「代表戦の結果は引き分けでしたが、セシリアさんが辞退するという事で、1年1組の代表は織斑君に決定しました!」
「何ぃっ!?」
1年1組の教室にて。真耶が拍手しながら満面の笑顔で言い放った言葉に一夏は目を見開き、思わず席を立つ程までに驚きを露わにした。その様子はまるで、聞いていないぞ、と言わんばかりにだ。
そんな一夏を窘めたのはセシリアだった。対決をする前までの態度はどこに消えたのか、上品に笑みを浮かべながら一夏へと話しかける。
「一夏さん。落ち着きになって」
「セシリア! お前どういうつもりだよ!?」
「どうもこうも、私は私よりも一夏さんが代表を務めた方が良いと思ったからの辞退ですわ」
「い、良いのかよ!?」
「えぇ。IS操縦には実戦が何よりの糧。搭乗時間の長い私が一夏さんにその機会を譲るのも、先達としての務めかと思い直しましたので」
「いや、別に俺は……」
「流石セシリアさん! わかってるぅ!」
「だよねー、折角唯一の男子がいるんだもん! 持ち上げないとねー!」
貴重な経験詰めるし、だの、他のクラスの子に情報が売れるし、だの、女子から勝手気ままに呟かれる言葉の数々の一夏は、クラスメイトを売るなよ! と言いたい所だったが、余りにもこの状況は孤立無援。
自分の言葉など無視されるしかないだろうと察し、がっくりと肩を落とした。もう諦めるしかない状況に溜息の一つも吐きたかった。そんな一夏の見ていたセシリアだったが、挙動不審に視線を彷徨わせながら一夏に言う。
「そ、それでですね? ……その、この私が一夏さんにISの操縦を教授してさしあげましょうかと」
「え? セシリアさんが?」
「え、えぇ! 絶対、一夏さんの為になりますわ!」
気合いの入ったように、が、どこか期待するようにセシリアは一夏へと視線を送った。多分、セシリアは善意から言ってくれてるのだろう、と一夏は察した。だが、一夏は少し迷った。
そして一夏が視線を向けた先は箒だった。先日、気付いたらいつの間にか寝ていた一夏。彼が目を覚ましたら、先に行っている、とメモ書きを残して箒はいなくなっていた。教室に入ってようやく会う事が出来、昨日の御礼を言うことが出来た。
だが、その返事はどこか空返事というべきか、心在らずという様子の箒に一夏は首を傾げたものだ。それから話しかけても暖簾に腕押し。故に一夏は箒の事が気になっていたのだ。だがHRの始まりの鐘が鳴ってしまった為に席に座らざるを得なかった。
元々は彼女に教えを受けていた身。他の人に教わるならば、やはり箒に確認は取っておかないとまずいだろう、と一夏は考える。
「そうだな。必要になったら頼むよ」
「そ、そうですか! お待ちしておりますわ!」
とりあえず、という事で一夏は辺り触りの無い返答をセシリアに返しておいた。一夏の反応にセシリアは、ぱぁああ、という音が似合いそうなまでに嬉しそうに頷くのであった。
そんなセシリアの反応に一夏は苦笑をしながらも、箒の方へと意識を向けるのであった。彼女は窓を外を見るように頬杖をついている。そしてただ、外の景色を見ているようだった。
「さて。話は纏まったところで授業を始めるぞ」
千冬が手を叩きながら皆に告げる。それに逆らう者は居らず、すぐに授業が開始されるのであった。
* * *
「箒。ちょっと良いか?」
「……なんだ、一夏か。どうかしたのか?」
休み時間になるのと同時に一夏は真っ先に箒の下へと向かった。一夏に声をかけられた箒はどこか億劫な様子で一夏へと振り向いた。どこか疲れを見せるその姿に一夏は眉を寄せる。
「……お前、大丈夫か? なんかあったのか? 昨日、遅かった割に朝早かったみたいだし」
「気にするな。別に何でもない。で? 用件はそれだけか?」
「あ、いや、実はセシリアが俺にISの操縦を教えてくれる、って言ってるんだけど、箒も聞いてただろ?」
「……あぁ。そういえばそんな事も言っていたような気もするな。良かったじゃないか」
「良いのか? 俺、一応箒に教わってた身だけど」
「何。先達から学んだ方が、にわか仕込みの私よりはまともな教授をしてくれるだろうさ。それに、あくまで私はお前の頼みを受けていてやっていただけだ。一夏が他に頼みたい人が出来たならそれで良いだろう。で? それだけか?」
