タリスでの生活は、マルスにとって何もかもが新鮮だった。
アカネイア大陸から離れた拠点がいいだろうとの判断から、南東端の砦ひとつを自由に使って構わないという厚遇を受けたばかりか、マルスが望めば島内のいたるところを案内され、モスティン王直々にタリス式の内政や軍略の教育まで施してくれる。亡国の王子には過分な待遇に、申し訳なさすら覚えてしまうほどである。
マルスにとって何よりありがたいのは、後学として内政官の実務を付きっきりで見学させてもらえる許可が下りたことだった。王族としての教育の中には座学こそあったものの、実地での仕組みまでは体感できない。税の徴収されるシステムを理解してはいても、現実にはどのような苦労がともなうのか、思いもよらないトラブルで滞ってしまう有様を把握していなかったのだ。相談を受けたモスティンがこころよく応じてくれたとき、マルスは自ら帳簿を抱えて内政官の指示を仰ぐほど喜んでしまい、
「恐れ多さに死んでしまいまする。どうか勘弁してくだされ」
担当者に頭を深々と下げられてしまった。口うるさいジェイガンまで頭を抱えていたので、自分はよほど舞い上がっていたのだな、とマルスは反省している。
「マルス様、本当に楽しんでやってますね。俺なんかはもう、なんだってこんな面倒くさい仕事をみんなしてやれるんだろうと、不思議でしょうがないんですが」
その日も北東の港の視察がてら、商船の数と交易の相場をまとめていたマルスに、護衛役で付けられたアベルが呆れた様子で声をかけた。
実のところ、マルスが下々に混ざるのをカインやドーガは嫌な顔で見つめている。いくら故郷を追われたとはいえ、仮にも王族の嫡子が木っ端役人の仕事に精を出さないでくれという彼らの説得を、マルスは全力で聞かないふりを貫いていた。その分武芸の稽古が激しい内容に変わっているのだが、生傷を増やしてでも学びたいと思えるものがあちこちに転がっている以上、いくらでも我慢できる。
「そうはいうけど、アベル。君もまんざらでは無さそうだよ。僕と同じくらい書いてるじゃないか」
「そりゃ王子自らが働いてるってのに、家臣の俺が怠けるわけにはいかないでしょう。俺がやればやるだけ王子の仕事が減るわけですからね」
口では軽薄そうにいいながらも、几帳面な字で整然と書き連ねた数字が彼の熱意を表している。『猛牛』カインと同じく『黒豹』の異名をもつアベルだが、実は経理にも適性があるらしい。自らの武官の意外な一面を見た気がして、マルスは妙な心持ちになった。
亡命から一年。15歳となった日の晩、マルスはタリス王モスティンに招かれ、ワインと簡単な軽食をともにしていた。
「タリスでの生活はいかがかな、マルス殿」
「すべてが新鮮です。アリティアでは経験したことのない驚きが、ここには満ち溢れています。皆も良くしてくれますから」
「それは良かった。内政官も驚いていますぞ、あれだけ真面目に働く人間は初めてだ、と。王族でなければずっと雇いたいくらいだと、ずいぶんな入れ込みようですからな」
「市井に埋もれたひとりであれば、そんな生活もあり得たでしょうね」
マルスの置かれた状況がそれを許さない。
亡国とはいえ、マルスはドルーア帝国の魔の手から唯一逃れたアリティア王家の一員である。父を裏切ったグラ王国のジオル王を打倒し、滅ぼされた国を取り戻す責務からは終生離れられない。それが王族たるものの宿命であると教育され、自身に従う騎士団の遺臣達も主の活躍を望んでいるからだった。
現実は厳しい。ドルーア連合軍に包囲されたアカネイアの王都パレスはアリティアの援軍も断たれたことで孤立無援となり、貴族達の抵抗もむなしく制圧され、王家の一族は王女ニーナを残して族滅された。宗主国の消滅によって残されたオレルアン王国はただ一国で戦い続けているが、ドラゴンとペガサスで構成されたマケドニア飛竜部隊の猛攻を受けて落城寸前とまで噂されている。主を失って空白地帯化した領土はグルニアの有力貴族達に占領され、蟻の這い出る隙間もない。
