鬼舞辻無惨VS貞子VS伽椰子 作:サダカヤザン
時は大正、年号が変わり文明開化もたけなわの頃。西洋の文化と日本古来の文化が混ざり合い、混沌とした時代。近代思想──自由民権の動きも活発化し、権力という壁が脆くなり、血や権威よりも金の多寡が物を言い始めたそんな時世。
『東京府浅草』。近代化の波を、恩恵を、影響を最も色濃く受けた街。それが意味するのは、人工の密集化──そして人の意志が集い、正の念も負の念も凝縮された『場』が形成されるという事実。人の悪意は死を呼び、人の死は穢れを呼び、穢れはこの世ならざる怪異を生む。
浅草の中心から少し外れた洋館──没落した新華族が遺した、打ち捨てられたままの廃館。法と国家により保護された華族は、基本的に“没落”という言葉が使用されることはなく、身分を剥奪された家は歴史を紐解いても例にない。しかし自ら身分を返上した例は少数ながら存在した。
そしてこの廃館の主であった『佐伯家』も、その少数に含まれる。いつの頃からか男児が生まれなくなったこの家系は、外から取り入れた血すら定着することはなかったのだ。婿として佐伯の名を冠した当主は、その尽くが奇怪な死を遂げ、いずれも子をなさぬまま消えていった。
そんな家に入ろうとする気概を持つものがいなくなった時、佐伯家という華族は時代に消えた。男性のみが襲位を許される都合上、返上する以外の道がなかったとも言えるだろう。華族世襲財産法が適用されなくなった佐伯家は、それまで手出しを許されなかった債権者達の正当な権利により、瞬く間に財産と言えるものが消えていった。
──と、そんな嘘か真かも不明な噂話を聞きつけやってきたのは、恋仲にある二人の男女であった。古くは平安の時代からあったとされる『肝試し』。どんな時代でも人の営みは大して変わらないという証左であろう。怖がる女を男が強引に連れてくるという構図も、やはり同様に。
「ねぇ……やっぱり帰ろうよう」
「はは、平気だって。古くせえ怪奇現象なんてもんはな、『かがく』ってえのがどんどん解明してんのさ。信心深えジジババは認めねえがよ、神も仏も鬼もお化けも、実際にはいやしねえよ」
「でも…」
ぎゅっと掴まれた腕に神経を集中させながら、鼻の下を伸ばす男。神秘や奇跡がどんどんと解明されていくこの時代、彼が言葉にしたように、神仏への信心や怪異への畏れもひどく薄くなっていた。少なくとも男にとっては、二人の仲を更に深めることの方が、居るかどうかも解らない化生の類よりよほど重大ごとであったのだ。
鍵のかかっていない扉を開け、真っ暗な館へと足を踏み入れる。持ち込んだ行灯の光がぼんやりと中を照らすと、存外に傷んでいない内装が二人の視界に入った。金目の物は全て持ち出されているものの、白を基調とした館内はこざっぱりとした印象を抱かせる。
「へぇ……意外と綺麗だな。もっとおどろおどろしいもんかと思ってたぜ」
「ねぇ、ねぇ……なんか変な感じだよ。帰ろうよう…!」
「大丈夫だって。なんかあったら俺が守ってやるよ」
「う、うん…」
根拠のない威勢を吐く男に、しかし他に頼るものもない女は強くしがみついた。近代化が進んでいるとはいえ、未だに男尊女卑の意識は強い。男は強く勇ましくあれと、女は儚く淑やかであれと強要された時代だ。女性側が『守られること』を受け入れるのもまた常識であり、当然の行動だ。
己とは違う筋肉質の腕に手を回すと、人の本能ゆえか、はたまた恋心のせいか、彼女の恐怖は少し落ち着いた。腰に回された手から感じる体温も、安心に一役買っているのだろう。正しく発揮された吊り橋効果は、適度な恐怖を興奮に錯覚させ、恋心の深まりに拍車をかける。
「ねぇお前さん……あたしさ。親が言い名付けたからってのもあるけど、ほんとに──」
「…」
「──お前さん? 聞いて…」
親同士が決めた婚約ながら、けして悪いものとは思っていない──そう言葉にしながら、頬を染める女。しかしなんの反応もないことを訝しみ、横に顔を向ける。だがその瞬間、行灯が男の手から転がり落ちた。木造長屋が減ったとはいえ、それでも火事の驚異はいまだ根強い。慌ててそれを拾った女性は、いったい何事かと行灯を掲げ──その瞬間、首から上のない死体を視界におさめた。噴水のように噴き出す生暖かい液体が、着物を鮮やかに染め上げる。理解不能な事態を、それでもなんとか認識するためか、叫び声を上げようとする女……しかしそれは終ぞ叶うことはなかった。
