陽はまた昇り、そして墜ちる。
どこであろうとそれは変わらない。誰かが止めてくれるように望んだところで、太古から続けられてきた大いなる自然の営みは一顧だにしない。栄枯盛衰、どれだけ栄えた人にも滅びは訪れる。水平線に沈んでいく夕陽が、己を見つめる少年に無慈悲な現実を突きつけるようだった。
ワーレンの船着き場を一望する屋敷の二階。その窓から覗く景色に心を奪われたまま、マルスは微動だにしなかった。故郷を奪われ、肉親を置き去りにして、自分ひとりがおめおめと生き残ったことを恥じているのだと、お付きの家臣達は気遣って止めることができない。
亡国の王子。
それがいまのマルスである。
「お茶をお持ちしました、マルス様」
控え目なノックを響かせた少年が白一色の陶器とともに入室してきたことで、マルスはようやく我に返ったように振り向いた。死ぬか生きるかの船旅を経験したために、整った顔立ちはやつれ果てている。その目だけがギラギラと生気に溢れていた。
目の光を和らげる。疲労を見せないように毅然としつつも、相手を労わることを忘れない。王族たるもの、常に周囲の視線を意識せよ。亡き父の教育だったが、生来の優しさだけは隠しきれない。
「ありがとう、キンバリー。今日は何を淹れてくれるんだい?」
「異国から伝わった品になります。ジャスミンという品種で、心を落ち着かせる効能があるのだとか。マルス様もきっとお気に召しますよ」
手慣れた様子でセッティングに励むキンバリーは、マルス一行を保護するワーレン大商家の跡取り息子である。アリティア王国の貿易を仲介する縁で交流を深め、帰る家を失ったマルスの心が休まるようにと、キンバリーは常に気配りを欠かさない。立場こそ違えど、ふたりは親友であった。
ジャスミンティーは確かに美味しかった。ささくれた心を潤し、たかぶる感情がゆっくりと落ち着きを取り戻す。改めて窓の景色を見つめると、陽は半ばまでその身を隠しつつあった。
「腑に落ちない顔ですね」
「そう思うかい?」
「悩み苦しむ、という時期は過ぎたのでしょう?」
図星だった。ジェイガンはともかく、カイン達が心配するように軟弱な精神はしていない。後悔も泣き言も、ありったけの分を船の上でわめき散らしたのだ。心はすでに次の段階へ飛んでいる。
「なぜグラが裏切ったのか、ずっと考えているんだ」
故郷滅亡の引き金をひいた国。同じ英雄の血が流れる縁者でありながら、アリティア王国から分かたれていったグラ王国について、マルスは常に考え続けてきた。
まず、ふたつの国の成り立ちを確認しなくてはならない。
アリティア王国はアカネイア暦500年、英雄アンリによって建てられた国である。アンリは地竜王メディウスが引き起こしたドルーア戦争において、族滅に遭ったアカネイア聖王国の王女アルテミスをかくまいながら開拓民を率いて戦い、ついにはメディウスを単身で封印するという武功を挙げた。その功績が認められ、開拓都市アリティアに領土を持つことを許された。
アリティアはアカネイア王都パレスからメニディ河を挟んだ目と鼻の先である。すぐ南にはドルーアの険しい山脈がそびえ立ち、西には新国家グルニア、北には魔道学院カダインがある。アカネイア最強の矛であると同時に、それらの国々が襲いかかった時には最後の盾となるように配置されたことになる。自分達が最も重要な役割を宗主国から任されたことをアリティア王家は誇りに思い、マルスの父コーネリアス王にいたるまで、その役割に殉ずる覚悟を育んできた。
雲行きが変わったのはアカネイア暦537年、初代国王アンリの死の直後だった。アルテミス王女と恋仲であったアンリは妻帯せず、生涯独身を貫いた。そのため弟のマルセレスが継承したのだが、それに異を唱えた親族が宗主国アカネイアに直訴するという事件が発生。事態を重くみたアカネイアは、アリティア王国を東西に分断し、パレスに近い東側を割譲するようにと決定を下した。こうして建国されたのがグラである。
