自分の好みだとか、性癖だとかそんなことは絶対無いから。
それは、過去のとある朝方のことであった。
朝方は父親が仕事に出て、母親も用事があるということで半ば追い出されるかのような形で、家を飛び出した公輔。
藤宮家から通う小学校との間には幾つもの住宅街とひとつの公園があり、その街並みを見ながらてくてく歩いていると、不意に女と目が合ったのだ。
「‥‥‥ぁ」
「‥‥‥あら」
視線が交錯すると女は目を見開き、公輔はバツが悪そうに目を背ける。1か月前にとある家の女の子とそのお父さんと話してからというもの、サボることを考えず学校に通うようにはなった公輔。とはいえ、依然として人見知りのきらいは克服しきれておらず、故郷にいた時のような快活さは取り戻せていなかった。
故に、挨拶もせずに目を背けるという人付き合いでは凡そタブーとも取れる行為を犯してしまったのだが、肝心の女はその行為を気に留めることも無く男の子に切迫する。
その距離間、約10cm。
音速とも形容できる女の身のこなしに、思わず後ずさりしてしまった公輔。その様子を見た彼女はクスリと笑みを見せ、公輔の手を掴んだ。
手を掴まれたことにより公輔の肩がビクリと跳ね上がる。長い爪、女特有の柔らかい手の感触。殊更女の人と手を繋いだ経験がほぼゼロの公輔は急に触れられたことの驚きと共に、羞恥のような何かを感じてしまった。
「来まっし」
「‥‥‥き、きま‥‥‥?」
慣れない行為と言葉に慌てふためいた公輔を気にもとめずに女は続ける。
が、今度は己が慣れ親しんだ土地で使っていた方言を使わないように気をつけながら。目の前にいる少年を労わるように一言。
「あ、えーと‥‥‥来て、こっちこっち」
分かりやすく訳されたその言葉に公輔は呆気にとられつつも、優しく手を引っ張られたことにより、なし崩し的に付いていく。所々で告げられる女の指示に従い、靴を整え、ランドセルを置き、通路を通り、最終的に辿り着いたのは畳部屋の個室。
普段から警戒心を怠ることの無い公輔は勿論この状況を最初から危惧していた。防衛反応が働き、一瞬後ずさることで逃げる体勢も取っていた。
危険は逃げることで対応する公輔のことだ。そのリテラシーで以前呉服屋に連れていかれた時も、警戒を怠らずに琥珀という目付きの鋭い男に対応することができていた。
しかし、今回は相手が悪い。
女は、積極果敢が過ぎるほどの動きで少年の手を掴み、驚く間に優しい笑顔を見せ、油断させ、その隙を突き連行する。彼女だからこそ出来る策士ぶりに、警戒心を揺さぶられた公輔は見事に籠絡されてしまったのだ。
その姿はまさにチョロイン。
追い詰められ、それに気が付き戦慄の表情を浮かべる
「こここっ*1」
「‥‥‥座って、良いんですか?」
その質問に笑顔で応えたのは他でもない、女である。庭のある立派な一軒家に連れ込み、茶の間の部屋まで連行され、笑顔でその質問に応える様は一種の威圧感さえ感じる。
そんなオーラのような何かを子どもながらの直感で感じた公輔。断ったが最期だと感じ、女の指示の通りに用意されている座布団に正座を敢行した。
住宅地であるが故に喧しさはなく、聴こえるのだとしたら小鳥の囀り位のものである。部屋も、和室故に配色が大人しめであり、物も少なく畳の香りが鼻腔を擽るのと同時に、公輔はひとつの疑問を抱く。
この人とは初対面。
単純に、何故この人が自分をこの部屋に連れ込んだのか。それが公輔は気になったのだ。
「‥‥‥あの」
どうしてここに俺を連行したのか。
そう言おうと口を開いた公輔だったが、その一言は女によって遮られる。
その時点で公輔は悟った。
ここは今、まさに目の前の女の人のペースだと。
「お茶」
「‥‥‥お茶?」
「麦茶?紅茶?それとも抹茶が良いかな‥‥‥時間はかかるけど」
3つの選択肢を与えられ、公輔は考えを巡らせる。こういった客人で居る時、あまり手を煩わせないようにしろという父母の教えにより、すぐさま抹茶を除外すると、残りは好みの問題により公輔の選択肢は1つに狭められる。
公輔は、どちらかと言えば渋いものを好みとする。無論、甘味を食べられないという訳では無いのだが。そのような好みにより、公輔は綸子に提示された選択肢の中の1つを言おうと、口を開いた。
「む‥‥‥」
「む?」
「む、麦茶でお願いしましゅ!」
そして、舌を噛む。
それも、言葉を間違える意味の噛むではなく、まともに舌を噛んでしまうというおまけ付きである。
羞恥、情けなさ、痛み。
3つの悪感情が一気に頭の中に押し寄せた公輔は『痛い‥‥‥』と呟きながら、涙目で口元を抑えた。
そして、そんな少年が羞恥で耳を赤くしつつも前を見た瞬間に見たのは恐怖を絵に描いたような絵面であった。
俯きながらぷるぷると震える女。しかし、目付きや表情はその長い髪により隠れてしまい笑っているのか怒っているのかがまるで分からない。
そんな10人中9人が先ず怖がるであろう不気味さに、公輔は思わず情けない悲鳴をあげてしまった。
「‥‥‥ごめん、今から、麦茶持ってくるからっ」
しかし、その悲鳴を女はあたかもなかったかのように振る舞う。依然としてふるふると震える身体と、踊る膝を両手で叩き、喝を入れた後に立ち上がる。
ガタガタと震えていた公輔であったが、その元凶が部屋を出ていったことで、次第に震えが治まっていく。
尤もこれを嵐の前の静けさと捉えるか事後と捉えるか次第で心の持ちようは変わっていくのだが、少なくとも今の公輔は後者特有の落ち着きを得れたようで、大きく深呼吸をして周りを一望した。
(‥‥‥綺麗な人だったなぁ)
1人になったことで、少しだけ考える時間が出来た公輔。その時間を自らの心を落ち着かせる為に使うと、暫くして冷静になることに成功し、それと同時に自身を連行した女の姿を思い出していた。
棚引く長い銀髪。
眉目秀麗な顔つき。
(白石みたいな人だったし‥‥‥優しい人なの、かも?)
