鬼舞辻無惨VS貞子VS伽椰子 作:サダカヤザン
『万世極楽教』。十二鬼月が一人“上弦の弐”──『童麿』を教主とする、宗教団体である。近代化の波が激しい大正の世ではあるが、少し都を外れると、いまだ
実際問題、この『万世極楽教』が人に救いをもたらす宗教団体だというのは、疑いようのない事実である。喜捨と言う名の搾取も、お布施と言う名の収奪も、この団体は積極的に行っていない。寄進の多寡による信者の格付けなどもなく、善意の寄付以外による利益はほとんど得ていない。たまに女性の信者が行方不明になること以外は、非常に健全な団体であった。
特に教祖である童麿への信仰は厚く、信頼と信用は誰よりも高かった。それはひとえに、童麿自らが信者の悩みを聞き、人外の異能をもって解決にあたることが大きいだろう。人にはなし得ない奇跡を鬼の力でもって片付ける様は、畏れと敬いを呼び、虹色がかった瞳と白橡色の髪は神格化を助長する。
童麿にとって食人とは『救いの手段』の一つであり、居もしない神仏に救いを求める愚かな信者への回答に過ぎない。即物的に救いを求める人間に対しては、明確な手段があれば真っ当に救うのだ。故に、彼の元には相談事が多く寄せられる。今宵、童麿に救いを求めた女性がその手に持つのは──『呪いの手帳』であった。
「呪いの手帳?」
「はっ、はい…! 中身を見たものは呪われると、そう言われています」
「ふーん……それで、君は見ちゃったんだ」
「わ、私も最初は信じて、い、いなかったのですが…」
「…?」
「呪いの対象になった者には、電話がかかってくるんです。き、奇妙な音が鳴り響くだけの……わ、わ、私にも、かかってきたんです……それも手帳を見た瞬間に!」
「はは、それはなんとも──裕福な人間に限定される呪いだねぇ。電話先には交換手だっているんじゃないのかい? その人は同じ音を聞いたのかな?」
「──死にました」
「…へぇ」
大正の電話はまず交換手に繋がれ、その交換手が物理的に相手先への回線にジャックを繋ぐという原始的なものであった。その都合上、会話は筒抜けであり、秘匿性の高い情報は電話を介さないことが常識である。そしてこの女性の電話に対応した交換手は、ほぼ同時刻に不審死を遂げていた。
「て、手帳を見てから七日で死ぬという噂で……藁にもすがる思いでこちらへ…!」
「ふーん……この事、他には?」
「…いいえ。商家の一人娘が呪いなどと世迷い言を叫べば、商売に差し支えます。ここへ来ることは、家族にも内密にしています……あの、それがどうかしましたか?」
「ううん。好都合だと思ってさ」
「…?」
「可哀想だねぇ。でも大丈夫! すぐに俺が救ってあげるから」
世迷い言──そう、まさに世迷い言だ。偶然が重なっただけの事態に、心底怯える愚かな女性。そんな人間を見て、童麿がどうするかなどわかりきっていた。それも、誰にも内緒でこの場所へ来たというのだから、
童麿は女性へと近付き、両肩を優しく抱いた。彼の整った容姿も相まって、頬を染める女性であったが──そのまま首の付け根に添えられた手には、彼女を容易く殺せるであろう力が込められていた。
「──じゃあね」
「…え?」
ゴキリ、と酷く耳障りな音が響いた。直角に九十度曲がった女性の首は、疑いようもなく絶命を現している──そしてそれと同時、部屋の中の空気が異様なものへと変化した。それは人が死んだという事実に起因するものではなく、明らかに何かの意思を感じさせるものだ。
「…?」
若く健康的な女性の肉──摂取すれば更に強さを得られるだろうと、ふわり微笑む童麿であったが、異様な雰囲気に気付き目を細める。己以外には誰もいない筈の部屋に何らかの気配を感じ、開いていた鉄扇を閉じて口元に当てた。そうして感覚器官を研ぎ澄まし──数瞬後、その必要もなかったことを理解する。
「やあ、どちら様かな? ここは俺の私室なんだけど…」
──いつの間にか死体の直ぐ側に、ボサボサの黒い長髪を伸ばした女性が出現していたからだ。あからさまに常識外の存在であるその化物に、しかし童麿はただ眉を下げ、困惑の表情を作るのみであった。感情がほとんど存在しない彼にとって“表情”とは、『こんな時はこんな表情をするべきだ』という、自分なりのTPOに基づく記号に過ぎない。
