ToHeart二次創作小説、芹香エンド後の綾香の物語「心の綾」です。Windows95版ToHeartをベースに書いているため、その後に出た設定とは齟齬が発生している可能性があります。18禁ゲームをベースにしていますが、18禁表現は一切ありません。
* 0 *
「はぁ」
今日、幾度目の溜め息だろう。
鏡の前に立ち、ネクタイが曲がってないかを確認し、髪の乱れを櫛で直して、服にほこりがついてたら小さなものでも手で取って……。
落ち着くことが出来ず、オレは何度も何度もそんなことを繰り返し、その度に溜め息を漏らしていた。
――やっと、このときが来たんだな。
オレは今日から藤田浩之ではなく、来栖川浩之となる。
そのことを思いながら、そんなに広くない控え室に置かれた小さなテーブルの椅子に腰掛け、その正面にある姿見に目を向ける。
二五歳になったばかりの若造のオレには、どうしても折り目正しい、そして抑えめながら飾り気のある礼服が似合ってなく見える。
しかしオレはこの服を着ることが出来た。
苦難はたくさんあった。諦めようと思ったことも一度や二度なんかじゃない。オレがこれから生きていく世界は、高校の頃、芹香に出会ったときのオレにはまったくの別世界、いや、異次元と言ってもいい世界だった。
それでもオレはこの服を着る権利を得た。
苦しんで頭を抱える度に、諦めて逃げようとする度に、芹香やセバスチャン、そしてそれ以外にも多くの人が励ましてくれたり力を貸してくれたりしたから。
そんな人々の中でも、なんと言っても忘れることが出来ないのは、綾香だ。彼女はオレと芹香が結ばれることになる一番のきっかけをつくってくれた。
彼女がいなければ、今日ここにオレがいることはなかっただろう。
――綾香は、来てくれてるだろうか。
結婚の案内状は彼女がいそうな場所に調べられた数だけ出していた。だが返事は返ってきてない上、届いているかどうかすらわからない。
あのとき、綾香は理由も言わずに行ってしまった。
そのときのオレは自分と芹香のことばかりを考えていて、綾香のことなんて考えられなかった。あれ以来、彼女と顔を合わせることも、連絡を交わすこともなかった。
天井を見上げて目をつむった。
そうしていると、瞼の裏に綾香の姿が浮かんでくる。想い出の中のままの、高校生の綾香の姿が次々と映りかわる。
笑みを浮かべた顔、真面目になったときの眉、怒っている目、どこか悲しげな瞳……。そうして最後に残ったのは、別れ際に彼女が見せた表情だった。
今ならば、綾香の気持ちがわかるような気がする。時が経ち、こうして芹香と結婚することになった今ならば、あのときの彼女が抱いていた想いがわかるような気がしていた。
* 1 *
窓の外には見慣れた前庭が広がっていた。
夏が過ぎようとしているこの季節、屋敷の広い敷地に植えられた木や草の緑は、そろそろ暑い頃あったほどの強さはない。ほのかに秋を感じる淡い風に、ただ揺れているばかりだった。
「はぁ」
思わず溜め息が出る。
――何やってるんだろう、私。
今の私は机に頬杖をついて、開けっ放しの窓の外を横目で眺めてるだけだ。
机の上には数学のノートと参考書、問題集なんかが広げっ放しで置いてある。それを広げてからもう二時間は経つはずなのに、実際勉強していたのはその四分の一の時間にも満たなかった。
まもなく二学期の期末試験が来る。
勉強しなくても赤点を取ることはないけど、私は姉さんみたいに少し勉強しただけでほとんどわかっちゃうほど頭は良くない。別に来栖川家の世間体がどうのと思ったりすることはなかった。でも、試験ではすべての教科で一番を、少なくとも上位三位以内に入るつもりだった。
『負けず嫌い』
よくそう言われることがある。
それはおっとり――すぎてる気もするけど――してる姉さんと比べられて言われることが多いような気がする。
でも実際どんなことでも一番を目指したい、勝っていないと気が済まない人間。それが私、来栖川綾香という人間みたいだ。
負けず嫌いな理由はよくわからない。
誰かにほめられたいってわけじゃなく、優越感に浸りたいということもなかった。ただ勝つことが好き、というか、いつもそれを求めてしまう。そんな感じだ。
性格と一緒に、どんなことでも出来る、だとか、天才なんてこともたまに言われたりする。
確かに高校の試験では必ずベスト三には入ってるし、エクストリームでも二年連続一位の座に輝いていた。
でも本当は違う。
学校は学力を維持するために予習復習、それ以外にも自分なりの勉強をしているからだし、エクストリームも、通ってるジムの外にみっちり練習をしていたからこそだ。
一番を取るためだったらどんな努力も惜しまず、その努力の様子を決して他の人には見せないで涼しい顔をしている。
それが私のスタイルだった。
窓から、柔らかい風が吹き込んできた。
目をつむり、かすかになびく長い髪で風を感じる。
もうすぐ期末試験が来る。その前に、第三回のエクストリーム大会が行われる。
やることはいっぱいあった。窓の外を眺めてる余裕なんてないのはわかってる。
でも今の私は、勉強も練習も、何もする気が起きなかった。
「何やってるんだろう、私」
つぶやいて、窓の外に目を向けながら机に突っ伏した。
こんな気力のない状態は今日ばかりじゃない。ここ最近、時々こんな風になっちゃうことがある。
このままじゃエクストリーム三連覇も、期末試験全教科上位三位も出来なくなってしまう。何か理由があるはず。外を眺めながら、どうしてこんな風になってるのか考えてみる。
学校でもエクストリームでも、思いつくほどの変化はないはずだ。他に何か、かわったことがあっただろうか……。
そのとき、なぜか浩之の顔が浮かんで来た。
――そう思えば、今日は浩之が来てたんだっけ。
勉強を始めて少し経ったとき、前庭の一本道を彼が歩いてくるのを見た。
夏休み辺りから、彼はこの屋敷に訪れることが多くなった。どうしてつき合い始めたかは知らないけど、姉さんとのつき合いが一年以上にもなった彼は私と同じく高校三年になり、いろいろ考えているみたいだ。
顔は悪くないし運動もそこそこ出来る。雑な性格だけど、意外に真面目だったり優しい面もあったりする。ただ、勉強だけは出来ない。
世界に名だたる来栖川グループの長女と一般人という社会的なギャップを思って、浩之は出来るだけレベルの高い大学を目指しているらしい。
