隠していた日記が親友にバレた   作:送検

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藤の花言葉

 

 

 

 

かつて、白石紬という少女は1人の少年を救った。

無論、本人にその自覚はない。

涙を流していた当時の少年にかけた言葉も陳腐なものだと自覚しているし、それ以上に藤宮公輔という少年に貰ったものがあると感じているからだ。

それは、一欠片の勇気だったり、プロデューサーの名刺を貰ったことすらも忘れ、報告もなしに転校先を決めてしまう蛮勇にも近い何かだったり。

 

過小評価のきらいがある紬にとって、自らを肯定し、評価してくれる公輔はありがたい存在だった。

己が心を暖めてくれる、優しい存在だった。

そして、たかが7年程の関係が何十年もの関係を作り上げたかのような、そんな気安さや親しみがあった紛れもない親友であったのだ。

 

そして、そんな公輔が隠していた数10冊の日記帳を好奇心という名目で読み、成り行きでアイドルへの道へ行くために背中を押された紬のそれからの行動は早かった。

アイドル了承の連絡をとる間もなく、両親にアイドルになりたいという旨を伝え、了承された後、転入手続きと住居の変更も済ませ、後は1ヶ月後に東京へと移住を済ませればというところまで準備を済ませた。

些か早とちりな1面は垣間見えたが、それほど紬は本気ということだ。ないよりかは、あった方が良い。紬はそう自分に言い聞かせ、分からないところは自分なりに工夫を凝らした。

 

そのやる気は、両親達を納得させるには充分だったのだろう。

何かと縁のある765プロの勧誘という信頼もあったのかもしれないが、見知らぬ土地でアイドルを行うことを両親は承諾した。

そして、昔とは違う紬のアイドルになり、己の花を咲かせ、幼少の頃に抱いた夢を叶えてみせるという強い意志と勇気。

今の紬を阻むものは、何も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥」

 

さて、舞台は変わって現在。

和風の一戸建ての一室である紬の部屋で、部屋主の白石紬は座布団に正座をして、目の前に置かれた携帯電話を眺めていた。

それには理由がある。

自身の親友に電話をするということ。

そのために、携帯を手に取り公輔の携帯に連絡を取ること。

 

しかし、先日の日記の件もあり何時ものように気軽に電話をかけることが出来ない。

その結果、紬は床に置かれた携帯を眺めたまま数十分、そのままの時を過ごしていた。

 

普段の紬が今のこの状態を見れば、恐らく彼女はその行為を『何をしているのか』と一刀両断することであろう。

しかし、今の紬からしたらこの状況は一刀両断することは出来ず‥‥‥寧ろ、真面目故にあのように想いを曝け出した状態の公輔にどう会話を切り出そうか困惑してしまっていた。

 

(挙句の果てには『あんやと』なんて‥‥‥公輔に、言ったことなかったのに)

 

『あんやと』は金沢弁でありがとうという言葉を指すわけなのだが、金沢弁での『あんやと』は特に親しい人に向かっての感謝の気持ちを表す一言を意味する。

そして、今までそれを親しい間柄ながら公輔に対してはそれを封印していた紬がふとした拍子に言ってしまった照れ隠しの一言はしっかりと公輔の耳には届いてしまっていて。

 

『え‥‥‥あ、えーっと。その‥‥‥俺も、あんやと‥‥‥?』

 

『!?〜ッ‥‥!!』

 

今更発した言葉を取り消せるわけもなく、あの後の公輔と紬の間にはなんとも言えない空気が漂い、暫くの間無言の状況が続いてしまっていた。

羞恥心や、ぎこちなさ、すれ違い‥‥‥様々な要因が加わって公輔と上手く話せなかったのだ。

 

しかし、それと今回の件は話が別である。

紬が伝えなければいけない要件は、今日伝えなければ効果をなさないもの。

既に、両親への了承は経ている。

ある程度の下拵えも出来ている。

後は、電話で公輔に要件を伝えるのみなのだ。

 

「‥‥‥ああ、もう」

 

意を決して、携帯を手に取り電話帳のページを開き、公輔に電話をかけた。

その秒数、おおよそ5秒。

早業である。

 

1コールの着信音が紬の耳を木霊する。

電話のマナーとして、3コール以内に出るのは基本。

まさか1コールで出るなんて思ってもいなかった紬は1コール目が鳴り響く間に心を落ち着かせようと深く深呼吸をした。

 

 

 

 

しかし、その瞬間紬にとっては聞き慣れた声が耳に響く───

 

『もしもし?』

 

「!?」

 

『え、どうしたの!?』

 

公輔の声に、紬の心音は急激に早まる。

日記を見つけ、あろうことか方言で感謝の意を述べたあの日から、紬は何処か公輔に対してよそよそしさを隠せていなかった。

それ故の緊張である。先程から紬の心音は高まり、動悸が止まらない。

それでも、何とか鼓動を抑え、落ち着いた頃には公輔の慌てふためいた声が電話越しから聴こえ、それを黙らせるために紬は声を上げた。

 

「公輔ですか?」

 

『お‥‥‥おう。そりゃ俺の携帯に掛けてるからな。当たり前っちゃ当たり前。自明の理ってやつ』

 

「黙ってください」

 

『理不尽だ』

 

さて。

今回紬が今日、電話を使ってでも公輔に要件を伝えようとしたのには明確な理由がある。

平日、藤宮家は父親が働き、母親が専業主婦として家事をこなすごく普通の中流家庭である。

故に、本来ならば母親が夕方になっても家にいる、そんな家庭であるのだが母方の家で少しばかりの不都合があったらしく、今日に限って親がいない。

 

と、なると普段家事をしていない公輔がぞんざいな生活を送るのは目に見えており、それを紬は見定めた。

そうして、両親のススメもあり紬は電話をかけているワケだ。

 

「その、今日ですが」

 

『今日?』

 

「‥‥‥」

 

『ふふっ、どうしたの?』

 

無言になった紬を見かねたのか、少しの笑い声と共に聴こえた公輔の声。

その声は再び高まった紬の心を落ち着かせ、先程まで言おうとしていたことを思い出すには十分過ぎる効果があった。

 

