“聖王フェニックス六十二世陛下”の住まう宮殿の前を通りすがる際には、宮殿に向かって一礼するのがここブリスターヒルでの作法だそうだ。そして街の北側の門を抜けると、山の登り口がすぐ目の前にあった。なんとも話が早くて大いに助かる。
「リバースの山道は複雑に入り組んでいる。獣が餌を探して迷い込んだりしている事もあるから、気を付けてくれ。」
グリフィンが道すがら色々と説明してくれるのだが、そういう事は重い足を引きずるように歩いている私によりも、ずっと前の方を歩いているぺろみに伝えてくれないだろうか……という言葉をぐっと呑み込んでいる。やがて分かれ道で待っているぺろみに追い付き、進む方向を示されればぺろみはまた先に行ってしまう。そんな事を幾度か繰り返しながら山道を登り続け、私たちは道の左側が
「ここはリバース鉱山の全貌が望める絶景ポイントってやつだ。いい眺めだろう?」
グリフィンも立ち止まり毛糸の帽子を脱いで汗をぬぐい始めたので、私もひと休みとばかりに地面に腰を下ろした。わずかに湿り気を帯びた緩やかな風が吹いており、火照った身体に心地よい。ずいぶん高いところまで登って来たものだ、とブーツの上から脚を揉みながら景色をよく眺める。
すり鉢状に窪んだ谷底の中央に天を衝くような巨大な石像が屹立しており、周辺には幾つもの塔や建物が点在している。岩壁にはたくさんの足場が組まれ、ここから反対側の崖の上には門のような建造物も見える。この岩山を人の手だけでここまで拓いたのだとすれば、相当な年月と人手が必要だったはずだ。実際に今もたくさんの人影が、そこかしこで労働に従事しているように見える。
「ここでは建材に使う石を切り出している。高い塔は兵舎、低い建物は奴隷商の詰める宿舎だ。奴隷の檻もたくさんある。あの石像は見ての通り、聖王様を
ぺろみが振り返り、グリフィンに問う。
「奴隷って、何か悪い事をした人たちなの?」
グリフィンはまた少し緊張した様子で口を開く。
「あ、ああ…まあ重い罪を負った者が来る事もあるにはあるが、大抵はオクランの教えに背いた女や異端者、或いはシェクやスティックマン…ええと…ハイブのような
必ずしも悪人が連れて来られるという訳でもないという事か。オクラン教と無関係な者にしてみれば、不当な理由で拘束されている場合も少なからずあるのかもしれない。幼少の頃に散々聞かされた“リバース送り”にされた者たちの末路を、私は目の当たりにしている。
「……ふ~ん……さて、そろそろ行こ。傭兵さん、あとどれくらいで着きそう?」
グリフィンは帽子をかぶり直して曰く
「この地点でおよそ半分といったところだ。日暮れまでには到着出来るだろう。」
グリフィンの言った通り、日没を迎える前には幾つもの崩れ落ちた建造物が見える所までやって来た。周辺はだいぶ荒れ果てているが、たったひとつだけ辛うじて建物としての役割を留めていそうなものがある。
「わっ!すごい!早く行こう!」
今まさに走り出そうとしたぺろみのバックパックを、すんでのところで掴まえた。
「――待てって!スーが何て言ってたのか忘れたのか?古代の遺跡にはどんな危険があるのか分からないんだぞ。…頼むからもう少し慎重になってくれ。」
ぺろみはややむくれたような表情を見せたが、好奇心には勝てないようだ。私の手を引いて下り坂を早足で進み、建物の残骸に近付いてゆく。そして坂道の終わりで一旦立ち止まり周囲をぐるりと見渡したぺろみは、人差し指を前方へと真っ直ぐに差し出す。
「ねえ、誰か倒れてるよ。」
その手が示す方に目を凝らすと、確かに何か武器を背負った人影が横たわっているようだった。私は再びぺろみのバックパックを掴み、さらに注意深く観察する。――人影の周りを何かがうごめいている。それは血のように赤く小さな何か。私は全身が総毛立つのを感じ、少しずつ静かに後ずさる。