床に落ちた行灯が照らすのは、二つの首無し死体。そして灯りの届く範囲にぬらりと姿を現したのは、床を這いずる老人であった。しかし二本の角とその間にある大きなコブが、老人を人外であると強く主張していた。彼の名は『半天狗』──歴史の闇に潜む“鬼”であり、その中でもひときわ強く在る『十二鬼月』の一人であった。
「恐ろしい……ああ恐ろしい…」
彼の姿以上に恐ろしいものは中々ないだろうが、それでも半天狗はブツブツと呟き続けた。生来から、そして鬼になってなお臆病な気質を持つ彼からすれば、得体の知れない廃館など恐怖の対象でしかないだろう。畏怖される対象でありながら、彼は己を弱者であると断じ、救われるべきと疑わない奇妙な存在なのだ。
そんな彼がわざわざこの館へと姿を現したのは、もちろん自分の意思ではない。彼が鬼となった原因であり、彼にとって最も逆らうべきでない存在──『鬼舞辻無惨』に命令されてのことだ。
『鬼を配置した覚えのない場所に、鬼の噂がある』
その真偽を確かめるために派遣されたのが、半天狗であった。鬼の中でも最上位に近い『上弦の肆』を向かわせる程の事態──と言う訳ではなく、単に距離が近かったからという理由である。その一事を見るだけでも、鬼舞辻無惨という存在の気質が見て取れるだろう。
半天狗は自分が殺した人間に対し一瞥すらせず、行灯の光を消して館の奥へ向かった。鬼にとって暗闇など、なんの障害にもならないからだ。人であった頃から盲人を装っていた彼からすれば、とんだ皮肉である。
“鬼が出る”“化け物が出る”と噂される館──そんな場所をくまなく探索し、入り口へと戻った半天狗は震えていた。『何もなかった』と報告したところで、己の主人が満足するとは思えなかったからだ。火のない所に煙は立たぬと、何もない筈がないだろうと、癇癪を起こす姿が容易に想像できたからだ。
「恐ろしい……恐ろ──…?」
役に立たぬ者、逆鱗に触れた者は、たとえ上弦であろうとも塵芥のように消される。そんなことは百も承知であった半天狗は、どうにか噂の元を辿らねばならぬと体を震わしたが──その瞬間、ふとした違和感に気付いた。館を一周して戻ってきたはいいが、どこにもなにもなかった……そして
確かに殺した筈の男女の死体が、忽然と消えたのである。床には染み一つなく、踏み砕いた筈の行灯の痕跡さえ無い。まるで初めから存在していなかったように消失し、エントランスホールには静寂が広がっていた。半天狗は先程とは別の意味で体を震わせ、両腕で自らの体をかき抱いた。
──そんな彼の恐怖を感じ取ったかのように、エントランスホールに奇妙な音が響く。声と言うには無機質で、しかし自然の音とはとても思えない乾いたノイズ。声を出そうとして空気だけが漏れたような──そんな耳障りな音色だ。恐怖に震えながら音の出どころを探す半天狗は、横の階段……その上部から、重いものを引きずるような音がすることに気付いた。伏せるように身をすくめていた彼は、恐る恐る顔を上げ──
「ヒイィィィ!!」
──血に塗れた体で階段を這いずる、この世のものとは思えない化物を目にした。自らが異形であるからこそ、目の前の存在が怪異であると気付いたのだろうか。緩やかに半天狗へ近付いていた化物は、しかし視線が交錯したその瞬間、恐ろしい速度で彼へ接近し始めた。
「ヒイィアァァ!!」
とはいえ、身体能力で言えば半天狗は化物以上に化物である。まるで瞬間移動のように入口へと逃走し、扉に手をかける。しかし取っ手を掴んだその刹那、彼の手を覆うように別の手が重ねられた。跳ねた心臓を押さえつけ、首を捻る半天狗。腕の先を目でたどっていくと──
「ヒイィィィ!!」
先刻、殺めた筈の死体が彼の手を掴んでいた。恐怖で狂ったように両腕を振り回し、逃れようとする半天狗。もちろん人外の膂力であるからして、二つの死体は即座に挽き肉状態である。血煙の竜巻がエントランスに立ち昇ったせいか、いつの間にか姿を消した化物。這々の体で壊れた扉から抜け出た半天狗は、尻餅をつきながら館へと向き直り、ゴクリと喉を鳴らしながら暗闇の奥を見つめた──瞬間、耳元で猫の鳴き声が響き渡った。
