朝早く、ミバールに揺り起こされた。慌てた様子で何やら喚いているので、落ち着かせようとベッドに座らせて宥める。
「キッチンの鍵が破られてパンと肉が無くなってるんだよ!」
ぼんやりと聞いていたが、その意味を理解して一気に目が覚めた。それは確かに一大事だ。私は跳ねるように寝床から降り、ミバールと共に外へ出る。キッチンに荒らされた様子はないがパン籠と肉の保存容器は蓋が開いており、中身はすっかり空になっていた。ラム樽のそばに置かれていたはずの商売道具のバックパックも見当たらない。
「昨日の夕飯の残りも無くなってるんだ。食べるものが何もないよ。」
やれやれ、困った事になった。小麦粉は手付かずの状態のようだから、とりあえずパンを作る事にしよう。ルカとぺろみを起こし、事情を伝えてパン作りの手伝いをさせる。そして私はシオリの様子を見に工房へと向かった。こっちの鍵もやられたのか、扉は施錠されていなかった。急いで中に入ったがシオリの姿は見えない。
外へ出て工房の周りをぐるりと一周する。キッチンと母屋の周辺も確認したが、外に誰かがいる様子はない。背中がやおら湿ってゆき、胸の鼓動が早くなる。まずは一旦冷静になろう――私は工房に戻り椅子にゆっくりと腰掛けた。作業場を見渡すと、資材や作っていた物はそのままだ。ぺろみのクロスボウは……無くなっている。
考えられる状況は幾つかある。シオリは食糧を盗んだ泥棒の侵入に気が付き、押っ取り刀でクロスボウを持ち出して追いかけた。或いは泥棒に誘拐されてしまったのかもしれない。そして……いや、まさか。これまでのシオリの献身を考えれば最も遠く、そして最も考えたくない状況だ。頭の中を色々な思いがぐるぐると巡る。
「ジャグロンガー!手伝ってよお!」
ぺろみが工房に入って来た。その声で私は我に返る。あれ、シオリは?きょろきょろしているぺろみに、シオリがいない、とだけ返す。私とぺろみは目を合わせたまま、しばらく動けないでいた。そしてぺろみが沈黙を破る。
「……シオリが食べ物を持っていなくなったの?」
やはりそう思うだろう。この状況からその考えに辿り着くのは、ごく自然な流れだ。
「そうじゃないと思いたいけど、有り得ない訳じゃない。それと…お前のクロスボウも無くなってる。」
えっ!?ぺろみは作業台に駆け寄る。小麦粉まみれの真っ白い手で、引き出しをひとつずつ開けていく。
「なんで…?なんでクロスボぉ……っくしょい!」
豪快にくしゃみを放った。手の甲で鼻を拭うと、鼻の下が白くなる。
「……とりあえず、ごはんを食べよう。考えるのは、それから。」
シオリが何処へ行ったのか見当も付かないが、まずは付近を捜してみる事になった。ぺろみはハブへ、ルカは狩りを兼ねてヴェインの森へ。私は盗賊たちの根城があると噂される、北東の方角へと向かった。シオリを仲間に引き入れたのは私だ。最悪の場合、始末は自分で付けなければならないと考えていた。
ボーダーゾーンの東の端は、高低差の大きな険しい場所だ。山道をしばらく歩いて、川が流れる谷底に辿り着いた。人影はおろか、動くものの気配すら――いや、何かいる。大きい影がひとつと小さい影がふたつ、斜面をこちらへ向かって降りて来るのが見える。ヤギよりも大きいがブルよりは少し小さい、草食動物のガルの親子だ。もしこの場にルカが居たら喜んで飛び掛かっていただろうけれど、今は狩りをしている場合ではない。刺激しないように距離を取ってやり過ごそうとしたその時
「ぐるるるがあああぁぁぁぁ!!」
親ガルが突如咆哮を上げて突進してきた。その迫力に怯んでしまい、私は硬直する。ぶつかる直前で間一髪身を反らせてかわしたが、バランスを崩して転倒してしまった。向きを変えてまたも突進してきたガルの頭が目前に迫る。身体を横へと転がしてかわし、なんとか体勢を立て直した。ガルは再度こちらへ向き直り、頭を低くして突進の構えだ。こうなったらやるしかない。真っ向勝負で太刀打ちできる相手ではないが……私は新しい得物”穿孔環刀”を抜いて攻撃に備える。