先程までの恐怖的な絵面は兎も角、出会った時の朗らかな笑み、優しさからかお茶を用意してくれるという親切さ。座布団まで用意してくれるという好待遇ぶりに公輔の心は揺さぶられていた。勿論、唐突に家に連れ込まれたのは不信感極まりない行為ではあるのだが、その割に引っ張る手や一つ一つの動作は朗らかで、それでいて優しい。
そんな女の行為を思い出し、何となく銀の髪をした女の人が自身が思うような悪い人ではないのかなと思い始めたその瞬間。
「お待たせ」
「ぴぃ!?」
唐突に声をかけられ、正座の状態から仰け反ってしまった公輔はバランスを崩し、後ろに倒れてしまう。
幸いにも、肘を着くほどの余裕はあったので後頭部を床に思い切りぶつけることはなかったものの、醜態を見せてしまったことにより、公輔の心音はまたしても上昇する。
「どしたの、そんなに仰け反って」
「ご、ごめんなさい‥‥‥」
「ああ、謝らないで。別に怒ってるわけじゃないから‥‥‥ほら、見てよこのスマイル。『あの人』とは大違いでしょ?」
「‥‥‥それは、はい」
良く見れば、その表情に怒りの表情に怒りはなく、笑みが見えている。肝心の笑みも挑戦的だったり不審なそれではなく、温厚な笑み。
とは言いつつも、彼女が言った『あの人』というのが分からなかった公輔であったため、比較対象も何もなかったのだが。
倒れてしまった状態から座り直した公輔は、差し出されたお茶を飲むように薦められ、ちびちびとお茶を飲む。乾いた口と喉が、少しだけ潤うとそれと同時に先程までバクついていた心音が今一度落ち着きを見せる。
そんな自身の体調に安堵した公輔。『ほっ』と擬音が付くように息を吐くと、それと同時に開いた目から彼女が依然として笑みを見せているのに気が付いた。
崩れぬ笑み。それも、優しい笑みに逆に不審に思った公輔だったが、その不審感は彼女の一言により、不意に霧散する。
「でも、そっか。やっぱりキミは‥‥‥」
「な‥‥‥なんですか?」
目を開き、薄目で公輔を見る女は銀糸のような艶やかな髪をしており、顔立ちも娘である紬と瓜二つ。
連れ込まれた部屋は、見覚えのない部屋。本来の公輔ならば警戒心を解かずにいただろう。それでも公輔がややその緊張を解くことができたのは差し出された麦茶と見たことのある彼女の風貌にあった。
しかし、それだけで完全にリラックスできるとまではいかず、上擦った声で公輔はその一言の真意を尋ねる。
すると、彼女は自らの胸の前でパン!と手を合わせた後に挑戦的な笑みを浮かべて一言。
「実はね、あの人に話を聞いた時から思ってたの‥‥‥藤宮公輔君」
その言葉に、公輔はコクリと息を呑む。
この女から何を発せられるのか。難癖を付けられるのか、もしくは誘拐されてしまうのか。
彼女の口の開き、一挙一動に注目するために目を見開く。
女の口が開く。
そして、今度は聴覚すらも研ぎ澄まそうと集中力を上げたその瞬間。
「髪を切れば、イケメンになるって!」
公輔の、時間が止まった。
かみ?
カミ??
神???
紙????
公輔の中で果てしないハットマークが浮かび上がり、その表情と動きを止める。
考え過ぎた頭は、やがてショートし脳内も思考停止の状態に至る。
今、公輔が分かっていることといえば己の視界の中で麦茶を入れてくれた女がドヤ顔で己の髪を手でチョキチョキと弄っていることのみであった。
「良いかな、公輔君‥‥‥キミには華があるの!端正な顔立ちに、素養のある姿!これで自信なさげな背丈と髪さえ正してしまえば和服姿がお似合いの立派な殿方になる‥‥‥否、なれるっていう華が!!」
「‥‥‥?」
意味が分からないし、笑えない。
まさに理解不能といった様子で、公輔は固まっていた。
いきなり髪を切ればイケメンになると言われ、あまつさえドヤ顔で色々言ってきたのだ。
言葉の一つ一つを掻い摘んでいけば何となく理解は出来るだろう。しかし、それをするための脳内も、今は女の突飛な発言により失ってしまっていたのだ。
そんな少年の様子に、やや女は不満げ。
公輔がフリーズしていることに気が付くと、その端正な口を尖らせる。
「む、思考停止してるな‥‥‥なら身体で分からせる必要があるね!!」
「ひ、ひぃっ!?」
正座をしながらにじり寄ってくる女に、公輔はようやく思考回路を正常に戻す。しかし、時は既に遅し、目の前までにじり寄る女は公輔を輝くものを見るような羨望の眼差しで見遣った。
無論、そんな目で見られたこともなければ、そもそもこの状況でこんな視線を向けられることがおかしいと考えていた公輔は浴びせられる視線から目を背ける。この状況がおかしいということに、公輔は気がついていたのだ。
「だ、大体話を聞いただけで髪を切るなんて発想には至らないでしょう!?一体何の情報で‥‥‥」
「実はあの人‥‥‥琥珀さんが貴方と話しているのを見たのよ」
「き‥‥‥聴いてたんですか!?」
「えーっと。そう、キャッチセールス!流石にあの人が悪質セールスマン扱いされてたのは笑ったなぁ。まあ、呉服店営んでるからあながち間違えてはいないんだけどね‥‥‥あ、お店は大丈夫だからね。ちゃんとした、由緒ある呉服屋さんだから」
「う‥‥‥忘れてください!」
黒歴史を言い当てられたことでまたしても羞恥で顔を赤く染め上げる少年。それと同時に、何故自身が呉服屋に連れていかれたということを知っているのか、そのことを疑問に感じていると、『あっ』という間抜けな声と共に彼女が真顔で一言。
「ごめんごめん。流石に唐突が過ぎたよね‥‥‥私の名前は
「しら‥‥‥ええ!?」
「むふふー、驚いた?ねえ今どんな気持ち?仲良くしようと色んな話題を提供してるけどそっぽ向かれちゃってる女の子のお母さんに連行されて、どんな気持ち?」
今度は悪戯っぽく目を細めて笑う彼女改め綸子はまさに愉快犯のように口を笑みで歪ませる。
