「なめとんかい!」
厳つい顔をした男が、父の胸ぐらを引っ掴んで、そう叫ぶ。
あれは、十数年も昔の冬。私はまだ、ランドセルが大きく見えるほど小柄な、小学生の女の子でしかなかった。あの頃の私は、いつも奥の座敷に隠れて、柱の影から玄関を見つめることしかできなかった。
サングラスの奥に鋭い眼光を隠した、「なめとんかい」が口癖のおじさん……彼が口汚く父を罵倒するのを、ただ見ていることしかできない、子供だったのだ。
父は「なめとんかい」のおじさんに、ただひたすら、必死に頭を下げ続けていた。だが、週に何度というペースでやってくる、付き合いの長いおじさんは、父の心の内をすっかり見通しているのである。
「どんだけ払い滞らせとると思とんのや! 色気ださんとあるもん出さんかい!」
こう言われると、父は小動物のように肩を震わせて、私のいる座敷にとぼとぼと戻ってきた。そして、隠しておいた財布を持ち出すと、おじさんに恭しく差し出したのだった。
そう。
父には多額の借金があり……そして、「なめとんかい」のおじさんは借金取りだったのだ。
私たち親子は、すきま風が入り込む安アパートに、二人だけで暮らしていた。母がどうしたのかは知らない。私が物心ついた時には、もう母はいなかった。母がいないことを気にしたこともなかった。それどころではなかったのだ。
父は借金まみれで、私はと言えば、毎日お腹を空かせているような状態だった。ごはんがきちんと食べられたら幸せ。時々父が食べさせてくれるチョコレートに大喜びで飛びつくような子供だった。
そんな状態だったから、借金取りは毎日のように、代わる代わるやってきた。玄関までしか踏み込んでこない、あの「なめとんかい」のおじさんのような、品のいい人ばかりではなかった。大方の借金取りは、挨拶もなく座敷まで土足で踏み込んできて、平伏する父に有無を言わさず暴力を振るった。
だから、借金取りが来たことを音で察すると、父は慌てて私を押し入れに隠す。私を護るためか。情けない自分の姿を見せないためか。その両方か――
私は僅かに開いた押し入れの戸の隙間から、いつも座敷の光景を盗み見ていた。
数人がかりで父を取り囲み、情け容赦なく蹴り、踏みつけ、傷つけていく借金取りたち。私は恐怖に身をすくめ、しかし目をそらすこともできず、じっとその光景を見ていたのだった。
だから……全てを見ていたから、私は知っていた。
なぜか、あの「なめとんかい」のおじさんだけは、ただの一度も父に手を上げたことがないのだった。
ある日のことだった。
夕暮れに染まる坂道を、学校帰りの私と友達は、並んで歩いていた。学校は楽しい。友達はたくさんいたし、先生達は優しかった。勉強はそれほどよくできるわけではなかったが、朝から夕方まで友達と一緒にいるというだけで、私は満足していた。
やがて分かれ道までくると、私は友達と別れ、そこから先は家路を急いだ。今日は晩ご飯をお腹いっぱい食べられるだろうか。そうだといいな……そんなことを、跳ねるような足取りに乗せて、考えながら。
うちのドアには、「借金返せ」「ドロボー」などと書かれた紙が無数に張り付いていた。もちろんいつものことなので、私はすっかり慣れっこになっていた。特に気にも留めず、背伸びがちにドアを開け、私は元気よく家に飛び込んだ。
「ただいまーっ」
と。
私は、異変に気付いた。何がおかしかったのか……そう聞かれて答える術はない。ただ、家の中に漂う空気が、いつもと違っていた。私は息を飲んだ。良くない予感が、胸の中で渦巻いた。靴を蹴散らすと、そこから先は慎重に、足音を殺すようにして、私は奥の座敷に向かった。
ちゃぶ台一つ以外には何の家具もない、がらんとした座敷に、私は踏み込んだ。父の姿は見えなかったが、それ以外には特に変わった様子はなかった。
ただ一つ、ちゃぶ台の上に伏して置かれた、一枚の白い紙を除いては。
私はちゃぶ台の前に座り込むと、ランドセルを置くことも忘れ、その紙を裏返してみた。
『必ずむかえに来る』
どくん。
心臓が強く脈打った気がした。
走り書きされた父の字を見つめ、私は何時までもそこに座り込んでいた。
その日、父は姿を消した。
それから私は、ずっとそこに座っていた。押し入れの奥から毛布を引っ張り出して、それにくるまり、書き置きの言葉を信じて、ただ父の帰りを待ち続けた。学校へもいかなかった。動く気力もなくなっていた。クリスマスまであと数日に迫ったこの頃、隙間風は冷たく、私の体力を容赦なく奪っていった。
それでも私は待ち続けた。
体の震えは、片時も止まらなかった。
夜が来て、
朝が来て、
また夜が来て、
父は、戻ってこなかった。
私はいつしか、意識が遠のくのを感じていた。
どれほどの時間が経ったのだろうか?