以来、65年。紆余曲折こそあったものの、ふたつの国は戦争もなく、近年には対ドルーアの軍議を開くなどして関係改善に向かっていた。同じ英雄の血をひく国同士、肩を並べてアカネイア大陸を救うのだとコーネリアスが息巻いていたのを思い出す。
その熱意は、たった一戦で冷まされたうえ、領土と命まで失うことになったのだが。
アカネイア暦602年。復活を遂げたメディウス率いるドルーア帝国はグルニア・マケドニアとともに王都パレスを急襲。たちまち劣勢に立たされた宗主国を救うためにアリティアはグラとともに軍を整え、グラの領土を行軍してメニディ河で激突した。
アリティア・グラ対ドルーア・グルニア・マケドニア。五ヶ国が入り混じっての激戦の中、最悪のタイミングでグラが離反し、最前線で戦っていたアリティア軍は挟撃に遭って全滅。コーネリアス付きの近衛兵カインだけが奇跡的に生還を果たせたという、地獄のような光景がメニディ河に残され、あまりの凄惨さにグルニア軍の総大将カミュが眉をひそめたともいわれる。
話はこれで終わらない。全軍を率いて討ち死にしたコーネリアスと違い、グラ国王ジオルは余力を残していた。彼はメニディ河での戦闘と同時にアリティア本土を急襲させ、女王リーザ、王女エリスを捕虜にとってアリティア全土を制圧。かくしてアリティア王国は滅亡し、王族としてただひとり脱出したマルスはわずかな騎士団員とともにワーレンへと身を隠している。
「正直にいって、僕は父ほどグラのことを信じられなかった。国の成り立ちもそうだし、祖父マリウスの代まで領土間のイザコザが絶えなかったと聞いたからね。万一ということがあるんじゃないかと気がかりだったんだ。父は笑い飛ばしていたけれど」
父王コーネリアスは豪放磊落、どこまでも武人として誇り高い人だった。マルスの心配を軍人としての成長であると褒めながら、ともに戦う者を疑ってはならないと叱った。そういうものか、と納得してしまった自分が情けない。
「……裏切るかも、とは思っていた。けど、それでも。同じ先祖を持つ国でありながら、まさか先祖の宿敵に与するとは思わなかった。そこまでしなくてはならない理由とは、何なのだろう? なぜジオル王は裏切ったのか、裏切らなくてはならなかったのか? それがわからない」
施政者は時として、人間の感情からほど遠い決断を下さなくてはならない。それが国のために必要であると考えたなら、個々人の意思を切り離して断行する。少なくとも、アリティア王家ではそういうものだとして教育されてきた。マルスの精神にもしっかりと根付いている。
グラでは違うのかもしれない。ジオル王の気質は荒く、領民に対しても重税を課し、アカネイア王都パレスでは日夜豪遊して乱痴気騒ぎの醜聞が絶えないという。口の悪い臣下は、ジオル王がコーネリアス王に嫉妬して口汚く罵っている、などと噂していた。
個人の悪感情が施政よりも優先される。それがまかりとおってしまうのがグラという国であり、ジオル王の人格だったのか。そんなことがあり得るのか。それで片づけてしまっていい話なのか、マルスには納得ができないのだ。
「価値観の違い、ですね」
話を聞き終えたキンバリーが、新しいカップを取り出して続ける。
「マルス様をはじめとするアリティア王家の方々が義を重んじるように、商人にもひとつの指針があります。私達はそれを『理』と呼んでいますが」
「理?」
「およそ人というものは、己の利益によって動くのです。損か、もしくは得か。その人にとって何が利益となり、なにが不利益となるのか。突き詰めれば、人の行動の根幹とはその二択に帰結するのですよ」
で、あるならば。