「夕餉の支度が出来ています。是非、おいであそばせ」

 

『夕餉‥‥‥?え、いいよ。お金は貰ってるし、そこら辺のコンビニで適当に‥‥‥』

 

「公輔は私の母が手塩をかけて作り上げんとしている料理を食べない、と言うのですね」

 

『卑怯だよ!!それ凄い卑怯だよぅ!!』

 

ガンッ!という音と共に発せられた公輔の声に、思わず携帯から耳を遠ざける。

やはり、この男と電話をするのは失敗だったか‥‥‥なんてたわいもないことを考えつつも、紬は最後のひと押しと言わんばかりに一言。

 

「父も待っています‥‥‥その、来れないのなら別に良いですが。来てくれると、両親も喜ぶので」

 

立ち上がり、月を見ながら自らの頭に付けている水引細工をそれとなく触りながら、紬はそう言う。

基本的に公輔は押しに弱い。

押すのは得意ではあるし、いざと言う時の度胸も備わってはいるがこういった既に用意されている状態で何かを言われると断りきれない優しさが過ぎる心を持っている。

そして、それを分からない程紬は無知ではなかった。

 

『分かった‥‥‥そういうことなら、お邪魔します』

 

電話で話しているため、公輔の顔は見えない。

しかし、その時の公輔の顔は声色から何処か笑っているのだろうということが想像出来て。

その当ても確証もない想像に、思わず紬は口角が上がる感覚を得た。

 

「ええ、待っています」

 

電話が切られるのを待ち、切られたのを確認すると携帯電話を棚の上に置き、居間へと向かう。

 

そのさながらに見えた空は星が輝き、その中心には綺麗な月が1つ、紬の双眼に映った。

 

「‥‥‥本当に、押しに弱い人」

 

そう呟き、紬は今度こそ居間へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瑠璃というものは仏教において、七宝のひとつとして大切にされてきた。

ラピスラズリの宝石の色としても有名で高貴な、そんな色にも似た髪色をした紬は、時に過保護が過ぎるほどの愛を両親から受け、礼儀正しく、器量良しな女の子に育った。

無論、学校もサボったりするようなことはなく成績も良好。身内や親戚のフィルターにかけずとも、白石紬という少女は模範的な生徒だった。

 

そんな紬が初めてサボタージュを敢行し、1人の男の子を連れてきた時父は少なからず驚いた。

店の引き戸が開き、店番をしていた紬の父が何事かと引き戸の開いた方を見ると、そこには手を引いて父を見上げる紬と、俯きながら目を伏せている1人の少年が立っていた。

 

「おいであそばせ‥‥‥紬?」

 

「お父さん、その‥‥‥」

 

紬の父は、娘に信頼を置いている。

故に、ただサボタージュを敢行しようとしているわけではないということを悟り、店番の為に正座していた畳から立ち上がり、引き戸に立っている2人の子供の元へと歩いていった。

 

紬の目は、父を相手にしても怯むことはない。

しかし、少年の目はいきなり連れてこられた見知らぬ店に不安を拭いきれないのか、依然として目を俯かせたまま。

呉服屋という見慣れない場所のせいでもあるのだろうな───と紬の父は高を括り、少年の目の高さに自身の目を合わせるべく、しゃがみ込んだ。

 

「キミ、どうしたんや?」

 

「‥‥‥」

 

尋ねるものの、少年は返答せず。

あろうことか俯かせた目を逸らされ、紬の父は大きく項垂れてしまった。

 

「‥‥‥お父さん?」

 

その様子に、今まで無言を貫いてきた紬が思わず口を開く。

その声を聴いた紬の父は、少し微笑み、普段厳格と言われている紬の父の見るも恐ろしい恐怖の笑みではあるものの、目線を公輔から紬に移した。

 

「先に行きまっし」

 

「でも‥‥‥」

 

「大丈夫、取って食いやせんし‥‥‥ここから先は大人の出番さけ」

 

勿論、ここまで少年を連れてきたのは紬である。

しかし、紬には学校へ行くという小学生が課されている『仕事』がある。

子どもは沢山学んで、沢山遊ぶことが仕事だと考えている紬の父にとって、これ以上この場に紬がいることはないというのがひとつの考えであった。

その考えを悟ったのか、1度は食い下がろうと少年の手をぎゅっと掴んだ紬ではあったが、その手は次第に弱まり最後にはその手を離す。

 

「‥‥‥大丈夫です、悪い人ではありませんから」

 

不安そうに紬を見る少年に対し、そう声をかけて紬は今度こそ学校へと向かっていった。

 

「‥‥‥さて」

 

「ッ‥‥‥!?」

 

紬が出ていったことで、2人きりになった少年と紬の父。

体裁的には2者面談にも見えるこの光景は、紬の父にとっては何とも言えない物であった。

何せ、信頼している娘が連れてきたとは言え、何処の馬の骨とも取れない少年を連れて家に連れてくるという荒業をやってのけたのだから。

大した度胸である、なんて三白眼を持ち普段から何処ぞの893とも間違えられることの多い男が、内心でらしからぬことを考えていると少年が言葉を紡ぐ。

 

「‥‥‥あ、あの。俺‥‥‥あの女の子に知らない間に連れてこられて。け、決して喧嘩とかそんなこと売りに来た訳じゃっ‥‥‥」

 

「それは分かっとる」

 

「ひ、ひっ‥‥‥ご、ごめんなさい」

 

「いや、そんなに怖がらんでも」

 

「ぶたないで‥‥‥」

 

「叩かんよ!?」

 

些か飛躍しすぎた話の内容に思わず大声でツッコミを入れた、入れてしまった紬の父は己がしでかした失態に気が付く。

怯えている子供に大声を上げるなど言語道断、現にさっきまで怯えていた少年はあぶくを吹きそうな程にガタガタ震えている。

先ほどから少年が怯えているのはこの言葉のせいかもしれないと感じた紬の父は気持ちを切り替え、努めて冷静に少年に話しかけた。

 

「こ、コホン。さっきのは悪かった。目については、別に怒っとるわけではないさけ、気にせんでや」

 