「お、おう。一応、箒に聞いておかなきゃ、と思ってな」
「そうか」
明らかに話したくない、という態度を示されれば、一夏も少し不安顔になる。先程からやはり箒の様子はおかしいと思うのだが、それを問うには少し憚られる様子であった。
そんな箒に後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、一夏はまたな、と声をかけて箒から離れていくのであった。そんな一夏の後ろ姿を、箒がずっと見ていた事を一夏は気づかぬままに。
* * *
一夏の代表が決定し、数日後の放課後。箒は重苦しく溜息を吐いていた。箒の目の前にはISを纏った一夏とセシリアの姿がある。箒は再び溜息を吐いて、一夏へと視線を向ける。
「……で? 何で私はここに呼ばれたんだ?」
「だから近接戦闘だったらお前の方が得意だろ? セシリアの教えも悪くないんだけど、やっぱり接近戦って言ったらお前しか思いつかなくてな?」
「……わざわざ打鉄まで借りて。本当にご苦労な事だな」
白式を身に纏った一夏が箒の疑問に、けろっ、とした様子で応えた。その後ろでは明らかに不満です、と言わんばかりのブルー・ティアーズを纏ったセシリアが腕を組んでいる。
やれやれ、と思いながら箒は頬を掻いた。正直、セシリアが一夏に好意を持ちだしたのを箒は気づいていた。これでも紛いながらも一夏を慕っていた身だ。自分と同じような感情を抱いた相手の判別ぐらいは出来る。
これを機に二人が仲良くなるならそれも良い、と。自分が一夏と関わる時間が減るならば、と歓迎していたのだ。それから距離を取っていた訳だが、何故かそれが裏目に出たような気がするのはきっと気のせいではないだろう。
(……まったく、これだから一夏は)
相変わらず人の気持ちには鈍感のようだ。どうしようもない、と箒は溜息を吐き出した。しかし別に用事がある訳でもなければ、一夏と模擬戦をするのが嫌な訳ではない。模擬戦ならば剣道で幾らでもやってきているのだから今更だ。
それに自分が申請した訳でもなく、授業に使われる為でもなく、訓練の為にISに乗れるというのは正直貴重だ。断る理由は無い。
「まぁ、良い。私としても良い機会だ。やらせて貰うぞ。……オルコットも構わないか?」
「……まぁ、良いですけど」
「すまないな」
礼は簡潔に告げ、箒は打鉄の装着を始める。専用機とは異なり、呼出などではなく搭乗者が乗る事によって起動するのが違う所だ。
箒は打鉄に体を預ける。瞬間、打鉄は箒の体を覆うように装着されていく。まるで鎧を纏ったかのような姿、これこそ日本が生み出した第二世代型の量産型IS“打鉄”だ。感触を確かめるように箒が何度か拳を開閉する。
「どうだ?」
「悪くない。……ふむ」
箒は武装の一覧を確認し、その中からブレードを取り出す。光が溢れたかと思えば、箒の手にはブレードが握られていた。日本刀を模したブレードを構え、幾度か型を試すように構える。
うん、と箒が頷きと共に声を出す。問題はない、という事を確認し終えれば一夏へと向かい合う。
「ふむ。ISでは私の方がお前に遅れる形になるのか」
「知識ではお前には及ばないけどな。機体が専用機ってだけだ」
「そうだな。余り気にするものでもない、か」
互いに言葉を交わしながら笑みを浮かべる。一夏もまた雪片弐型を構え、箒と向かい合う。互いに言葉は失せ、二人は見つめ合う。
「セシリア。合図を頼む」
「わかりましたわ」
一夏の呼びかけに、セシリアは不満顔のまま頷いた。だが、一夏も箒もセシリアを気にしてはいられなかった。一夏は箒の強さを知っているから、そして箒はISを使っての稽古が初めてだという事から。
「――始め!!」
そして、セシリアの合図と共に両者は一歩を踏み出した。
先手を取ったのは一夏だった。機体の性能に助けられての初速、一夏はそれを惜しみなく使い、一撃を放つ。踏み込みからの横凪ぎの一閃。それを箒は同じく横凪ぎの一閃を放ち相殺する。
刃と刃のぶつかり合う事によって奏でられる軋みの音。箒は一夏の<雪片弐型>を弾くように振り抜く。
「はぁぁああっ!!」
(ッ!? 早いっつーのっ!?)