そして、公輔が最も驚いたのは自分が学校でたまに白石紬という女の子に話しかけて、あわよくば仲良くなろうという目論見を完全に読まれているということだった。
図星を言い当てられ、自分の全てを見透かされているように感じた公輔は更に羞恥の念を心に増幅させ、正常な判断を失う。
今の公輔の頭の中はしっちゃかめっちゃかになってしまっていたのだ。
「まあ、連行したのにはれっきとした理由があるんだけどね。公輔君と実際に話してみたいって思ったからこうして話しかけて‥‥‥こう、なんだ。ぎゅーん!って来るものがあったの。分かる?この気持ち」
「そ‥‥‥そんなの知りませんしっ!」
それでも、何とか言葉を返すことはできたらしく。
綸子の問いかけに何とか強気で答えた公輔だったが、その顔の紅潮度合いは最早綸子の格好の餌であり。
そんな状況を先程から覗き見ていた1人の男が、遂に襖を開いて歩き出した。
「綸子」
「‥‥‥あれ、琥珀くん」
歳の割に髭を生やさず、若い雰囲気が見えるもののその伸びた背筋と程よく鍛えられた肉体、そして彼のアイデンティティとも言える鋭い三白眼から織り成す雰囲気は厳格な雰囲気を醸し出している。
そんな雰囲気を纏ったまま、かつて公輔と友達の契りを交わした琥珀は公輔の前に降り立ち、綸子の目の前で正座を敢行する。
「公輔くんをめとにする*2んは止めんかい」
「しゃーらっぷ。このような素晴らしい素養をお持ちの子供のことを一言も紹介しなかったケチな琥珀くんに話すことなんてなんにもありませーん」
「いじっかしいげんて*3。お前に公輔君のこと教えとったら公輔君めとにするんに*4がっぱになる*5やろうが」
「馬鹿になんてしないわよ、それこそ馬鹿馬鹿しいっ。私はうら若き子達の人生や恋路を応援したいだけ‥‥‥そう、所謂愉快犯なの!」
「‥‥‥わらびしいやっちゃなぁ*6」
懲りずに持論を展開し、身振り手振りで熱い思いを吐露する綸子に、琥珀は大きなため息を吐く。
たまに一人娘の教育方針的な何かで喧嘩をすることがある2人ではあるが、今回の綸子の熱さはその時並の熱量を誇っている。
そして、決まって琥珀が折れ綸子が勝つのだが今回もその例に漏れることはなく。
「あっそ。じゃあ琥珀くんは見てるだけで良いわよ。私がこの子の髪から身体まで、全部ケアするから」
「だらぶち*7、それとこれとは話が違うげん」
かかあ天下とはよく言ったものなのか。
折れた琥珀は己の持っていた袋からハサミを取り出した。
それは、先程まで公輔の味方を琥珀の寝返りを表しており。
かつて歴史の授業で習った東西の大合戦並の裏切りに公輔の開いた口は閉じることはなかった。
「な、んで。白石さん‥‥‥」
「どっちや?」
「アンタだよっ!」
琥珀のポーカーフェイスからのすっとぼけに今日1番の怒声を上げるものの、状況は変わることなく。
綸子が辛そうな顔をしながら首を横に振ると、琥珀からハサミを受け取り一言。
「公輔君、これは逃れられないものなの。いわば通過儀礼‥‥‥そう!昔の人が元服するのと同じこと!」
「綸子、それは多分違う‥‥‥」
「黙れ」
笑顔で発せられた綸子の一言に、おぅ‥‥‥と琥珀が仰け反り、1歩後ずさる。
それとは真逆に、公輔に向かって1歩ずつにじみ寄る綸子。気迫、執念にも似たそのオーラは計らずも公輔のクソザコメンタルを地の果てまで陥れた。
「さあ‥‥‥ここから先は戦争よ。生きるか、死ぬか‥‥‥選択しなさい!」
言うが否やゆっくりと伸ばされた綸子の右手。その手は公輔にとっては恐怖そのもの。
その恐怖に進んで触れたがる程ドMでは無い公輔は、その手を躱すために1歩後ずさった。
「はっはっは、綸子‥‥‥お前も嫌われたもんやな」
「むう‥‥‥別に取って食いやしないのに」
ぶーぶーと口を尖らせる綸子。
それを見た琥珀は綸子を窘める為に肩に手を置くと、ニヤリと笑みを見せる。
「綸子、仮に髪を切るにしたって順番があるげん」
「順番?」
「切るより先に髪濡らさんと」
「あぁ、水攻めね」
その言葉を聴いた瞬間、もう公輔は我慢出来なかった。
立膝をつき、立ち上がり、畳部屋だということも気にせず襖に向かって走り出す。
呆気に取られる2人。
追いかけて来ない様を見て、脱出に成功したのかと悟った瞬間。
「朝から何しとるんー‥‥‥ふぁ」
例によって、こういう時に限って邪魔は発生してしまうもので。
公輔が襖を開ける前に、紬が襖を開き2人が対面する。
寝起きなのか、眠そうに目を細め右手で目を少しだけ擦った彼女。
着崩れをおこし、左肩がズレているのには気がつくことなく、寝ぼけ眼のまま公輔を見やった。
「‥‥‥藤宮、ですか?」
そして、一言。
何時もの1歩距離を取ったような冷たい声色ではなく、まだ温かみのあるゆったりとした語調に公輔は逃げることも忘れて、紬の目を見つめる。
綺麗な髪に、長い睫毛と普段より二割増で柔らかい目付きになった紬に、返す言葉は見当たらず。公輔は目線を右往左往させ、『あー‥‥‥』となんの意味もない言葉を発してしまった。
そんな公輔の様子を見たからか、紬はクスリと笑みを見せる。
「おはようございます‥‥‥良い天気ですね」
「う、うん。良い天気だ」
「そう思いますか。本当に穏やかで‥‥‥ふぁ」
言葉の途中で、小さく欠伸をする紬。
何時もの紬には見られない気の抜けた表情に、可愛いと直感的に感じた公輔は不意に紬の表情が固まったことに気が付く。
何が起きたのだろうと、眉を顰めて紬の一挙一動を見遣るべく目を細める。すると、それと真逆を行くように紬は公輔の目を見つめていた眼を見開き、顔を青ざめさせた。
「‥‥‥藤宮?」
そして、己の姿を思い浮かべたからか。急いで紬は自分の寝癖を直すべく左手で跳ねた髪の毛を抑え、その後に気が付いた肩の着崩れを治すために右手で肩の着崩れを直そうと衣服の肩部分を引っ張りあげる。
