第9話 白兎・鈍感
堂森高校・図書室。
静かな空間。そこには至る所に本棚があり、納められた本達は今日も自分を読んでくれる読者を待っている。
読書、勉強のために用意された机には二人分の影があった。一人は短髪黒髪の少年。もう一人は黒髪を腰の辺りまで伸ばした黒縁眼鏡を掛けた少女である。
五条晴也とクラス委員長の片桐沙耶だ。
二人が図書室に着いて一時間が経とうとしている。
「あの……五条くん?」
「ん?」
「なんで昆虫図鑑とか動物図鑑ばっかり読んでるの?」
沙耶の言う通り晴也は図書室に着いてからと言うもの図鑑系の本ばかり読んでいる。
「まあ、あれだ。奴等がどんな動物か虫の特性を持って暴れるか分からないから」
「奴等?」
「ああ。けど、今から見たって何がどうなる訳でもねェんだけどな」
晴也は言いながら動物図鑑のページをめくる。
沙耶は晴也の言っている意味が分からず、視線を自分の持つ小説へと向け直す。
「委員長の方は何読んでんだ?」
言われて沙耶は顔を真っ赤にして小説で顔を隠す。
「笑わない?」
「え?」
「笑わないって聞いてるの」
「笑わねェよ」
沙耶はそれを聞いて小説から顔を覗かせる。
「れ、恋愛、小説……」
「恋愛小説?」
沙耶は小さく小首を縦に振る。
「委員長でもそういうの読むんだな」
「え?」
「いやさ、委員長って成績優秀で真面目で皆からも慕われてて、すげーなって思うよ。堅物だけど」
「堅物で悪かったわね」
「いや、そうじゃなくて。そんな委員長の可愛いところを見つけたな、と思って」
「そ、そんなこと……」
沙耶は口籠もりながらもう一度顔を恋愛小説に隠す。その仕草を見た晴也は何を思ったのか動物図鑑のページを更にめくり視線を一点に集中させる。
「烏か……」
晴也は烏のページをそっと指でなぞりながら呟いた。
堂森町・都心部。
オフィス街に囲まれた繁華街もある町で一番賑わっている場所。
時刻はお昼を迎え、昼休憩を取るために会社員や自宅から人が現れ、飲食店やコンビニへと入って行く。その人間の姿はビルの屋上から見てみるとまるで蟻のようだ。
「さあて、まずは誰からにしようかなあ」
白いマフラーを首に巻いた季節外れのタンクトップを着た青年は、親指の爪を噛みながら、動く獲物に狙いを定める。
そして、
「よし、アレにしよっと」
青年は満面の笑みを浮かべて屋上から飛び降りる。その高さは20階建てととても高い。そんな高さからでも平然と青年は飛び降りてしまう。そして、落下している最中に人間とは別の存在へと変身する。
頭部から伸びる二本の長い耳。両目は血に飢えているかのように赤く、口からは前歯が牙のように飛び出ている。全身は白い体毛に覆われており、両脚の筋肉は岩石のようにごつごつとしている。
兎と人間が融合したかのような姿。
そう。この青年、いや、兎怪人もエクシードなのだ。
兎怪人が着地するとアスファルトの地面はひび割れ、兎怪人を中心に小規模のクレーターを作り出す。その近くにいたスーツを着た男性は、あまりにも信じられない光景に恐怖し、腰を抜かして、その場で尻餅をついてしまう。
兎怪人は不適な笑みを浮かべると、男性の首を右手で掴み持ち上げる。
男は目に涙を浮かべながら必死に抵抗し足をばたばたと動かす。しかし、次第にその動きは弱くなり、ほんのりとだが刺激臭がした。
「ありゃ? 漏らしちゃったの? きったないなあ」
無邪気にそう言うと兎怪人は尋常ならざる脚の筋力を用いて超絶的な跳躍を見せた。
男はもう何が起きているのか分からなかった。理解できなかった。あまりにも自分が知っている現実からかけ離れた出来事に愕然とする他なかった。
兎怪人と男性はたった一っ跳びで二十階建てのビルの屋上まで辿り着いてしまったのだ。