振り抜いた勢いを殺さぬまま、箒はそのまま独楽のように回転して一夏へと再び横凪ぎの一閃を繰り出した。堪らず一夏はバックステップを踏んで回避。が、それは過ちだったと気付く。
箒は強引なまでに一歩を踏み込んで横凪ぎを切り返す。切り替えされた刃は一夏の首を刎ねんばかりの勢いで迫る。これを一夏は顔を傾げる事によって回避するも、下手をすれば絶対防御が発動していた可能性だって有り得た。
はらり、と一夏の髪が宙に舞う。一夏が冷や汗を流しながら、背中に走る寒気が命ずるままに箒を蹴り飛ばそうとする。が、箒はシールドで受け止める事によって、蹈鞴を踏む程度で堪えて見せた。
「喝ァッ!!」
「うぉわっ!?」
今度は脳天を割らんばかりの唐竹割が放たれた。それを一夏は咄嗟に<雪片弐型>を掲げて防御する。ここで押し比べになるのだが、箒はここでスラスターを噴かし、一夏への圧力を加えながら一夏を押し込んでいく。
「おぉぉおおおおっっっ!!」
「ちょ、ちょっと待てっ!? ッ、このぉ!!」
これは堪らない、と一夏は雪片で箒の太刀を滑らせるように受け流そうとする。が、それは失態だったと一夏は悟った。
悟った時には既に遅い。箒は肩から一夏に向けてタックルを仕掛ける。スラスターの勢いを緩める事無く突撃し、シールドが一夏の身体に勢いよく叩き付けられた。
「がっ!?」
「――貰ったぞ」
一夏の体が箒に押されるままに地を離れた瞬間、箒は一夏の腕を掴み、そのままスラスターの勢いをつけたまま空に上がる。
高度を取った箒は一夏の腕を絡めるように組み、落下を始めた。一夏を地面に向け、更なる勢いをつけて。
「う、嘘だろ!?」
藻掻く一夏だが、箒は体全体を使って一夏を押し上げているのだ。腕も組まれ逃れられない。更に重力も加わっての勢いとなっている。今更一夏がスラスターを吹かせようが、逃れられない状況。
「――沈め」
小さく箒が囁くと共に、一夏がその勢いのままに大地に叩きつけられる。叩き付けられた衝撃で一瞬、意識が明暗していた。
その間に箒が呼び出した短刀が一夏の首へと突きつけられていた。一夏がごくり、と唾を飲む中、箒は一度、小さく頷いて確かめるように言葉を口にした。
「なるほど。生身とは違うものだな」
「……何でそんなに強いんだ、お前」
少し落ち込んだ様子で、一夏はある意味理不尽なまでの箒の強さに呆れるのであった。
一夏を起き上がらせて、セシリアの下へと戻る二人。戻ってきた二人、正確には箒を見てセシリアは問いかけた。
「……篠ノ之さん、貴方、本当にISランクCですの?」
セシリアは明らかに不審そうな顔で箒を見ている。一夏を解放した箒は身体をしきりに動かし、機体の動作を確かめながらセシリアの問いかけに答えた。
「間違いはない。偽る意味も手段もないだろう?」
「それは、そうですけど……」
「でも、初めてであれだけ動かせるなんて凄いよな、箒って才能あるんじゃないか?」
「さてな? ……それでどうする? オルコット。私とも戦うか?」
「……良いでしょう。その話、受けますわ」
挑みかかるように箒へと視線を向けてセシリアは告げる。箒は薄く笑ってセシリアとの戦いに戦意を燃やす。