「‥‥‥は、はい」

 

「ところで、キミの名前は?」

 

「‥‥‥ふ、藤宮」

 

「そうか、となると‥‥‥」

 

つい最近近所に引っ越してきた家があるということはまことしやかに伝えられていた。

表札の名前も馴染みのお客さんから伝えられていたこともあり、この少年があまり遠くの子ではないということを悟りひとまずは安堵。

しかし、そう長く悠長には構えていられない。

 

「えっと」

 

「‥‥‥?」

 

「取り敢えず、座わらんけ?こうして表でお話しするのもなんやし‥‥‥ほら、あそこの畳へ来まっし。お茶も用意するげん」

 

兎にも角にも落ち着いた場所で、落ち着いた話をすることが肝要だと感じた紬の父は、藤宮少年を店の奥の畳式の部屋へと案内する。

しかし、それを見た少年はその華奢な体を震え上がらせ一歩後ずさる。

 

「‥‥‥み、見知らぬ人。見知らぬ店。自己紹介‥‥‥なし」

 

「?」

 

その言葉に紬の父は目を丸くすると同時に、少年の心に感心する。

つまり、この少年は自らと己が自己紹介をしていないから、知らない人に付いていくことは出来ないということを述べているのだ。

成程、確かに不用心だった。

紬の父は藤宮少年の言葉に理解を示し、己の浅はかさを悔やんだ後に、少し微笑み少年の肩に手を置く。

 

「そうか‥‥‥ごきみっつぁんな。じゃあ今から自己紹介しょまいか‥‥‥」

 

キャッチセールス‥‥‥ッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一瞬、時が止まった。

 

 

「へ」

 

「きゃ、キャッチセールスというのは店や個室に誘われた不用意な若者が契約の不慣れにつけこまれて長時間拘束の末に契約を結ばれてしまう悪質な詐欺のことを指してましてこういったセールスの対処方法はとにかく逃げることと強い意志で断ることであり今回の件はそれに該当するのかと思った次第でありまして‥‥‥げほっ、コホコホ!!」

 

「ああっ、一息でそんなに多くの言葉を述べるから‥‥‥というかそんなことはしないし、大体そんな言葉どこで‥‥‥」

 

「精肉店のおねーさん!」

 

お姉さん!?

 

少年はとあるおねーさんに怪しい人についていってはいけないということを学んでいたらしい。

尤も、今のこの状況はそれとはかけ離れているため、注意深いどころか失礼な言葉を発してしまっているワケなのだが、そこは気にすることなく紬の父は続けた。

 

「じゃあこうしよう。キミは何かおかしいと思ったら即断即決で逃げていい、紙類は一切出さない‥‥‥これでどうだ」

 

「裏切りの連鎖‥‥‥人は人を裏切る。逃れられない‥‥‥業」

 

「今度のそれは何知識!?」

 

思いのほか注意深かった少年の言葉に今度はツッコミを入れてしまう。

それに対し、やや驚き一歩下がる少年。

しまったな、と内心思いながら紬の父は少年に猜疑心を持たれないよう、普段の金沢弁をあまり喋らないように意識する。

方言に慣れていない少年を相手に方言を喋るということはコミュニケーションを取るための最善策ではないと感じた故である。

 

「娘がここまで連れてきてくれたんだ。安心してくれ、ここはちゃんとした店で、私はそういった類のことは決して行わない。ああ、約束して見せるさ」

 

「‥‥‥そういうことなら」

 

そして、その作戦は功を奏したのか。

落ち着きの色を取り戻した藤宮と紬の父は奥の座敷へと歩を進めることになる。

その時間およそ20分。

厄介なことになってしまったと紬の父は内心頭を抱えつつも、せめて目の前の少年に対しては真摯になろうと気持ちを切り替えた。

 

奥の座敷に対面する形で座る。

用意した座布団に対し、藤宮少年は遠慮がちに避けていたが紬の父が『座りなさい』と促すと、今度は拒否する時間もかからずに隣の座布団に正座を敢行する。

用意したお茶を一口啜り、紬の父は対面する藤宮にこう切り出した。

 

「学校生活は、辛いかい?」

 

その言葉に藤宮少年は目を見開くものの、またしても目を細め伏し目がちに尋ねる。

 

「どうして、ですか?」

 

「簡単なことだ、ランドセルを背負ってこんな時間から外にいる。小学生、並びに学生だということは一目瞭然さ」

 

落ち着いた雰囲気と語調で語られたその一言に藤宮少年はギョッとした様子で自らの背中に手を当て、やがて観念したように俯いた。

 

「学校‥‥‥辛いです」

 

「怖い?」

 

「はい、怖くて‥‥‥みんなと話すのが、できないです」

 

「勇気が湧かない、か」

 

「はい‥‥‥なんで、分かるんですか」

 

「私はキミの人生の2倍以上生きているんだ。キミの考えることも、その理由も概ね理解できる」

 

なんとなくではあるが、紬の父は少年が元気のない理由を掴みかけていた。

少年は、この街に恐怖心を抱いている。

それは、そうだろう。

知らない街、知らない人。

離れ離れになった友人、街並み。

違うものだらけの世界と、離別の苦しみの中で辛くないワケがない。

少年の人生の2倍以上生きてきた紬の父には、それが分かっていたのだ。

否、この場合悟ったといった方が正しいだろうか。

 

「怖いものは誰だって持ってるさ。けど、それを恥ずかしがることなんてない」

 

優しく、語りかけるように言葉を発する紬の父。

その言葉は少年には意外だったらしく、今まで目を伏せたり、俯いたりして紬の父の眼から逃げていた少年が、ここで1度紬の父の目を見据えた。

光のように明るい少年本来の目が1度だけ、数コンマの秒数で戻ったのだった。

 

「でも、怖いものは克服しないといけないっておかーさんが‥‥‥」

 

「勿論。けど、それに焦り、2倍速で物事を解決しようだなんて思ったら本末転倒だよ。今の君に出来ることは、目の前の課題と向き合って、上手く付き合っていくことだ」

 