この状況でどうすればいいのか、マルスには皆目見当がつかなかった。それでもやらなくてはならない。光明の見えない闇の中で、ひとつでもいいから、頼るべき案が無いか――――。何もすることがなくなってしまった瞬間に訪れる苦悩に、マルスはもがき苦しんでいる。仕事に熱中するのは、ストレスからの逃避なのかもしれない。
マルスの悩みを見透かしたかのような視線が、モスティンから寄せられていた。
「苦しんでおられますな」
「……そう見えますか?」
「比べるのは失礼かもしれませんが。まだ王どころか、寂れた漁村の長ですらなかった頃の私が、そんな顔をしていたそうです。何が答えなのか、どうしたらいいのかもわからずにあがく姿が、周囲からはたいそう奇妙に映ったらしい。悩まずこうしたらいいのに、どうしてやらずに立ち止まっているのだろう、と。およそ他人というものは残酷ですが、しかし客観的ではある。なんにせよ、勝手なものですな」
曖昧な言葉の裏に、なにかを揶揄するかのような意図を察したマルスは、モスティンを注視した。他人とは誰を指しているのか? モスティンではない。彼の娘シーダや、自分に付けてくれた内政官達でもないだろう。
なら、残っているのは自らの家臣達しかいない。
「アリティア騎士団。彼らはアリティアの臣下であって、あなた自身の臣下ではない。そこを履き違えては命取りになりますぞ、マルス殿」
ゾッとするような寒気がマルスを襲った。自分の足元が崩れ落ちるような不安が突き上げてくる。虚脱した腹を叱咤して踏ん張り、老王に向き合う。
「……どういうことです?」
「なぜ彼らがあなたに従っているのか、よくよく考えなくてはなりますまい。よろしいか」
机上の海図を指す。アリティアからグラ、そしてパレスをなぞる。
「一年前、コーネリアス王率いるアリティア騎士団は壊滅した。生き残りであるジェイガン殿らは、亡きコーネリアス王の遺児であるマルス殿を盛り立てんとする。国土さえあれば、それは叶いましょう。しかしながら、肝心の領地がグラに占領されたことでアリティア王国は滅亡し、アリティア王国の存在を承認するアカネイア王国までもが消え去った。これが何を意味するか」
各国の軍を示すナイトの駒。アリティアに置かれたひとつが、ことりと倒された。
「アリティア騎士団も消滅したということです」
倒された駒が復活することはない。盤上から消え去ったナイトは盤外に移され、次のゲームを待つだけの身になる。しかし、現実に次のゲームなど存在しない。一度滅びた存在が復活するとしても、それは名前だけであり、中身まですべて同一であるわけがない。
勇壮無比たるアリティア騎士団を率いた武人、コーネリアスは戦死したのだから。
「いまの彼らはどこにも所属していない、つまりは社会的な身分が保証されていないのです。彼らが再びアリティア騎士団を名乗るには、あなたがアリティアを復興させなければならない。逆にいえば」
「もし、あなたがアリティアの王族としての義務を放棄するのなら、彼らはあなたの下を去るでしょうな」
「アリティアの後継者。それがあなたの価値であり、あなたに付き従う理由である。そのことを忘れない限り、彼らはあなたの意を汲むでしょう。励むことです。彼らを失いたくないと思うのであれば」
無慈悲な助言。ありがたくも冷酷な忠言を、マルスは肝に銘じた。ワインの酔いは完全に醒めている。
「……寒いものですね」
「人の上に立つとは、いま感じている寒気を飲み干してしまうことなのです。人は善意だけの生き物ではない。それぞれの抱えた事情に手一杯で、上に立つ者のことなど考えもしません。そんな彼らをどう使い、どう動かすのかを、これから学んでいただきますかな」
タリスの島に置かれたキングを囲むようにして、すべての駒が配置される。
「腹心を持ちなされ」
兵。
その一駒を、モスティンは眼前に掲げてみせた。
「自分だけの部下を手に入れるのです。国も、家柄も、すべてを越えて自分に尽くしてくれる者を。さすれば、見えなかったものが見えるようになる。そのときを待つのです。よろしいかな、マルス殿」
会談後。ぐったりと疲労した精神を慰めようと、客室の窓からタリスの海を眺めていたマルスの部屋の扉がノックされた。どうぞ、の声を受けてやってきたのは、海よりも青々と透き通った髪の少女だった。