――今日も浩之は姉さんと勉強か……。
頭の中に、勉強を教わっている浩之と、彼を教えてる姉さんの様子が浮かんできた。
「はぁ」
どうしてだろう、溜め息がもれていた。
一度浮かんできた浩之の顔を振り払うことが出来ない。ただでさえ勉強する気がなくなってるっていうのに、このままじゃ他のことも出来そうにない。
「気晴らしでもしよ!」
勉強道具を放ったまま立ち上がった。十八になってすぐ免許を取り、ほとんど一緒に買った車のキーを小物入れから取り出した。
門からの一本道が見える窓にちらりと目をやった後、私は部屋の扉を閉めた。
* *
「それは、どういう意味ですか?」
オレは思わず聞き返してしまった。
「わからなかったかね、藤田君」
目の前の、一般人のオレにはいったいいくらするのかわからないほど大きく、そして分厚い材質の書斎机に、口髭をたくわえた壮年の男――この来栖川屋敷の旦那様、つまり先輩の父親、来栖川宗也氏がついている。宗也氏は静かだが、ピリピリとした圧迫を感じさせる風格に見合う鋭い視線をオレに向けてきた。
「芹香はこの来栖川家のたった二人の子供の内、長女だ。君でもこれが何を意味するかはわかるだろう」
「……はい」
「だから言っているのだよ。この屋敷への出入りは、これ以降控えてくれ、と」
彼は演技がかった仕草で机の上に両手を組んだ。その手越しに、オレの目を見据えてくる。
今日、オレはいつものように先輩のところに勉強を教わりに来た。それは先輩とオレの間にある、上流階級と一般人というギャップを埋めるために出来るだけレベルの高い大学に入ろうという、オレなりの努力の一つだった。
しかし今日オレは先輩に会うことが出来ず、屋敷に入った途端に渋い顔をしたセバスチャンに呼び止められ、こうして先輩の父親の書斎に連れてこられた。そして今、先輩に会うのを控えてくれと言われたのだ。
「でも――」
「『でも』?」
少しでも抗議に出ようとしたのに、眉間に寄せられた皺によってそれ以上言葉を続けることが許されない。
「わかっていないようだね、君は。
来栖川グループはその名が冠していることからわかる通り、来栖川家によって支えられている。優秀な人材はもちろんたくさんいるが、日本にある限り、『家』という確執を忘れることは出来ない。それがたとえ分家であっても、会長職にある人間が今の来栖川本家から他に移っただけで、グループ全体が揺らぎかねない。これによって発生する問題は一個人、一家内だけで済むものではないのだよ。世界中にシェアを持ち、膨大な社員、関係者を抱える来栖川グループが揺らぐということは、それらのすべての人間に、引いては消費者にすら波及する問題となってくる。それを未然に防ぐためにも、芹香には彼女のあの細い双肩にかかる様々な重責に堪えられる人間と、――それは個人としても、社会全体としても――結ばれなければならない。
だから言ってるのだ。彼女と会うのは控えてくれ、と。ここまで言えば、君でもこれがどのようなことか理解できるだろう?」
「…………」
返す言葉がなかった。
オレが抱いていたのは、家柄についての――実際にはいま言われたことまでそうなわけだけど――浅はかなギャップくらいのものだった。だが問題はオレが考えているより遥かに大きなことが、今の言葉で理解できた。
はっきり言ってオレにはそんな重責を負う自信なんてない。いや、たとえオレに自信があったとしても、他の人間に認められなければどうにもならない。
それでもオレの先輩のことが好きな気持ちは、愛してるという想いはかわらない。
だから、オレには返す言葉がなかった。
何も言わず突っ立ったままでいるオレを見て、小さく息をついた宗也氏は口を開いた。
「君も芹香から聞いているのではないかな? 十日後、この屋敷でパーティを行う」
「聞いています」
「パーティは屋敷を上げて盛大に行うことになっている。重職にある社員を中心に、私や私の父と深い知り合いである人々をほとんど呼んでいる。芹香はあと三ヶ月も経たない内に十九になる。来年には二十歳だ。父は八十を越え、この家に婿入りした私も五十も半ばとなった。そろそろ後継者を決めておかねばならないのだよ。
そして今度行われるパーティは、芹香の婚約者を決めるための第一歩として行われるものだ」
それだけ言って口を閉じ、先輩の父親は目を細めた。
先輩からパーティの話は聞いていた。それが婚約者を決めるためのものであることも。でもそれを告げたとき、先輩はいつものあの聞こえるか聞こえないかの声でオレに向かって言ったんだ、「婚約者を捜すつもりはない」って。
たぶんこの次に来栖川グループ会長となるだろう男は、オレと先輩との関係を知っている。それなのにそんなパーティを開くという現実。
ぼかしちゃいるが、オレに何を言いたいのかはわかっていた。「先輩とのつき合いを止めろ」と、本当は言いたいんだろう。でもこの人は直接それを告げたら先輩がどうなるかを考えて、オレの方から別れさせるために、こういう言い方をしてるんだと思う。
つき合いを止めるつもりはなかった。先輩と結ばれるまでには、数多くの苦難が待ち受けているのはわかってたし、それを迎え討つ覚悟もあった。パーティのことを聞いたとき、オレは決意を新たにしていた。
けれど問題の大きさがオレの想像以上であることも、まだ漠然とだが、理解できていた。
オレは、向けられる鋭い視線から目をはずせないまま、立ち尽くすしかなかった。
「――仕方がない。君も少し考える時間が欲しいだろう。今日はもう家に帰りなさい。しかし次この屋敷に来るときには、答えを聞かせてもらうよ」
視線が外された瞬間、どっと汗が出たのがわかった。運動をしたわけでもないのに肩で息をしながら出口に向かう。
「良い返事を待っている」
部屋を出る間際、一瞥とともにそんな言葉がオレに突き刺さってきた。
* *
磨き上げられた紅いボディがスポットライトのような車庫の電灯を照り返していた。
その輝きは、オモチャにも思えてくるその小さな車体に秘められたパワーを覗かせているみたいだ。
AZ―1。
ウィングタイプのドアを持つ小型のスポーツタイプのこの車は、けっこう古い型のものだ。でも生産中止のこれを中古で購入する際、かなりいじってもらってあるし、小さいぶん居住性については問題あるけど、他の人を乗せる気がない私にとっては充分だ。何よりこの車のことを私は気に入っていた。
