後藤氏は貿易会社に勤めるエリート会社員だった。大学も、誰もが知っている有名校の経済学部を出たし、今勤めている会社も、その道に詳しい人が聞けばすぐに大会社だと分かるくらいには有名なところだ。給料もよく、綺麗で従順な奥さんも得て、後藤氏の将来は順風満帆であるように思われた。
ところがあるとき、ちょっとしたへまをしでかした。取引先の輸入品販売店に、今週中に卸すはずだった商品が、輸送の時の手違いで、到着が遅れてしまったのだ。商品が届くのは来週末になるという。後藤氏は自分の失敗を悔いたが、仕方なく取引先へ謝罪に向かった。
取引先の責任者であるポーター氏は、耳の先まで真っ赤にしてかんかんに怒った。平謝りに謝る後藤氏の頭の上に唾を飛ばしながら、
「まったく、届かないでは済みませんよ。うちは、おたくを信頼していままでお付き合いしてきたのですがね」
「申し訳ございません。二度とこのような失敗のないよう善処致しますので、どうか取引の打ち切りだけは……」
「善処善処と口で言うだけなら簡単ですよ。日本人の悪い癖ですな。ええ、取引を打ち切らないでくれなどと、よく言えたもんだ……」
ポーター氏は流暢な日本語で、聞くのも心苦しいほどのねちねちとした陰湿な罵倒を繰り返した。後藤氏はだんだん腹が立ってきて、よっぽど殴りかかってやろうかと思ったが、今までひた走りに走ってきたエリート街道から逸れるのも嫌だったし、会社のみんなにも迷惑はかけたくなかったので、必死になって衝動を堪え、ひたすら頭を下げ続けた。
ポーター氏が気の済むまでたっぷり罵って、規模は縮小するながらもなんとか取引の打ち切りだけは避けることで話がまとまったころには、日はすっかり落ちてしまっていた。後藤氏は会社に電話を掛けて、なんとか許してもらえたこと、遅くなったのでこのまま家に帰ることを告げて、帰りの電車に乗った。
家では妻の千佳子が待っていた。妻は一目で後藤氏の機嫌が悪いことを見抜き、おそるおそる食事を勧めた。後藤氏は苦虫をかみ殺したような表情でビールをすすりながら、千佳子に聞くだけで胸焼けがしてきそうなほどに毒々しい愚痴をこぼし始めた。
「まったく、あの禿げ上がった陰険野郎め。人をうまい具合にストレス発散の玩具にしやがって。どうせ自分が上から怒鳴られた腹いせだろう」
千佳子はそんな後藤氏の声にびくびくしながら、空になったグラスにビールを注ごうとしたが、あまりに怯えていたので手が震えて、少し後藤氏の手の上にこぼしてしまった。それがなんともタイミングの悪いことに、後藤氏はちょうど怒りが頂点に達していたところだったのだ。
「何をやっているんだおまえは! おれが疲れてかえってきて、ようやくほっと一息いれようというときに、こんな気の利かないへまをしでかすバカがあるか!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「おまえはいつもそうだろう。何かにつけていつもへまばかりする。愚鈍にもほどがあるというものだ」
それは聞くのも心苦しいほどの、ねちねちとした陰湿な罵倒だった。千佳子は縮こまって、ひたすらに頭を下げ、後藤氏の怒りが収まるのを待った。後藤氏が怒り疲れて寝室に入っていってから、ようやく千佳子はほっと息を吐いた。
千佳子は自分がドジであることはわかっていたし、それを恥じてもいたが、後藤氏の罵倒は酷すぎた。いっそのこと離婚届を突きつけてやろうかとも思った。でも、別れたところで一人で生きていく自信はなかったので、ただ溜息をつきながら、食器の片づけにとりかかるばかりだった。
翌日、後藤氏を会社に送りだした後で、千佳子はショッピングに出かけた。今日は、前々から楽しみにしていた、輸入物のブランドバッグが、お店に並ぶ日なのだ。意気揚々と千佳子は輸入品販売店に足を踏み入れたが、目的のバッグはどこにもなかった。千佳子は不審に思って店員を呼び、
「今日届くとおっしゃってたバッグ、どこにもないのですけれど」
「申し訳ありませんお客様、そちらの商品は輸送の手違いで、来週末に届くことに……」
「ちょっと、それってどういうこと。わたくしは一ヶ月も前から予約をして、楽しみに待っておりましたのよ。責任者をお呼びになってくださる?」
千佳子は昨日後藤氏に怒鳴られたこともあって、機嫌が悪かったので、必要以上に声を荒げた。店員は大慌てで奥に引っ込んで、責任者のポーター氏を連れてきた。
「お客様、大変申し訳ありません。来週末には必ずお手元に入るように致しますので……」
「来週末では困るわ、今欲しいのよ。だいたいあなた、きちんとその日に売れないのなら、予約だなんてサービスしなければいいじゃない。わたくしがどれほど楽しみにしていたと思いますの? まったく、あなたのような無能な責任者は見たことがないわ……」
それは、聞くのも心苦しいほどの、ねちねちとした陰湿な罵倒だった。
THE END.
2004年2月制作