「グラ王国のジオル王。彼がアリティアを裏切ったことで、なにを得たか。分けられた国土の統一という領民への喧伝と、アリティアの有していた経済基盤の獲得。何よりも大きいのは、アカネイア王国への朝貢を続ける必要が無くなったこと。貧弱な国土で知られるグラにとって、これがなによりも大きいでしょうね」
「そのためなら、ドルーアに与しても構わないというのか? 国祖の宿敵であっても?」
「ジオル王にとってはそうなのでしょう。かつて人々を苦しめた敵国であろうと、いまの自分達を悩ませる不利益が無くなるのであれば、意地も誇りも天秤の重しにはならない。彼の中では、義よりも優先すべき基準があった。忠義も道理もかなぐり捨てて、とびつかなくてはならない価値のあるもの。それに従って動いた結果がアリティアへの裏切りであり、アカネイアへの反逆だったのです」
理。
言葉にすれば、たった一文字。その中に含まれる情報の多さに、マルスは眩暈にも似たショックを受けた。いままで拠り所にしていた基準が粉々に砕かれたような衝撃を覚える。だが、不思議と納得する自分がいた。
なるほど、これでは義と忠を第一に動くアリティア王家と噛み合うわけがない。価値観が違い過ぎて、同じスタートラインに立ってすらいなかったのだ。コーネリアスが裏切りに遭ったのも理解できる。
「理。ことわり、か……そういう考え方もあるのか、面白いな。ここ最近、みんな同じようなことしか話さないから、ことさら新鮮に感じるよ」
「いままでにありませんでしたか?」
「無かったよ。カインもドーガも、ジオル王への恨み言と父の死を嘆くだけだ。アベルとゴードンはこれから先を不安がるばかりで話になってくれない」
コーネリアスの最期まで従っていたカインは悔やんでも悔やみきれまい。自分の力不足を恥として、日夜武芸に励んでいる。アーマーナイトとして最前線に立つことをプライドにするドーガも盾役で付き合い、稽古の後は愚痴のこぼし合いに花が咲く。
マルスの護衛であるアベルと、新兵のゴードンは身分が軽いのもあって、そこまで重苦しい雰囲気ではない。かといって明るくもない。先行きが不透明なのは主であるマルスの責任なので申し訳ないとは思うが、もうすこし頼りになってくれないか、と不満に感じるのは否定できなかった。
「ジェイガン殿はどうです? あの方なら別の答えをお持ちだと思いますが」
「ジェイガンはモロドフといつも相談しているからね。僕が何か聞いても、心を安らかになさいませ、で適当に流される。どういうつもりなんだろう」
「それは、まぁ」
教育のつもりなのだろう。かつては精強で知られるアリティア騎士団の将軍として武名を響かせ、老いては次代の王となるマルスの教育役となった老人は、カインやアベルとも違う立ち位置にある。おそらくはマルスが抱えた悩み、アリティア王家の教育からはあまりにもかけ離れた現実とのすれ違いに気づき、少年が自ら乗り越えるように見守っているのだ。
(温かくはある。が、ずいぶんと厳しい)
国を追われた少年にはとてつもないスパルタ教育だと思われる。だが、そうしなくてはならないほどに時間がなく、余裕もないのだ。マルスの逃亡生活が何年続くかはわからない。逃げながら育てるという難事にジェイガンは取り組んでいる。
頭を酷使して疲れたのだろう、ジャスミンの温かい茶を美味しそうに味わうマルスをひと目みてから、キンバリーはまぶたを閉じた。
(……目の前の御方は、さらに厳しい環境に置かれるのだろうな)
予定では一週間後、マルス達はキンバリーの商家が保有する商船に隠れてタリス王国へと亡命する。同じ島国として友好関係を結んでいたタリス王国は、アリティア王家のただひとりの後継者となったマルスの保護を確約してくれたのだ。そこでの生活においても、マルスはまったく違う価値観に触れることになるだろう。それこそ、足元が崩れ落ちるような感覚を何度も味わうに違いない。
せめて、今だけは安らかに過ごしてもらいたい。身分違いの親友として、キンバリーは心からそう願った。