ボンネットを優しく撫でて、ドアを跳ね上げて乗り込む。ゆっくりと上がって行くガレージのシャッターが開き切るのを待って、車を発進させた。
「さて、今日はどの辺りを走ろうかな」
つぶやきながら門を出て少し走らしたとき、屋敷前の路地で見慣れた背中が視界に入ってきた。
「浩之、かな?」
車の中のデジタル時計はまだ四時過ぎを表示してる。いつもなら浩之が屋敷を出るのはもっと遅い時間のはずだ。
――どうしたんだろう。
屋敷からの帰りが早いこともあるけど、肩を落として歩く彼の後ろ姿は、そろそろ吹き始めた秋風に寂しく見える。
「浩之ぃーっ。いま帰り?」
車を寄せて声をかけてみた。
「おぉ。綾香か」
「早いわね、今日は」
「まぁな」
振り向いた彼は、私の姿を認めてその疲れたような表情に笑みを浮かべた。
――やっぱりどこかヘンだ。
姉さんと勉強してからの帰りなら、たいてい満面の笑みが浮かんでるはず。それなのに今の浩之の笑みは、どこか無理しているような感じがしてならない。
「――これから気晴らしにドライブ行くつもりだけど、浩之も行く?」
そんな彼の様子に、何となく誘いの言葉をかけてみた。
「そうだな。オレもちょっと気晴らししたい気分だったんだ」
そう言った浩之は、疲れたような様子は同じだったけど、自然な笑みを浮かべた。
笑みを返して助手席のドアロックを解除し、私は彼を車に招き入れた。
「そう。そういうことだったんだ」
「あぁ」
開け放ったウインドウに腕を乗せて外を見ながら、浩之は短く応えた。
思いのほか足を伸ばして、車は丘陵に沿った海辺の道路まで来ていた。
早くも紅葉し始めた木々を左に、青い海を右に見ながら、ツーシーターと言っても二人で乗るには狭いため、両方の窓を全開にしながら車を走らせている。
夜には走り屋が横行するこの道も、まだ日のあるこの時間には車の通りはほとんどない。エンジンと風を切る音くらいしかなくなったとき、浩之が話してくれた。
そして私は、彼が父さんに言われたことを聞いた。
父さんも酷なことを言う。
姉さんと浩之との関係は耳に入ってないはずないのに、はっきりに言わないにしても、別れろだなんてどういうことだろう。パーティを開くこと自体おかしいとは思ってたけど、そこまでやるなんて……。
この一年で姉さんが時々はっきりと声に出して喋るようになった理由が浩之にあることくらい、わからない人じゃないはずなのに。
「やっぱり、オレみたいな一般人じゃ、あの家には釣り合わないのかな」
しばらく沈黙していた浩之が、ポツリとつぶやいた。
なんて言葉を返そうかと私は考えてしまう。
実際、私だって姉さんとつき合っているのが浩之みたいないわゆる普通の人だって知ったとき、やっていけるかどうか考えてしまったくらいだ。どういうわけか女ばかりが生まれることが多い来栖川家では、ほとんどの場合、長女の婿が家を継いでいる。その相手に選ばれるのはもちろん、能力ばかりでなく家柄が釣り合う人間ばかりだった。
でもこの一年、浩之はずいぶん頑張ってきた。姉さんと勉強しているためか、成績はずいぶんと上がり、今では超一流とは行かなくても、一流の大学の推薦枠に入るくらいになっている。
これならやっていけるかと私も思い始めた矢先が、これだ。
「ふぅ」
父さんの言葉がずいぶんこたえているらしい。小さく溜め息をついて、彼は視線を落とした。
こんな浩之は見たくなかった。
いつも莫迦ばっかりやってて、何か言うとすぐ調子に乗る浩之こそが、私の中の浩之だった。
何か言葉をかけて上げよう。元気づけられるような何かを。
彼のことをちらちら見ながら、私は言葉を探していた。
左右の景色が音もなく流れていく。
木々の間に太陽が姿を隠し、海が赤く染まり始めていた。
夕日に照らされ黄昏て見える浩之の横顔を視界の隅に捉ええつつハンドルを握っている内、私の胸に何かがわき起こって来る。
「私だったら、良かったのにね」
「え?」
「姉さんじゃなく、浩之が私のことを好きになってたら、こんなに面倒にならなかったのかも知れないのにね」
「何言ってんだ? 綾香」
驚いたような視線が私に向けられる。
言った私自身、驚いていた。
何でもいいからと言葉を探している内、そんなことを口走っていた。
どうしてそんなことを言ってしまったのかわからない。とにかく、私は口にしてしまったことに焦りながらフォローを入れるしかなかった。
「い、いや、私だったら空手やったりエクストリームやってたりとか、けっこう好き勝手やってるし、次女だから姉さんほど固いこと言われないし……」
「はぁ」
「ぅんと、まぁ、姉さんと私と生まれた順序が逆だったら、とか、その、そういう意味。あんまり関係ないかな。えぇっと、つまり、綾。うん、言葉の綾って奴よ。うん」
しどろもどろになりつつ、自分でも何言ってるのかわからない言葉を立て並べた。
浩之は、何も言ってこなかった。
「綾よ。言葉の綾」と口の中で繰り返しながら、沈黙した浩之の顔をそっと見てみると、彼は視線を落としたまま、何かを思っているようだった。
しばらくして、彼が口を開いた。
「でも、オレが好きになったのは、綾香じゃなくって、先輩の方なんだ。長女だからとか、家柄がどうとかじゃなくて、『先輩』だから、なんだよな」
「……」
そう言って眠るように目をつむった浩之に、私はかけてやる言葉がなかった。
もう海辺の道から離れて、車は浩之の家に向けて走っていた。
その後は、二人とも口を開くことはなかった。
浩之の家の前に車をつけて、彼を降ろした。
「ありがとうな、綾香」
それだけ言って彼は家に入ろうと歩いていく。
肩を落として考え込みながら玄関のノブに手を掛ける彼を見ている内に、胸に何かがこみ上げてきていた。
「浩之!」
「ぁん? どうした?」
思い切って声をかけた私は、車を降りて振り向いた彼の側に走り寄っていく。
「浩之。姉さんのこと、どうするの?」
「……」
「もしかして、諦めるつもりなの?」
「――オレなんかじゃ、どうやっても釣り合わないのかも知れないよな」
寂しげな表情を浮かべる浩之。そんな彼が、私には歯がゆかった。
「姉さんのこと、嫌いになったの?」
「まさかっ!」
彼の瞳に光がよみがえる。
