「さぞかし心が痛むことでしょう」
男は後藤に向かっていきなりそう切り出した。後藤はちぇっと舌を打ち、人の頭の中まで見透かしたような目で見つめてくるその男を、じっと見据える。気に入らない。何もかも知っているぞという風。おまえにおれの何が分かる。後藤は視線にそんな言葉を込めたが、男は大して気にしている様子もない。
「馬鹿なことだとは思いませんか。不安、恐怖、失意、絶望。人間の心には、あまりにも痛みが多すぎる。その度に苦しみ、仕事が手につかなくなったのでは、効率が落ちて仕方がない」
「おれは忙しいんだ。用がないなら行くぜ」
「まあそう言わずに。心の痛みさえなければ、もっと巧く仕事ができるとおもいませんか、後藤さん」
後藤はますます目つきを鋭くして、男を睨み付けた。道ばたであったばかりのこの男が、なぜおれの名前を知っているのか。
「仕事上のミスで上司になじられ、そのせいで次の仕事も失敗する、そんな負の連鎖に陥ることはなかった。そうでしょう」
「あんたは探偵か、タチの悪いスパイボットでも仕込んだのか。しつこくつきまとうなら警察を呼んでもいいんだぜ」
警察の名を出せば怯むかとおもったが、男はまるで何も感じていないかのように淡々と、
「どうぞ、ご自由に。ですが私の話を聞いてからでも遅くはないはずだ。私はあなたのそんな心の痛みを、消し去る為の薬を持っているのです」
なるほど、そういうわけか。こいつはタチの悪いセールスマンといわけだ。ちまたで噂のオシ・ウリというやつ。口八丁手八丁で相手を騙し、心の間隙を突いて、インチキ商品を売り飛ばす。後藤はもう一度舌を打った。忙しい時に、つまらない奴に時間を取られた。
「インチキだとお思いですか、後藤さん。そうでしょうね。なら、このサンプルを差し上げます。大丈夫、毒薬などではありません。その証拠に、私も一錠飲んで見せましょう」
男は懐から取り出したタブレットのアルミケースを破り、一錠、水もなしに喉の奥へ放り込んだ。男ののど仏が動き、たしかにタブレットは胃に落ちていったようだった。そして男はほら大丈夫でしょう、とでも言わんばかりに手を広げてみせる。
「ね、どうってことないでしょう。まあ騙されたと思ってこれを持っていってください。もちろんお金はいりません」
「は。金もなしにかい。資本主義のこの世の中だぜ、余計に信用ならないね」
「この薬はまだ売り出したばかりの新製品で、確実に常用してくださる見込みのある方のみに、限定的に販売して、評判を見ている段階なのですよ。さあさあ」
あまりに男がしつこく勧めるものだから、後藤はだんだん鬱陶しくなってきた。仕方なく男からアルミケースをひったくり、
「オーケイ、持ってけばいいんだろ」
男はにっこり微笑んで、後藤に深々とお辞儀をした。
後藤は会社への道を帰りながら、ふと腕時計に視線を落とした。ずいぶん時間をくってしまった。あの男のせいだ。予定の時間にはとても間に合いそうにない。また上司になじられるのかと思うと、胸の奥がじんじんと痛んできた。
後藤は溜息を吐きながら、ふと、さっきの薬のことを思い出し、試しにアルミケースを破って、タブレットを一錠飲み下してみた。どうってことのないふつうの錠剤だった。おかしな味もしない。腹が痛くなるようなこともない。なんとなく、胸の奥にあった重荷が、すうっと溶けていくような気もした。だがそれだけだ。なんのことはない、ただの精神安定剤か何かではないのか。後藤は密かに期待していた自分に気付くと、肩をすくめた。
会社につくと、予想通りの小言の嵐が後藤を襲った。後藤はまっすぐに上司の目を見て、真摯に話を聞いている振りをしながら、しかし、内心ではやけに落ち着いている自分に気付いていた。どんな嫌味を言われても、どんな罵倒を浴びせられても、ちっとも心が痛まなかった。まさか、と後藤は思いだした。あの薬を飲んだせいだろうか。いや、まさか。
仕事を終えて家に帰ると、同棲している彼女が鬼のような形相で待ちかまえていた。彼女は、後藤が別の女と一緒にいるのを見たと言って、激しく後藤を責め立てた。後藤には全く心当たりのないことだったが、彼女は言い訳を全く信じなかった。普段ならはらはらしながらなだめるところだが、後藤はなぜかそんな気も起きず、椅子に座って、彼女に適当な相づちを返すばかりだった。彼女はとうとう、怒って出ていって、結局、その夜は帰ってこなかった。
朝目が覚めて、後藤は腕の中に彼女の姿が無いのに気付くと、顔面蒼白になった。昨日の彼女の形相がありありと思い起こされた。どうしよう。どうしよう、出て行ってしまった、あんなに愛していたのに、どうして、いや、でも、誤解で、おれは、一体、おれは。
後藤は焦ってあちこちに電話を掛けた。彼女の行きそうな場所、彼女の友人、彼女の実家。しかし誰も彼女の行方は知らなかった。後藤はもうなにもわからなくなっていた。すっかり出社時間も過ぎていた。会社から電話がかかってきた。
上司の怒鳴り声は耳を裂くかのようだった。後藤は平謝りに謝って、すぐに出社すると告げると、顔をくしゃくしゃにしたままスーツを着込み始めた。ふと、ジャケットのポケットに入れっぱなしの、アルミケースに手が触れた。
ひょっとして。昨日あれほど落ち着いていたのは、この薬のせいなのか。今日これほど慌てているのは、この薬の効果が切れたせいなのか。震える手でタブレットを取り、後藤は、藁にもすがる思いでそれを飲み下した。
そのとたん、嘘のように胸の痛みが消え去った。彼女のことも、遅刻のことも、まったく気にならなくなっていた。出て行ってしまったものは仕方がない。遅刻してしまったものは仕方がない。彼女については、今はどうしようもないし、遅刻については、とにかく今から出社すればいいだけだ。悩んだって仕方がないじゃないか。後藤はそれから、落ち着いて着替え、顔を洗って髭を剃って、堂々と出勤した。
「いかがです」
会社からの帰り道で、聞き覚えのある声がした。振り返れば、やっぱり。あの男だ。昨日、あの薬のサンプルを後藤に渡した男。
「効果はてきめんでしょう」
「ああ、オーケイ、わかった、認めよう。次におれが言いたいこと、わかるかい」
「ええ。いま、料金表をお見せします」
男と後藤はにやりと笑いあって、近くの喫茶店に入り、商談を済ませた。決して安い買い物ではなかったが、毎日の胸を締め付けるような心の痛みから、解放されるのだ。こんなに嬉しいことはない。後藤は最後には、
「ありがとう。これからも贔屓にさせてもらうよ。名刺、もらえるかい」
「ええ、どうぞ。今日ご購入いただけた分が無くなるころ、またお伺いしますよ」
男は商談をまとめると、路地裏に入り込むと、携帯電話を取り出し、上司に電話をかけた。上司は上機嫌で、
『どうだった、次の商品は入りそうかね』
「ええ、はい。大丈夫です。そちらは?」
『売り手が見つかったよ。従順な生体アンドロイドとなれば、いくらでも買い手はつく。ぼろい商売だ』
「元手も安くつきますしね」
『人間の感情を薬で消し去って、アンドロイドのように仕立ててしまうとは、なかなかいい考えだった。ちと可哀想な気はするがね』
「彼等だって幸せでしょうよ。二度と心の痛みに煩わされずに済むんですからね」
THE END.
2004年2月制作