その生き物に決まった形はなかったが、名前はあった。ロフス・ダ・ディズヴァード。帝国語で「ドラゴンに愛されたもの」という。
特筆すべきその生き物の特徴といえば、たいへんに臆病であることだろう。彼の(または彼女の)行動の全ては、その一言で説明できた。たとえば、いつも周囲の様子をうかがっていること。狭い自分の縄張りから、滅多なことでは出ようとしないこと。安らいでいるときは不必要なまでに流暢に話し、不安なときは異様なまでの沈黙を保つこと。時々、意味もなくいらいらして、無用の攻撃性を持つこと。いずれも、その生き物の恐怖心から起こる行動であった。
その生き物は、あなぐらの中を好んだが、一方で光溢れる外の世界に憧れてもいた。ただ、恐怖と怠惰が、発展と冒険を望む心を殺していた。と、指摘したところで本人は認めまいが……
あるとき、旅人があなぐらの前を訪れた。旅人は中を覗き込み、そこに奇っ怪な生き物がいることに気づくと、気さくに声を掛けた。「やあ」と。生き物は答えなかった。上目遣いに旅人の顔色をうかがった。取りあえず敵意はなさそうだ、と生き物は感じたが、確証はない。
生き物がじっと身を潜めて警戒していると、旅人は少し考えた末に口を開いた。
「今日はいい天気だ」
「そうか。それは、さぞかし楽しいことだろう」
「桜をもってじっくりと燻した鹿肉もあるぞ」
「ああ、すばらしい。きっと旨いんだろうな」
「出てこないか。少しわけてあげよう」
生き物は沈黙した。異様なまでに。
それが答えと受けとったのだろう。旅人はどこかに行ってしまった。
生き物は思わず、あなぐらから半身を乗り出した。「行かないでくれ!」と叫んだのは、旅人の姿がすっかり見えなくなって、半日も過ぎたあとのことだった。
生き物はうなだれて、周囲の石と小枝を掻き集めた。それらを抱えて、あなぐらの奥に戻っていった。
石と小枝は、おもちゃや、ちょっとした実用品の材料になる。生き物はこう見えて(といって、どう見えるというのか?)、手先のこまごました仕事が好きである。得意である、とは言わない。もし得意であると言ってしまったら、実は大したことがなかったと判明したときに、一体どうなってしまうだろう。だからなるべく言わない。つい、言ってしまう時もある。
月に一度ほど、街の商人が石と小枝で作った小物を取りに来る。そこで生き物は、僅かな糧を得る。それは実に旨い糧だ。もったいないから少しずつ食べよう、といつも思う。だがついつい馬鹿食いしてしまう。生き物は酔っぱらって、だらしなく笑い、叫び、よく喋る。
だが二三日もすると……気になり始める。
商人は何も言わずに小物を持っていった。何も言わなかった。何も。何も。
沈黙。
生き物は暗闇の中で自問する。「おれは、間違っていたんじゃないのか」何が、とは考えない。全てに決まっているからだ。「全て消してしまおう。やり直そう。始めからやり直そう」
そう考えて、生き物はあなぐらを土で埋める。
もう二度とここには戻るまい。そう思いながら。
いつもなら、そう、一週間かそこらだろうか。荒野を徘徊したあげく、生き物は元の場所に戻ってきて、ふたたび自分のあなぐらを掘るのだ。前とぴたり同じ場所に。そして、前より少し広くなったのか……あるいは狭くなったのか……深くなったのか……とにかく、これでいいやと思える程度に快適なあなぐらに籠もり、今までと変わらない生活の続きを始めるのだ。
いつもなら、そう。
だがそのとき、生き物は泣いていた。
もういやだ。
THE END.
2009年4月制作