「そんなことあるわけないじゃないかっ! オレは今でも先輩のことが好きだ。でも、オレと先輩とじゃ――」
「『でも』、じゃないでしょ? 諦めたいなんて思ってないんでしょ? だったら頑張りなさいよ。諦めるなんて浩之らしくないわよ。いつも莫迦で、がむしゃらやってるのがあなたでしょ?」
「綾香?」
いきなり言葉を荒げ始めた私に浩之は圧倒されたみたいだ。それでも私の言葉は終わらない。
「姉さんのことが好きなんだったら、頑張りなさいよ! 姉さんのことを愛してるなら、勝ち取りなさいっ!」
「――」
「……私も、協力してあげるから」
小指だけ立てて浩之の顔の前に右手を差し出した。疑問の表情を浮かべた彼に向かって言う。
「指切り」
子供っぽい約束の仕方だけど、今はそれくらいしか思いつかなかった。
少しの間その指を見つめた後、ふっ、と笑みをこぼした彼は、私の小指に自分の小指を絡ませた。
「約束、したよ」
「あぁ、約束だ」
――なんでだろう。
少しだけ、胸がつまった。
元気が戻ってきた彼の表情。生気が満ち始めた彼の瞳。
それを見たとき、なぜか私は胸に何かがつかえるような感覚を覚えた。
つかえを無視しながら、彼に言葉をかける。
「約束したんだから、くじけたらしょーちしないわよ」
「わかってるさ。お前が本気出したら、オレじゃ勝てないからな」
笑いながら指を解いて、浩之は玄関に向かって歩き始めた。
「またな、綾香。オレも自分なりに方法を考えてみるよ」
「私も何か考えてみるわ」
「期待してるぜ」
「まかせなさいって」
言葉ばかり元気に言いつつ、浩之が家の中に消えていくのを、右の小指を胸に抱きながら見送っている。
まだ少し早い秋風が、髪をなびかせていった。
浩之はもう家の中に入ってしまっていた。
「ふぅ」
なぜか溜め息が漏れてきて、風の中にかき消されていった。
* 2 *
話を聞き終わった長瀬が飲むのに釣られるように、私もカップを口にした。少し渋めに淹れたらしい紅茶の香りが、鼻を通って喉に流れていく。
「やはり、その話でしたか」
執事長の長瀬――姉さんはセバスチャンなんて呼んでるけど――は、したり顔で頷いた。
「知ってたの?」
「いえ。旦那様から直接お聞きしていたわけではありませんが、藤田様をお呼びしろと言われたときから、だいたい予測はしておりました」
そう言って長瀬は渋い顔をした。
浩之と指切りを交わして数日、どうにか姉さんと彼を結びつける方法を考えていたけど、さすがに一人じゃ無理だと判断した。
姉さんや私ばかりでなく、その大雑把なくらい明るい性格からだろう、彼は屋敷の人間にけっこう人気がある。とくにどうやら姉さんと彼の仲を実質的に取り持ったらしい長瀬とは、やり合いながらも認め合ってるらしかった。
私が生まれる遥か前から執事として来栖川家に仕える長瀬は、屋敷内のことについてかなり顔が利く。浩之との関係のことを考えて、私は長瀬にどうするべきか話を持ちかけるために、彼を自分の部屋に呼び出していた。
「どう思う?」
部屋の小さなテーブルに添えられた椅子に窮屈そうに座り、深く息をつきながら考え込む長瀬。しばらくいろんな場所に視線を走らせた後、彼は答えた。
「大旦那様は芹香様があのように内気に育ってしまわれたことを心苦しく思われていらっしゃいますから、どのような意見をおっしゃられるかわかりません。ですが旦那様のお言葉につきましては、わたくしも理解出来る部分があります。
藤田様はあのように下……、いえ、一般の家柄の出の方です。あの方も頑張っておられるようですが、はっきり言わせていただければ不安に思うことはしばしばあります。性格の軽さはいかんともしがたいのですが、芹香様のお言葉を信じる限り、学力についてはそこそこのレベルに達してきておられるようです。けれども芹香様とのこの先のことを考えた場合、やはり一抹の不安を抱かずにはいられません。たとえ藤田様がこの家を継ぐにふさわしいほどの能力を身に着けらしたとしても、周囲の者たちが納得するかどうか……。それを強行して来栖川家の後継者として収まったとして、これから先の問題は多く、大きいでしょうし、最悪の場合、旦那様のおっしゃられるように来栖川グループの未来が――」
「長瀬」
雲行きの怪しい方向に話が行くのを察して、私は長瀬の名前を呼んだ。でもうつむき考え込みながら話す彼は、私の声に気づかない。
「――来栖川グループが揺らげば日本経済が揺らぐことになります。そして世界中のグループ関係者に関してましても――」
「長瀬っ」
それでも、彼は止まらない。
「やはりわたくしは芹香様と来栖川グループの将来を考えるに当たり――」
「長瀬っ!」
大声で叫んで、私はテーブルに平手を叩きつけた。
それでやっと気がついた彼は、はっと顔を上げる。すかさず私は言葉を差し込んだ。
「確かに浩之はまだまだかも知れない。でも彼は頑張ってるのよ。――来栖川の家を継ぐのが難しいのは私でもわかる。だからって、絶対無理ってわけじゃないでしょ? 無理じゃなくなるように、彼は頑張ってるんじゃない。
……それにね、長瀬。あなたは姉さんが家の都合で結婚するのと、好きな人と結婚するのと、どっちがいいと思ってるの?」
「それは……」
長瀬は煮え切らずに言葉を濁す。
そんなことは許さない。
これはもう戦いだ。姉さんに結婚相手を押しつけようとする父さんとの戦い。負ける気なんてこれっぽっちもなかった。
この戦いには、長瀬の協力がどうしても必要になる。だからはっきり答えを聞くまで、私は引き下がれない。
わき上がってくる気持ちのまま、テーブルに手をついた状態で彼に詰め寄るように顔を近づけた。
「家のことには厳しいあなたが姉さんと浩之とのつき合いを許してるのはなぜ? 屋敷の出入りまで許してるのはなぜ? 姉さんのことを想ってるからじゃないの?」
顔を伏せて長瀬は沈黙してしまう。
さらに詰め寄るのと同時に、私はエクストリームの試合に臨むときのように闘志を込めた視線を向ける。
「あなたも浩之のことをけっこう認めてるんじゃないの? 姉さんのことを明るくしていく彼を見ている内に、そんな風に考え始めてるんじゃない? 違う?」
「わたくしは……」
「姉さんが押しつけられた相手と結婚してもいいわけ? 好きな人がいるのに、その人と幸せになるより、家のことの方が大事? せっかく姉さんが喋るようになってきてるってのに、また前みたいに無口になっちゃってもいいわけ?」