しかし、寝癖はそれだけで抑えることも出来ず。左手を離した瞬間に抑えた寝癖はもう一度ぴょんと跳ね上がってしまった。
その結果、公輔の目の前に出来上がったのはアホ毛のような寝癖を付けながら、浴衣の肩付近を抑えて涙目で睨みつける1人の女の子であった。
「‥‥‥」
睨みつける紬。
無言の圧力に苛まされた公輔。
この空気が耐えられなくなってしまった少年は、何時も話しかける時のようにやさしく笑みを見せる。
しかし、その笑みは逆効果だったのか。紬は顔を俯かせ、肩を上下させる。
そんな様子に思わず心配してしまった公輔が声をかけようと手を伸ばすと、紬がぽつりと一言。
「‥‥‥や」
「え」
その一言を尋ねるまでもない。
気がつけば公輔の懐には紬がいて、その姿は既に右手を振りかぶっている状態。
紬を目にした途端警戒心が100から0になった公輔にその動きを防ぐことは出来ず。
「いやぁぁぁぁ!!!」
本当の敵は白石家の一人娘にあったのだろう。
手痛い1発が公輔の頬を襲うと、その威力に公輔の身体が横に吹っ飛ぶ。
傍から見れば案件物のそれでしかないが、この場合公輔が叩かれるのは至極当然のことだろう。
当たり前だ。
状況を全く知らない女の子がドアを開けると、そこには以前助けて、それ以降やけに慕われることの多くなってしまった男の子が居たのだから。
無警戒の状態でこんな場面に出くわしてしまえば、防衛反応で手が出てもおかしくはないだろう。それは公輔もなんとなく分かってはいた。
しかし、それを理解するのと実際にダメージを食らうのとではまた違う。
予想外の手痛い1発に、公輔は思わず横に吹っ飛びうつ伏せに突っ伏してしまったのだった。
「馬鹿なのですか!?馬鹿なのですか貴方は!?」
「ご、ごめんなさい‥‥‥」
罵声を浴びせる紬。
その声を聴き、己の浅はかな行為を悔やむ公輔。
その後悔は、一瞬。それより先にやらねばならないことがあったことに気が付いたのだ。
それは、先程まで行おうとしていた敵前逃亡という敗退行為にも近いそれ。
しかし、それに気が付くのはあまりにも遅く。
気がつけば公輔の周りには3人の白石が、藤宮を囲んでいた。
「観念しまっし‥‥‥藤宮君」
「両親に許可は頂いてるわ‥‥‥させて頂きましょう、藤宮公輔改造計画!」
「え‥‥‥お父さん、お母さん、本当に何しとるん?」
琥珀、綸子、紬の包囲網に打ち勝つ術をよそ者公輔は何一つ知らない。
故に逃げることは出来ない。
力でも、頭脳でも、数でも劣る公輔に、これ以上の抵抗は難しく。
「な、なんで許可を‥‥‥誰か助けて!!」
大袈裟に助けを求めた割には、優しく、手厚く、プラスアルファ無料で、公輔の髪はバッサリと切られてしまう。
その後、学校のトイレで鏡を見た公輔は己の髪が面白い程に変貌している様を見て、静かに項垂れた。
見ず知らずの両親に許可を貰い、即実行に移してしまえる白石家の出足の速さに、文句を言う気力すらも失ってしまったのだ。
しかし、その出来事が公輔にとっての転機となり得たのか。
それ以来公輔は吹っ切れたかのようにクラスの友達と話すようになった。髪の毛の話題から始まり、クラスメイト達と楽しく話せるようになったのだ。
勿論、自らが望んだことではなかったのだが結果的にはそれが功を奏したのか。公輔は、これを機に明るい性格を取り戻すことに成功した。
石川の土地に順応し、かつて少女が放った『己が心を閉ざさなければ、きっとその気持ちに皆は応えてくれる』という一声を、実感することが出来たのだった。
『また貴方ですか、藤宮』
『ああ、また来ちゃった‥‥‥という訳で白石。少しだけお話しない?』
『‥‥‥なんなん』
尤も、幾ら友達が増えようが彼が昼休みに取る行動というものは何一つ変わらなかった訳なのだが。
※
「往々にして、不器用な子です」
時は現在──綸子と公輔の初邂逅から5年後。
あの時と同じ場所で、綸子はそう言うと先程まで公輔が着ていた黒の着物を綺麗に折り畳む。
紬の実母、呉服屋の一人娘としての立ち居振る舞いを教えこまれ、着物に慣れ親しむことの多かった綸子はこの手のことは非常に得意であり、そのしゃんと伸びた背筋から織り成す華麗な手さばきに、公輔は紬と同じようなものをダブらせた。
「思いを素直に吐き出すことが出来ません。自己評価が低く、本当の自分をさらけだす事に抵抗があります‥‥‥故に、公輔君に思ってもないようなことを照れ隠しに言ったりといった早とちりも幾許か」
着物を畳み終えた綸子が公輔を見つめる。全てを見通してしまうかのような達観的に細められた目付きが公輔を襲う。その視線はまるでこれから返される公輔の答えを既に予見しているかのよう。
柔らかく微笑んだ綸子は、一言。
「それでも、公輔君は紬が好きなのですか?」
公輔の意思を試すように細められた綸子の目は、傍から見れば恐怖そのもの。その眼差しとリンクして更に対象を恐怖に貶めるであろう重みを感じる語調からの一言は、以前の少年なら確実に恐れ戦き、その小さな身体をガタガタと踊らせていただろう。
しかし、白石紬という少女が幼年期から少しずつ前へと突き進み己を変えていくように、藤宮公輔という少年も幼年期から少しずつ前へと進んでいる。
綸子の細められた眼に写る『青年』は、その質問に微笑み、綸子を曇りのない真っ直ぐな眼差しで見つめた。
「はい」
想っている。
紬の綺麗に棚引く髪も。
誰かの為を想う清廉潔白な心も。
それでも、自分のことになると途端に心が弱くなるいじらしさも。
公輔の目の奥では、紬のどんなところでも長所にすら見えている。
だから、綸子のその言葉に躊躇うことは何一つなかった。
躊躇うことなき一言に、紬に対しての想いを全て凝縮させて綸子に放ったのだ。