「こんばんは、マルス様。ずいぶんお疲れなのね」
タリス王女シーダ。マルスよりひとつ下、14歳になる少女は、老齢のモスティンに残されたひとり娘である。天真爛漫な気質で、島の住人にも気軽に接する姿は王族とは思えない。それでいて、マルスも驚かされるほど気高い善性を見せることもある。なんとも不思議な存在だった。
「お父様が厳しいことをおっしゃったんでしょう?」
「君のお父上は正しいよ。僕が甘えているだけに過ぎないんだ」
「私は違うと思います」
シーダは時々、誰よりも強い光を放つ。思わずドキリとするようなことをいって、あのジェイガンすらもたじろがせる。やり込められたにもかかわらず、少しも相手を不快な気持ちにさせない。類まれな才能の持ち主だった。
「人が人を慕うのに、お金や身分だけが理由にはなりません。その人の持つ優しさや、温かな心に惹かれる人だっているのです。誰もがうらやむほどの財産の持ち主が、誰にも看取られずにひとりで亡くなることもあるでしょう。何ひとつ持たずに生きる人が、多くの友人に支えられて余生を送ることだってあります」
この場にいない者が聞けば、現実を知らない小娘のたわごとだと笑うだろう。だが、少女は真剣だった。一途に人間の誠意を信じ、小さなその身を委ねることに抵抗がない。少女と直接向き合った者でなければ伝わらない、まごころの塊なのだ。
「マルス様は、マルス様にしかない優しさを持っています。それをお忘れにならないで。私は、そんなマルス様が好きなのです」
眩しいな、と思う。
国を追われて以来、マルスは様々なものを目にしてきた。そのほとんどは死だ。自分を守るために、身を盾にして死んでいった馴染みの兵もいた。我が物顔で城に乗り込んできた兵の首をはねたこともある。ワーレンでは行き倒れたまま、誰にも救われずにのたれ死んだ者を、数えきれないほどに見た。
タリスとてそれは変わらない。裏路地には頼る者を失った孤児や浮浪者の亡骸が転がっていた。この世は死に満ちているのだと、何度実感したかもわからない。血と腐臭に慣れつつある身には、目の前の少女がどこまでも温かく、尊いものに思える。
自分に付けられた武官のオグマは口数こそ少ないが、シーダに関してだけは目に見えて感情を露わにする男だった。聞けば、奴隷であった身に鞭打ちの刑罰を受けていたとき、まだ幼かったシーダが身を投げ出してかばったのだという。事情も知らない、名前すらわからない赤の他人のために動いたシーダの姿に、オグマはこの世の救いを見出したのだろう。以後、彼はシーダの護衛を務めながら、タリスにはびこる賊徒を鎮圧する任務に就いている。将官の少ないタリスが求めてやまない武官である。
打算もなく、ただ純粋な気高さ故に人を惹きつけてやまない。少女はどこまでも光り輝く存在だった。
「……君が男だったなら。モスティン殿がそういうのもわかる気がするよ、シーダ」
老齢のモスティンには男子の後継がおらず、どうしたものか悩んでいると本人からたびたび聞かされていた。もし少女が男なら、タリスの後継は迷うことなくシーダに決まっていただろう。多少危うい面があるにせよ、少女の持つカリスマはとてつもない武器になる。タリスは近隣に鳴り響くような発展を遂げるかもしれない。
そんなifを想像するのは、妙に面白かった。
「それじゃあ、好きの意味が違ってしまいます」
好意をはぐらかされたと怒る少女をなだめながら、マルスは久しぶりに安らかな気持ちで眠りにつけそうな自分に安堵した。長い亡命生活の中で、こんな夜があってもいいだろう。醒めたはずの酔いが少しだけ戻ってきたように、身体の奥がじわりと温かかった。
一年後。
タリスはドルーアの援助を受けたガルダ海賊に攻め込まれ、マルスは恩を返すために兵を挙げてこれを撃退する。雌伏のときが終わったと理解し、一行はガルダ海を越えてサムスーフ山を抜けるや、ゲリラ戦を展開するオレルアンの王弟ハーディンと合流。以後、マルスはアカネイア同盟軍の実質的な司令塔として戦功を重ねていくことになる。
彼がそばに置いたのは、モスティン王から預けられたシーダ王女と、ふたりの輝きに引き寄せられるようにして集まった無名の人材達だった。