コーヒーの芳ばしい香りが漂う店内で、お盆を手ににこりと微笑む。老若男女問わず訪れるこのお店は、商店街のみんなから愛されている。そんなお店で今日もわたしは働いている。
……働いている。
なぜわたしはこんなにも働くのか。甚だ疑問である。
そも労働とは何か。わたしはこんなにも働くことで何を得ようとしているのだろうか。もちろん対価として賃金を得ることも目的ではあるが、それだけではない気がする。ならばそれは何か、それを探し求めることこそが生きることなのではないだろうか。
ではそもそも生きるとは……この世に生を受けた意味とは。
「ナギちゃん?」
天使の声にハッと我に帰る。
危ない危ない、と先程までの思考を吹き飛ばすように頭を振る。
華の女子高生が考えることではなかったような気がする。
「大丈夫? ナギちゃん」
「大丈夫、ありがとうつぐみ」
わたしの顔を心配そうに覗き込んでいる天使に、大丈夫だと手を振る。すると天使は心底安心したかのように表情を緩める。
彼女の名前は羽沢つぐみ。この羽沢珈琲店の看板娘である。下界に舞い降りた天使なのではないかと全わたしの中でもっぱらの噂である。
「今日はナギちゃんがいるから、お客さんもたくさんだね」
「……え?」
なぜわたしが働くとお客さんが多く……?
そういう告知でも打っているのだろうか。あの社畜を擬人化したような女子高生、御蔵雛菊が労働!みたいな感じに。
……なにそれ泣ける。
「なぜ……」
「あはは……ナギちゃんがいるからとしか……」
無慈悲な宣告。なぜ。
「つぐみ〜!」
「わぁ!?」
ラブリーマイエンジェルつぐみに慰めてと抱きつく。すると鼻腔を甘い香りがくすぐった。一生嗅いでいられる。
はぁ〜っ、癒されるわぁ〜!!
「結婚しよう、つぐみ」
わたしが一生つぐみを嗅いでいくよ。
「ええ!?」
目を見開き、わかりやすく驚きをあらわにするつぐみ。「つぐみはかわいいなぁ」と心の声を隠すことなく発しながら、頭を撫でる。
まじえんじぇー。
「もっ、もう! ナギちゃん!」
からかわれたのだと理解したつぐみが、ぷんぷんりんと可愛らしく頰をふくらませる。
癒される。
「わたしCiRCLEのバイトやめてここで働こうかなぁ」
「だ、だめだよ! 私がまりなさんに怒られちゃうから!」
「怒るかなぁ?」
まあ最近CiRCLEは老朽化が進んだり雨の日に何故か窓ガラスが割れたりと大変だからなあ……
「怒るかもなあ……」
「で、でも私もナギちゃんと一緒に働けるの嬉しいよっ」
えへへ、と少し恥ずかしそうに笑うつぐみ。
……永久就職もありなのでは? 今までの度重なる労働はつぐみに結婚指輪を買うためにあったのかもしれない。でもそんな大層なものは……いや、簡単なものならあるいは?
うんうん。プロポーズして、一緒に暮らして、穏やかに過ごす。最初は家計とか苦しいけど、頑張って働くよわたし。そしていつかマイホームを建てようね。お庭で遊ぶつぐみとわたしの子供たちが目に浮かぶようだよ。
「わたし双子がいいなあ」
「?」
「……ごめん、飛んでた」
「とん? へ??」
夢に向かって飛翔してたよ。
ごめんね、と囁きながらつぐみの左手を掴む。
「ふふ、つぐみは指のサイズどれくらい?」
「????」
シンプルなのがいいよね。いつでもつけられるように。
「な、ナギちゃん?」
「…………」
困惑して、もはやどこか不安そうな表情を浮かべるつぐみ。
うん、ごめん。そろそろ真面目に働く。
名残惜しいけれど、つぐみの手を離しお仕事に戻る。つぐみは終始キョトンとしていたけれど、そんなつぐみも可愛らしい。
英気を養ったわたしは、今度こそ気合を入れ直し、お仕事を再開したのだった。
× × ×
「お疲れ様、ナギちゃん」
にこりと微笑んだつぐみが、コーヒーを持ってきてくれる。
お客さんが1人もいない閑静な店内。静寂に広がるのは香ばしく柔らかな珈琲の薫り。
「ありがと、つぐみ」
隣に座ったつぐみからコーヒーを受け取り、カップに口をつける。ふわりと口内にコーヒーの香りが広がる。
