(なんということだ)
騒ぎを聞きつけてやって来たジューコフ将軍の目に飛び込んできたのは、つい先ほどまで万全であったはずの要塞正門の内側が、いままさに混乱の真っただ中へと突き落とされる様であった。
およそ二週間前、マケドニア王国に割譲されたレフカンディ砦が陥落し、ワーレン近郊に置かれたグルニア軍の一部が壊滅。さらには地竜王メディウスと同じくマムクートの火竜、マヌー王の率いるペラティ王国が制圧されたという知らせが届き、ディール要塞は最大級の警戒態勢を整えていた。外にひしめくアカネイア同盟軍に備えるため、要塞内には余すところなくたいまつが設置され、壁上には多数のスナイパーが交代で詰めている。兵達にはいずれも十分な休憩と食事が与えられ、アカネイアなにするものぞ、と意気軒高だった。
ドルーア帝国同盟の締結から、およそ6年。数多の戦争を経験してきたグルニアの兵達が、手も足も出ずに横たわっている。
闇の中に剣刃が奔る。右へ、左へ、あるいは予想だにしない方向から悲鳴があがり、気をそらされた兵の手首がぽとりと落ちる。良いようにあしらわれながら、ひとりの死者もいないのが不気味だった。だがすぐに理解する。
眼前の敵は、あえて負傷者の山を築いているのだ。片手、あるいは片足を負傷してのたうち回る味方が射線を塞いでしまい、新手の兵が囲むのを妨害させている。手近なたいまつを剣で、遠くの灯を投石で壊すことで暗闇を作り出し、自らの姿を溶け込ませる。視界を塞がれて動揺する兵達が同士討ちを恐れて武器を振り回せない中、慣れ親しんだ家を歩くようにすいすいと身を移しては斬り捨てていく。恐ろしいほどの手練れだった。
「何をやっておるか! ただちに火をつけよ、たったひとりの敵を恐れてどうする!」
「おっと、頃合いか」
その影が風のように正門に近づくのを見た瞬間、ジューコフの心臓はひときわ強く脈動した。このままでは内側から開門されるといまさらながらに気づき、愛槍を構えて突撃する。多くの武人達を屠ってきた武技を披露してくれんと、おろかにも背を向けた賊徒めがけて一直線に突き出す。
ふわり、と影が宙を舞った。猫のように体重を消した敵が跳躍するや、ジューコフの槍を背面すれすれに避けながら柄を掴み、引き寄せる力にあわせてさらに跳ぶ。目にもとまらぬ斬撃が迸った瞬間、ジューコフの両手首が嘘のようにあっけなく落ちた。
激痛と怒りが全身を駆け巡る。激情に支配されたジューコフの心が言葉にならない叫びをあげるのも構わず、影が片手を振りかざす。
開ける者のいないはずの門が、みしみしと音を立てて開放された。
「やりましたぜ、ジュリアンのアニキ! どうです、おれの腕もさび付いちゃいないでしょ!?」
「お手柄だ、リカード。お前はマルス王子に報告してこい。俺はこのまま潜ってマリア王女を解放してくる」
「合点でさぁ!」
敵はひとりではなかった!
小柄な影が颯爽と外へ飛び出していくのと同時に、天を震わせるような歓声が轟く。外に集結していたアカネイア同盟軍が開門を知り、突撃を開始したのだ。いかに鉄壁をほこる要塞であろうと、門を崩されてはどうにもならない。ましてや司令官たるジューコフ自身が重傷を負っては、組織だった抵抗も難しい。
愛槍を握ることもできず、膝をついて放心する自分の横を、襲撃者が走り抜けていく。気力を振り絞って、その背に声を叩きつける。
「ま、待て! 貴様は、私を倒したのだぞ!? この首を落とし、武功にするがいい! 名も知れぬ雑兵共に討たせれば、なんの手柄にもならぬではないか!!」
将校の位を得て、アカネイア王都パレスの盾たるディール要塞を任されたジューコフの地位は高い。その首ともなれば、一生の安泰を保証されるほどの論考に値する。彼とて武人である。どうせ死ぬのなら、自らに傷を負わせた者の手にかかりたかった。
だが、男はその願いも無下にする。
「あいにく、誰を殺そうが俺の手柄にはならないんでね。あんたの武功は、外の連中に渡すさ。じゃあな」
「ぶ、武人の最期の願いすら辱めるというのか……許さん! 貴様は、貴様だけは死した後も呪ってくれる! 邪竜共がのさばる地の果てまで、せいぜいあがくがいいわ、盗賊風情めが!!」
先の亡くなった肘を突き出して呪詛する敗北者を置いて、ひとつの影が要塞をひた走る。その姿を追うようにして、アリティア・オレルアンの騎兵達が続々と突入していった。
戦後、ジューコフの首は要塞に一番槍で突入したカインのものとされた。見るにしのびなかったので、と本人が固辞したことで、戦功は同盟軍全体のものとなり、アリティア騎士団の武名は一層響き渡ることになる。
ディール要塞陥落の立役者たるジュリアンとリカードの名前は、戦争を通して一度も挙がることはない。それを是とした彼らの活動は、戦争の主役である騎士団を支える影働きに他ならなかった。
諸々の工作を終えたジュリアンが報告のためにマルスの陣を訪れると、山のように重なった紙束と格闘する主の姿があった。
「いつにも増して凄いですね、マルス王子」
「やあ、ジュリアンか。お疲れ様」