「それじゃあね。お漏らしおじさん」
兎怪人は掴んだ首を離し、男性を二十階建てのビルの屋上からなんの躊躇いもなく落とした。
地面に激突したのはすぐだった。
呆気ないその姿に兎怪人は下品な笑い声を上げて、別のビルの屋上へと跳躍し、また別のビルの屋上へと跳躍してその場から離れた。
――次はどこで襲おうか。
兎怪人の頭の中にはそのことで頭がいっぱいだった。
堂森町・繁華街。
晴也と沙耶は昼食を取るために近くのバーガーショップ――ワクワクバーガーの二階に移動していた。学校の食堂は三年生のほとんどがいないためか、一年生と二年生で溢れかえっており、とても食事ができる様子ではなかったのだ。
「五条くんてやっぱりモテるよね?」
「なんだよ急に」
晴也は頼んだバーガーを頬張る。
二人はお互いの顔が見えるよう向かい合うように机を挟んで座っている。
「だって、一年生と二年生が五条くんを見つけた途端に顔を赤くしてたし。何人か指差してたし」
晴也は言われて思い出す。
「あれって俺だったのか。他の奴かと思ってたわ」
沙耶は呆れて溜め息をついてしまう。
――後輩達よ、この男の鈍感さは異常よ。
沙耶は心の中でそう呟くのだった。そうとも知らずに晴也はバーガーと塩の利いたポテトを交互に食べながら合間に炭酸飲料を飲んで空腹を満たしていく。
「五条、くん……は、さ……好きな人、とか……いないの?」
言って沙耶は顔が熱くなっていくのを感じバーガーで顔を隠す。
晴也は少し考えてから、
「いないかな。多分、今の俺が彼女とか作ったとしても相手してやれねェから」
「どうして? 学校の五条くんは運動も勉強もできて、他人への気遣いもできるし」
それにかっこいいし、と晴也に聞こえるか聞こえないか程度の小声で話した。
「俺ってそんな感じなんだな」
沙耶は小さく頷く。
「なんか、そういうの言われたの空以外で初めてかも。ありがとうな、委員長」
晴也は優しく微笑みながら言う。すると、沙耶は目を泳がせて両手を前に出して、慌てて手を振る。挙動不審もいいところだ。しかし、その仕草が面白かったのか晴也はクスッと笑いを溢してしまった。
だが、急に沙耶の挙動が治まり、どんどん顔が青冷めていくのが分かった。その目はまるで何か恐ろしい物を見たかのような恐怖の色で染まっていた。
「……五条くん」
絞り出したその声は振るえていた。
晴也はハッとした様子で沙耶の視線を辿る。ワクワクバーガーの窓越しに写るその先には人が倒れていた。その回りを取り囲むように人が集まり携帯電話でどこかへ連絡している者と写真を撮っている者もいた。
「見るな!」
晴也は状況をいち早く理解して、咄嗟に手で向かいに座る沙耶の目を覆う。
「どうしよ……あたし……見ちゃった……」
沙耶は身体を震わせて顔を伏せる。
晴也はどうすることも出来ず、ただ頭から血を流して倒れている男性に哀れみの視線を送ることしか出来なかった。
周囲の反応と遺体の損傷具合から見て飛び降り自殺だろう。
そこまで予想できた晴也は沙耶の頭の上に手を置き、
「大丈夫だ。何も怖くねェから」
と、ソッと優しく呟いた。
そう言いつつも晴也はある違和感を覚えていた。
確かに周辺はオフィス街に囲まれており、飛び降り自殺をするなら、どのビルでも間違いなく逝けるだろう。しかし、自殺した割には男性の首筋に掴まれた跡とズボンには失禁した跡があった。
ここで晴也はもう一つ異変に気付いた。
「なんで、俺。そこまで見えてるんだ?」
二人がいる所から遺体までの距離はかなりある。以前の視力なら人が血を流して倒れている程度だっただろう。それなのに晴也の目には、遺体の損傷具合まではっきりと見えている。唖然とする他無いが、状況が状況なため晴也は沙耶を連れてこの場を離れることを優先するのだった。