「俺は、絶対紬が好きです。この恋を、叶えたいとも思うし‥‥‥何より、きっとダメだった時は暫くは立ち直れないかも、ですね」
ここで少し、公輔は乾いた笑い声を上げて項垂れる。笑い声こそ器用に出してはいるものの、その顔はにこやかとは程遠い引き攣った笑みを浮かべている。
しかし、その顔を今一度引き締まった顔つきに戻すと、公輔は続けた。
「でも、言わなきゃ始まらない。書かなきゃ始まらない。自分が素直にならなきゃ、想いを実らせることも出来ないっしょ?」
紬との生活を送り、公輔は知っていた。
想いは伝えなければ意味が無いということ。
伝えなければ、勘違いされても文句は言えないこと。
そして、紬と向き合うためには己が正直にならないといけないということを。
日記の1件で、その想いはより強まった。現在は割と後悔している、というのが公輔が昨日書き綴った日記の大まかな流れである。
公輔の一大決心にも似た一言を聴いた綸子は、公輔に向けていた鋭い目付きを緩和させ、くすりと笑みを見せる。
その姿に、最早恐怖はなく。既に普段の公輔が知り得ている綸子らしい悪戯っぽい笑みは張り詰めていた空間を一気に弛緩させた。
「‥‥‥あーもう。妬けちゃう程真面目だなぁ、公輔君ったら」
「寧ろ真面目じゃなきゃ紬は取り合ってくれませんから」
引き攣った笑みを見せ、そう言う公輔。
それを見た綸子は、ニヤリと口元を歪ませた。
「つむつむーって言っているのに?」
「そういった生活にそういう刺激が必要って言ったのはあなた達じゃないですか」
「言われたから言っちゃうの?それってつまり好かれたいから言いなりになったと‥‥‥やだもう公輔くんったら大胆〜♪」
「もうやだこの人」
この世の中に天性のドMホイホイが存在するとするのならばこの人なのだろうと悟り、公輔は大きく項垂れた。
分かっていても、理解していても最終的にはこの女に1本取られてしまうのだ。
己の快楽のためなら家族すらも手玉に取ることも少なくはないこの女に、公輔は半ば尊敬の念を感じ、それと同じくらい諦観の念を感じている。
それは、最早この人には敵わないという降伏の意思。
小学生時代から抱いている、諦めの感情だった。
「嘘よ、嘘‥‥‥公輔君ならきっと紬とお付き合い。出来ると思うわ。それに、私としても吝かではないし」
「ぐっ‥‥‥ま、まだ分からないし。吝かとか言われても知りませんから。それにあれから1度も明確な返答が来てないんですよ?というか忘れられてるんですよ、俺の日記帳を。意識すらもされてないんですよ、これは」
現にあれからというもの紬は公輔に対して明確な返答をしていない。あたかも忘れてしまったかのような普段通りの素振りで公輔と共に学校生活を送り、帰宅し、たまに一緒に甘味を食べに行き、バイトで店番をしている紬に会う。
変わり映えのないこの光景を変えるだけの効果はあの日記帳にはなかったらしく、何処か安堵のような気持ちを抱きつつ、関係が進展しないことに関してやきもきする気持ちを抱くという面倒な心情で公輔は日々を過ごしていた。
そんな気持ちから発せられたのはあまりにも弱気な発言。しかし、そんな言葉を公輔の目の前で正座をする綸子はそんな言葉を即断即決で断ち切る。
「いえいえ、そんなことはないでしょう。ちょっとしたサインに公輔君が気付けないだけよ‥‥‥ほら、公輔君って自分に対して相当な無頓着だし」
「よ、よく言いますよね!以前綸子さんにそういうの吹き込まれて、それを確認したら紬にめちゃくちゃ怒られたんですからね!?なぁにが『つむつむって呼ばれることに憧れと快楽を見出している』ですか!まるっきり嘘だったじゃないですか!嘘つき!綸子さんの嘘つき!」
公輔がそう言って、綸子に食ってかかるものの彼女はそれらを気にすることなくため息を吐く。
その様子に、公輔が眉を潜めると彼女はおどけるように肩を竦めた。
「そこが無頓着って言ってるのよ。大体、紬は興味のないことや物、人に対して怒りもしないし、それこそ蔑んで己から自然と離れていくでしょう。それをしないということは、つまり?」
己の人差し指を頬にくっつけながらそう言う綸子の表情に曇りはなく。寧ろ悪戯っぽく微笑んでいるであろうその表情に公輔は気付くことは無かった。
しかし、それにはれっきとした理由が存在し、質問の内容をまともに考えていた公輔は己の抱いた答えを発するために口を開いた。
「‥‥‥まだまだ、脈アリだと?」
その答えは、公輔にとっては希望的観測にも近い回答。その答えに根拠はなく、紬がどう思っているのかも定かではない。
しかし、綸子にとってはその答えは満点にも近い回答らしく、その悪戯っぽい笑みを見せたまま頬にくっつけていた人差し指を離し、ちっちっちー‥‥‥と指を横に振って見せた。
「公輔君、貴方の贔屓のチームの応援歌にもあったじゃない‥‥‥『生み出せ チャンスを♪』って。自分から離れるようなことがあってはダメ。押して、押して、押しまくって紬のことを知るの。そして、隠れたサインに気がつくの!」
「り、綸子さん‥‥‥」
天啓を得たかのように目を見開く公輔に、最早迷いは無かった。
公輔にとって、今の綸子の一言程頼もしい言葉はなく、その言葉に公輔の瞳は輝き、明朗快活なその姿を取り戻す。
「公輔君、貴方はやれば出来るわ!」
最後に一声。
公輔の扱いを心得ている、マスター綸子は両手を広げて公輔を見据える。
そして、その声に呼応しないほど今の公輔は薄情で淡白な性格ではない。
「うす!一生付いていきます!!」
お互い利き腕の拳を突き出し『うぇーい』と言いながらコツンと小気味の良い音を立てると、2人して笑い声を上げる。
普段、弄ばれることの多い公輔ではあるものの、世話になっており、また愉快犯以外には特筆すべき悪癖も見つからない紬の母のことを人間として尊敬している公輔。
