ああ。
言葉は漏れることもなく、彼の心に閉じこめられた。狭く汚い一人部屋。心の中の彼の個室は堅固な壁に固くよろわれ、誰一人として踏み込めない。ただ一人、あの金色の髪の名前も知らない少年以外は。
ああ!
もう一度叫んだ途端、彼を満たしていた奇怪な韻文はがらがらと音を立てて崩れ去り、代わりに慣れ親しんだ品のない記号の群が津波のように押し寄せた。グラム・シュミットの直交化法。JKフリップフロップによる組み合わせ回路の設計。クイックソートのアルゴリズム。マクローリン展開。
それは彼の叫びの反響だった。彼が叫ぶとその音の波動は壁に反射し、外に出ることなく彼に返ってくる。そして別の波との定常波を形成する。それが無数の記号の奔流となるのだった。酷く懐かしく、それでいて不快な知識の流れ。
彼はふと、両の瞳を開いた。まず見えたのは自分の黒い腕だった。黒い脚。黒い胴。そして顔を持ち上げれば、そこには黒い人の群があった。皆々それぞれに変わり映えのしない黒を纏って、十字を切ったり両手を組んだりを繰り返す。微かに聞こえる地獄の呪詛は、牧師が唱える葬送の呪文。
鴉がかあと啼く。この黒い奴め。彼は沈黙したまま罵った。いくら喪服を着ていたって、鳥に死者を弔う権利はないぞ。
墓地の空気はおそろしく澱んでいた。この場所、地下都市の外れにある死人の寝所だって、他と同じく空気は循環させているし、適当な量の酸素も送り込まれている。でなければ参列者達はみな、酸欠で死者の仲間入りをしてしまうだろう。それでもなお、墓地の空気は澱んでいた。死体の吐く息は、いかなる科学の力を以てしても浄化できない毒だとでも言うのだろうか。
違う。彼は確信していた。そうではないはずだ。あの少年が、金髪の妖しくも美しいあの少年が、そんな毒の吐息を吐き出しているわけがない。あんなにも甘く柔らかい唇を持つあの少年が。
彼が少年と出会ったのは、半年ほど前のことだった。オートポイエーシス・システムのゼミで一緒になり、何度か言葉を交わした。ただそれだけの地味な出会いだった。同じ学年、同じ年齢ではあったが、その奇妙なくらいの童顔は、彼に「少年」という痛烈な印象を与えたのだった。
「君は何かを知りたいのかい?」
ある時少年は出し抜けにこう問いかけた。彼はきょとんとして目を白黒させたものだ。一体この妖艶な少年が何を言っているのやら、彼にはちっとも理解できなかった。彼が試験の結果が悪かったと嘆いているところにこのおかしな質問である。
「外から知識を与えられたいのかい? それほど君は自分を客観的に見ているというのかい?」
一体なんのことだ、もっと分かりやすく言ってくれよ。彼が文句を言うと、少年はふっと微笑んだ。その微笑みは何処までも深く澄み通っていた。彼の脳裏にかつてタルシスで見た、マリナー海溝の光景が浮かんだ。暗く青い闇の底。心を蝕んでいく、恐怖。
「ほら、あのゼミで習っただろう。オートポイエーシスだよ。それとも君は、あの時も理解し難い知識を押しつけられたつもりでいたのかい?」
あのゼミ。彼と少年が初めてであったゼミのことであろう。はっきり言って、彼は全く教えられた内容を理解できなかった。生命システムがどうとか、資料を渡され、6人ほどで談義していた記憶はある。ただその中身を脳が全く受け入れなかったのである。
「オートポイエーシス・システム。その定義で最も重要なのは、『構成素が変換と相互作用を通じて自己を算出するシステムを絶えず再生産し実現する。そしてその再生産の行為によってシステムの位相的領域を特定することで自らが存在する』という部分だ。
分かりやすく噛み砕けば、『行為の継続によって自らの境界線を定めるシステム』ということかな」
そういえば、そんなことを習ったような気もした。今聞いても全然理解はできないのだが。
「例を挙げようか。ルドルフ・シュタイナーを知っているかい? 知らないって顔だね。200年前の教育者――というより思想家かな。彼は自伝にこんなことを書いている。
彼が子供の頃、家の近くに水車小屋があったんだ。そこの夫婦と彼は仲良しで、よく水車小屋に入れてもらい、水が車を回す様子を観察していたらしい。それによって彼は水車の仕組みを理解した。
また別の場所に、今度は紡績工場があった。ところがこの工場は関係者以外立入禁止で、無論彼は中をのぞき見ることも工場の仕組みを知ることもできなかった。
そこで彼は感じたというんだ。『理解の限界』というものをね」
熱弁を振るう風でもなく、少年は淡々と説明を続けた。綺麗な、まるで歌声のような少年の言葉。彼はうっとりとそれに聞き入った。
「わかるかい。彼は知ろうとする行為を続けることで、自分と自分でないものの境界線を見つけたんだ。言い換えれば理解できるものと理解できないものの境目をね。
知識とは――精神とはそうしたものなのさ。オートポイエーシスなんだよ。客観的に自分の知識を見つめ、それを広げることなんて不可能だ。ただ知ろうとする行為によってのみ、精神の境界線を定めることができるんだよ。
もっとも、必ずしも広がるとは限らないけども」
ううん、と彼は唸った。頭がグルグルと回っていた。少年の声は自然と耳から脳髄へと突き抜けて、どんな刺激よりもよっぽど快感であった。長い間自分が封印してきたものを解放されたような感覚。彼はその時、まだ気付いていなかった。それが少年の言う『知ろうとする行為』であるということに。
頭を抱える彼を見つめ、優しい声で少年はこう言った。
「悩んでいる君はとても魅力的だね」
そして彼を抱き寄せると、不意に唇を押しつけたのだった。
牧師の呪文が、途切れた。いや終わったのだ。居もしない神に祈る声がようやく。そして棺が土の中に収められ、誰かがその上に土を被せていく。
何故、自ら命を断ったんだ。彼は呆然と考えていた。それこそが『知ろうとする行為』だった。何故。
鴉がかあと泣いた。
THE END.