「ちょちょちょっと、引っ張らないで!」
不意に引っ張られたぺろみがバランスを崩して後ろに転びかけた。私はとっさにぺろみを支えて耳打ちする。
「――静かに…ブラッドスパイダーの群れだ。赤いのが動いているのが見えるか?」
まさかこんな場所であの忌々しい姿を目にするとは思っていなかった。毒々しい赤色をした小さな生き物は、鋭い爪と強靭な顎を持つ肉食性の獰猛な蟲だ。基本的に群れを成して這い回り、獲物を見つけると執拗にどこまででも追いかけてくる。ひとつ間違ってあの群れに
「残念だけど倒れているやつは手遅れだ。でもここを探索したいなら、あの群れは一匹残らず始末しなくちゃならない。……どうする?」
私と目が合ったぺろみはにやりと微笑んでバックパックを下ろし、トゥースピックを手に取った。当然ながらそういう事になってしまうよな……私はサーベルを鞘から静かに引き抜く。
少し遅れて追い付いたグリフィンに状況を説明し、蟲どもを排除するための作戦を立てる。あの群れに突っ込んで剣を振り回すのは下策もいいところだ。まずはぺろみがクロスボウの射程ぎりぎりまで接近、近い個体から狙いをつけて矢を射る。当たればまず動かなくなるだろうし、当たらなければ気付かれてこちらに近寄って来るはずだ。そうなればぺろみは一旦後退して、私とグリフィンの剣で始末する。その繰り返しで少しずつ数を減らしていこう。
「準備できた?じゃ、始めるよ。」
ぺろみが前に出て射掛けた矢は勢いよく風を切り、真っ直ぐ蟲の胴体に突き刺さって息の根を止める。間を置かず二本、三本と放った矢はいずれも命中し、射抜かれた蟲どもはひっくり返って少しもがいた後に動かなくなった。よし、いいぞ。あの動き回る小さな的に命中させるなんて大した腕前だ。
「…俺たちの出番は無さそうだな。」
グリフィンが軽口を叩く。しかし次の瞬間、弾けるように駆け出して得物の大鉈を地面に叩きつけた。ぺろみの右側面から接近していた蟲は、体を前後に分断されて息絶える。気が付くと私の近くにも蟲が近寄って来ていた。振り下ろしたサーベルがその背面を斬り裂く。
「ぺろみ!前に出過ぎている、戻れ!」
クロスボウの狙いに集中するあまり、少しずつ群れの方へ近付いていたぺろみ。その足元にはすでに三匹の蟲が這い寄り、今まさに飛び掛かろうとするところだ。…まずい!私はぺろみの方へと向かって駆け出す。同時にグリフィンも駆け出し、私と一、二歩の差でぺろみを担ぎ上げて後方へと走り抜けた。すると私はぺろみと入れ替わりで、自然と三匹の蟲に対峙する形になった。
………おや?おかしいな。私がぺろみを担いで
「こいつ……!!」
私は腰のベルトに着けていた短剣を抜き、両足に咬み付いている蟲にめった刺しを見舞う。穴だらけにされた蟲は、鋭い顎で咬みついたままの形で絶命した。くそ!まったく忌々しい生き物だ。私はその場に尻餅をつき、まだしつこく食いついている顎の間に短剣を差し込んで抉じ開けた。咬まれたブーツには小さな穴が開いてしまっている。
「ジャグロンガー!ごめんね、大丈夫!?」
ぺろみが私の元に飛んできた。
「大丈夫だよ、軽傷だ。蟲はもう片付いたか?」
周辺を見渡してみたが、まだ蟲がうごめいている様子はなさそうだ。
「俺が少し辺りを見て来よう。これですぐに怪我の手当てを。」
グリフィンがバックパックから医療品を取り出して置いて行った。脱脂綿、消毒薬、軟膏、そして包帯…どれも私たちが持ち歩いている物より品質が良さそうだ。ありがたく使わせて貰おう。
ゆっくりとブーツを脱ぐと、血まみれの足が出て来た。負傷するのはいつだって私だ…もっとも、ぺろみが怪我をするよりはずっと良いと思うけれど。
咬まれて出血している三ヵ所を水で洗い流し、脱脂綿に消毒薬を含ませて拭う。そして襲い来る猛烈な痛みに呻きながら奥歯を噛み締めた。ちくしょう!なにもこんなに沁みなくたっていいじゃないか!
