そのいち。
「……きれいな、景色だなぁ」
問題なのは、"幻の左"を喰らったことではない。
「……本当に、青いんだなぁ」
吹き飛ばされた勢いで成層圏を突破し、中間圏も熱圏もぶち抜き、外気園にまで到達してしまったことでもない。
「……俺、どうなるんだろうなぁ」
問題なのは……ここからどうやって帰るか、だ。
眼下に広がる、青い宝石のように美しい水の星。それを心ゆくまで眺め、愛で、堪能し、そして。
白陵柊学園3年生、白銀武は。長い、長い、なが~い溜息を、吐き出した。
軌道上から地球を見下ろす、気象観測衛星の太陽光パネルに襟首だけが引っ掛かった、宙ぶらりんの状態で。
純夏に電離層まで吹き飛ばされるのなんて良くあることで、少し過激なコミュニケーションといったところでしか無い。……いや、とりあえずは、そういうことにしておいて欲しい。そんな簡単に良くあることで済ませて良いのかどうか、これでも自分の中の理性や常識というやつと戦ってもいるのだ。過去の戦績は大きく負け越しているけれど。
そんな自分でも、更に遥か上空まで打ち上げ成功ロケットロード、無茶しやがってとなるのは珍しい事なのだ。しかも人工衛星に引っかかるという、どでかいおまけまでついてきた。
さて、どうしたものか。普段だったら、「ががああああああありいいいいいいいいいん」とか叫んでいるうちに墜落して、帰ってこられるのだけど。
それを踏まえて考えるなら、えいやっとパラシュート無しでのスカイダイビングを敢行して、「えんでばあああああああああ」とか雄叫びを上げていれば、多分地上へと戻れるのだろう。途中で燃え尽きたり、落下の衝撃でぺったんこになったりはしないと信じたい。
ただ、落ちる先は本当に元の場所、家から学校までの通学路の途中の、打ち上げられた所なのか? 狙いすましたように同じ所に戻れるのか?
嫌だよ、俺。誰かの上に落ちて怪我させたりとか、人様の家の屋根に人の形をした大穴開けたりするのとか。当然、奥深い山に落ちて遭難がてらに熊と戦う羽目になったりとか、絶海に落ちて未知の深海生物と第一種接近遭遇したりとかも勘弁。
そう考えると、自力での帰還にもたたらを踏んでしまうのもしかたがないだろう、うんうん。
……いや、強がっていても始まらないな。白状してしまうなら、躊躇う一番の理由は他にある。
ぶっちゃけ、怖い。
そりゃ、怖いだろ。だって、高高度からの紐なしバンジーだぜ? 同じ状況に置かれたなら、きっと君だって怖い。俺だって怖い。誰だよ君って、誰もいねえよ。
強制的に打ち上げ打ち下ろしで落下するのと、自分の意志で覚悟を決めて飛び降りるのとではハードルの高さに差があるのも当たり前だろ?
だから俺は悪く無い。純夏が悪い。だけど、そう言っているのがあいつの耳に入ったらファントムもう一発になるから、世間が悪いでFA。
へたれ? それは他の人に与えられた称号だ。俺なんかにはもったいないから、へたれ言うな。
とりとめのない思考を、とりとめもなく生み出し続ける武の脳。
人、これを現実逃避と呼ぶ。
だがまあ、それも仕方がない。覚悟が無いのも当然だ。今の彼は、あいとゆうきのおとぎばなし世界の住人ではないのだから。
そもそも、どうしてこんなことになったのか。
その理由を問われれば、純夏が左の封印を解いたからと、なる。
では、何故にその封印は解かれたのか。
その理由が、武にはさっぱりわからない。
察しが悪いとか、朴念仁とか、鈍感とか、女の敵とか、恋愛原子核とか、普段から色々言われている武だけれど。それでも、意図的に誰かを傷つけるような真似だけはしないのだ。かつてゴルバンやウルターメンパワードに憧れた身としては、傷つける側ではなく守る側に立ちたいと思っているのだ。
それでも、もしかしたら。自分でも気づかぬうちに地雷を踏んだりしてはいないだろうか。純夏が封印を解かざるをえないほどの、でっかいのを。
思い返してみよう。考えてみよう。どうして自分がこんな目にあっているのか、自分が何かしでかしていないか、その大本の原因を。
少し前にあったスパイ騒ぎもすっかり収束し、落ち着いた平穏な日常が繰り広げられるここ最近。そんな中で、何かしらの事件が起きたといえば。
あれは、先週末の出来事だったか……。
それは、学期の半ばという妙な時期に赴任してきた教師の、何度目かの授業中におこった。
教師の名は黒須セリス。外国人の女性で、担当教科は英語。
最初のうち、彼女に対して不信の目を向ける者も少なくなかった。受験生である3年生にとって、教師の質とは大きなウェイトを占める問題なのだ。ハズレを引いて合格が遠のくなど勘弁して欲しい。