私は、ドアが開く音で目を覚ました。
初めは父が帰ってきたのだと思った。立ち上がって迎えようとしたが、凍えた膝がどうしても動いてくれず、結局座り込んだまま待つことしかできなかった。でもそれももう終わりだ。父が帰ってくれば、もう大丈夫。そう思っていた。
しかし――次の瞬間聞こえてきた声に、その希望は打ち砕かれた。
「誰かおらんのか」
父の声では、ない。
私は凍り付いた。借金取りが来たのだと、反射的に思った。押し入れの中に隠れようとも。だが体は動かない。凍え、飢えた私の体は、はい回る力さえ失っていた。やがて声の主は、灯りもついてない家の中を、ミシミシと床を軋ませながら、歩いてきた。座敷に足音が近づいてくるのが、はっきりと分かった。
やがて襖が開け放たれ、その男が姿を現した。
私は渾身の力を振り絞って、その男を見上げた。
真っ黒な皮のロングコートを着て、サングラスに目元を隠した、厳つい顔の男。そう、それは……「なめとんかい」のおじさんだったのだ。鬼のような形相で私を見下ろし、巨大な剣のように私を圧倒するその姿に、私は冷え切った体を震わせた。もうだめだと思った。私を護ってくれる父はもういない。殺される。漠然と、そう思った。
おじさんは、眉をぴくりとも動かすことなく。
低く恐ろしい声で、こう言った。
「飯食ったんか」
意味が、よく分からなかった。
脳まで麻痺していたのかもしれない。しばらくして言葉の意味をようやく悟ると、私はゆっくり、首を横に振った。おじさんはそれを見ると、大きな体を屈めて、私の顔を同じ高さからのぞき込んだ。
その手が、サングラスを外す。
「しゃあないなァ」
鋭いが優しい光が、その奥に輝いていた。
「ハンバーグでも食い行くか」
二日も何も食べていない私の前に、湯気を立てるハンバーグの鉄板が置かれた。
「おいしそう……」
うわずった声で言いながら、私はつばを飲み込み、ハンバーグとおじさんの横顔を交互に見つめた。おじさんはレストランの椅子に横向きに座り、ブラックのコーヒーを啜っていた。しかし私の視線に気付くと、鬱陶しそうにそっぽを向きながら、こういった。
「ええから早う食わんかい」
「うん! いただきます」
私はかぶりつくようにして、ハンバーグを食べた。
暖かい料理によって、私の体は少しずつ融けていくようだった。
だがそれより暖かい何かが、私の心をも融かしているようにも、思えた。
それからというもの……
他の借金取りたちは、父が逃げたと知って寄りつかなくなったというのに、「なめとんかい」のおじさんだけは、何故か毎日やってくるようになった。そして家の中に一人でいる私を見つけては、
「なんや、まだ親父戻ってへんのか……しゃあないなァ、これでも食うか」
と、暖かい食べ物の包みをぶら下げて見せたり、
「また一人でおるんかい。しゃあないなァ、またハンバーグでも食い行くか」
と、私を前と同じレストランに連れていってくれたりした。
「なめとんかい」が口癖だったおじさんは、私の前では「しゃあないなァ」が口癖になったようだった。
相変わらず、厳つい仏頂面は崩さないおじさんだったが……私は子供ならではの本能によってか、おじさんの本当の表情に気付いていた。いつもそっぽを向いて、何も言わず、怒ったような顔をしているおじさん。だが、私がハンバーグに目を奪われている時、落ち着きなく周囲に視線を向けている時、そんな隙に、彼はそっと私を見守っているのだった。
ある時、レストランで清算していたおじさんの財布から、一枚の写真が滑り落ちた。私は何気なくしゃがみ込み、その写真を拾ってみた。そこには、サングラスを外して微笑むおじさんと、私と同じくらいの年頃の少女が、並んで写っていた。
と、それに気付いたおじさんが、ひったくるようにして私から写真を取り上げた。そっぽを向いて財布にしまい込むおじさんを見つめながら、私は頬が紅潮するのを感じていた。
暖かい気持ちが、心の中に湧いてくるのだった。