見知らぬ女性が気付かない間に私室へ潜り込んでいた──そんな時はこんな顔でいいだろうという、一切の恐怖も怯えもない、一種無機的な思考からくるものだ。そして常に絶やすことのない笑顔で、棒立ちの女性に近付いた……が、その瞬間、童麿の体がぐらりと傾く。
「…っ!?」
歪む視界と迫りくる床に、心底から困惑する童麿。そして久しく感じていなかった『苦しさ』に、少しばかり表情をしかめた。
上弦ほどに永く生きた鬼は、痛みに対して鈍感である。なりたての鬼は、頸以外が致命傷にならずとも斬られれば苦痛を感じる。対して上弦の鬼と言えば、そもそも瞬く間に傷が塞がることも相まって、頸以外の損傷には無頓着なのだ。だというのに、今の童麿は確かな息苦しさを感じている。
(…これは……うまく血が巡っていない…? いや──)
──しかし、その混乱も僅か一秒ほど。体が床に倒れきる前に、童麿は片膝を立てて態勢を立て直す。そして自身の不調の原因を即座に見抜き、
「ごほっ、ごぼっ──ふぅん……あ゛あ、動脈に瘤ができてるね。血液の流れを止められると、鬼といえど行動できなくなるのか」
呪いと言うにはなんとも物理的だと、くつくつ笑いを零す童麿。胸の傷は既に塞がっており、悍ましい怪異に負けず劣らず、彼自身も化物であることを示していた。
「でも俺はまだ手帳を読んでないから、呪われるのは理不尽じゃないかなぁ……あ、もしかしてこの娘を殺したから怒ってるのかな?」
『横から獲物を掻っ攫われたら、確かに怒るよね』と、怨念渦巻く部屋の雰囲気を気にもせず、申し訳なさそうに謝罪する童麿。勿論、そんな形ばかりの謝罪が通用する筈もなく、女性の怪異は黒髪の隙間から憎悪のこもった瞳を覗かせていた。
「ぐぶっ──ううん、一々心臓を換えるのも面倒くさいなぁ……悪いけど、消えてくれる?」
またもや呪いによって血を吐いた童麿──しかしその腕が、常人の目には映らぬ速度で振るわれる。そして怪異に数十の『線』が走ったかと思えば、次の瞬間には百以上の破片となって崩れ落ちた。
──しかしその全てが黒ずみ、一体となって集まっていく。うぞうぞと蠢く黒い物体は、ひとしきり揺らめき続けた後、消えていった。だが暗闇からの怨念が籠もった視線は、呪いが更に強まったことを如実に現している。
「…お化けって本当にいるんだねぇ」
床に落ちたままの手帳を拾い、中身に目を通す童麿。パラパラとページを捲り、あらかた内容を把握すると──ニコリと笑いながら、外出の準備を整え始めた。
■
とある洋館の離れ──そこには蘭学、とりわけ医術を記した蔵書が並ぶ本棚が、部屋の半分を占めている。しかしその床には、黒い染みが所かまわずへばりついていた。中心には洋風のスーツを身に纏う青年『鬼舞辻無惨』が、洒落た椅子に座り足を組んでいる。
およそ温度というものが感じられない冷たい視線は、床の染みに向けられていた。そしてその視線に呼応するかのように、染みが蠢き始める。液体のように凝縮した染みは、
歯軋りしながらそれを目にしていた無惨は、刃の様に形を変えた腕を振りかぶる。しかしその刹那、耳元に響く猫の鳴き声。無惨の頸に添えられた子供の手が、両耳の下をガシリと掴み──小さな体はそのままの状態で跳ね跳んだ。攻撃を避けるための動作だったのだろうが、しかしその腕には無惨の頸から上がそのまま存在している。
頭を失った無惨の体がぐらりと傾く──などということは一切なく、千切られた瞬間から再生し始めていた頭部は、子供の腕の中で消えゆく己の顔を忌々しげに見つめていた。
この数日、何度も繰り返されている風景だ。半天狗が図らずも持ち込んでしまった怪異は、欠片ほどの風化も見せず、ただひたすらに無惨を襲い続けていた。『変化を嫌う』と標榜する彼であっても、消えない呪いに閉口するのは当然の話だろう。
──そんな彼の元に、配下の一人が訪れる。苛立ち混じりに入室を許可した無惨に
「久方振りに御座います! 無惨様もご壮健のようで!」
「お前はこれが壮健に見えるのか?」
「はい!」
「目玉が腐っているようだな」