「沁みる?もう少し我慢して…ジャグロンガーは強い子だから!」
まるで母親のような言葉を私に投げ掛けながら軟膏を傷口に塗り付け、脱脂綿の上から包帯を巻く。
「……はい、おしまい!我慢できてえらい!」
手当てを終えたぺろみが、私の頭に優しく腕を絡めてゆっくりと撫でる。なんだか子供扱いされているようで恥ずかしいな……。
「ありがとう、少し楽になったよ。…うん……あの……。……そろそろ離してくれ。」
血糊でぬめっているブーツの中をきれいに拭いて、再び足を入れて立ち上がる。……よし、歩くには問題無さそうだ。
さてグリフィンは、と辺りを見回すと、彼は蟲の犠牲者の傍らに佇んでいた。敬虔なオクランの
「人間じゃない……これは…スケルトンだ。」
グリフィンは棒立ちのままで亡骸には触ろうともしない。私とぺろみはどれどれとしゃがみ込み、亡骸の観察を始めた。
革で出来た長いコートに身を包んではいるがその中身――人間の骨格を模した金属の
「この刀だけでも貰っちゃおっか。もう使わないもんね。」
ぺろみがスケルトンから失敬しているのは“野太刀”と呼ばれる大振りの刀だ。ぺろみが振り回すにはいささか長すぎるように思う。
「……野蛮だな。いくらスケルトン相手でも略奪は感心しない。俺がまだパラディンでいたなら、即刻捕まえているところだ。」
グリフィンは気分を悪くしたようだが、ぺろみはそれを気に病む様子もない。
「でも、今はお客さんに雇われてる傭兵だもんね。旅の邪魔はしない約束だし、堅い事言わないで。ね?」
にっこりと微笑んで遺跡の方へと歩き出すぺろみ。私はグリフィンに小さく肩をすくめる仕草を見せ、後を追う。
遺跡の扉は施錠されていて開く事が出来なかった。小さな鍵穴のようなものが付いてはいるが、これは普通の錠前のようにこじ開ける事は可能なのだろうか?
ぺろみは早速とばかりに錠前外しを試みる。時間が掛かりそうだしそろそろ日が落ちてくる頃だ。暗くなる前に野宿の支度を始めるとしようか。私は目に付いた
「まだ掛かりそうか?そろそろ休憩して食事にしないか?」
ぺろみはランタンの灯りを頼りにまだ奮闘している。私とグリフィンは焚き火の脇に座り込んで、ミバールが持たせてくれた咬み棒を喰む。
「初めの契約の通り、遺跡までは案内した。怪我をさせてしまったのは申し訳ないが、護衛は遺跡の調査終了までという事にして貰いたい。」
グリフィンがやや堅い表情で切り出してきた。スケルトンから物を盗んだ事で心証を悪くしただろうか?まあ、こちらとしてはここまで迷わず無事に辿り着けたのだから御の字だ。それで構わない旨を伝えるとグリフィンは少し表情を和らげたが、すぐにまた眉間にしわを寄せ背後を気にする素振りを見せた。
「……いま何か音がしなかったか?何かが破裂するような乾いた音だ。」
焚き火の音じゃないのか?私には聞こえなかったが、グリフィンが立ち上がったので私も同行する事にした。
「ぺろみ、向こうの様子を見て来るからランタンを貸して欲しい。その間ちょっと火の様子を見ながら食事でもしていてくれ。」
ぺろみの返事は意外にも、わたしも行く!だった。二人でグリフィンの後を付いて行くと、またもや誰かが倒れているのが見えて来る。ランタンの灯りに照らし出されたその姿は、私たちを驚嘆させずにはおかなかった。
「……向こうに倒れてたスケルトン……じゃないよね。二人組だった…のかな?」
全く同じ姿をしたスケルトンの亡骸がもうひとつ。そしてその傍らには一匹の蟲が逆さまになって転がっていた。周辺は僅かに焦げ臭い。一体ここで何が――。
〔おい、そいつに触れるな。〕
背後から、声がした。