それに、先日の事件を知る一部の者からすれば、懸念は受験に関してのみだけでは済まない。まさかとは思うが、水面下でまた新たな組織が何らかの行動を起こしているのではないかと、そう穿った見方をしてしまっても責めることは出来ないだろう。外国人だというその一点だけで、既に容疑者候補。
だが、それらも間もなく杞憂だと判明する。
綺麗な英語を話すネイティヴスピーカーで、日本語も堪能。英会話方面に関しての能力に関しては、何らの問題も無いとすぐに解ったのだ。受験英語を教えることには不安が残ったが、そちらはその道の専門の先生が変わらず教鞭を取るということもあり、勉強面での不安はすっかり払拭された。
スパイ疑惑に関しても、あっさりと解決した。
彼女の赴任には御剣財閥の意思が関わっているとのこと、月詠真那より知らされたためだ。当然、身の回りや過去の経歴に関して怪しい点は一切ないと、太鼓判を押された。
そうして、不安が消去された後に残るのは、有能で明るくて気さくで美人という高評価。さりげに運動能力も高いらしい。ちなみに、得意種目は軍隊格闘技とチョーク投げ。現在までのチョーク命中率は驚きの100%。
男子だって女子だって誰だって、綺麗なお姉さんには憧れるもの。生徒たちが外国人教師という存在に慣れていたこともあって、早くも彼等からの信頼を手に入れ、すっかり白陵柊の一員として馴染んでいる。
目下のところ、セリス先生に関しての噂話は生徒間のトレンドの一つとなっている。名前からして日本人と結婚しているのかな、とか。お子さんいるのかな、とか。美人の秘訣とかあるのかな、とか。あのチョークを受けてみたい、ご褒美です、とか。
そして、その噂こそが、武を襲った悲劇の幕開けだったのである。
『ねえ、タケルちゃん。セリス先生って美人だよねー。あっ、これ冥夜に回して』
武の前の席に座る純夏から、小さく折られたノートの切れ端が回されてきた。女子特有の、武にはよくわからない折り方で可愛らしくハート型にたたまれているそれを開くと、そんな文面が書き記されている。
何やってんだよ、こいつは。真面目に授業を受けろっての。
そう思う武だったが、彼もまた放課後に遊ぶ予定のバルジャーノンで決めるコンボを考えていたため、授業の内容など全く頭に入ってきていない。
別に授業内容がつまらないわけではないのだが、それ以上に興味を惹かれるものがあるのだから仕方がないのだ。俺は悪く無い。自己弁護終了。
このまま無視をしていても良いのだが、授業後に何か文句を言われるのが確定するのは面白く無い。元の折り方を無視して適当に四つ折りにした手紙を、先生が黒板を向いた隙にスッと隣りに座る冥夜へと回す。
授業中だろうと我道を行く二人とは違って授業態度は常から良好、今も真剣に先生の話を聞いていた冥夜。通常ならばこういった勉学を阻害する行為は咎めるものであろう。だが、想い人から恋文が届けられたとあっては、その平常心も休暇をとってバカンスに出かけようというもの。
頬を染めて、いそいそと手紙を開き……そして、あからさまに意気消沈。じっとりと恨みがましい視線を武へと向ける。向けられた武は当然、何故そんな視線を受けているのか全く理解していないが。あー、やっぱり冥夜は手紙回すのなんて怒るよなと、そんな程度である。
朴念仁にも授業妨害にも思うところはある冥夜だが、それでも、受け取った以上は返事をかくべきだと思ったのか。それとも発端である純夏をこの場でたしなめるべきだと考えたのか。純夏のメッセージの下に続けて何やら書き連ねると、律儀に手紙を返す。
『純夏、その意見そのものには賛同するが、今は授業中ゆえ、教諭の話を清聴するべきであろう。回すが良い』
和封筒に入れる際のように、きっちりと三つ折にされたそれにはそう書かれていた。
うん、実に冥夜らしい内容だ。言われたとおり、純夏君はまじめに授業を受けるべきだな。そして俺の脳内戦略会議をこれ以上邪魔するんじゃない。
そのまま四つ折りにして元の持ち主へと返す。そしてまたハートがやってくる。
『先生って、いくつくらいなのかな? 悠陽に回して』
おい。こいつ人の話、全く聞いてないよ。
親友の忠告を無視するとは。冥夜に代わって、後でスリッパの刑に処すべし。
それでも、しゃーないなと、冥夜と武を挟んで反対側に座る悠陽へと手紙を回す。
間もなく、ぴしりと折られた折り鶴が返ってきた。
……鶴? 悠陽って、変なところでノリがいいよな。
『さて、女性の年齢を詮索するのは野暮と申すものですが……神宮司教諭や香月教諭と同じくらいではないかと見受けられます』
鶴を四つ折りに変形させ、ハートが返ってくる。
『やっぱそれくらいかな? あー、綺麗なお姉さんって憧れるなー。霞ちゃんに回して』
霞の席は武の後ろ。
何だ俺、いつから郵便配達員になったんだ。安定してていいよね、公務員。あ、もう公務員じゃないんだっけか?