「確認致します故、少しばかりお待ちを!」
片目をほじくり出し、残った片目でしげしげと眺める童麿。特に異常は見られず、ぐちゅりとそれを戻す。それを見た無惨は、気味悪そうに表情を歪めた。無惨にとって童麿という男は、上弦の中でもっとも好感度が低い存在である。それでも定期的に柱を屠る有能さから、存在を許しているという側面があった。
情動の激しい無惨からすれば、感情がほとんど存在しない童麿はどうにも理解し難いのだ。猗窩座のように忠誠心が高いという訳でもなく、黒死牟のようにお互いの利をもって共存している訳でもなく、半天狗のように恐怖で従う訳でもなく、玉壺のように心酔している訳でもない。『理解できない存在』とは、誰にとっても気味が悪いものだ──たとえそれが鬼舞辻無惨という人外であっても。
「本日はこちらを拝見して頂きたく!」
「…」
うやうやしく差し出された手帳を、嫌そうに受け取る無惨。ペラペラとページを捲るたび、狂気を帯びた文字の羅列に顔を顰める。ニカリとその様子を眺める童麿に視線を戻し、手帳を放り投げた。
「…これがなんだと言うのだ」
「はい! こちらは見た者が呪われるという手帳に御座いま──」
最後まで言葉にすることなく、童麿の頸から上が消し飛ぶ。苛立ち混じりの無惨の表情は憤怒の形相へと変化し、メキメキと再生する童麿を睨みつけた。
「私に呪われろと、そう言いたいのか」
「まさか、そのようなことは! しかし青い彼岸花も見つからぬ現状──この世の理から外れた、
「青い彼岸花が見つからない……産屋敷一族を根絶やしに出来ない……それはお前が不甲斐ないからではないのか」
「ああ! それについてはどうお詫び申し上げればいいものやら──しかし俺は探知探索が不得意ゆえ、如何したものか…」
無惨が童麿を快く思わないのは、正にこういったところによるものだ。悪意なく、言葉通り『何か役に立つのではないか』と呪いの手帳を持ってくるような──常人とはかけ離れた感性。それでいて知能が低いという訳ではないのだから、性質の悪さは折り紙付きである。
「ところでこちらの黒い何かも、もしや怪異でございますか!」
「…何が可笑しい」
「うーん、やはり無惨様はいつも俺の一歩先を歩んでおられる」
「…お前と話していると、頭が痛くなる」
「またそのようなことを仰いなさる」
『御冗談を!』と笑う童麿に、無惨は冷やかな視線を向けて嘆息した。心底から嫌悪できるならば、無惨も上弦の弐を空席にすることへの躊躇いはないだろう。しかし童麿はいつでもギリギリのラインを踏み留まる。耳元にだけはけして近付いてこない蚊──そんな存在である。
「そう言えば、こちらの『役』はそろそろ潮時だと仰っていましたが…」
「
「確かに二つの呪いを一身に受けた身では……ああ、なんとお
『誰のせいだ』と言葉にはしない無惨。もちろんその代わりに童麿の上半身は消し飛んだが、鬼がその程度で死ぬ筈もない。申し訳なさそうに眉をハの字にした童麿が、時間を巻き戻すように再生するのを見て取った後、無惨は二つの怪異に対する調査を命じた。
元は半天狗にそれを命じていたが、あまりに捗らないために見限ったのである。そもそも人前に姿を現すだけで騒ぎになるような、そんな風貌の配下に調査を命じることが間違いである──もちろん指摘できる者は皆無であったが。
童麿であれば見た目も問題なく、そして信者というネットワークを活かせる立場もある。『呪い』などという、人の営みと密接に関わるような事柄に対しては適任に違いないだろう。
「堕姫を連れていけ。見目の良い女ならば口が軽くなる者は多い……あれは男のあしらいも上手い」
「──堕姫……なるほど、紹介した彼らは無惨様のお役に立っているようで!」
「ああ、お前よりもな」
「これは手厳しい」
──離れを後にした童麿の血鬼術が解除され、またもや怪異が動き出す。人外と化して以降の無惨は、元より速度や腕力が尋常ではなかったために、血鬼術のような異能に頼る機会がなかった。しかし半天狗や童麿の血鬼術が多少なり有効だったことを考えると、それは間違いだったのかもしれない──と、珍しく後悔するのであった。