「……」
身体が熱くなってきた。言葉が堰を切ったように口をついて飛び出してくる。
その熱さに流されるように、長瀬にトドメの言葉を投げかける。
「長瀬。あなたは姉さんが家の都合で結婚して無口に戻るのと、可能性がないわけじゃない浩之と結婚して幸せになるのとどっちが――」
そこまで言った瞬間、身体中に何かが広がった。
抑えられないその感覚に、私はそれ以上言葉を続けることができなくなっていた。
どうしたのかわからない。頭の中には、まだ見ぬ礼服姿の浩之と、ウェディングドレスに身を包む姉さんの姿があった。
何かわからないその気持ちが溢れそうになるのを、私は歯を食いしばって耐える。
「わたくしは……」
長瀬が、下を向きテーブルに両手を組んで言う。
「わたくしは、来栖川家の未来が心配です。ですが、芹香様がお幸せになるのを一番に願っています」
「だったら、協力しなさい」
前を向いているのに耐えかねて、私は長瀬に背中を向けた。彼に見えないように、鼓動が激しくなってる心臓の上に手を当てる。
「姉さんと浩之の関係を父さんに認めさせるのに、協力しなさい」
「……わかりました。芹香様がお幸せになるのであれば、この長瀬、出来る限りの力を尽くす覚悟でございます」
震え出しそうになる身体を必死で抑え込みながら、私は首だけで頷いた。
* *
「ふぅ」
溜め息が漏れていった。
やっぱり最近ヘンだ。溜め息の数が増えている。ボォッとしている時間も多くなってるし、何をしてても身が入らない。
それに昨日、長瀬と話しているときにわき上がってきた感覚。身体が震えてしまうほどのあの気持ちの正体は、いったい何だったんだろう。
「ふぅ」
再び溜め息が漏れてきて、木々をざわめかす秋風の中に消えていった。
サンドバックが激しい音を立てている。
もうそろそろ肌寒さを感じる空気の中、葵が汗をかきながらサンドバックに向けて連続的な蹴りの練習をしている。
いつも彼女が練習をしている小さな神社の縁に座り込みながら、私はその様子を何となく眺めていた。
今日は大会を来週に控え、葵に稽古をつけて上げるために来ていた。ずいぶん前から彼女と約束していたことなのに、私は稽古を見てあげるといいながらボォッとしてるばかりだった。
「あの……、綾香さん?」
いつの間にか練習を中断した葵が目の前まで来ていた。
「どうしたんですか?」
「ん? 私がどうかした?」
「何となく、元気がないみたいな感じがして……」
「そぉ? そんなことないわよっ」
立ち上がってにっこり笑って見せた。
「ほら、練習でしょ。約束通りつき合って上げるわよ」
トレーニングウェアについたほこりを払いながら、とりあえずサンドバックに近づいていく。
振り向いてみると、葵はまだ社の前に立って考え事をしてるみたいだった。
「どうしたの? 葵。練習しないの? そんなことじゃあ今年もエクストリームでいいとこ狙えないわよ」
「それはそうなんですけど……。あの、綾香さん。何か悩み事でもあるんですか?」
――しっかり見透かされてるし。
実際悩み事があるのは確かだから否定するわけにも行かず、かといって葵に話しても仕方ないので、何も言わずにそっぽを向いた。
「大会直前ですし、大丈夫なんですか?」
「たいしたことないわよ。私自身のことじゃなくて、姉さんのことだからね」
心配そうな顔を向けてくる葵に、私は適当に答えを返した。
「あ、そうだったんですか。私はてっきり……」
「てっきり?」
「いえ、何でもないですっ」
私が合わせた視線を顔を赤くしてそらす葵。
「葵。はっきり言ってみなさい。あなたはそういう感じだから試合でも実力を出し切れないのよ」
茶化したような目で葵のことを睨みつける。困ったみたいに視線を彷徨わせた後、彼女は重そうな口を開いた。
「私は……あの、もしかしたら綾香さんに、その……好きな人でも、出来たのかな、って――」
「え?」
「あ、えと、そっ、そんなことないですよねっ。綾香さんに限ってそんなことで悩むなんてこと、ないですよね」
慌ててフォローを入れながら無理な笑みを浮かべる。
――なぜ、そんな風に思ったのかしら?
不思議になって、私は葵に訊いてみた。
「葵。どうして私が誰かを好きになったなんて思ったの?」
「それは……。私も――、あ、いえ、私が前に好きな人が出来たとき、ボォッとしてることが多くなって、溜め息が増えたりして……。でもそのときは、告白も出来ずに中学を卒業しちゃって、そのままになっちゃったんですけど……」
「今の私が、そのときの葵と似てるって?」
「……はい」
葵はすまなそうな顔をしながら下を向いた。
「ふうぅん」なんて適当に応えながら、私は内心自分でも驚くくらい焦っていた。
――私が恋してる?
ぜんぜん、そんなこと考えもしなかった。
私だって恋の一つや二つ、したことないわけじゃない。今は特定の相手とつき合ったりはしてないけど、そのときの気持ちがどんなものだったかくらい、憶えてる。
今の私の状態は、これまでに経験してきた恋してるときの気持ちとは違う。もっと、なんて言うか、苦しいって言うか、辛いような……。
――でも何でだろう。
私がいま悩んでいるのは、姉さんと浩之をどうやって父さんに認めさせるかのはず。それなのに、私は何でこんなに苦しんでるんだろう。
認めさせる方法を考え出せばいいだけなのに、私が溜め息をついているとき考えているのは、それとは別のことだったような気がする。
「思い切って告白しちゃば良かったんですよね。三年のときは同じクラスだったし、告白する機会がなかったわけじゃないですし」
うつむいた葵が、思い出に浸るように語り始めた。
「でもその人には、私よりも先に彼女がいて……。本当に好きだったから、思い切って告白しちゃえば良かった、って、今でも時々後悔したりすることもあるんですよ。でも――、その人の彼女って言うのがやっぱり同じクラスの娘で、私と気が合う友達の一人だったから……」
言葉の語尾は、緩やかな風の中に消えていった。
そのとき私は何かを感じていた。
一言では言い表せない不思議な感覚。
泣いているのかどうなのか、顔を上げない葵を見ながら、そのときの彼女の気持ちがわかるような気がしている。
――つまりそれは、私が浩之のことを好きだってこと?
