ウルトラ・ショート・ストーリーズ   作:外清内ダク

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ラグ・ドール

 すう。

 彼女は細く息を吸い込んだ。ほんの少しだけ。命に満ち満ちた透明な気体を、体の中にじわりと流し込んだ。命の風は内と外から彼女を突いて、一歩一歩滅びの時へと近づいていく肉体に僅かな猶予を与えるのだった。少しずつ少しずつまるで拷問のように。

 苦しい。彼女の脳はすでに正常な精神を失っていた。苦しい。ただ一つの形容詞だけがひたすらに頭を満たしていく。半狂乱しながら、狭い牢屋の中で、重い重い鉄の扉をどんどんと叩く。体は動かない。でも心だけが叩く。黒々とした忌まわしい鋼鉄。

 つう。

 肺の中に残っていた空気を彼女は一気に吐き出した。苦しくて仕方がなかった。僅かばかりの、繭から糸を紡ぐような呼吸だけではこの苦しみを払拭することなど到底できなかった。だから彼女は思いっきり吸った。口を大きく開いて深呼吸をした。

 すう!

 次の瞬間猛烈な吐き気が彼女を襲い、体をくの字に曲げて彼女は激しく咳き込んだ。なんだよぅ、これは! すっかり虚ろになっていた意識が皮肉にも呼び戻される。どうしてたくさん吸ったのに苦しいんだよぅ!

 空気にはもはや酸素がほとんど残っていないのであった。窒素と水蒸気と二酸化炭素ばかりが充満する空気。死の空気だった。呼吸できる、命を吸えるとばかり思っていた肺が、突然入り込んできた死の臭いを拒絶したのである。

 す。

 元の通りの呼吸に戻しながら、彼女はふと天井を見上げた。品の良い白の塗装。敷き詰められた正方形のパネル。そこにへばりついた白銀の輝き。以前と全く変わらぬ光を放つプラズマ蛍光管。

 ちくしょう。彼女は無性に悔しくなった。悲しくなった。どうしてお前達はそんなに平気でいられる? クルーが片っ端から倒れていくこの閉鎖空間の中で、壁や天井や蛍光灯はなぜ静かに佇んでいられる? 酸素が要らないってだけで、あたしとあんたはそんなに違うのか。ちくしょう!

 もうあれからどのくらい経ったのか、彼女は数えていない。突然迫ってきたデフリ。それはゴミだなんて呼ぶにはあんまりな代物だった。大きかった。この船の十倍はあっただろう。戦艦の残骸だ。前にニュースでやっていた、某国の不法廃棄物に違いない。

 迎撃も叶わず、回避も僅かに遅れ、デフリは船の燃料庫に衝突した。大穴から燃料は漏れだし、船の軌道も変わった。火星行きの船は大きく進路を逸れ、どこだかわからない宇宙の果てへ向かって一直線に突き進む。

 そしてほどなく酸素が尽きた。無論救難信号も送ったが、救助隊がだだっぴろい宇宙空間に漂うちっぽけな船を見つけられるとは到底思えなかった。それでも僅かな望みに願いを託し、彼女は残り少ない酸素を少しずつ吸い込む。床に倒れ、指一本動かす気力も失い、他の連中が面白いようにばたばた死んでいくのを目の当たりにしながら。

 すう。

 彼女はまた息を吸った。とくん、とくんと心臓が弱々しく脈打っていた。その鼓動は力無く、もう間近に迫っているのであろう瞬間を露骨に予感させた。虚無へと、何もないこの宇宙のような空間へと彼女が還る瞬間である。

 すう。

 彼はなんて言うだろう。火星で待っている彼は。婚約者が死んで、泣き叫ぶだろうか。大声で、床に跪いて、拳を叩き付けて。いやそれとも部屋に閉じこもって、呑み慣れないきついのを煽るのだろうか。ひょっとしたら何も理解できなくて、ただぼうっと天井を眺めるだけかもしれない。

 いずれにしたって激しく悲しむだろう。なんだか少し嬉しいような気がした。自分が死ぬということが。

 すう。

 あれっ。頭の中に違和感があった。でも自分は死んだらどうなるんだろう。何もない場所で永遠に真っ暗で、何も見えず何も聞こえず何も感じられない。そうしたら彼は? 悲しみなんか放り捨てて、別の女とよろしくやるのだろうか。

 すう。

 彼女はふと、気付いた。さっきから自分が吸ってばっかりだったということに。吐かなければ次は吸えないはずなのに。吸い込んだ息はどんどん肺に溜まっていった。彼女の胸が、腹が、腕が、足が、頭が、風船のようにぐんぐん膨らんでいく。彼女の体は三倍にも四倍にも大きくなった。そして。

 つう。

 瞬き一つすれば、彼女はまた元のスリムな体型に戻っていた。さっきまでのぶくぶく膨れた自分が嘘のようであった。そろそろやばいのかな、と彼女は漠然と感じた。幻覚のような映像が、頭の中に浮かぶのだから。

 つう。

 父さんと母さんはどうだろう。地球で平和に暮らしている老夫婦は。きっと二人抱き合って、悲しみにぶるぶると打ち震えるに違いない。ああ、でも父さんは絶対こう言うだろうな。だから火星になんて行くなと言ったのに!

 つう。

 じゃああの子は。ボーダーコリーのクレスト。毛並みに紋章みたいな模様があったからこう名付けた。子犬の頃から買い始めて、はや二年。賢くて優しい女の子だった。言葉は通じないだろうけど雰囲気で察するだろう。相棒の死を。いつもみたいにううと唸って――

 つう。

 今度は彼女は吐いてばかりだった。一息吐くごとに、肉がごそりともげ落ちる。腕に白骨がのぞく。腹で臓腑が臭う。どこからかわいて出たいるはずもない蛆たちが、旨そうに彼女の体を蝕んでいく。そのぴくぴく蠢く姿は奇妙に愛嬌があって、彼女はじっとそれを見つめていた。

 す。

 息を吸うと蛆は消え失せた。無くなったはずの肉も何事もなかったかのようにそこにある。

 もう恐怖などなかった。それどころかいかなる感情も彼女にはなかった。全てが硬直し、麻痺して、だんだんとぼやけてくるのだった。何もかも。そう、彼女の命すらも。

 ごろんと彼女は寝返りを打った。窓から外の光景が目に入る。星々。明るく輝く、無数の星々。

 綺麗だなあ。

 そして彼女は目を閉じた。

 

 

THE END.




2001年2月制作
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