「ギィヤアァァァ!!」
転がるように前方に飛んだ半天狗が後ろを振り向いた時、そこには血色の悪い男児がうっすらと消えていく姿があった。恐ろしさの限界を超えたのか、地に伏し涙を流す半天狗。しかしそんな彼にとどめを刺すかのように、館の暗闇から化物が襲いかかった。
「──ギョエェェェ!!」
■
前後左右、上下すら定まらない奇妙な空間。その中心には、何らかの薬品を化合する美青年。一見すると爽やかで物静かな雰囲気であったが──背後の老人を意図的に無視し続ける様子を見れば、彼の心中は容易に想像できるだろう。額を床に擦り付けながら謝罪を繰り返す老人の姿は哀れを誘ったが、配下の心を読める青年──『鬼舞辻無惨』からすれば、それは謝意と呼べる代物ではないと察することができた。
死への恐怖が根源にある謝罪など、謝罪ではない。無惨はそう考える──が、ならば真の謝罪とは何なのかと問われれば『知ったことではない』と切って捨てるだろう。彼はどこまでも独善的であり、己の主観こそが世界の中心なのだ。
「…」
「そ、その後でございますが……刺せども突けども効果はなく──雷も、う、動きを止めるだけに留まり…」
「もういい」
「ヒイィィィ! 申し訳ございません! 申し訳ございません! ですがあれ以上はどうしようもなく…」
「もういいと言ったが……聞こえなかったか?」
振り返った無惨の怒気にあてられ、悲鳴を喉で圧し殺す半天狗。いかに空惚けを得手としている彼であっても、心を読む相手には通用しないと理解しているのだ。どれほど理不尽な糾弾であっても、それを理不尽だと思ってしまったが最後、逆鱗に触れることになる。上司としては最悪の部類である。
「…嘆かわしい。上弦の鬼ともあろうものが、まるでか弱い乙女のように逃げ惑い、あまつさえ何の成果も持たず逃げ帰ってくるとはな」
「で、ですが…」
「ですが……なんだ?」
「ヒイィ…」
ですが、あれ以上どうすればいいのですか──などと宣えば、返ってくるのは『なぜ私が考えねばならぬのだ』という言葉だろう。百年以上も主従関係を続けていれば、口答えが死に直結していることなど嫌でも知っている。半天狗にできることといえば、ひたすらに許しを請うことだけであった。
「殺しても死なぬと言うなら、死ぬまで殺せ。顎を抉り取られ、首をもがれたところで──お前は死ななかったのだろう?」
正体不明の怪異であっても、鬼の不死性を破ることは叶わなかった。ならば何を恐れる必要があるのか。そう吐き捨てた無惨は、琵琶を持った鬼に命じ、半天狗を転移させた。次の帰還で何の成果もなければ、どうしてくれようか……そんなことを考えながら。
とはいえこのような理不尽であっても、無惨からすれば寛大にすぎる処置であった。十二鬼月でなければ、上弦でなければ即座に消滅させていただろう。さしもの彼であっても、上弦クラスの鬼を新たに創るのは難しいのだ。鬼殺隊が健在である以上、得難い戦力を自ら潰すのは得策ではない──そのくらいの分別はあった。
「怪異か……くだらない話だ」
この世には神も仏もありはしない。天罰があるというならば、仏罰がくだるというならば、真っ先に滅すべきは『鬼舞辻無惨』という存在であると──己の所業を悔いることはなくとも、客観的に見てどれだけ罪深いかということくらいは彼も自覚しているのだ。
しかし現実として、いまだ彼にはなんの罰もくだっていない。ならばそれこそが神の不在証明そのものであり、ひいては魑魅魍魎の類を否定する材料でもあった。無惨は自身がおとぎ話のような存在でありながら、しかし超自然的なものを心底から否定していた。故に吐き出した言葉が『くだらない』だ。
いつも通りなんの結果も出なかった実験を、薬品や器具ごとぶちまけて調合を終える。人に当たるのも、物に当たるのも彼にとっては同じことであった。嘆息しながら琵琶鬼に帰還の意を伝え、人間の振りをしている仮の住処へと戻ろうとした無惨であったが……ちょうどその瞬間。
──無惨の耳に、無機質な音色が響いた。