そんなことあるんだろうか。
顔がすごくいいってわけじゃない。悪いわけでもないけど。性格もがさつで大雑把だし……、意外と優しいところもあるか。でも運動は出来ても勉強はまだまだだし、それから、それから……。
だんだん胸が詰まってくる。
彼のことを考えている内に、息をしているのすら辛くなる。
浩之のことが好きだなんて否定しようと理由を考えているのに、そんなことをしてると彼の顔が浮かんできて、反論の言葉を失っていった。
やっと、気がついた。
――私は浩之のことが好きなんだ。
好きになるのに理由なんてたいしていらない。気がつくと好きになってる。それくらい経験で知ってた。ただ、好きになってることを私が気がつかなかっただけ。
「違うわよ」
「え?」
「あなたの思い違いよ、葵。今のところ私に好きな人なんて出来てないわ」
心の内とは裏腹に、私は葵に向かってキッパリと否定の言葉を返した。
「姉さんに出来た彼氏が普通の人でね、二人を結びつける方法が見つからなくて悩んでるだけ」
見かけばかりは元気良さそうに、涼やかな笑みを浮かべる。けれどその心は重たい。胸に詰まるような感覚があって、知ってしまった自分の恋に戸惑っている。
「さっ、葵。練習しましょ。そのことは私の問題だから、葵に手伝ってもらうことはないわよ。それよりも、今は来週のエクストリームに向けた練習の方が大事よ。姉さんのことで近頃練習に身が入らなくてね、あなたにはそっちの方で手伝ってもらうことにするわ」
「はっ、はい」
恋煩いにかかってる自分を人に見せるなんて私らしくない。
だから私は、すべての気持ちを自分の内に封じ込めて、葵をサンドバックの前へと導いた。
* *
――このままじゃダメだ。
私はそれを強く感じていた。
姉さんが主役のパーティまであと三日。第三回エクストリームはその翌日。期末試験はまだ少し先だけど、ついこの前の数学の小テストは満点を逃していた。
やることはいくらでもある。やらないと私は私を維持できなくなる。
それなのに、それがわかってるのに、私は今日も自分の部屋の机に突っ伏して、浩之がいつも通っていた門からの一本道が見える窓の外を眺めてるだけだ。
泣きたくなってきた。
何も出来ないでいる自分が悔しい。浩之の顔が頭の中に浮かんで来る度に、溜め息を漏らしてる自分がやるせなくてたまらない。
――どうしてこんな風になっちゃってるんだろう。
浩之は、姉さんのことだけを見てる。姉さんも浩之のことだけを見てる。いまさら私が入り込む隙なんてないのかも知れない。
もし彼が好きになったのが私だったら……。
そんなことを考えたりもする。
でもそれは違う。
彼のことが好きになってる自分に気がついた今なら、彼のことが忘れられなくなってる今の私ならわかる。
私が好きになったのは、がむしゃらで大雑把で、それなのに優しくてけっこう真面目で、それから、姉さんと結ばれるために頑張ってる彼。
もし浩之が私のことを好きになってたら、逆に私が彼のことを好きになることなんてなかったかも知れない。
葵に罪があるわけじゃない。でも、彼女の言葉で、私はそのことに気づいてしまった。
気がつかなければ良かった。浩之が好きなのに気づかなければ、姉さんと彼をくっつけて、それだけで終わったかも知れないのに。
けれど、私は気づいてしまった。
もう戻れない。一度知ってしまったら、そのことを忘れることは出来ない。
「私は、どうしたらいいの?」
生まれては消えていく疑問符。片づけられない私の心。
つぶやいて、私はもう数える気もなくなった溜め息を吐き出す。
私がやらなきゃ行けないことはわかってる。
もし私が何もしないで、浩之と姉さんが結ばれなかったとしても、その後に残る浩之は、私が好きになった浩之じゃない。
――けど……。
いつも見ていた、浩之と姉さんの姿が浮かぶ。幼い頃、私が両親と一緒にアメリカに行く前、姉さんは良く笑ってたし、今ほど無口じゃなかった。私がアメリカにいる間に別人のようになってしまった姉さんが、浩之といるときだけ、幼い頃の自分を取り戻してる。
表情で、声で、笑えるようになった姉さん。
なぜかわからない。身体が熱くなってきた。
何かが身体の底からわき上がってきて、私を突き動かそうとする。
この感覚がなんなのか、私にはもうわかってる。
『負けず嫌い』
私はよく、みんなからそんな風に言われる。
私を突き動かそうとしてるのは、そんな負けず嫌いな自分。浩之を姉さんから勝ち取ろうとする自分。
浩之と指切りをした小指が熱くなってくる。その指を胸に抱いて、目をつむった。
指から、浩之への想いが溢れてくる。同時に届くことがないその想いが、私を締めつける。
――このままじゃ、私はダメになるっ!
わき上がる自分を抑え込んで立ち上がった。
いま私がやるべきことは一つだ。それもやらないでいたら、私はもっとダメになる。
想いを振り切って、私は部屋を飛び出した。
「姉さんっ!」
扉を力任せに押し開けた。
激しい音を立てた扉に、ボォッとしてたらしい姉さんは驚いた顔をして私に目を向けた。
「『どうしたの?』じゃないでしょ」
浩之の屋敷の出入りがほぼ禁止されていた。姉さんもこれまで以上に監視の目が厳しくなり、大学に行く以外寄り道は厳禁になって、その声はこれまで聞いた中で一番くらいに小さくなっていた。
軟禁に近い状態で、浩之に会えないために日がな一日窓の外ばかり眺めている姉さんに叱咤する。
「パーティは明々後日よ。このまま何もしないでいいの?」
辛そうにうつむく姉さん。
そんな姉さんを私は睨みつける。
「何も出来ないことないでしょっ。父さんに直接掛け合うとか、やれることはあるはずじゃないの? 『でも』じゃないわよっ! 姉さんがそんな風に弱気だからダメなんじゃない。このままじゃ、浩之と別れることになっちゃうわよ。それでもいいの?」
勢い良く顔を上げて、フルフルと首を横に振る。でもすぐその後、姉さんはまたうつむいてしまった。
睨んだ目のまま近づいていって、私は姉さんの両肩をつかんで顔を上げさせた。
「姉さん。浩之のこと、好きなんでしょ?」
こくり、と肯定の返事。
「本当に彼のことが好きなんでしょ?」
コクコク、と二度の頷き。
「もし結婚するとしたら、浩之しかいない?」
瞬間、姉さんの顔が真っ赤になった。それでも姉さんはしばらくして、力強く頷きを返してきた。
胸が詰まった。
もう二人の間に私が入る隙がないのなんてわかってる。それなのに負けず嫌いの私が、浩之を奪ってしまえと誘惑する。
「……っ!」
「あ、ゴメン」
敵意に近くなっていた熱さが、いつの間にか姉さんの方をつかむ両手に力を込めさせていた。
両手を離し、深呼吸して暴れようとする心をまとめてから言う。
「だったら、私が手伝ってあげる」
「?」
「姉さんと浩之のことを父さんに、それから、パーティに来るみんなに認めさせるのを手伝ってあげる」
そのための方法と、実現させるための計画はどうにか見つけ出していた。後はそれを姉さんと浩之、それから長瀬に話すだけ。
「もちろん大丈夫よ。私が考えた計画なら、父さんも二人の関係を認めざるを得ないわよ。だからそんなに心配そうな顔をしないで」
言っているのにまだ心配そうな目で私を見つめてくる姉さんの肩をポンと叩く。