人としても尊敬するところの多い彼女との会話を心の底から楽しんでいる、というのは2人の様子を見れば明白であった。
「‥‥‥何をしておられるのですか?」
尚も、紬の可愛さを語る『つむつむ談義』を良い時間になるまで駄弁っていると不意に襖が開く。
そこには、先程まで話題に挙がっていた女の子がその背筋を伸ばした高貴な様で屹立しており、その様に2人は思わず彼女に視線を送った。
長い髪に、睫毛。常日頃から手入れを怠っていないのか健康的で艶のある肌はまさに可愛いの部類に入る。そんな様を見て、今1度公輔と綸子は顔を見合わせる。
「ほら見なさいよ公輔君。紬の魅力はあの長く艶のあるロングヘアーよ。あれをポニテなんかにしてみなさい、ポニテ萌えの公輔君なんか悩殺よ、のーさつ」
「勝手に性癖付け加えんのやめてよね。後、紬の魅力は清廉潔白な心にありますから‥‥‥ま、まあ。髪の毛とか睫毛とかも可愛いですけど。可愛いが過ぎますけどっ」
「‥‥‥先程から何の目的があってそのようなことを話してるのかは知りませんけど。人の外見や内面を唐突に褒めるのはやめてくださいまし」
開幕早々外見を2人に褒められた紬は、その白い肌を朱に染めつつも辛辣な言葉を送り、公輔に至っては鋭い眼差しで睨み付けた。
睨み付けられた公輔はたまったものではい。激おこの紬は可愛いものがあるが、何も積極的に怒らせたり、そういったことで気を引きたい小学生ではない。
何時だって公輔は紬には笑っていて欲しいし、穏やかでいて欲しいのだ。
「で、どうしたの紬。もしかして公輔君と何を話してるのか気になっちゃった?」
話題転換をしようと、両手を胸の前で叩きそう言った綸子。その声を聴いた紬は先程までの辛辣な目付きを1度和らげ、今度は己の母を見て一言。
「‥‥‥気になるのはこんな朝から公輔がこの部屋に居ることです。公輔、何故ここに?」
朝は往々にして気が抜けてしまう場ではあるのだが、今回の紬にはそのきらいは全くなく、寧ろ以前より2割増で気を張っていた。
紺を基調とした女子用制服に身を包み、既に手提げ鞄も用意している紬。明るめの色をした髪とその制服の色は真反対にも近く、清廉潔白な佇まいも相まって紬の周りには気品にも似たオーラに満ちていた。
そんな紬の発した一言に、正座をしていた公輔はその理由を話すべく紬の顔を見て正直に打ち明ける。
「綸子さんに和服を着ろと頼まれて。なんか写真パシャパシャ撮られてたんだけど‥‥‥」
「趣味でーす♪」
「おい、今なんて言った」
「2人の成長記録をパシャっと撮るのが生きがいなの」
「何でアンタが俺の成長記録を取るんだよ‥‥‥」
非情な綸子の宣告に公輔は項垂れる。いきなり始めて髪を切られた時のように『来まっし』と言われ、為す術もなく付いていった公輔。特に要件を言われることも無く差し出された着物を指示されるままに着ていたらこんなことになってしまったのだ。
自業自得と言えばそこまでである。しかし、それだけでは公輔は納得できなかった。割り切れない思いと同時に項垂れた頭はまさに負とも形容できるオーラが漂い、紬とはまるで正反対。
そんな正反対とも取れる光景を見たからか、綸子はクスリと笑みを見せて、紬の方を見る。
「そんなに固くならなくたっていいのに。公輔君は最早家族みたいなもの、ポンコツを取り繕ったって今更よ、今更」
「誰がポンコツですか、誰が‥‥‥友人とはいえ、客人が家に居る状態で寛ぐ人間が何処にいましょうか」
「そこにいるじゃない。目の前の、可愛い女の子が」
「お父さんには、礼儀を忘れるべからずと言われていますので」
「ああ、パパの話ね‥‥‥へっ」
「何故鼻で笑うのですか」
琥珀とは違い、何方かと言えば綸子は奔放な性格が先行する綸子。
普段こそ和服の似合う日本美人と形容するに相応しい格好と作法、そして身のこなしを魅せるもののそれは彼女の本性ではない。
綺麗な薔薇には刺があるというのがまさに彼女のイメージであろう。
彼女に近い人物は往々にして、綸子の本性であるところの奔放さ、笑顔の侭に発せられる辛辣な言葉、そして愉快犯っぷりを隠されることは無い。
そんな綸子に紬は反抗の意を込めて、綸子と同じ方言抜きの言葉で果敢に噛み付くものの、依然として綸子に言葉で勝てたことはなし。
彼女にとっては最愛の娘の怒りでさえ、3時のおやつなのだ。
「さて、取り敢えずこのカッコイイが過ぎる写真は鳥取のお友達に送るとして」
「サラッととんでもないこと言うの本当にやめてくれませんかね。見知らぬ人に俺の写真を送らないでくさいっての」
「だってキミと紬の話を少女漫画風に話したら興味深げに目を輝かせてたその子の娘がいたんだもの。鳥取は私の地元だしお土産とお話位はしないと」
「俺の個人情報は土産扱いかよ‥‥‥」
項垂れて、ため息を吐く公輔ではあったがその表情は陰鬱ではなく、寧ろこの状況を楽しんでいるかのように苦笑いを浮かべていた。
紬と会話して、琥珀と好きなことで話をして、綸子に弄られる、その生活は公輔の日常の一部になっている。
そんな、数年前では起こり得ることすら想像出来なかった光景は、公輔の心を弾ませている。
畢竟、公輔はこの生活を楽しむことができている。それ即ち、初めに言われた紬の一言は間違いではなかったということ。
己が真摯に向き合えば、人は応えてくれる。
そんなことを言ってくれた女の子がいるという事実に、喜びの感情を抱くのと同時に、あの時公園で泣きじゃくってなかったら‥‥‥なんてなんとも情けないことを考えているのが、藤宮公輔という青年のマイナスポイントではあるのだが。
「さあ、要件は済んだしそろそろ学校へ行かなきゃね」
障子の隙間から光が差し込む。その光景と、制服姿の紬がやって来たという事実に、綸子はそろそろ公輔達が学校に行く時間だということを悟る。