作業を止めて部下をねぎらう姿は、一国の王子とも思えない気安さである。そんな光景をアカネイア貴族に見られでもしたら、王族としてのあり方をネチネチと抗議されかねない。外で警護するドーガは気が気でないだろう。
ジュリアンがそう指摘すると、嫌そうな顔をしつつ片手を振った。放っておけ、の仕草だろうか。
「本音と建て前ぐらいは使い分けるさ。君と話すときぐらい、素の姿でいさせてくれよ」
「はぁ……マルス王子がいいなら、俺も気にしないことにします。で、こっちが頼まれていたブツです」
小脇に抱えていた荷物を机上に置く。まとめていた布をほどくと、丸められていた紙の幾つかが広がり、詳細に描き込まれた地図が姿をあらわした。
それぞれの端にサインされた日付と地名を見て、マルスの整った眉がピクリと上がる。
「……上出来だ。これ以上ないくらいの大手柄だよ、ジュリアン」
アカネイア王都パレス一帯の地形。いたるところに配置されたトラップと防衛兵器の位置と数。まるで葉脈のように張り巡らされた抜け道に裏道、ドルーアに敵対するレジスタンスのアジトと勢力図。
パレス奪還を目前に控えたいま、同盟軍が喉から手が出るほどに求めてやまない情報の山がそこにあった。
「昔のツテが運よく残っていましてね。マルス王子の力になれるのならと、みんな協力してくれましたよ」
ジュリアンの身分は低い。アカネイア同盟軍所属・旧アリティア王子マルスの私兵でしかなく、カインやアベルとは比較にならないほど軽い。寄せ集められた義勇軍の一兵卒。それがジュリアンの社会的な地位だった。
それは表の顔である。幼い頃から盗賊として活動してきたジュリアンの顔は広く、裏社会においては凄腕として知られている。惜しむらくは身を寄せたデビルマウンテンのサムシアンが野盗同然に落ちぶれてしまい、彼の活躍の場が制限されたことだった。
いま、ジュリアンの才能は最大限に活用されている。大陸全土に散らばった、ドルーアの支配をこころよく思わない裏社会の人間からなるネットワークを彼の存在でもって繋ぎ、表の人間では決して入手できない情報という財産を余すことなくマルスに渡していた。
「確かに受け取った。これで同盟軍はパレスを奪還できるだろう。僕のかわりに、向こうへ感謝していると伝えてほしい。報酬はいつもどおりでいいかい?」
「はい。モロドフさんからキンバリー商会を通す形で頼むといわれたんで」
「了解だ。キンバリーに色をつけるよう、僕からもいっておくからね」
机上の整理を始めたマルスを気遣い、ジュリアンがぺこりと頭を下げて退出しようと背を向ける。その後ろ姿に向けて、主が穏やかな声をかけた。
「すまない、ジュリアン。忙しかったから、君にひとつ渡し忘れていたものがあったんだ」
「俺にですか?」
「うん。ちょうど、君の右手に積んだ箱の上にある包み。そう、それだ。広げてみてくれるかい?」
その言葉に従って包みをほどく。
あらわれたのは、精巧な彫刻の施された見事なブローチだった。赤と緑の宝石を埋め込まれた装飾は華美でありながら、微塵も下卑た印象を与えない。掌に馴染むような感触といい、負担にならないように配慮された絶妙な重みといい、一流の職人が手掛けた珠玉の作品だとジュリアンにもわかる。
縁に刻まれたイニシャルは、R。
思わず振り向いたジュリアンに、マルスが笑って頷いた。
「君からレナに渡すといい。戦争が終わったあとでも、いますぐでも構わないけどね。でも、なるべく早い方がいいと思うよ。死んでしまったら、何もかも遅いんだから」
(俺は、この人に仕えて良かった)
言葉を失ったまま、頭を下げてテントを後にしたジュリアンは、主から頂いたブローチを大切に懐へしまって駆けだした。いつもの自分なら、照れやプライドが邪魔して贈り物を渡すのも先延ばしにするだろう。今日だけは殻を破ろう。主の言葉に従おうと、素直に思えた。
士は己を知る者のために死す。
人は自分の価値を理解してくれる人のためなら、死を覚悟してでも尽くす。どこかで聞いた異国の言葉を思い出す。人の世の無情に心が荒れ、ならず者達の中で生きた頃には、何を意味するのかもわからなかった。
いまならはっきりと理解できる。自分を外道から人間へと連れ戻してくれたレナによって愛を知ったいま、薄汚い盗賊に過ぎない自分を使いこなしてくれるマルスという主君は、奇跡のように有り難い存在だと確信できた。
(俺がこの人を勝たせてみせる)
己に求められる役割を果たそう。裏の人間にしか務まらない仕事を、あの少年のために仕上げてみせよう。
いつの時代も、表舞台でもてはやされるのは騎士達の華々しい武勇伝である。その影で彼らを支え、散っていった名も無き裏方達の名前は、誰ひとり後世に残らない。
誰にも知られることなく、武功として報いられない大事のために命を懸けてきた者のひとりとなる。
その覚悟ができたことを、ジュリアンは誇りに思った。
うちのジュリアンは力をドーピングしてやるだけでナバール並、それ以上の勇者になります。職業選択を間違えたんじゃないか君……?