「ほらほら、笑って笑って。計画が成功したら、姉さんは晴れて浩之とつきあえるようになるんだから」
ウインクしながら笑みをかけても、まだ姉さんの表情はかわらない。
これ以上その表情を見ていられなくて、私は姉さんから目をそらした。
身体の熱さがまだ抜けない。
腕を組むようにしながら、震え出しそうになる身体を両手で抱く。
それでも抑えきれない気持ちを、声にだけは出さないよう努力する。
「決行はパーティ当日。みんなに計画の内容を話さないと行けないから、今日か明日の夜、一度屋敷を抜け出すわよ」
* 3 *
来栖川グループ会長に代わり、マイクの前に立った次期会長とみんなに認められている男、来栖川宗也の挨拶が終わった。司会が口を開き、ついにパーティの主役、来栖川芹香が姿を見せる。
芹香が現れた瞬間、ダンスホールには歓声と溜め息が溢れた。
ホールを見渡せる二階のフロアに立った純白のドレスに身を包む芹香。いつもきれいな髪はいつも以上に梳られ、かすかばかりの化粧が、飾り気の少ないドレスとともに、彼女が持つ美しさを引き立たせていた。
父親に目で促された芹香はマイクの前に立った。しかし彼女の目は何かを待つかのように閉じられ、その口は決然と引き結ばれている。音量が一杯になっているはずのスピーカーから声が発せられることはない。
フロアに居並ぶ親族たちが訝しむ目を向け始め、ホールの人々がしびれを切らせた頃、それは起こった。
「芹香っ!」
男の声が静まり返っていたホールに響きわたった。
その場にいる全員が声のした方向に目を向けると、庭に面したガラス戸を押し開けた浩之が立っていた。
視線を一身に受けながら、浩之は二階フロアに続く階段に走り寄る。それに呼応して、それまで微動だにしなかった芹香が階段を駆け下りだした。
一瞬の出来事だった。
階段の下で芹香が浩之の胸に飛び込むまで、誰ひとり反応出来る者はいなかった。みんな小さく口を開けて、突然起こった出来事を見つめるばかりだった。
「いくぜ、芹香」
芹香が上気した顔で嬉しそうに頷くのを見て、浩之は走りだそうとした。けれど一瞬それを止めて、次期来栖川会長、宗也を睨んだ。
「あの者を、あの二人を止めろっ!」
浩之の睨みによってわずかな時間ひるんでいた宗也の声は、既に遅かった。もう二人は庭に走り出て、門の前にエンジンをかけたまま止まっているリムジンに逃げ込んでしまっている。
「上手く行きましたな」
アクセルを踏み込みながら、長瀬が息を切らして座っている後部座席の二人に声をかけた。
「あぁ。先輩も上手くやってくれたよ。な、先輩」
「……はい」
突然の激しい運動と余るほどの嬉しさで顔を赤くしていた芹香は、浩之の問いかけに満面の笑みを浮かべ、はっきりとした声で応えた。
* *
第三回エクストリームの大会会場は熱気に包まれていた。
私が見越していた通り、第三回大会は第二回大会よりも規模が大きくなり、協賛する会社の数、参加者数ともに多くなっていた。それと同時に、知名度は上がり、集まってくる報道陣の数は第一回からすると十倍近い数になっていた。また、日本ばかりでなく海外からの取材も急増している。
そしてなんと言ってもこの第三回が示すエクストリームの成功の証は、大会会場がついに日本武道館になったことだった。
海外からの参加者も受け入れ、規模ばかりでなくレベルも上がっている第三回大会で、高校生女子部門二連覇を果たしている私は、その部門において一番の優勝候補に挙がっている。
それなのに私は、順番待ちをする控えのベンチに座りながら、溜め息を漏らしてばかりいた。
「ふぅ」
多くの人間が予選をしている様子を心なく眺めながら、私は溜め息を漏らし続けてる。
作戦の結果は、見ないことにした。
翌日が今日の大会だったから、それを理由にパーティに出席せずに屋敷を出てきていた。
作戦が始まってしまえば私が出来ることなんてほとんどない。逆に作戦が実行に移されたとき私がどうなってしまうのか不安で、その場所にはいられなかった。
――必ず優勝する。
その思いは強いのに、心の中で空転してるばかりだ。試合を前にしながら、いつものように上がってくる身体の熱さが、今日はぜんぜんない。
――作戦は成功したかしら。
頭の中では幾度かシミュレートした作戦の様子が何度となく繰り返されている。繰り返される度に、私は溜め息を漏らしている。
「これで、良かったのよ」
他の誰にも聞かれないように、口の中だけでつぶやいた。
浩之と姉さんの間に、私が割って入る隙なんてない。一昨日の夜、強くそれを感じた。
試合前なのに集中できず、私の頭の中に作戦の説明をした一昨日の夜のことが浮かび上がってきた。
「駆け落ちっていうのも一つの手だけど、あんまり現実的じゃないわね」
人差し指を立てながら、私はその場にいる全員に説明を始めた。
いま私がいる場所は浩之の家のリビング。ここには浩之の他に、屋敷からこっそり抜け出してきた姉さんと長瀬、そして私の四人がいた。
ソファに三人を座らせて、私はテレビの前に立ちながら全員を眺める。
「じゃあ綾香、どうしたらいいんだ?」
「焦らないでよね。これから順を追って説明するんだから」
浩之の問いかけをウインクで受け流す。
「一番の目的はもちろん、姉さんと浩之が結ばれることよ。でも駆け落ちしたっていいことないわよ。その後の生活で困るだけね」
「確かにその通りだと思いますが……。綾香様には何か方策がおありで?」
「もちろんっ。だからこそみんなをここに集めたんじゃない。計画には長瀬も協力してもらうことになるけど、いい?」
「それは……」
ちらりと浩之と姉さんの方に視線を走らせた後、長瀬は「はい」と答えた。
「姉さんと浩之が駆け落ち以外で結ばれるためには、父さんに浩之の存在を認めさせないといけない。それはわかるわね?」
「あぁ」
「認めさせるにしても、浩之の家柄はどうにもならないし、勉強についてもこれから認めさせて行くしかないわ。でももうそんなことしてる時間はない。パーティの後には、姉さんの意向とは関係ない場所で婚約者の選定が始まっちゃう。そうなったら完全に、と言うわけじゃないけど、浩之はその選定対象者の中に入らないだろうから、事実上手遅れになるわね」
「だけど綾香、パーティはもう明日だぜ」
「そう。だからそのパーティを利用するのよ」
三人の顔に疑問の色が浮かんだ。それをじっくり眺めた後、私は解説に移る。
「浩之。『卒業』って映画、知ってる?」
「知らねぇけど。それがどうかしたのか?」
「そっか、知らないか。まぁけっこう古い恋愛映画だからね。ともかく、その映画のラストで有名なシーンがあるのよ」
「有名なシーン?」
「そっ。主人公の男がヒロインの女の人を結婚式会場からさらっていくっていう奴なんだけどね。――それを、明日のパーティでやるわよ」
意味がわからないらしい浩之は、ぽかんと口を開けてるだけだ。対してわかったらしい長瀬が口を開く。
「旦那様に二人の関係を認めさせるために、パーティに集まった方々を利用する……。そういうことですかな?」
「その通り。姉さんの婚約者候補全員の前で浩之が姉さんを奪って逃げちゃう。そうしたら父さんでも二人の関係を認めざるを得ないわ。なにしろ証人はいくらでもいるんだからね」
