アニメ化? やれやれ。僕は射精した。

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「呪術廻戦」 著:村上春樹

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 結果として祖父は正しかったのだと思う。

 ある晴れた春の日だった。窓際のベッドから望める景色には病院の内庭が広がっており、車椅子を通じて初めて時間を共有したような親子やリハビリに励む若い男性やベンチに座って談笑する老夫婦なんかが点在していた。ほど近い大きな木には名前のわからない小鳥がとまっているのが見えた。病院は両義性を備えた空間であるにせよ、その瞬間に限れば幸福が世界を包んでいるようだった。小鳥が鳴けば別の小鳥が応えた。風が吹けばやさしく木の葉が揺れた。きっと多くの病室に活けてある花も同じだろう。甘い香りさえ届けたかもしれない。それにもかかわらず彼の咳払いはやけに重く響いた。部屋が静かだったからかもしれない。

「観念はな」とテレビを眺めながら彼はぽつりとつぶやいた。

「観念はな、教えてもわからねえもんはな、事実をひとつずつ目の前に置いて見せてやるしかねえぞ」

 僕には観念が何を指すのかがわからなかったし、それをわからせる必要がある事態に向かい合うことになるとはとても思えなかった。そうだね、と言ってあげられたらよかったのだろうけど、僕にはそれはできなかった。

 わずかに外していた視線を戻すと祖父の視線はほとんど睨むようなものになっていた。まるでそこから目を離したら良からぬものが出てきてしまう、といった具合に鋭かった。僕は何か話しかけるべきだったし、そうすれば彼もいつものように戻ることがわかっていたのだからなおさらだった。けれども僕はこの部屋を訪ねたときに世間話は済ませてしまっていたのだ。これ以上僕たちに何を話せばいいというのだ?

 

 病室を訪ねると祖父はいつも僕の両親について話をしたがった。けれども僕は一度でさえそのことについて聞こうとはしなかった。あるいはそれは彼を傷つけたかもしれない。それでも物心つく頃には僕の前を去っていた彼らに対して、他人以上の価値を見出すことはできなかった。僕にとって肉親は祖父ひとりであったし、また祖父ひとりでじゅうぶんだった。そのことで僕の情操教育に悪影響が出ているなんてことを言う人がいたかもしれないけど、それはどうやったって証明しようのないことだった。僕は僕で納得のいくように生きてきたのだ。誰にもそのことは否定できなかったし、それにきちんと両親がそろっていて教育に失敗している例はいくらでも見受けられた。僕はそういういろんな人間を見て疲れるとパチンコを打ちによく街へ出た。

 

 いつもの道中にモンシロチョウが二匹飛んでいた。それは不意に僕の昔の記憶を呼び覚ました。虫に対して積極的でなくなったのはいつからだろう、と僕は声に出してみた。けれども誰も答えてはくれない。当然だ。そんな頃の僕を知っているのなんて祖父ひとりしかいない。そして彼はいま僕の目的地にいるのだ。憐れむようにカラスが一度だけ短く鳴いた。

 また祖父は僕の両親について話そうとして、僕はそれを制した。いつもの定型のやり取りであり、見方によってはあいさつに等しいものですらあった。そのあいさつの合間に僕は花瓶に活けてある花を見ようとベッドに背を向けた。やり取りの途中で祖父が黙り、きっと両親の話を聞かないことで機嫌を損ねたのだろうと僕は思った。それは決して珍しいことではなかったし、ほとんどお互い慣れてしまったことでもあった。たっぷり花を眺めて祖父のほうを振り返ると、彼はすでにこの世を去ってしまっていた。祖父の死、というよりは祖父と僕の死別は実に奇妙なかたちをしていた。二歩あれば触れられる距離にいたのに、僕は彼を看取ることさえできなかったのだ。そのことは僕に大きな衝撃を与え、そしてしばらく経つと純粋な悲しみがやってきた。

 不思議なことに純粋な悲しみは大きな感情ではなく、他の感情を目覚めさせることもなかった。それは海に降る静かな雨のようにただただ存在していた。僕はナースコールで担当の看護師を呼び、手続きを済ませ、そして純粋な悲しみの手を引いて帰ろうとした。

 

「虎杖悠仁だな」

 

 

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 病院の廊下の静けさは温かみのあるものではなく無機的だった。僕は僕に声をかけてきた彼にあまり良い感情を抱くことはできなかった。いま僕はたったひとりの肉親を失ったのだ。この世界でひとりぼっちになってしまったのだ。そこに入れ替わるようにして現れた彼にどうして朗らかに接することができるだろう。

 彼は自分の名前などどうでもいいと言い、携帯電話を持ち出して僕に画像を見せつけた。それはあまりにも一方的だった。本当なら僕は彼に文句を言って帰る権利だってあったはずなのだ。こんなのはひどすぎる、君は間違っているんだ、と。でも僕はそうするには疲れすぎていた。純粋な悲しみも連れている。僕に許されていたのはため息をつくことだけだった。

「あのな、虎杖。この画像のものがどこにあるかを吐けよ。無駄な問答は好きじゃない」

「……学校だよ、嘘じゃない」と僕は言った。

「賢いやつってのは本当のことを言うタイミングをわきまえてるのさ、お前は賢いよ」意識をちっとも僕に向けずに彼は答えた。

 彼はそのままそこから先は自分の仕事だと言わんばかりに一人で学校に向かおうとしていた。けれども僕はそんなことを認めるわけにはいかなかった。初めから終わりまで言いなりだなんて我慢がならなかった。これが純粋な悲しみを連れた僕のささやかな抵抗なのだ。

 

 夜ではあったけれどその暗闇の濃密さは僕の知っているどれとも違うものだった。薄い墨を何重にも何重にも塗り重ねて、その果てに立体感を手にしてしまったような闇だった。そこには光沢さえ感じられた。こちら側を浸食しようとする暴力的な意志を持っているようにも思えた。腕を伸ばせばその指先が見えなくなり、取り戻せなくなってしまいそうなほどの暗黒だった。毎日通っている学校が時間を変えただけでこれほどのものになってしまうとはとても思えなかった。彼が道中で教えてくれた呪物という存在に初めて実感を重ねることができた。

 僕はこの空間に入らなければならなかった。そうでなければ僕の抵抗は意味をなさなくなってしまうからだ。それにもかかわらず僕の足は震え、身体はこの闇を拒否していた。全身の毛穴をこじ開けて入り込もうとしてくるこの暗黒を、僕は恐れていた。まるで出来の悪いパントマイムみたいに不器用に体を動かそうとしては失敗を繰り返した。喉の奥が乾いてせき込んだ。黒くぬめりのある空間は棘を潜ませ、ただ僕を待っていた。

「ここにいろ」

 彼のはっきりした口調は、本当に僕がお門違いなのだということを言外に含ませていた。その通りだと僕も思った。ここに僕の居場所はない。けれども僕の動かない体は、恐怖とはまた別の理由を持ち始めていた。

 

 

 

 

 




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