機体のステータスを整えてから、先ほど一夏と向き合ったように箒とセシリアは向かい合う。セシリアは油断無く<スターライトmkⅢ>を構えて箒を睨んでいる。
対して箒はだらり、とブレードを下げていた。一夏と向き合っていた時とは違う脱力した様にセシリアが目を細める。やる気がないようには見えない。逆に不気味な気配を感じる。セシリアが怪訝そうに見ていると、箒の口元が薄く微笑む。
ぞくり、と。言い様もない不安が背筋を駆けめぐる。しかし己を奮い立たせるようにセシリアは歯を噛み、箒を睨み据える。
「――始め!」
一夏の合図が下された。セシリアは箒から距離を取るように後退し、ビットを展開する。そして箒に狙いをつけようとして気付く。箒が一歩もその場から動いておらず、ただ地に足をつけてセシリアを見上げている事に。
やはり不気味。油断しているように見えて、まったくそう思えないのは彼女の瞳が自分を捉えていて離さないからだ。細められた瞳に見据えられている。――何故か、頬に汗が伝う。
「ッ……! 墜ちなさいッ!」
気のせい、とセシリアはビットからの射撃を開始した。箒がどう動いてもすぐにビットで取り囲めるように配置し、放たれたレーザーは――何故か外れた。
「……は?」
箒が動いたようには見えない。だが地には土煙が立っている。よく見れば場所もズレている。自分の照準に狂いはない。動いた? 一体どうやって? いつ? 何も変わらないように見えているが、それでも動いていた? ハイパーセンサーによって知覚能力が上がっているのにも関わらず?
信じられない思いでセシリアは箒を見る。うっすらと微笑む表情はまるで変わっていない。貼り付けたような表情を浮かべ、見つめられている。自分が、見つめられている。薄く微笑んだあの表情に。
「くっ……! ブルー・ティアーズ!」
今度こそ見極めると、セシリアはビットからの射撃を再度試みる。今度は一撃ではない。箒の回避行動に移った際の予測地点に向けて時間差でレーザーを放つ。
そして――再び箒はかき消えていた。ゆらりと、まるで蜃気楼を目撃したようにブレたかと思えばそこにいる。全てのレーザーが地を穿って跡だけを残している。
(わからない、わからない、わからない――!? 一体どうやって!? 彼女は、一体何を!?)
ゆらり、ゆらり。箒は一歩ずつ踏みしめながらセシリアへと近づいていく。牛歩のような速度だ。大きく身体を揺らすように迫る様は不気味としか言い様のない姿。――ただ、嗤っている。
「ひぃ――ッ!?」
何だ、今の声は? セシリアは自分の喉から出た声が信じられなかった。引き攣ったような悲鳴。それを上げたのは誰? 自分が? 悲鳴を上げた?
まさか、とセシリアは身を震わせた。イギリス代表候補生の自分がISに乗って間もない相手を前にして――“怯えている”?
「そんな筈、ないッ!!」
放つ。放つ。放つ。手に持つ<スターライトmkⅢ>から、宙に浮かせたビットから箒に向けてセシリアは乱射した。これだけ穿てば回避も仕切れる筈もない、と絨毯爆撃のようにレーザーが大地を穿っていく。
立ち籠める土煙。ただ静寂が支配する中、自分の息遣いだけがセシリアに響く。そして気付いてしまった。
(しまった、土煙でセンサーが!?)
