もう、こうして歩き始めてどの位に成るだろうか。故郷を旅立って、暫くは堅苦しい作法に縛られない気儘な生き方に、満足もしていた。だが……そう、五年だ。五年もの間、当てもなく日本中を歩き回ってきて、漸く家族が言っていた事が解るように成った。脱藩と云う事が如何なる事なのか。身を持ってしか知り得なかった儂は、只の馬鹿だ。しかし、叱ってくれる者すら、最早何処にも居ない。
鬱蒼と繁る竹林の中を、男が一人歩いていた。腰には竹光が二本、差してある。男は所謂、素浪人だった。国も捨て、家も捨て、只こうしてその日暮らしをするだけの、無頼漢である。
素浪人は若竹の良い香りを嗅ぎながら、細道を進んでいった。筍か。筍も久しく喰っていない。何分灰汁が多くて、其れを何とかしない事には苦くて仕方がない。其れが面倒で、素浪人は筍を喰わないのであった。素浪人は面倒な事が嫌いだったのだ。
其の時、竹の狭間から音が聞こえた。ざくり、という鈍い音だった。何事かと思って覗き込むと、其れは僧侶が鎌で筍を切っている音だった。此方の足音に気付いたのだろう。僧侶は顔を上げた。両の瞳は、固く閉じられていた。目暗の僧か。素浪人は声を掛けた。
「おい、坊頭。それは、筍を切っているのか」
「左様に御座います。今晩の飯にと思いまして」
「そうか。儂も腹が減っている。少しばかり、分けては貰えぬか」
僧は其れを承諾した。二人は焚火を囲んで、焼いた筍を頬張った。不思議なことに苦味は全く無かった。僧は、若い筍には灰汁は少ないのだと云った。
「貴僧、名は何と申す」
素浪人の言葉は、先より少しばかり丁寧に成っていた。
「名乗るほどの名では御座いませぬが、忠念と申します」
「忠念、何故貴僧は旅を為て居る」
「仏の御心を知りとうて、世を渡っております」
「では、仏の御心とやらは、解ったか」
僧は、少し躊躇った。
「解りませぬ。愚僧故」
「何時に成ったら其れは解るのだ」
「其れも解りませぬ。然し拙僧が思うには、大方、往ぬまで解らぬでしょう」
素浪人は驚いた。往ぬまで解らぬ様な事を、何故探そうと云うのか。辛い旅を為ようと、国で・・・僧ならば寺でぬくぬくと暮して居ようと、往ぬときは往ぬのだ。永久に生き長らえる者など何処にも居ない。釈迦ですら死んだのだ。其れなのに、何故探そうとするのだ。
「拙僧にはこうするより他有りませぬ。何故かは解りませぬ。然し、世には星の数ほどの坊頭が居て、其の中に拙僧も居る。そして拙僧にはこうすることしか出来ぬ。其れは確かな事で御座います」
「では」
素浪人は腹の奥から言葉を捻り出した。
「儂にはこうするより他無いのか。何故かも解らぬのに。星の数ほどの侍が居て、其の中に儂が居て、そして儂はこんな旅を為なければならぬのか。本当にそうなのか」
僧は微笑んだ。そして云った。
「其れは、御武家様次第で御座いましょう」
焚火がぱちぱちと音を立てた。他には何も聞こえない。夜の静けさの中に、紅い炎と、小さな音だけが響いた。素浪人は立ち上がった。抜いていた竹光を、もう一度腰に差し直した。僧はそれに感付いて、引き留めようとした。
「もう暗う御座います。今宵は休まれた方が」
「構わぬ。儂は夜目が利くのだ。月明かりで十分だ」
暫く歩いてから、素浪人は振り返った。焚火の側で、素浪人の旅の無事を祈る僧の姿が、其所にはあった。
THE END.
正確な制作日は不明だが、おそらく2001年7月頃。
これで古い掌編は全て公開し終わりましたので、このシリーズはここで連載終了とします。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!