怖いものは何れ克服していかなければならない。

それは、人としてのレベルアップを志すものなら直面するであろう課題である。

しかし、そのために必要な段階を2段飛ばししても課題は達成するのみならず焦燥感から、永遠と解決できない負のループへと陥ってしまう。

紬の父にはそれが分かっており、そして目の前の少年が誰にも頼らずたった1人で課題を解決しようとし、今まさに負のループに陥ってしまっているということを悟っていたのだ。

故に、手を差し伸べる。

この少年が、1人きりにならないように。

1人で物事を解決し、これ以上負のループに陥らないように。

言葉という救いの手を差し伸べたのだ。

 

「最初から完璧なんてない。一つづつ、解決していこう。キミならそれができるさ‥‥‥藤の花を苗字にもつキミならね」

 

「藤の‥‥‥?」

 

首を傾げて、藤宮は紬の父を見遣る。

その視線に晒された紬の父は、くつくつと笑みを零して続ける。

 

「藤の花言葉は知っているかい?」

 

「はな、ことば?」

 

「そう、花言葉。キミの『藤宮』の藤が付く花は、優しさ、歓迎っていう意味があるんだよ」

 

「‥‥‥それとこれに、なんの関係が」

 

「言霊と言ってしまえば大袈裟に感じるかもしれないけど、キミの苗字からは優しさが想像出来るんだ。きっと、キミは多くの出会いや弱点、悲しみすらも歓迎できる‥‥‥そんな優しい人間になれるって予感がする」

 

藤の花。

立場上、そういったことにも目敏くなってしまう紬の父にはその藤の花と藤宮という少年が酷く重なって見えていた。

一見、疑り深いきらいがあり己を守るために失礼な一言を発してしまう男の子。

けれど、その行動原理は至ってシンプル。それは、今までに関わってきた人達の教えを忠実に守り、他人に迷惑をかけまいとする『優しさ』。

今回は、それが裏目に出てしまっただけなのだと紬の父は思案する。

優しさは時として人も己も傷付ける。

それは、その優しさを己が為か、誰が為に使うことでどちらかを犠牲にしてしまう故に発生してしまう事故のようなもの。

今回は、少年は誰が為の優しさを尊重して自分に優しくなれなかった。

もっと、少年は人に頼っていいのだ。

他人に甘えて良かったのだ。

苦しいと、辛いと、素直に吐き出せば良かったのだ。

 

「藤宮くん」

 

「?」

 

「私はキミの友達になりたいな」

 

「‥‥‥は?」

 

その言葉に、ようやく紬の父の目を見て話せるようになった藤宮少年が目を見開いて素っ頓狂な声を上げる。

その声に少しばかりの笑みをこぼした紬の父はお茶を一口啜り、続ける。

 

「いやあ、最近娘は私の家内とお風呂に入ることが多くなってね‥‥‥娘と同い年位のキミと、是非色んなことを話してみたいんだよ」

 

勿論、その理由は間違いではない。

しかし、それよりも思ったことはこの少年に必要な『友達』のように笑いあい、会話ができる人に自分がなるべきだということ。

幼い頃から引越し、見知らぬ土地でいつも通りに振る舞うのには無理がある。

ましてや、東京とは何もかも違うということも少年の人見知りに拍車をかけていた。

これ以上拍車をかけ、少年を孤立させる訳にはいかない。

紬の父は、いつの間にかこの少年のことを気にかけてしまっていたのだ。

しかし、そんな紬の父の言うことに公輔はやや訝しげに眉を潜める。

 

「代役ですか‥‥‥?」

 

「そんなことはないさ‥‥‥暇になったら何時でもここにおいで。この街の楽しさを、心ゆくまで教えようじゃないか」

 

そう言って、手を差し出す紬の父。

相変わらず笑みは恐怖的なそれではあるのだが、人は必ずしも外のみで判断される訳では無い。

時に人はその人の内面を悟り、その優しさに胸を温め、その想いに応えるのだ。

公輔は、紬の父の怖さがありながらも人を想う心を言葉から悟ったのだろうか、差し出された手を掴んだのだった。

 

公輔は、その差し出された手の勢いと同じように遠慮がちな怯えた表情を紬の父に向けた。

その表情に、己の笑顔に対しての不安をここで初めて感じた紬の父は、笑顔で怖がらせる位ならと、表情を作ることを止めて素の、無表情へと戻る。

 

「‥‥‥あの」

 

「気安く構えてくれて構わないよ。あくまで私とキミは『対等』だ‥‥‥私の名前は白石(しらいし)琥珀(こはく)、あの子の父でありこの店に務めているしがない男だ、よろしく」

 

「‥‥‥藤宮、藤宮公輔。よろしく‥‥‥白石さん?」

 

「そこは呼び捨てにしないか」

 

「そんな度胸、ないです」

 

「‥‥‥まあ、そこは追追慣れてもらえればいいかな」

 

畳の上で正座をする2人。

公輔にとっての初めての友達が、この紬の父である白石琥珀であった。

厳格なところがありつつも穏やかな笑みを忘れず、他者への配慮を忘れない昔気質の快活な男。

 

そんな男と友達という奇妙な関係となり、公輔は徐々にこの街に順応していった。

暇があると、呉服屋に出向き琥珀と会話をするようになる。

学校で何をしたのか、今日の給食は何か、最近の流行り、時には琥珀が呉服の知識を公輔に教えたりと良好な関係を築き上げていった。

 

 

そうして7年。

あれからいくつかの変化があった。

公輔が東京に居た頃の明朗快活な様子をすっかり取り戻し、紬の親友をする傍らで彼女にひっそりとした恋心を抱いていたり。

呉服屋で掃き掃除や、レジ等のバイトをしてお小遣いを稼ぎ、貯めたお金で紬にプレゼントをしたり。

そして、何より大きく変化したのは───

 

 

琥珀が公輔を藤宮君と呼ぶのを止め。

公輔が琥珀を白石さんと呼ぶことを止めたことだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だっはっは!!だから所沢遊撃隊は解散しましたって!!いつまでそのネタ引き摺るんですか!!」

 

「ははっ、良いじゃあないか。そうやって話題に挙がるということは、名誉なことだと私は思うがね」

 