一瞬、立ち籠めた土煙でセンサーが反応しなかった。そしてセンサーが土煙にも対応して反応を探る。そう、その探る“一瞬”の間において“彼女”は飛翔していた。
土煙を突き破って飛び出した姿、その両肩につけられたシールドは無惨にもボロボロになっていた。しかし箒の戦意はまるで揺らいでいない。むしろ昂ぶってすらいた。
――口が裂けんばかりに嗤い、見開かれた目が狂喜を示していた。
ひっ、と。引き攣った声が漏れ、迎撃の為にレーザーライフルを構えるのも遅い。通常の加速ではあり得ない加速。セシリアの脳裏に“瞬時加速<イグニッション・ブースト>”の名前が浮かぶ。
鞘に収められたブレードが引き抜かれる。箒が待ち侘びたように刃を振り抜く瞬間、セシリアは幻覚のようにその声を聞いた。実際に箒が呟いたのかはわからない。だがそれは強烈なイメージと共にセシリアの心に突き刺さる。
――“殺ス”
叩き付けられたのは強烈なまでの殺意。自らの死のイメージを叩き付けられたセシリアは振り抜かれたブレードを目にして、“首が飛んだ”と錯覚した。
呼吸が止まった。それもそうだろう。首が飛んだ筈なのだから。だが違和感に気付く。喉の感覚がまだ残っている。すると、思い出したように呼吸が出来た。息苦しさから解放されたセシリアは信じられない、と目を瞬かせた。
「……つい、てる?」
震えた声が漏れた。確かめるように首の手を伸ばせば離れている様子などもない。ただ呆然とセシリアは己の手を首に添えていた。
ふと顔を上げてみれば、目の前には無表情な箒がいた。どこか悩ましげに眉を寄せていて、手に握っていたブレードを収めた。そしてセシリアに手を伸ばそうとする。
「ひっ……!」
得体の知れないものに怯えるようにセシリアは後退る。だが、箒の手が伸びる方が早い。箒の手はセシリアの肩を掴み、軽く揺さぶった。
「おい、大丈夫か?」
「……ぇ?」
「……意識がはっきりしてないなら一発殴るか?」
「……! あ、……えと、大丈夫です」
心配げにかけられた声にセシリアはようやく現実感を取り戻すことが出来た。今までどこか浮ついていた感覚は霧散して、しっかりと自分の状態を把握する事が出来る。
今のは一体、とセシリアは自らが陥っていた状態に疑問を抱く。だが、考える事は出来なかった。箒が再度、セシリアの肩を揺さぶって地面を示す。
「とりあえず降りるぞ」
「あ……えと、はい」
ただ箒に促されるままにセシリアはゆっくりと降下していく。僅かに自分の手が震えた事実に気付かぬままに。
* * *
――案外、脆かったな。
箒は自室でシャワーを浴びていた。あれからの後の事だが、突如降りてきた二人に心配そうに駆け寄ってきた一夏に、箒はセシリアが体調を崩していたようだ、と一夏に説明した。すると一夏は申し訳なさそうにセシリアに謝っていた。
セシリアはまだどこか心在らずの状態で頷いていた。一夏も心配していたので、一夏にはセシリアを医務室に連れて行って貰う事にした。どこか心在らずの状態だった事を良いことに、おんぶしてやれ、とアドバイスすると一夏はそのままセシリアをおんぶして医務室に向かった。
「……ふぅ」
シャワーを止めて濡れた髪を拭う。ふと、鏡を見てみれば――笑みに歪む自分の顔を見た。
「……ふっ、くふっ、ふははは、あはははっ!」
他の代表候補生がどれだけのものかは知らないが、エリートと言われた専用機持ちがあんなにも脆かった。その事実が何とも言えない感慨を呼び覚ます。
箒は顔を上げた。鏡で見る自分の瞳はどこか虚ろで、濁りきっていた。その表情がただ、笑みに歪んでいる。
――もう、ただ堕ちるしかない自分を嘲笑うように、箒はただ笑い続けた。
