶かして温めてくれた。
彼のような人間がそうそう居る筈もない。人の裏が見えた時、人を信用する事が出来なくなる自分。常に疑心暗鬼、箒には目に見える者全てが敵に見えてしまう事でさえあった。
声を聞くのも煩わしい。人の輪にいると違和感しか感じられない。孤独の時間が何よりも辛いのに、寂しいのに、そこでしか安堵できないという矛盾。
彼がいないというだけで、こんなにも心細い。だから時間が経つ事に心が擦り切れていく。少しずつ心を失っていく。
幾度、涙を流しただろう。彼と別れてから幾度も思った。会いたい、会いたいと。だが、彼との再会が叶う奇跡もなく。そして箒が泣いているのにも関わらず何も変わらない束。少なくとも箒にはそうとしか見えなかった。
異名は世界に轟き、しかし姉は自分勝手なまま、世界から姿を消した。ただ自らの望みのままに。どこまでも自由に振る舞いながら。あぁ、それが酷く、酷く―――憎かった。
――こんなに、苦しいのに。
――笑うのか。何も、私の苦しみをわからない癖に。
――姉だから? だから何だ?
――姉だから、私から奪うのか。何もかも。
――なら、そうだ。これは名案だ。
――アイツも、同じ目に遭えば良いんだ。
――アイツも、大事なものを全て壊されてしまえば良い。
――そうだ。そうしよう。それが良い。
――“愛した妹”から受ける最高の復讐で、最高の絶望をプレゼントしよう。
―――そして、ようやく心の底から笑い声を上げる事が出来た。
* * *
箒は束に問うた。世界から姿を眩ましている姉は密かに箒との繋がりを残していたからだ。
誰にも辿られないように。誰にも悟らせないように。“愛する妹”の声をすぐ聞こえるように。
その忌まわしくも愛おしい繋がりを辿って、箒は姉に問いかけを投げたのだ。どうしてISを作ったのか、と。
姉は言う。それは自分の夢だと。いつかその翼で宇宙に向かって羽ばたくのだ、と。その為に今は無理だけど、いつか絶対、そこに行くのだと。
――あぁ、じゃあ約束しよう。約束をしようよ、姉さん。
それは姉と交わした絶対の約束。それは違える事なき、歪む事無く、ただ一つ、箒の内に息づくもの。
――私、強くなるから。誰にも負けないぐらい強くなるから。
――だから、いつか私にもISを作ってね。姉さんの夢の翼を。姉さんが造る最強の力。
――そのISで貴方を殺してあげるから。
牙を研ぐ。その牙が向く相手が現れるまで。確実にその喉笛を食いちぎれるように。
“貴方の夢”で、私が“私の夢”を叶えるその日まで。