時は、夜。

場所は白石宅。

キッチンにて料理をしている紬の母が野菜を切っているすぐ側で、和室の中心に置かれたテーブルを男2人と女の子が囲んでいた。

その様子は、まさに賑やかといった様子で先程から笑いが絶えない。

男2人の共通の趣味である野球も、この会話の盛り上がりの流れを棹らしていた。

尤も、1人の女の子が疎外感か、あまりの喧騒感からか張り付いた笑みをそのままにしているのだが。

 

「‥‥‥」

 

「おやおや、どうしたんだいつむつむ。まるでゴミを見るような目だよ?」

 

「はっはっは、最近私と公輔君が喋りこんでいると決まって不機嫌になるねぇ」

 

「近所迷惑、と遠回しに伝えているのです」

 

理由は、どうやら2人の騒がしさだったらしい。

確かに、2人の騒がしさというより盛り上がりはとある野球チームの話題により、最高潮に達していた。

両親のサッカー好きとは違い公輔は野球が好きであった。

理由は、幼少の頃に見ていたとある埼玉のチームの一、二、三、四番打者に惚れたからとかいう理由だが、公輔からしたらそれは充分過ぎる理由だ。

そんな折に出会った、隠れ野球ファンの琥珀。

何度か出会う内に、野球の会話を交えるようになった2人は、こうして会っては野球の会話で盛り上がるようになった。

 

「‥‥‥むぐ、これでも反省はしてるんだぞ」

 

だからそんなにゴミを見るような目を向ける必要はないじゃあないか、と公輔がぶーたれていると紬がその態度に目を細め公輔を睨みつける。俗に言う、ジト目という奴だ。

 

「大体、公輔は父に対しての礼節がなっていません。以前は慎ましい性格をしていましたのに、それが退化するとは‥‥‥もしかして、貴方は退化するヒトなのですか?」

 

「退化!?」

 

紬から発せられた思いもよらぬワード。

馬鹿と言われるであろうと身構えていた公輔は紬の思わぬ反撃に、驚きの声を上げた。

 

「いえ、これを退化と言わずして何と言うのでしょう‥‥‥違いありませんね」

 

「さりげなく1人で完結させるのやめてくれませんかね。あのな、紬。これには海よりも深く、山よりも高い理由があるんだよ」

 

「‥‥‥その理由とは?」

 

「俺達、実はカテゴリ的には友達に分類される仲なんだ」

 

「聞いて損しました」

 

「ヴァァッ!?」

 

公輔必死の弁論も、紬には通じず遠慮のない一言が公輔の胸に突き刺さる。

これじゃあまるで俺はヒト以下じゃないか‥‥‥と項垂れる。

しかし、そこで思わぬ助け舟が公輔を救った。

 

「本当や、紬」

 

公輔と紬の喧嘩を肴にして日本酒を呑んでいた琥珀が口を開く。

厳格ではあるものの、優しい面もある琥珀は紬にとって頼れる父であり、威厳を感じることもある父だ。

呉服屋を営み、765プロを含めた大口の客も多い中で、常にお客様の立場に立ち、良質で、その人に会った呉服を提供する父の姿を紬は尊敬している。

 

「お父さん‥‥‥それ、どんな理由やけ?」

 

父なら、この親友が無礼を働いても咎めることのない理由をしっかり話すのだろう。

そんな淡い期待と、ちょっとした好奇心を胸に紬が尋ねると、琥珀は両手を広げ笑みを見せた。

 

「ズッ友、やちゃ」

 

「は‥‥‥ずっ友?」

 

「ほんなんがや、私と公輔君はこの土地で出会ったズッ友。これは、紬にも母さんにも干渉することの出来ない、永遠の友情げんて」

 

「こ‥‥‥琥珀さん!!」

 

「公輔君」

 

『うぇーい』と拳と拳を合わせる公輔と琥珀。

その光景を見た紬のまるでゴミを見るように細められた目。

その光景が発生している和室で、料理が入っているお盆を持ってきた紬の母が入ると、その空気が弛緩する。

 

「おあがりあそばせー」

 

置かれたのは人参やこんにゃく、れんこん等が程よい大きさにカットされている煮物、味噌汁。そして、焼き魚。ほうれん草のおひたしや、和食全般がこれでもかという程置かれている。

 

「えっ、だし巻き玉子‥‥‥」

 

そして、公輔の好物で綺麗に整えられただし巻き玉子が公輔の近くに置かれると、公輔はそのだし巻き玉子に目を奪われる。

実はこれ、公輔が来る前に紬の母とは違う『どこかの誰かさん』が作ったのだが、それは公輔の知る由ではない。

 

「覚えててくれたんですか?」

 

「ふふっ、公輔君良くうちの料理を食べに来るから。これくらい覚えてなきゃ主婦じゃないわよね‥‥‥ねえ、紬」

 

「‥‥‥知らんげん、何でうちに振るん?」

 

「‥‥‥へへっ、ありがとうございます」

 

公輔は本当に嬉しそうに目を細め、卵焼きを見つめた。涎が垂れそうな程に綻ばせられた口元は年相応ではない、少年の笑みだった。

高2にもなると、流石に子供らしからぬ所も現れてくる。

7年前は、紬よりも小さかった男の子。

筋肉は華奢で、茶髪めいた髪の毛は長めで、覇気もなく、年の割に幼い、そんな印象が拭えない男の子だった。

しかし、今ではその背丈は優に紬を超え、しゃんと伸びた背筋に程よく鍛えられた筋肉、そして短めに切られた茶髪が公輔の端正な顔を少年ではない、1人の好青年たらしめていた。

 

しかし、こういった時。好きな物に対して正直な公輔の気持ちや表情は、何ら変わることがない。

そんな光景に、紬は思わず頬を緩ませる。

 

「公輔、お茶のお代わりは致しますか?」

 

「あ、いいよ紬。流石にそれは俺が‥‥‥」

 

「構いません、客人ですので」

 