そして、さらに数日が過ぎた。
終業式も無事終わり、学校は冬休みに入った。クリスマスイブの夜、私はいつもより早めに床についた。もうサンタクロースを信じるような歳でもなかったが、それでも私は願っていた。
父が戻ってきますように、と。
朝起きたら、枕元に父がいて、またいつも通りの暮らしが始まる。そのことだけを夢見て。
そして私が深い眠りについた頃――
誰かが呼ぶ声で、私は目を覚ました。おぼろげな視界の中に、私は自分をのぞき込む男の顔を認めた。
「おい、起きぃ……目ぇ覚ませ!」
「お父ちゃん!?」
私は思わず大声を上げて跳ね起きた。
そう……私を揺り起こしていたのは、姿を消したはずの父だったのだ。父は慌てて私の口を塞ぐと、口元に人差し指を一本立てて、押し殺した声でこう言った。
「声出すな。逃げるで」
父は今まで夜逃げの準備をしていたのだ。そして今夜、それを決行しようというわけらしかった。当時の私にはよく分からないことだったが、とにかく父の気迫に押され、私は少ない荷物をランドセルに詰め込んだ。そして、父に手を引かれて家を飛び出したのだった。
だが、アパートの前まで出た、その時だった。
「うっ」
父が呻いて脚を止めた。
私は父が怯えて睨む方向に、そっと目を遣った。
黒い影が、チカチカと瞬く電灯の光を背に浴びて、そこに立っていた。冷たい夜風にはためくコートは、まるで不気味な翼のよう。サングラスに隠れた怒りの眼は、鋭く研ぎ澄まされた剣のよう。
「なめとんかい」のおじさん。
「すっ……すいませんっ! 見逃してください、すいませんっ!」
父は突然大声を出し、頭を下げて謝りだした。おじさんは、革靴の底をアスファルトに叩きつけながら、大股に父へと歩み寄った。そしていつものように父の胸ぐらを引っ掴み――
「なめとんかい!!」
父を、殴った。
私ははっとして、思わず一歩後ずさった。父はその重く強烈な一撃に、為す術もなく倒れ込んだ。初めてだった。おじさんが父を殴るのを、私は初めてこの目で見たのだった。今までおじさんに助けて貰った暖かい記憶が、一発で吹き飛んだ。目の前に立つ恐ろしい鬼の姿に、その全てが掻き消されてしまったのだった。
しかし、おじさんは、声に力強い怒気を込め、こう言ったのである。
「こんな小さい子をほったらかしにして、何考えとんのや!!」
どくん。
心臓が、強く脈打った。
私は呆然と、おじさんの横顔を見つめていた。おじさんはそんなことに気付いてもいないかのように、父の懐から無理矢理財布をひったくると、一万円札をその中から引っ張り出した。
「これは今日の分や。もろてくで。
……また来る。逃げなよ」
おじさんは、父から奪った一万円をコートの大きなポケットにねじ込み――
「それから……」
代わりに、小さな包みをポケットから取りだした。
白い包装紙と、赤いテープでラッピングされた、可愛らしい包みだった。おじさんの大きな手の中にあっては一層小さく見えるその包みに、おじさんはじっと視線を落とし、やがて、私にその視線を向けた。
「さっき、そこでサンタのおっちゃんと会うてな……預かってきたんや」
おじさんは、仏頂面のまま、私に包みを差し出した。
私は恐る恐る手を伸ばし、両手でそれを受けとった。その時、私の指が、おじさんの手にちょっとだけ触れた。
ごつごつしているが、暖かい手。
「……良かったな」
おじさんは、優しい声でそう言うと――
一度。
たった一度だけ。
私に、笑顔を送った。
それは、あの写真の中と全く同じ。
優しい……暖かい笑顔だった。
そして、おじさんは去っていった。
黒い不気味なコートをはためかせた、厳つい顔のおじさん。
でもその背中は、私には優しいサンタクロースのように見えた。
私は今でも、その背中を憶えている。
おわり
2005年12月制作
この作品は2005年12月20日に放送された読売テレビのローカル番組「なるトモ!」において取り上げられたエピソードを参考にしています。