ウルトラ・ショート・ストーリーズ   作:外清内ダク

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オールドマンズ・バラード

「俺にも一杯めぐんでくれよ、爺さん」

 男の声は酷く震えていて、まるで哀れなスケープゴートの命乞いのようであった。その小さく弱々しい姿にも、爺は容赦なく鋭い視線を突き刺す。ぐさり、と音が聞こえそうだった。それで男は、ますます萎縮してしまうのだった。

「与えるものなど何もない。この儂には」

 視線を焚き火に戻し、爺はぼそぼそと呟いた。後生大事に抱きかかえた酒瓶は、少しばかり名の知れた銘柄である。くすんだ色のぼろを纏った浮浪者にとっては、命よりも大切な宝物なのだろう。一流の企業戦士たるこの男だって、ごくりと唾を飲み込むくらいなのだから。

「頼むよ。寒いんだ、一杯だけでいい」

 爺は待たしても男を冷たく睨み付けた。じっと、瞳を瞳を向き合わせる。爺の瞳は深く澱んだ黒で、男のそれは青みがかった灰色であった。重く威厳ある黒と中途半端で軽々しい灰がぐねぐねと絡み合う。

 やがて爺の視線は再び焚き火に返っていった。しわがれた爺の右手が酒瓶を握り、それをとすんと土の上に置く。そして爺は、もう二度と酒瓶に触れようとはしなかった。

「飲むな、とだけは言っておく。だが奪うというなら好きにするがいい」

「恩に着るよ」

 男はほっと胸を撫で下ろした。正直言って怖かったのだ。なにせ相手はどこの馬の骨とも知れない浮浪者である。下手に関わったら、いきなりぐさり! といことにもなりかねないのだから。

「ついでに、火も借りていいかな」

「炎はただそこにあるだけだ。誰のものでもない」

 老いぼれた爺の言葉には、多少の苛立ちが含まれていた。おお怖い。ぶるっと一回震えると、男は足元の酒瓶を抱えて焚き火の前にかがみこんだ。ゆらゆらと目の覚めるような朱が揺らめく。ちりちりと肌が焦げる。

 瓶の蓋をねじ開け、男は中身をラッパ飲みにした。かあっと熱いものが胃袋に忍び込んでくる。心臓がどくんど動悸を打つ。頭が火照って、全身から汗が噴き出した。きつい酒だ。一度こんな飲み方をしてみたかった。

 ぱちん。炎の中で木の枝が爆ぜた。この地下都市の真ん中で、一体なんの枝を燃しているのだろう。疑問に思った男の目に、黄色い扇形の葉が留まった。銀杏の葉。そうか、3番街の銀杏並木で集めてきたのか。

「なあ爺さん」

 爺はだんまりで、ちっとも答えようとはしなかった。しかし聞こえていないわけではなかろう。耄碌した哀れな連中とは、目の輝きが違う。ぼろで臭くて汚いが、儂はまだまだ生きているぞ。爺の目はそう語っているのだった。

「あんたは寂しくないのかい。高架線の下にぼろテント張って、たった一人なのに」

 ぐっ、ぐっ。何かが軋むような音がした。いや違う。それは爺の笑い声だった。あまりにも奇怪な笑いだった。この爺は妖怪ではあるまいか。男は目を見張り、ぐっ、ぐっと軋む爺を見つめていた。

「愚問だな」

「……そうだよな。寂しくないわけない」

「そうではない」

 爺はぎろりと男を睨み付けた。さっきよりも鋭く、それでいて優しく。黒々としたその視線は、男に果てしない厚みを感じさせた。この爺は今までどんな人生を送ってきたのだろう。男よりも遥かに長く、遥かに濃い時間の流れ。そこで爺が得た無数の経験が、黒い瞳の向こうに延々と広がっている。

「今のはお前自身への問いかけだろう」

「えっ」

「寂しいのは儂ではなくお前だろう」

 甲高い轟音が頭上から二人を襲った。高架線の上を列車が通ったのだ。目映い灯りと激しい風が辺りで暴れ回り、通り魔のようにそいつらは過ぎ去っていく。

 後に残されたのは、かろうじて風を耐えたテント、ゆらゆらと揺らぐ赤い炎、そしてぼろぼろの爺と酒瓶を抱えた男だけであった。他には何もない。音も、光も、人も、ついでに言えば愛や金もない。何もない高架下が戻ってきたのだった。

「聞いてくれるか、爺さん」

 ぽつり、と男は言った。顔を俯け、消え入りそうな声で。まだ若いはずなのに、男は今にも死んでしまいそうだった。それほどまでに弱々しかった。

「俺、プログラマーなんだ。結構いい所に勤めてる。仕事も覚えた。稼ぎもいい。

 女房は山の麓の小さい街に残してきた。単身赴任ってやつさ」

 すうっと男は息を吸い込んだ。臭いのついた嫌な空気が肺を満たす。爺の放つ体臭だ。どうせろくに風呂にも入っていないに違いない。汗も流さずよく平気でいられるものである。

「でも、だからってわけじゃないんだ。たまの休みに帰ったら、綺麗な女が涙目で迎えてくれる。かわいいもんさ、新婚だもの。逆にそれが楽しみなくらいでね。

 だけど」

 言葉には自然と溜息が混じった。

「俺、今日一言も喋らなかったんだよ」

 ぱちん。炎の中で枝が爆ぜた。その音で男はふと我に返った。俺は一体どうしてこんな話をしているんだろう。それも初対面の名前も知らない爺に向かって。それにこの爺もどうして黙って聞いているんだろう。若造のわけのわからない戯言に。

 愚問だな。爺の言葉が反芻される。寂しかったんだ。お互いに。

 ぐぎゅう。男の腹が鳴った。途端に刺すような痛みが突き抜ける。ううっと呻き、男は両手で腹を押さえた。ぐるう。下腹に溜まった塊が、猛烈な力で外へ出ようと藻掻いている。こいつは一体。

「そっちにどぶ川がある。済ませてこい」

 炎から目を離すこともなく、爺は男にそう言った。その間にも男の腹は激しく痛み、もはや我慢は限界にまで達していた。背に腹は代えられない。男は立ち上がると、逃げるようにどぶ川向かって駆けだした。

 爺の手が伸び、さっきの酒瓶を拾い上げた。馬鹿な男だ。最初の最初に、忠告だけはしておいたはずである。

「だから飲むなと言った」

 ぐっ、ぐっ、と楽しそうに軋むと、爺は賞味期限が二年も過ぎた酒を火の中にとぷとぷ注ぎ込んでいった。

 

 

THE END.




2001年2月制作
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