発せられた言葉に公輔は目を見開き、時計を見るべくきょろきょろと辺りを見渡すも、その動きは紬により止まり、代わりに紬が公輔に腕時計を見せることで、現在時刻を示した。
「8時です。まあ、今から行けば間に合う距離ですので心配はしなくてもよろしいかと」
「そっかぁ‥‥‥ふう。綸子さんと話してるとペースに飲み込まれて時間を忘れちゃうからさ」
よし、と伸びをして正座の体勢から凝り固まった身体を解した公輔。
何時もの明朗快活を絵に描いたようなニコリとした笑みを紬に向けると、外に出るべく歩を進めた。
「さて、そろそろ行こっか紬」
「‥‥‥公輔」
しかし、その動きすらも紬に止められる。
一体なんだと再度紬の方を振り向いた公輔。
その男の心拍数が一瞬跳ね上がったのは、眉目秀麗な少女の顔が目と鼻の先にいたからであろう。
「ボタンが外れています。じっとしててくださいまし」
悪戦苦闘することはなく、目すらも瞑りながら容易に公輔のボタンを留めていく紬。
そして、ボタンを全て留め終わると先程の余裕を絵に描いたような無表情が一転、眉を吊り上げた紬が公輔に一言。
「貴方はもう少し着こなしに気を配ってください。何時も何処かしら不備があるのは如何なものかと」
そう言って、今度は己の服装に気を遣い腕付近の埃を払う素振りを見せる。
それを見た公輔は、流石に怒っているという状況を悟ったのか、『ごめん』と謝りつつ言い訳を並べた。
「昔っから紬が直してくれるから癖が付いちゃったんだよ‥‥‥いつもありがとな」
さりげなく、感謝も忘れずに挟む公輔。
その気遣いに一瞬、紬は気を緩め『構いません』と笑顔で言おうと口を開くものの、その口を咄嗟に噤んで、思いっきり両手で頬を叩いた。
そして、悶絶。
「‥‥‥痛ぃ」
「何をしてるんだい、折角の綺麗な肌を」
対象の気持ちを悟ることをせずに、さり気なく呟いた公輔の一言。
それは紬に対しては愚策だったのか。公輔の心配とは裏腹に目を見開いた紬は、心配そうな顔つきで自身を見つめる公輔に、言葉で噛み付いた。
「黙ってください!‥‥‥この前も、それより前も、何度も何度もボタンが外れているのを私は見ています。もしかして、貴方は慣れない学ランのボタンに悪戦苦闘している私を見て愉しんでいる愉快犯なのですか?」
尤も、悪戦苦闘していたのは公輔が中学1年生の1学期の期間のみだったのだが。
中学から学ランを着ていた公輔は、その堅苦しさから学校に辿り着くまで制服を着崩す癖があった。
そんな公輔を咎めたのが中学生になり、公輔と辛うじて友人と言える間柄となった紬であった。
当時は、堅苦しい服は嫌う癖に人に対しては堅苦しさ前回の公輔。そんな当時の公輔にとって紬の服装点検は日常の1部と化していた。
しかし、悪戦苦闘していた期間など紬には関係なし。彼女が今、1番腹に据えかねている理由は学ランのボタンを何度も何度も付けさせられている公輔の不手際にあるのだから。
息を1つ吐く。それと同時に肩の力を抜いた公輔は紬を見て、軽く頭を下げた。
「ごめん‥‥‥白石」
この言葉に誰かがツッコミを入れたとしたら、間違いなく『気でも狂ったか?』と心配されるだろう。そんな一言を公輔は発する。
普段から、紬、つむ、つむつむと幅広い名称を呼ぶことで紬の顰蹙を買ってきた公輔。その渾名の安直さにどれだけ紬から怒られてきたのかは、公輔にしか知り得ないことであろう。
そんな公輔が、紬を『白石』と呼んだ。
これは、今の公輔からは想像することも出来ない、まだ石川という土地に慣れていなかった臆病な公輔が紬に対して使っていた名称。その堅苦しさバリバリの呼び名は、公輔が完全にこの土地に慣れ、紬の父を白石さんから琥珀さんと呼び名を変えるまで続いた。
今となってはRどころか、SSRの希少価値となった公輔の白石呼び。
そんな公輔のSSRプレイにいつもの気安さではない、小・中学時代の堅苦しさを感じた紬。
彼女とて鬼ではない、先程の一言で今の公輔の持ち味とも取れる明るさが損なわれてしまったのかと考えた紬は、胸の前で手を振る。
「あ‥‥‥いえ、私は別に構いませんが。私ばかりボタンをつけるのは些か不公平ではないのかと‥‥‥」
「いや、だからと言って今の状況に甘えるのは良くなかった。もう少し紬の負担を考えるべきだったし」
「ふ‥‥‥別に、うちは負担だなんて思ってません。ですがこのままだと‥‥‥」
あなたがボタンを付けられない人になってしまう。
そんな心配から、一言を発しようとした瞬間、公輔はニヤリと笑みを見せて、一言。
「けど、俺は『紬』にボタンを直してもらって幸せだ。俺の学ランのボタン留めてくれる紬半端ないって。ボタンつけてる時の紬ったら上目遣いめっちゃするんだもん」
無論、これは公輔の本音であり嘘偽りはないのだが。
それにしてはあまりにも落として上げる公輔の余計な一言は先程の行為を謝ろうとした紬の心を面白いように弄び、擽り、怒りのボルテージを最高潮に達させたのだった。
「あ‥‥‥貴方なんて大っ嫌いですッ!!そうやって何時もうちを弄んで‥‥‥!!」
「んんっ‥‥‥!?」
涙目でそう訴えられた公輔はその可愛さに悶絶しかける。己の発言に問題があったのは今の紬やクスクスどころか吹き出しそうになっている綸子を見れば一目瞭然の出来事であった。
しかし、そんな問題発言をしてしまった己が悪いということを分かっていたとしても、公輔はその言葉を言って良かったと心底思う。
己が己の意思に真摯になることで、こんなに可愛い紬を見れる。その事実に味を締めた故である。
「ひっ‥‥‥お腹、おなか‥‥‥壊れる‥‥‥!」
「そんなに笑わないでくださいよ。そこまで笑いますか普通」
そして、傍観者兼愉快犯はしゃがみこみ、腹を痙攣させながら笑い声を上げていた。
呼吸困難に陥ったのか『ひー、ひー』と笑い声を上げる綸子に、遠慮等の気遣いはゼロ。