後ろ手に四つ折り手紙を差し出すと、やや躊躇うような間の後に受け取ってくれた。突然何事かと思うかもしれないが、今までのやり取りは全て同じ紙に書かれているから、状況はわかってもらえるだろう。
しばし後、脳内で必殺コンボを編み出したとき、背中がチョンチョンと突かれた。受け取ったのは……なんだこれ?
だるま? こけし? ……マトリョーシカかっ!
霞も、律儀に返してくるんだなー。手紙自体も、折り方のネタも。って、後ろの席だからやり取り全部見られてたのか。少し恥ずい。
『わたしも、ああいう風に、大きくなりたいです』
『霞さんなら大丈夫ですよっ! ロシアの人は体の大きいひとが多いですし。壬姫は、どうかなあ?』
『霞ちゃんはスラヴ系なのかな? ロシアは東スラヴ人が多いけど、それ以外の民族もいっぱい住んでるからね。例えばウクライナ人、チェチェン人、イングーシ人、オセット人、カルムィク人……』
『鎧衣、長い。早く回す』
『ちょっとあなた達、今は授業中よっ! 真面目にしなさいっ!』
『あんたも回してる』
『私は注意をしているのであって、遊んでいるわけでは……』
『同罪』
『……タタール人、バシキール人、チュヴァシ人、トゥヴァ人、サハ人、エヴェンキ人、タイミル人、マリ人、モルドヴィン人、カレリア人、イヌイット、ドイツ人、ユダヤ人、高麗人……』
『あ、そういえば壬姫、セリス先生にはお子さんがいるって聞いたことありますよ』
『いっぱい、回りました』
……おまえら、仲良いな。委員長まで何やってんだよ。
へー、先生、子どもいるのか。って、結婚してんだからいてもおかしくないよな。
何歳くらいの子なんだろう。……こういう話は多分、純夏はがっつり食いつくよなあ。
いい加減、手紙を回してるのに気づかれそうで、そろそろやめておこうと思ったんだけど。……いいや、回しちまえ。何だか俺も面白くなってきた。
『先生、子どもいるんだっ! いくつくらいの子なのかな? 神宮司先生と同じくらいだったら、保育園か小学校に入ったくらいかな? 冥夜に回して』
ついに書ききれなくなって、裏面まで使い始めたか。文字がびっしり書き込まれたハートとか、何か呪い篭ってそうになってるぞ。怖いって。あと怖い。
それと、そこでまりもちゃん引き合いに出すのはやめてあげて。泣いちゃうから。
『純夏、まじめに授業を受けろと言ったであろう。……教諭の年齢から察するに、それくらいであろうな。早くにご結婚なされていたとしても、中学生になっているということはあるまい』
『冥夜様、ご存じなかったのですか? 私はてっきり、知っておられるものかと』
『何の話だ、月詠?』
『いえ、セリス教諭のご子息ですが……蒼也ですよ』
『……何と……』
……月詠さん、どっから沸いて出た?
えっ? いつ書いたの? 今いるの? いやまあ、いるんだろうけどさ。本当に忍者か何かじゃないのか、あの人。
てか、蒼也って誰?
とりあえず、話の分かりそうな悠陽に回してみる。
『……真那さん、それは真の話で?』
『悠陽様もご存じなかったのですね。……確かに、蒼也が月詠家に預けられて以降、鞍馬殿とセリス殿は帰国されておられませんでした。二人にお会いになられたことがなくても当然です。察せずお伝えしなかったこと、私の落ち度にございます。申し訳ございません』
『いえ、黒須の姓を持ち御剣に関わる者である以上、血縁であるのだろうとは思っておりましたが。……その、母子ですと、年齢が合わないのではないでしょうか?』
『いえ、年は合っております。蒼也は、セリス殿が25の時の子であると存じ上げております。私も、その時のことを覚えておりますから』
『……真なのですか……』
何か、絶句してる。文章で絶句ってのも変な話だが。
というか、いちいち俺に返ってくるのは何でだ?