公輔が立ち上がろうとするのを紬が手で制し、立ち上がる。

紬に取っては、幾ら慣れ親しんだ仲だとしても客人の立場である公輔に茶の用意をさせる訳にはいかなかった。

それ故に、幾らかの鋭利な刃物のような言葉で公輔を制し───『え‥‥‥俺、また何かやっちゃった?』とでも言わんばかりにおろおろしている公輔を後目に、台所へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤宮公輔は、悶々としていた。

それは自らの親友に晩御飯食べに行かないかと言われ、付いてきて、直後に日記帳を見られてからというもの、どこかよそよそしい様子でいた紬が何時ものような高貴で辛辣な様子を取り戻していたからである。

これぞ内弁慶というのか、家で強気で外ではよわよわとかなんだよそれ可愛いかよ──なんて紬の魅力の虜となり内心頭を抱えていると、不意に紬の父親である琥珀が公輔を見て、笑みを零す。

 

「‥‥‥なんですか」

 

見られた光景が光景だと今一度表情筋と気持ちを引き締め、公輔が琥珀にそう問いかけるとその笑みを崩さずに、寧ろ2割増しで温厚な笑みと化した琥珀が一言。

 

「いや、公輔君がここに来てからというもの毎日が煩いほど賑やかでね。本当に飽きないよ」

 

「それは、褒められてるんですかね?」

 

「ああ、勿論さ。親として、人として、こうして友人が娘と仲良くしてくれているのは嬉しい限りさ。正味、付き合って貰っても大いに構わない」

 

その瞬間、ガンッ!!と鈍い音が家中に鳴り響く。

その音の発生源は台所。

紬が何かやってしまったかと公輔が台所を見遣るが、その後は大した音はせずに再びお茶を淹れる音がした為琥珀と公輔はお互い苦笑いをしながら、会話を続ける。

 

「まあ、こちらとしては大方分かりきっていることなんだが‥‥‥一応」

 

「?」

 

「紬とは仲良くしてるかい?」

 

在り来りなその質問に、公輔は笑顔で頷く。

紬が果たして己に対してどのような感情を抱いているのかというのは公輔には分からないが、公輔は紬との関係を心地よく感じている。

押して、引いて、偶に押し返されて。

そんな手押し相撲のような関係が公輔にとっては気持ちが良いもので、今ではこの生活抜きでは考えられない、そんな想いすら抱いていた。

 

昔はあんなに怖がってのにな‥‥‥なんて半ば自虐のような考えを頭に浮かばせ、クスリと笑みを見せた公輔はその笑みを顔に表したまま、答えた。

 

「お陰様で、仲良くやってますよ。ただ‥‥‥」

 

が、人生何事も上手くいくわけではないというのも事実である。

先程まで快調だった公輔の笑みは不意にとあることを思い出し凍りつく。

 

「ただ?」

 

「日記帳がバレた」

 

「なんてことだい」

 

「あらあら」

 

そう。

公輔にとっての懸念材料、それは日記帳がバレたことであった。

良くも悪くも『事案』は日記帳から始まったのだ。

日記帳から始まり、紬に本心を知られた。

日記帳から始まり、紬がよそよそしくなった。

その他にも色々あるが、公輔にとっては主にその2つの事案が己が心を苦しめていた訳だ。

 

大体、予想外だと公輔は内心ぶーたれる。

本来ならもう少し段階を踏んで、ちゃんとした場で恋心をさらけ出そうというプランがあったのに、たった一つのノートでそれが台無しになってしまってはたまったものでは無い。

公輔は運命の神様の悪戯に頭を悩ませ、内心で中指を立てた。

 

「日記帳というと、あれだろう?以前キミが言ってた、隠している日記帳とやらだろう」

 

「はい」

 

「‥‥‥成程、それであの日は紬が一日中頬が赤かったんだな」

 

「赤面する紬‥‥‥だと?」

 

「知らないのかい‥‥‥ああ、そうか。最近1人で帰ってくることが多いと思ったら、公輔君を置き去りにしていたのか」

 

「おい、そんなことより赤面する紬に関しての情報を寄越さないか」

 

「眼福、やちゃ」

 

「尊いぃッ!!!!」

 

ここで、紬がお茶を持ってきて公輔の隣の席へと座る。

公輔がコポコポと小気味良い音を鳴らし湯呑みへと入っていくお茶を眺め、紬に感謝の意を込めて座礼し、それを華麗に紬が受け流しているその様を眺めていた紬の母は少しだけ目を細めて紬を見た。

 

「‥‥‥お母さん?」

 

「昔は公輔君のこと大好きーって言ってたのに」

 

「そ‥‥‥そんな昔のこと言わんといて!!」

 

「ふぁっ!?」

 

過去を開陳された紬はその時の出来事を思い出し、思わず赤面する。

無論、この場で紬の母が嘘をつくわけがない。

紛れもない本当である、ガチである。

しかし、その時の言葉はあくまで『Love』ではない『Like』。

少なくとも当時はそうであった紬の言葉尻を母に呆気なく取られた紬は慌てて己が母に訂正を求めた。

しかし、彼女は最愛の娘の言葉をまともに受け取らないどころか『あっはっはー』と笑いながら、お茶を啜った。

 

さて、先程までの衝撃的事実に身を震わせ心をときめかせていた公輔ではあったが、この場で舞い上がり続け、冷静さを欠く程馬鹿ではない。

少なくとも日記帳よりかは羞恥度は低いな‥‥‥と己に言い聞かせ、好物のだし巻き玉子をぱくつくと、何とも言えない甘みが口内に広がった。

 

「あぁ‥‥‥美味しいっ」

 

だし巻き玉子は神だと友人にも、親友であるところの紬にも公言している公輔。彼のだし巻き玉子に対する愛情は他の追随を許さぬ。

その事実を長年親友兼藤宮少年時代のお世話係的な何かを務めてきた紬は痛いほど知っており、相変わらずの玉子愛に呆れ半分の面持ちで公輔の笑顔を見つめる。

 

「だらの三杯汁とは良く言ったものですが‥‥‥そんなに美味しいのですか?」

 

「うん、やっぱだし巻き玉子は甘めが一番だよ!形も整ってて‥‥‥本当、今日は誘ってくれてありがとう」

 