* * *
最近、夢を見る。気が付けばそこには一人。誰かが倒れている。
誰かが倒れていて、次第に何かが広がっていく。赤く、赤く、赤く。全てを赤く染め上げながらそれは広がっていく。
辺りは黒一色だった。真っ黒い墨をぶちまけたような黒。光の差さぬ闇を思わせるような黒。
その中で赤色が広がっていく。赤と黒は混ざり合っていく。とろとろに、どろどろと。思わず手に掬って口に含む。ごくりと飲み干す音が無駄に響いた。
倒れている誰かは動かない。いつも笑顔を浮かべていた“ソレ”は唖然とした表情を浮かべたまま、もう動く事はない。
それが堪らなくおかしくて、狂おしいまでに幸福だった。幸せのまま、ぼんやりと見つめていると音がした。赤色の中で嗤う様を誰かが見ていた。
『――箒……?』
まるで信じられないという顔で、“彼”は私を見ていた。
何かが、砕けるような音が自分の中に響いた。
* * *
ざぁぁあ、と。水が流れる音が響く。トイレの個室の一つに箒はいた。壁に力なく背を預ける。普段はポニーテールに纏めている髪が無造作に広がっている。腹の底からごっそりと力を奪われたように力が入らない。
吐き出した。夢の中で含んだものを。口に入れたものを。あんなおぞましいものを口に含んだ。例えそれが現実ではなくても受け入れられなかった。だから全てを吐き出した。もう吐き出すものすら残っていない。箒は、ただそこに蹲るように膝を抱えた。
「……ぅぇっ……」
口元を押さえる。未だに鼻を刺すような臭いが口の中に残っている気がして不愉快な気分になる。覚えている。忘れてしまえれば楽なのに覚えてしまっている。夢の中での自分の醜態を。悪夢と言う他に無い夢を。
悪夢に溺れ、嗤う様を見ていたのは果たして誰だっただろう。……誰だっただろう? 誰かなどわかっている。あれは間違いなく“彼”だ。そんなのわかっている。
箒は苛立ちを隠せず、拳を壁に叩きつけた。鈍い音が響く。幸いな事なのはまだ早朝の為に人がいないという所だろう。未だ日が昇らないうちにトイレに来るものなど数少ない。
乱暴に髪を掻き毟るように混ぜっ返す。髪を掴み、手を震わせながら頭を抱えて箒は言葉を零す。言葉にしなければ心が納得しない。吐き出さなければ淀みは消えない。ぽつりと箒は言葉を吐き出す。
「無様だな……」
それでも箒は捨てきれない。あの頃の自分があるから。どれだけ変質しようとも篠ノ之 箒の心の奥底には“一夏”が息づいている。一度死した筈の心が息を吹き返そうとしている。今更、戻れる筈もないのに。
だから、まだ正気でいる事を望んでしまう。でも望む事は叶わない。もう後には退けない。退いた所で行き場などもうないのだから。だから希望なんていらない。狂気に魅入られた自分に希望なんて必要ないのだ。
けれども箒には希望を諦めきれない。希望を捨ててしまえば楽になれると知っていても箒にはそれを選べない。余りにも彼の傍は心地よいから。かつて失った日々が、欲して止まなかった日々が手を伸ばせば届くから。
束への殺意も、一夏への愛慕も。どちらも箒を形作るものなのだから。どちらも捨てられない。箒は耳を塞ぐ。目を閉ざす。己の心を殻で覆うように箒はただ小さく縮こまる。己を護るように、震える体を抱きしめながら。
「一夏……」
いつか自分は選ぶ日が来る。選ぶ答えなんてもうわかってる。
残っていた残骸すらも全てを捨てる。だから、どうかその日までは。
どうかもう少しだけ。偽らせて欲しい。狂気を心の奥底に閉じこめて箒は嗤う。
「……大丈夫だ。私は、まだ笑えてるな」
―――そう、だから、まだ大丈夫。