一口飲み、ふっと息を息を吐くと緊張した面持ちのつぐみと目があう。
「わ、私が淹れてみたんだけど、どうかな?」
最近つぐみはコーヒーを淹れることに挑戦しているらしい。そのおかげで、こうしてわたしはお仕事終わりに、無料で天使が淹れたコーヒーを飲むことができているのだ。
「うん、おいしい」
「ほ、ほんと?」
「もちろん、嘘なんてつかないよ」
「えへへ、……良かった」
つぐみがほっと胸を撫で下ろす。
「コーヒー淹れるの、上手になったよね」
「ほ、本当!?」
「うん」
最初がまずかったというわけではないけど、明らかにつぐみの技術は上達している。
「つぐみはすごいね。いろんなこと頑張ってる」
「え? そうかな?」
「うん。生徒会も、おうちのお手伝いも、それからバンドも」
いつだって前向きで、ひたむきに、そして誰かのために頑張っている。
「ナギちゃんだって、たくさんアルバイト頑張ってるよ」
「わたしは……わたしのためだから」
つぐみのように、誰かのためではない。
わたしはわたしのために働いて、お金を稼いでいるのだ。こうして羽沢珈琲店で働いているのだって、わたしが恩を返したいからだ。
「ええと……きっとそれでいいんだと思う」
「……そうかな」
「うん。私だって、私のためにやってるよ? 蘭ちゃん達と一緒にいたいから、バンドも頑張ってる」
「……」
「それに、ナギちゃんがやってること、みんなも喜んでると思う。恩返しって言われると恥ずかしいけど、私も嬉しいから」
えへへ、と照れ臭そうにつぐみが笑う。
「そうだと、嬉しいな」
わたしのやっていることが誰かを喜ばせているのなら、嬉しい。
「ありがと、つぐみ」
「ううん、どういたしまして。かわり……じゃないけど、またお店手伝ってくれると嬉しいな」
「もちろん、喜んで」
身体と心がぽかぽかとする。だからこそ羽沢珈琲店は商店街のみんなから好かれているんだろう。
それを再認識した1日だった。
× × ×
「ってことがあってね」
自宅でコーヒーを淹れながら、先日の出来事を有咲に話す。コーヒーの香りが部屋中に広まる。ワンルームだから、キッチンの香りなんてすぐに部屋中に広まってしまう。
「お前って、ほんとなんでもできるよな」
「んー……見様見真似だから、つぐみほどじゃないけどね」
出来上がったコーヒーを運び、有咲に渡す。
有咲は「ん」と短く返事をしながら受け取り、ふぅー、と可愛らしく息を吹きかけてからコーヒーを口に含む。
小さいお部屋に見合った小さなテーブルなので、有咲にくっつくように隣に腰を下ろす。
「ど?」
「……いや、普通にうめー」
「そっか、良かった」
有咲の感想を聞いてから、わたしもコーヒーを飲む。うん、普通だ。普通にコーヒー。普通においしい。
豆が違えば味が異なるのは当たり前だが、同じ豆を使っても淹れかた次第で美味しくも不味くもなる。コーヒーは奥深い。
「おまえ、ほんと多趣味だよな」
「そう?」
「色々手ぇ出してさ。アルバイトもたくさんやってるし」
「まあ、何がどこで役に立つか分からないから」
例えわたしのためにやったことでも、どこかで誰かの役に立っているのかもしれないのだから。
「へー、そんなもんか?」
「うん。ほら、今だって役に立ってる」
「はん?」
「……たまにはいいでしょ、こんなお家デートも」
にこりと微笑む。
コーヒーを飲みながら2人で映画でもみて、ゆっくりのんびり過ごすのも悪くないと思わない?
「んなっ! おま、そっ、そういうのズルいから!」
「ふふ、喜んでくれて良かった」
空いた右手の指を、有咲の指に絡める。
「……今日はどうしよっか?」
「こ、こういうのも、悪くねーかも」
こてん、と有咲がわたしの肩に頭を乗せる。心地の良い重みだ。
「でしょ」
「ん」
こうして、わたしたちは一日中のんびりと過ごしたのだった。
つぐみはもうノンケとかそんなの関係ないんだよ。天使なんだよ。えんじぇーだよ。恐れ多いんだよ。