その笑い声で如何に自分が羞恥的な行為を犯してしまったのか気が付いた紬は俯き、耳元を赤くしながらふるふると震え、公輔は綸子の笑い声に苦笑しながらため息を吐く。
ため息を吐くと幸せが逃げる、というのは良く言われる話ではあるが、今の公輔には隣で幸せを作ってくれる女の子が存在している。
幸せを吐き出しても、直ぐに俯いて震えている紬を見て幸せな気持ちになれるので、全く気にすることなくため息を吐けるのだ。
しかし、人前でため息を吐くことはそれなりに失礼な行為に値することは周知の事実である。
羞恥の念に駆られつつも、公輔の無礼を逃さなかった紬は、その綺麗な御御足で公輔の足を、華麗に踏み付けた。
先程までの苦笑いが嘘のように青ざめる公輔。
その光景を見た綸子は、今度は落ち着いた様子で言葉を続ける。
「ふすっ‥‥‥ごめんごめん。それにしても紬ったら、そんな心にもないこと言っちゃって。公輔君、紬は何時も公輔君のボタンを直してるからこれが日常の一部になってるのよ」
「え、嘘‥‥‥そうなの?」
「それはもう。何せ紬はボタンに快楽を見出し始めているんだから」
「それは嘘ですよね?流石に騙されないよ?」
「それはどうかな‥‥‥?」
「嘘だって、確信してるから」
「‥‥‥つーん、つまんないの」
策士、綸子の一言は公輔によって見破られる。性格や態度をいじられ、ネタにされ続ければ流石の公輔にも隙はなくなる。
嘘と本音を分別し、綸子の精神攻撃を見事に防ぐことに成功したのだ。
そう、『公輔は』防げたのだが。
「全く‥‥‥綸子さんはこれだから油断出来ないんだよ。なあ紬、そんなの真っ赤な嘘でしょ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「紬?」
先程までの怒りが嘘のように、1点のみを見つめる紬。その視線は公輔の学ランに向けられており、その様子をおかしいと感じた公輔は紬の目の前で手を振り、名前もといあだ名を連呼する。
「紬‥‥‥おーい、白石!つむ!つむつむー!?」
しかし、そんな呼び掛けにも紬は反応せず。何時もなら『つむつむ』と呼んだ時点で噛みつかれるであろうに、その一言にも反応出来ず。
彼女は、真面目な性格である。
故に、何かを言われてしまえばそれに関して考え込む。分からなければ、より深みに入ってしまう不器用さも彼女の魅力ではあるのだが。
「そんな訳ありません‥‥‥うちがボタンに、快楽を見出すなんて、そのようなこと」
「考え込むの!?そこ、即断即決で言えないの!?」
残念ながら、彼女の人となりを1番知っているのは家族である。
それ故に綸子はこう言ってしまえば紬があたふたするであろうということを分かってた。
そんな娘に対しての理解から発せられた一言に、白石家最愛の一人娘は、疑心暗鬼状態に陥ってしまったのだった。
「つ、紬‥‥‥大丈夫だって。ボタンに快楽を見出したところで変態なんて思わないから!寧ろ来い!ドンと来ーい!」
「き、決めつけんといて!!うちはそんな‥‥‥!!」
紬がひたすら考え込み、公輔が慌てふためく様を見た綸子は、その関係を微笑ましい様子で見つめながらも、かつて己の地元で彼等のような気軽さで話していた友を思い浮かべる。
同じ境遇で、苦労もしながら共に支え合った竹馬の友に想いを馳せたのだ。
(‥‥‥元気かな)
彼女もまた、見知らぬ土地に順応することに時間のかかった人物であった。
己の地元から石川までは凡そ6時間。簡単に帰れるような距離ではない場所で暮らし、それ相応のストレスを抱えていた。
それでも彼女がこうして笑顔を絶やさず愉快犯をやれているのには、たったひとつの理由がある。
──そして、それは彼女や琥珀が公輔に与えたものと同じもの。
「と、いうわけで公輔君、これからも安心してボタンをずらしてくれて構わないから」
「‥‥‥次から2つずらしてみようかな」
綸子の発した一言に、今度は興味本位で何となくそう言ってみる公輔。
そんな一言に、紬は張り付いた笑顔を向けてたった一言。
「ずらしてもらって結構です。私は2度とお締め致しませんので」
「許して」
そんな怒り心頭の紬の機嫌を直すのに、時間がかかってしまったのは言うまでもなく。
結果として、文句を言いつつも同じ光景が見れるようになるまでに1週間はかかったと言われている。
出会いは人を変える。
人は人を変えてくれる。
琥珀と綸子が与え、紬と公輔が受け取ったものはこの先も受け継がれていく。
唯一無二の繋がりの大切さ、それが綸子が受け取ったものであり、彼女が公輔に与えたものなのだ。
2020/04/06 過去と現在の微細な表現を追加。
藤宮公輔
よわよわクソザコオリシュー君。
定期的に髪は理髪店で切るようになり、兎に角幼少期にトラウマになった琥珀&綸子に髪を切られることだけは阻止しようと画策している男の子。
ボタンは本当に偶然。
着替えてたら忘れてしまっていたらしい。次からは意図的にやろうと決めた最低オリシュー君である。本当にこんな主人公で良いのかお前は。
白石紬
過去に手痛い一発を喰らわせた張本人。居間に来たのは早朝に公輔の足音と、綸子の声が聴こえたところからいつもの様に駄弁っているのだろうというウ〇ーカーくんの推理。名探偵ナンナン。
アイドルになるまで残り僅か。続くかどうかは知らん。長い目で見てね。
白石琥珀
白石家の小早川秀秋。
今日はハサミを持ってきただけ。
奥さんに弱い。
白石綸子
地元が鳥取の人妻さん。
とある呉服屋の1人娘であり、艶のある銀髪が特徴の日本美人。娘と公輔を溺愛している1人であり、いかにして2人を仲良くさせようか───という計画を常日頃から練っている。
外面は儚げな印象だが、内面は狂気の愉快犯。切れ味抜群の頭脳を悪戯やお戯れに使う何とも残念な女の人。
ネーミングは絹織物の綸子から。
地元が鳥取(2回目)。