紬から誘いがなかったら間違いなくコンビニでおにぎりを買っていたであろう公輔はだし巻き玉子を食べた後に二コリと笑みを見せる。

が、紬はそれを見ることはなくそっぽを向いてご飯を食べる。

 

「そのような調子のよい台詞を、よくぞ臆面もなく言えるものです」

 

「事実だからな、そこは何とも言えない」

 

手厳しい事実ではあるが否定は出来ないその言葉に苦笑いをしながら、そう言う公輔の顔をついぞ紬は見なかった。

その代わり、公輔は紬の耳がはっきりと赤くなっていることに気が付き、この娘やっぱり可愛すぎだろ──と内心悶え、それを誤魔化すかのように白米をかきこんだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば紬。今月中に東京へ行くて言うとったが、準備はしとるん?」

 

時は変わって1時間後。

食事を終わらせ、お茶を飲みながら一段落していた琥珀は『是非この後の甘味も食べていって!』と立ち上がろうとする公輔を揺さぶる己の妻と、それを受けてグロッキーになりかけている公輔を脇目に紬に質問する。

 

琥珀が気にしていたのは住まいのことである。

幾ら娘を信用しているにしても、紬はまだまだ未成年。

まさかこんなに速く娘が一人暮らしをするとは思っていなかった訳で、少しばかりの心配と、不安を抱えていた。

 

「り‥‥‥綸子(りんず)、さん‥‥‥も、やめ‥‥‥」

 

「じゃあ甘味食べる?」

 

「お、お腹いっぱ‥‥‥」

 

「食べまっし♪」

 

「あああああ!!!」

 

またしても愉快犯であるところの妻が公輔を揺さぶっている様を見て、琥珀は公輔と初めて出会った時のことを思い出す。

あの時の公輔とは打って変わったような明朗快活な姿から学んだことは幾つもある。

そのうちの1つが環境。

環境は人を思うがままに変えるというのは公輔と出会う前の琥珀も分かってはいたが、琥珀のその考えは公輔と接していくことで更に強くなった。

誰1人としてこの土地に友達がいなかった臆病な少年は、自分の優しさを己が為に向けることで、人に頼ることを知った。

そして、新たな環境で友達を作り明朗快活な姿を取り戻し、あるいは形成した。

 

そう。

この一連の流れを見ているからこそ、琥珀はこれから環境を変えんとしている紬に対して不安を抱いていた。

今は、信頼できる友達と仲良く学校生活を送っている紬。

仮に環境の変化が功を奏せば、紬は目指しているアイドルとしても、人としても成長することが出来るであろう。

交友関係も広がる。1人の父であり、人と人との繋がりは大切だということを仕事上知っている琥珀からしたらこれ程嬉しいことはない。

 

しかし、仮に失敗したら?

仮に環境の変化が悪影響を及ぼし、彼女が孤独になってしまったら?

その時は、例えアイドルとして成功したとしても素直に喜ぶことは出来ない。

学生の本分は学問と友情と信念、そう考えている琥珀はアイドルをしたいと己の口から自分の夢を告げた紬を見た時、その夢を応援すると決めたのと同時に彼女がもし孤独の道に突き進まんとしたならば引きずってでも家に帰すという強い決意を抱いていたのだった。

 

娘の失敗を祈るような男ではない。

しかし、万が一環境が紬に向かなければ‥‥‥なんてことを考えてしまうと、環境の面で最も重要である住まいにどうしても慎重になってしまうのは致し方のないことではあった。

そんな琥珀の質問を聴いた紬は、お茶を啜り喉を潤した後に琥珀に予め決めていたことをさも当たり前のように告げる。

 

「準備はしとるから、1人で行くけど‥‥‥」

 

「とはいえ、道がわからなくなった時が心配やげん。お前は機械音痴のきらいもあるさけ、ナビゲーター的な奴がおったらええんが‥‥‥」

 

そう言いつつ、目を瞑り暫し思考に耽る琥珀。

しかし、その思考に数秒と耽る間に1人の少年が声を挙げる。

無論、その声は茶髪の青年、公輔から発せられた一言であった。

 

「い‥‥‥いいよ」

 

「え」

 

「俺が一緒に東京行くから」

 

公輔は東京生まれの少年である。

それ故にこの地に引っ越してきた時は慣れない土地や方言に悩まされ、そして紬や琥珀らといった白石家の方々に救われた過去を持っていた。

そんな公輔には慣れない土地に行くことの不安や心細さ、難しさのようなものを心得ており、そんな課題に親友であり、かつ想い人であるところの紬が直面しようとしている。

公輔にとって、紬に手を貸すという選択をするのは難しい問題ではなかった。

 

「‥‥‥良いのですか?」

 

「うん、それなりに土地勘持ってるし‥‥‥紬は絶対地下鉄で迷いそうだし」

 

「迷いません」

 

「保証もないでしょうに‥‥‥」

 

何処か強がりとも取れる紬の即答に、公輔は苦笑する。

不安は一入であり、悪い人に話しかけることもあるかも知れぬ。

それらを危惧した公輔は、窘めるような優しい語調で一言。

 

「こういう時くらい、俺に頼って欲しいんだ」

 

「‥‥‥でも」

 

ところが、紬の顔は優れない。

それどころか、その表情はまるで恐ろしげなものを見るかのように怯えた顔つきとなっている。

しかし、その真意が公輔には分からぬ。

強いて分かることと言えば、今この場で白石紬という少女が何かに怯えていることだった。

 

「‥‥‥その」

 

やがて、紬が一言。

その言葉に公輔は眉を顰め、首を傾げた。

 

「?」

 

「貴方はもしかして、日頃の恨みを込めて私を東京湾に沈めようとしているのでは‥‥‥?」

 

「東京湾ッ!?」

 

ツム・バズーカ炸裂。

その言葉は公輔の心に風穴を開け、頭を項垂れさせるには十分な破壊力を持っていた。

救いは、彼女が無自覚なところなのか。

項垂れた公輔を見遣るのは『えっ‥‥‥え?』とでも言わんばかりにあたふたしている紬と、生暖かい視線で見遣る琥珀と紬の母であった。

 