これ、どこに回そう……純夏でいいか。
『ねー月詠さん、蒼也って誰なの?』
『蒼也は月詠の遠縁に当たる者で、無現鬼道流において冥夜様の兄弟子、私とも兄弟弟子になります』
『ねえ、それちょっとおかしくないかしら? 兄弟子ってことは御剣よりも長く剣を学んでいるのよね。天才少年ってこと?』
『……勝負』
『何だかカッコイイですね、小さい体で大人をやっつけるのって』
『壬姫さんだってすごいよ。弓なら大人に負けないじゃないか』
『あわわ、そんなことっ! ……でも、ありがとうです、鎧衣さん』
『……わたしにも、できるでしょうか……?』
『霞ちゃんは、もっと体力つけるところから始めないとねっ! 私も付き合うから、朝のジョギングとかしてみようか?』
『……ありがとうございます、純夏さん。……がんばります』
純夏に回したら、霞から返ってきた。
どんな風に旅してきたんだよ、この手紙。俺を介さずに前後でやり取りとか、何かもう自由自在だな。
『いえ、皆様方、そうではないのですよ』
『……月詠、説明を』
『はっ。蒼也ですが……昨年に大学を卒業し、既に社会人として働いております』
『……外国の大学で飛び級したとか、かしら?』
『いえ、榊様。卒業したのは国内の某大学になります。歳は23になるかと』
『……なんですって?』
『えっと、えっと、25歳で産んで、その子が23歳だから』
『……今、49?』
『すごいねっ! さっき海外にいたみたいなこと言ってたけど、不老不死の妙薬でも食べたのかな? 蓬莱というところにはね……』
……え?
…………ええっ!?
「マジでっ!!」
驚いた。そりゃあもう、びっくりした。
だって、俺もセリス先生はまりもちゃんと同じくらいだって思ってたもん。
まりもちゃんの年齢、正確には知らないけど、30行ってるってことは多分、無いよな?
まりもちゃんより、20以上も年上ってこと?
うお、すっげー。女ってこえー。絶対わかんないってっ! 騙されるってっ!!
「……白銀君? 授業中に突然、どうしたのかな?」
………………あ。
やべ。やっちまった。
びっくりして大声出しちまった。そんで、思わず立ち上がっちまった。
座ってた椅子が倒れて、霞の机にぶつかるくらい、勢い良く。
……あ、霞が涙目になってる。ごめん、驚かせちゃったか。あとでナデナデしてやるからな。
「それで? 何か質問かしら? ……それとも?」
何か、気温が下がった気がする。おかしいな、震えが止まらないぞ。
先生の後ろに、何だか見たこともない禍々しい化け物の姿が見える気がする。でっかい口のついた赤いのとか、尻尾が不気味な人の顔になってる蠍みたいのとか。
マズイってっ! 何かっ! 何か言わないとっ! 気の利いた言い訳しないとっ!!
「……いや、セリス先生の歳って幾つなのかなぁ……なんて……」
何言ってんだよ俺っ!
今のは言っちゃ駄目だって、俺でも分かるぞっ!
特大の地雷踏んだって、分かっちゃったぞっ!!
「……女性の歳を詮索するのは……」
セリスが両手を後ろに回し、体を大きく仰け反らせる。
右のそれぞれの指の間に、計4本のチョークを挟んで。左手にも同じだけ。
──……ガン・スイーパー……
「失礼でしょうがっ!!」
──フル、バーストォッッッ!!!
引き絞った弦のように、全身をバネと化して力を溜める。そして、そのエネルギーが頂点となった時。反動で左右から弧を描くように、大きく振り出された両手から、チョークが撃ち出された。
弾丸と化したチョークは寸分の狂いなくただ一点へ、連なるように穿たれていく。
タタタタンッと、断続的に響いていた命中音が鳴り終わった時、武の眉間には一本の白い槍が突き刺さっていた。
「…………あがぁ……」
力を失ったように後ろへと倒れる、武の首。直角に折れ曲がって顔が天を仰ぐ形となる。そして、槍を構成していた16本のチョークがバラバラと、武の体とともに崩れ落ちていった。
「はい、みなさん。先生の話は、まじめに聞きましょうねっ」
にこりと、微笑みかけられる。
白目をむいて無残に床に転がる武と。一見、菩薩のような笑み。
それぞれに視線をやったクラス一同は。ブンブンと、勢い良く首を縦に振ることしか、出来なかった。