一直線に突っ込んでくる肉の塊をかわし、横腹の辺りを水平に斬りつけた。軽く振ったつもりだったが、確かな手応えが剣の持ち手から伝わってくる。身体に体毛を殆ど持たないガルの皮膚は深く裂け、血が噴き出していた。なまくらではない、本物の切れ味――もしこの剣で人を斬ったら――恐怖に似た何かを感じて思わずたじろぐ。
ガルは低い呻き声を洩らしながらも、攻撃をやめるつもりは無いようだ。私は身構える。また突進――かと思いきや直前で軽く跳び、前肢を高く上げて倒れ込もうとしてきた。腹部が大きく露呈したのを見逃さず、一気に踏み込み渾身の力を込めて斬りつける。柔らかい腹の肉に
地面に出来た血溜まりの大きさから見ても長くはないだろうが、喉を裂いてとどめを刺してやる。そして剣に付いた血を振り払い、尻餅を突いてひと休みだ。二頭いた仔ガルたちの姿はもうどこにもない。幼いガルが親を失くして生きていけるかは分からない。
予定してはいなかったが、せっかくガルを狩ったのだから何とかして住み処まで持って帰らなくては。誰かを呼びに戻っていては獲物を盗られてしまうだろうから、今日のところはシオリを捜すのは諦めてもう帰る事にしよう。そもそも何処へ行ったのかも全く分からないのだから、闇雲に歩き回ったところで見つかる訳もないのだ――と考える事にした。
重たいガルの脚を掴んで川べりまで引きずってゆき、流水にさらして血抜きを済ませる。頭と内蔵は重いからここに棄てていこう。
「……っぬんおおおおお!!」
気合いを込めた掛け声と共にガルを担ぎ上げたが、立ち上がるのが精一杯だ。一歩ずつ地面を踏み締めながら、私は歩き始めた。
住み処へと辿り着いた頃には、日がすっかり落ちてしまっていた。ぺろみとルカは特に収穫もなく戻って来たようだった。私が大きなガルを獲ってきたのを見て、ルカは喜びと悔しさが入り交じったような微妙な態度。これで食糧についての心配はひとまず無くなった。
そろそろ住み処の防衛についても考え始めなくてはならないな。建築資材や鉄板を使って、間に合わせでも防護壁のような物で囲ってしまうのが良いだろうか。背の高い壁と堅牢な門があれば、侵入者もそう易々と入っては来られないだろう。
そしてシオリについて…。この件に関してはもはや無事を祈る事しか出来ない。仮に私たちを裏切ったのだとしても被害は肉とパン、それにぺろみのクロスボウと微々たるもので、シオリが私たちにしてくれた事を考えればむしろ釣りを寄越さなくてはならない程だ。
私は工房を訪れ、シオリの作業場にある腰掛けに座って物思いに耽る。ラックには私のプレートジャケットとルカの鎧が掛けてあり、もう出来上がっているように見える。作業台の上には装甲付きズボンの試作品と思われるものが置いてあった。中に入るはずの鎖帷子が付いていないが、これはこれで防具として完成しているような出来具合だ。試しに履いてみたがきちんと仕上がっていて違和感は感じられない。明日からはこれを履く事にしよう。
シオリは私たちのためにこれ程までに尽くしてくれているのだ。ここから出ていくつもりで食糧を盗み行方をくらましたとは、やはり考えられない。
「シオリは悪くないと思うよ。」
背後から突然声がしたのでぎょっとして振り返ると、ぺろみが工房に入って来た。鉄板の束を作業台に置き、クロスボウの部品を作り始める。
「きっと何か理由があるよ。あれだけたくさんあったお肉を全部持って行ったんだよ?それにパンも。ひとりで出て行くだけなら食べきれないし、それに――」
ぺろみは人差し指を前に出して何かを指し示した。その先には、シオリが使っていた寝袋が置かれていた。
「もう戻って来ないつもりなら、わたしだったら寝袋は持っていくと思うな。」
