健太は夕日が沈んだあとの薄暗い路地を、とぼとぼと帰宅の途についていた。数カ所白く傷の付いた本革の学生鞄を右手に、紺のジャージが入った校章入りのサックを背に、杖代わりの閉じた傘を左手に持ち、雨に濡れたアスファルトを黄ばんだ運動靴で踏みしめた。戦後幾度と無く繰り返されてきた工事でつぎはぎだらけになってしまった灰色の地面は、雨を吸って黒々と化粧し、先週配管工事が終わったばかりの真っ黒だったところなどは、汚らしい虹色の模様がついた油をぽっかり浮かせていた。健太は顔をしかめながら油を避けた。すり切れかけた靴底のゴムを通して、にちゃり、と粘っこい感覚が伝わった。
用水沿いの道を進むうち、健太は本家の前にさしかかった。本家を囲うブロック塀もじっとり雨に染まっていて、庭からはみ出した南天の枝が赤々と実をつけ、重たそうに頭を垂れて健太に敬礼した。健太も思わず会釈を返した。
健太は道の先を眺め見た。先の方には林に包まれた小山がそびえ立っており、コンクリートで補強された石段と、苔生した墓石の群れが遠くに見えた。寺の鐘がごぉんと鳴った。六時を告げていた。
そのとき確かに、健太は地鳴りのような音を聞いたと思った。音、というよりもそれは下から突き上げる震動だった。靴の下の粘っこさは一層脚を不快に刺激し、虹色の油が宙に水滴を吹き上げた。
健太は額に脂汗の浮かぶのを感じた。ぢりぢりと背筋の産毛が逆立った。用水を見た。濁った泥水がじわじわとかさを増していた。息を飲んだ。川の分かれ目で、昔鳴門で見たような渦が巻いていた。
転がるようにして健太は本家に駆け込んだ。傘も鞄もサックも、みんな玄関に投げ捨てた。
「洪水だぁ」
叫んだが、応える者はいない。祖父は仕事に出ているのかもしれないが、祖母も、伯母も、従兄弟も、灰色の雑種犬も、誰も応えず、奥のガラス戸も左手のドアもしずかに佇むばかりだった。健太は律儀に靴を脱いでそろえ、古い家の中を駆け回った。台所では火のないコンロに薬缶が置き捨てられ、広間では仏壇のおそなえが黴びており、祖父の寝室では万年床とこたつと青写真と列んだ日記帳だけが主人の帰りを待っていた。
靴下がじっとりと濡れた。足元。畳から水が染み出す。
うっ、と唸り、また玄関へ駆け戻る。もう水は土間をすっかり覆っていた。土壁が削られて竹の骨が覗いていた。庭の敷石も花壇も濁り水の下に埋もれていた。
健太は辺りをきょときょと見回した。錆びたプレハブの階段が、錆びたなりの堅牢さで天へ誘っているのが見えた。ざぶざぶと膝まで水に浸して玄関を出ると、足を取られそうになるのを必死に歩いた。足の裏がちくちく痛かった。やっとのことプレハブに取り付くと、階段に足をかけた。濡れて重たい膝を持ち上げ、一段一段踏みしめて昇った。ようやく水から上がり、あとは一気に上まで這い昇る。
プレハブの上から故郷の町を見下ろした。すっかり日は暮れて、一番星が天に輝いていた。本家は屋根の所まですっかり水に覆われた。町はまるで海だった。小山の上の寺と墓地が、遠くの山にある中学校と神社が、高速道路の高架線が、まるで島のように海から突き出していた。
健太は疲れ果てて寝転がった。ざあ、ざあ、と水が唸っていた。星の海は少しずつ広がっていった。海の中に延びる雲が、どこか龍のように見えた。龍はなにもかも飲み込んで、自分は天に昇ってしまった。家族も友達も恋人も、いまや雲の中の星になって輝いている。
「これは、夢だ」
ぽつりと健太は呟いて、静かに目を閉じた。
THE END.
正確な制作日は不明だが、おそらく2004年頃。