何を隠そう、公輔にとって紬の自虐的言動は心に風穴を開けるバズーカにも近い威力があった。

何せ、己の好きな人が自らのことを貶めたり、自己評価の低さにより好かれていないなんて、自虐にも近いことを仄めかす発言をするのだ。

それが公輔にとっては何とも歯がゆく、心苦しく、かついじらしくて。

その奥ゆかしさのような何かに好きという感情と、止めて欲しいという感情の間でジレンマのような何かを感じてしまっていた。

 

しかし、公輔は思う。

先程の東京湾もそう、日記を見られた時もそう。

紬は綺麗で、可愛いと。

それと同時に、その紬の『らしさ』に自信を持って欲しいと。

心の底から、紬の可愛さを認めているからこそ、公輔は紬のそう言った罵倒にオロオロと慌てふためき、何だかんだで否定するのだ。

 

「し、沈めないから‥‥‥普通に頼ってくれて良いから」

 

「‥‥‥分かりました」

 

依然として疑わしげに公輔を見る紬であったが、やがて彼女は観念したかのようにため息を吐く。

その姿に公輔が目を見開くと、それと同じタイミングで紬は軽く頭を下げて一言。

 

「そういうことなら、よろしくお願い致します‥‥‥公輔」

 

「‥‥‥おう!」

 

紬がその声に顔を上げると、任せとけと言わんばかりにニコリと笑みを浮かべた公輔。

その笑みに、紬が遠慮がちな笑みで返すと2人の間には何処か優しげな、暖かな空間が蔓延する。

その空間は、少し前の2人からは想像できない程の不思議な空間で。

その空間に晒された公輔は、改めてこの子の事が好きなんだという確信を得たのだった。

 

「‥‥‥愛やなぁ」

 

「恋ねぇ」

 

さて。

いつの間にか、2人の空間を意識せぬ内に作ってしまった公輔と紬。

その空間の蚊帳の外にされてしまった琥珀と紬の母はお互いの顔を見てニヤリといやらしい笑みを浮かべながらそう呟く。

笑みを浮かべ、無言の空気を作っていた2人。

勿論、蚊帳の外の2人が発した一言はしっかりと聞こえており、公輔は『たはは‥‥‥』と苦笑して頭をかき、紬はその言葉を真に受けて、ついつい言葉の面で『素』が出てしまう。

 

「‥‥‥恋、とか。ほんなこと、うち‥‥‥」

 

「あは、やっぱ恋ですかね。俺は勿論『大好き』ですけど‥‥‥」

 

「〜ッ!!あてがいなこと言わんといてッ!!」

 

「あー待って、紬!!悪かったから!!だから抓るの止めて!?本当に止めて───痛い!!痛いから抓らないで!!

 

照れ隠しか、若しくは本物の怒りか。

顔を真っ赤にした紬は公輔にその顔を見られないように、顔を背けながら抓る、ノールック抓りを敢行する。

その攻撃は公輔の脇腹を見事にヒットし、公輔は悲鳴を上げながら制止を促す。

そして、それを見ながら2人の親は、数年前から見てきた2人の成長に顔を綻ばせ、『いいぞ、もっとやりまっし───』と紬の攻撃を煽る。

 

ここから先は言うまでもない。

今日の白石家の食卓は、賑やかであったというのはこの4人が何より分かっている事なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今話で出てきた金沢弁リスト(間違いの可能性あり、あったら教えて下さい)

おいであそばせ⇒いらっしゃい

〜しまっし⇒しろって命令形。琥珀が言ってた『行きまっし』は行きなさいってニュアンス‥‥‥の筈。

〜さけ⇒〜だからって感じのニュアンス。『大人の出番さけ』⇒大人の出番だから

ごきみっつぁんな⇒ご丁寧にーとかありがとーとかそんな感じ。『あんやと』よりかは砕けてない。『ごきみっさま』とも呼ぶ。

〜げん⇒1番汎用性高いげん。要は断定、〜なのです、とか〜なんだもん的なニュアンスで使う。
以下『くつろぎルームウェア 白石紬』から引用。
「うちには、そんな可愛らしい格好、に‥‥‥似合わんげん‥‥‥っ」
翻訳後「私には、そんな可愛らしい格好、に‥‥‥似合いません‥‥‥っ」

うん。
やっぱつむの金沢弁が1番やな。

〜やちゃ⇒〜なんだよって意味。
『ズッ友、やちゃ』⇒『ズッ友なんだよ』

おあがりあそばせ⇒いらっしゃいませ、どうぞお入り下さいとか召し上がって下さいと言う時に使われる。
今回使ったのは『召し上がって』の方。

だらの3杯汁⇒遠慮のない大食らい。
公輔は臆病を引き換えに遠慮のなさをGETした‥‥‥紬にそれを咎められた‥‥‥おーけー?

あてがい⇒いい加減なことを表す様。
『あてがいなこと言わんといて!』⇒『あてがいなことを言わないで!』


いいぞ、もっとやりまっし⇒いいぞ、もっとやれ




藤宮公輔(少年)
臆病な早とちりボーイ。T.Nの癖を継ぐ者。
書いてて思ったのはこの少年某穴掘りクイーンさんに似ていたのではという猜疑心と疑念。
取り敢えず臆病。
しかし、髪を切る事と紬パッパと友好的な関係を築くことで快活な性格へあら不思議!
環境と心境は人を思うがままに変化させるのだ。

白石紬
玉子焼きを作ったのは他でもない彼女。
プロデューサーに連絡を取らず転校手続きを済ませ、後は東京へ向かうだけ。今回東京へ行くのは住居の下見半分東京見学半分。
早とちりな性格は今作でも変わらず。寧ろ日記帳がきっかけで悪化している可能性もある。早とちりが得意なフレンズ。

白石琥珀
オリキャラ。紬のパッパ。
厳格な性格をしており、礼儀作法にはそれなりの厳しさを持つが、メリハリがあり分別をつけて真面目な時と巫山戯る時を作れる男。
公輔とは、共通の趣味を持つズッ友。
因みにネーミングは練織物の琥珀から。





続けェッ!!

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