なるほど、確かに言いたい事は分かるが…。私だって今はわずかな可能性に
私はふと昨晩の出来事を思い出した。工房の外で聞こえた話し声――やはりシオリは外で誰かと会っていたのではないだろうか。あの時”誰も居なかった”とシオリは言ったが、嘘をついたのであれば余程隠したい事柄だろう。例えば古巣の元仲間が密かに接触を図ってきたのだとしたら……。私はぺろみに向かって切り出した。
「黒龍党のアジトを見つけ出そう。」
どちらに転んでも可能性があるとすれば、今はそこに見い出すしかない。私は決意を固めた。
「そう来なくっちゃ!」
ぺろみはにっこりと微笑む。
ぺろみはハブのシノビ盗賊から、黒龍党の根城の大まかな位置を聞き出していた。噂の通りボーダーゾーンの北東方面にそれはあるという話だ。しかし私たちが正面切って戦える相手ではない。まずは場所を割り出して探りを入れるのが無難だろう。
抜け忍は見つかったら命を取られるとは云うが、シオリ程の人材はそう簡単には見つからないのではないだろうか。黒龍党の首領がどのような人物かは知らないが、多少の目こぼしがあっても不思議ではないように思える。何にせよあまり猶予はないだろうから、すぐにでも出発したいところだ。
次の日は朝から強い砂嵐が吹き荒れていた。旅の支度を始めた私は、プレートジャケットと装甲付きズボンを身に付けて少し動き回ってみる。何となく強くなったような気がしてとても良い感じだ。ぺろみは大慌てで新しいトゥースピックを組み立てていたが、どうやら納得のいく仕上がりではないようだ。
「お前たち、準備しているところ悪いんだが、旅は後回しだ。」
ルカが外から戻るなり慌ただしく戦いの支度を始めた。ミバールに鎧を着るのを手伝うように言っている。その様子から只事ではないと感じた私は、砂避けのゴーグルを掴んで外へ出た。砂で煙る景色のその向こうから、何者かの集団が向かって来るのが見える。ダスト盗賊とは少し雰囲気が違うようだ。
「バンドオブボーンズだ。」
ルカの声を背中で受ける。ルカは緊張しているのか表情は固く言葉少なだ。当初の読み通り、シェクのはみ出し者たちがこの場所へ現れたという事か。
「せっかく助けて貰ったのに、恩知らずも甚だしいじゃないか。」
私は苛立ちを隠す事が出来ない。シオリを捜しに行かなくてはならないのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
「あちゃー……やっぱり来ちゃったんだね。ごめんね、わたしのせいだ。」
遅れてやって来たぺろみの肩を抱き、お前のせいじゃないよと慰める。
少しずつ近付いて来るにつれ次第にその全貌がはっきりとしてきた。十人ほどのシェクたちで構成された集団だ。ゆっくりと、しかし確実に歩を進め迫りつつある。
「たくさんいるね。ルカよりも強い?」
ぺろみの無邪気な問いに対し、ルカは表情を崩す事なく答える。
「一対一なら負ける気はしないが、なにせあの数だろう。一筋縄ではいかないだろうな。覚悟した方がいい。」
ルカは小さな輪の付いた剣”九環刀”をぺろみに手渡した。
「それはカタンの職人が造った剣でよく切れる。今回はお前が使え。そんな細い矢で簡単に捩じ伏せられるような相手じゃないぞ。」
やがてシェクの戦士たちは私たちのすぐ目の前に立ち並び、一人の男が一歩前に踏み出す。
「ご機嫌よう。先だっては俺たちの仲間を助けてくれたそうだな。まずは礼を言いたい。」
男は胸に手を当てて軽く頭を下げる。
「さて、ここからが本題だが、ご覧の通り俺たちは遠くステン砂漠からやって来た。何故か分かるか?」
男は背負っていた剣を抜いた。私たちは身構える。
「俺たちは飢えているんだ。食い物と……血の匂いに。」
剣を頭上に高々と掲げる。控えていた戦士たちはそれをきっかけに一斉に剣を掲げ、雄叫びを上げる。それは戦いの始まりを告げる合図のようだった。