浩之と長瀬はそれぞれに考え込み始めた。ただ姉さんだけは、不安そうな顔を私に向けてくる。
「大丈夫よ、姉さん。長瀬が手引きすれば屋敷に入り込むのは簡単だし、タイミングさえ間違えなければ、失敗することなんてないはずよ。だけど逆に失敗は許されないわ。失敗したら、二人が結ばれる可能性はゼロになる。わかってるわね、浩之」
「あぁ」
決意を固めた目で浩之は頷いた。
そして、私が説明している間ずっと握っていた姉さんの手に力を込めた。その手にさらに、姉さんの右手が添えられる。
胸が、苦しくなった。
作戦なんて成功しなければいい。そうすれば浩之は私のものになる。
そんなことを考えいてる自分が、心の隅にいた。
でも二人の様子を見てるだけでわかる。
二人の間に私の入る隙なんて、ない。
――これでいいのよ。
そう自分に言い聞かせた。
二人を結びつけなければ、私はいつまでも自分を取り戻せなくなる。どこまでも墜ちていってしまう。
私が浩之のことを諦められるようになるために、二人は結ばれなくちゃ行けなかった。
「じゃあ詳しい計画の内容を説明するわよ」
自分の気持ちを押し隠して、説明を続ける間、私は笑みを浮かべ続けていた。
* *
「綾香さんっ! 頑張って下さいぃーっ!」
葵の声援を受けた私は、リングの真ん中から少しずれた場所に立った。
一般部門に比べて人数の少ない高校生部門はまもなく終わりを迎える。
今年、葵はずいぶん健闘したけど、準々決勝で敗退していた。そして私は今、決勝戦の舞台に上がっている。
さすがにここまで来たら、私も戦いに集中できるようになっていた。もう二人のことは頭の中から消えつつある。調子は万全とは言い難いけど、予選の頃から比べれば調子を取り戻していた。ずいぶん危なげな戦いをしてきた。でも決勝を落とすわけにはいかない。三連覇は、必ず手に入れてみせる。
「よしっ」
気合いを込めて相手を睨みつけた。会場を満たしている騒がしいほどの声援が遠退いていく。
試合前の緊張を心地よく感じながら、レフェリーの試合開始の声で構えを取った。
決勝の相手は私と同じ空手から出た選手だった。初参加だけど、決勝ともなれば相手も一筋縄では負けてくれない。一本目は私が取り、二本目は相手に取られていた。
流派こそ違う。でも同じ空手となればヘタなフェイントは通じない。しばらく睨み合いが続いた後、向こうから仕掛けてきた。
隙をうかがう形での打ち込み。
私はそのほとんどを軽いステップでかわし、いくつかを腕で受け流していた。
――強い。
正直にそう思う。
第一回、第二回の決勝戦とはレベルが違ってきてる。隙が見つけ出せず、相手の一方的な攻撃が続く。
身体の熱さが増していく。『絶対に勝ってみせる』、その思いが私を試合に集中させていく。
どうにか隙を見つけて反撃。
しかし相手のガードは厚い。渾身の力を込めた右の拳は、組んだ両腕によって防がれてしまった。
再び試合が相手の方に流れ出した。
左右のタイミングが合ったパンチとともに、良く上がる脚が私を攻め立てる。
たいしたダメージにはならないけど、小さなそれが溜まっていくのがわかった。このままではリングの端に追いやられ、一方的な攻撃を受けることになってしまう。
けれど私は相手の弱点を見抜いていた。
身体も体重も私以上の相手だけど、技についてはまだまだだ。
――そこっ!
ハイキックを身体を沈めてかわした私は、軸足に向けてローキックを放った。
そんな甘い蹴りはもちろん決まらない。けれど敵が大きく飛び退いたことでラッシュは終わった。
こうなれば私のペース。
着地から体勢を整えるタイミングを計って拳を固めながら相手に向かって飛びかかっていく。
「そこだっ! 綾香ぁーっ!」
なぜだろう、それまで耳に入らなかった声援が耳に飛び込んできた。
半分無意識のうちに、声の元を目だけで探している。
――あっ……。
客席は立ち見が出るほど人が溢れていた。それなのに、さして苦労せずに私は声の主を見つけ出していた。
入り口の近くに立って、右手を口の横に当てた浩之が私に向けて声援を送ってきていた。彼の左手は、隣に立ち幸せそうな笑みを浮かべる姉さんの右手を握っている。
瞬間、身体を満たすあの感覚。
――姉さんになんて負けないっ!
幸せに包まれる二人を見た私の身体には、試合の相手に向けてるもの以上の熱さが満ちていた。
そんな一瞬の気の迷いが、勝敗を決した。
「くっ……」
相手がその隙を見逃すはずはなく、私は強烈な突きを受けてマットに倒れてしまった。
レフェリーの決着の声が聞こえてきた。
――負けた。
打撃のあまりの強さに、私は舞台の上にうずくまりながらそれを感じていた。
けれど私の熱さは消えはしない。
試合で負けたことよりも、姉さんに対する敵対心がどんどん強くなっていく。
――これでもダメなの?
浩之と姉さんを結びつければ、諦められると思った。けれど負けず嫌いな私は、それでも諦める気がないらしい。
「ひろ、ゆき……」
攻撃によるものと、心による胸の痛みで、私はうめき声を残して意識を失った。
* 4 *
「あの二人、どう?」
渋めに入れたらしい紅茶をひと口飲み、私は穏やかな笑みを浮かべた。
「順調のようです。来週には二人の婚約パーティも開かれることになりました」
「そう」
長瀬の言葉に短く応えて、もうひと口紅茶を飲んだ。
冬も近づいた昼下がり、私は仕事の合間に休憩を取っている長瀬とともに食堂でお茶を楽しんでいた。
パーティから、もうひと月近くが経っていた。浩之は見事に姉さんをパーティ会場から連れだして、集まっていた人々に二人の関係を見せつけた。それによって浩之と姉さんの関係を無視できなくなった父さんは、いくつかの厳しい条件と交換につき合いを認めることになった。
浩之はその第一条件、経済系の一流大学の推薦入学を決めていた。そのために、二人の婚約パーティが開かれることになったわけだ。
浩之と同じように、私も高校卒業後の進路を決めていた。
私の決めた進路は――。
「まだ充分とは言えませんが、藤田様もこれからです。何より芹香様がお幸せになることがわたくしは嬉しゅうございます。パーティ以後、芹香様は今まで以上に明るくなり、この前など笑みを見せらせるようになって……。わたくしは、わたくしは……」
感極まった長瀬は目尻に溜まった涙を眼鏡を外して拭い始めた。
「良かったわね。これで姉さんも大丈夫だわ」
まるで他人事のように、私は言う。
「綾香様?」
「ん?」
あっという間に泣くのを止めた長瀬が私に問うてくる。
「どうなされたのですか? 何となく、いつもの元気が感じられませんが?」
「そんなことないわよ。私はいつも通りよ」
「ですが、ここ最近、いつもそのような感じがするのですが……」
答えを返さず、私は微笑んだ。
エクストリーム三連覇を逃したときに感じた想い。私はどうやら姉さんと結びつけても浩之のことが諦めきれないらしい。このままでは私は姉さんから浩之を奪おうとしてしまう。
だから、私は決めていた。この気持ちをどうにかするために、次に取るべき行動を。
「長瀬。二人のことは頼むわね」
「もちろんでございます。藤田様はこれからもっともっとしっかりして下さらねばなりません。ですが綾香様……」
それ以上言葉を続けさせず、私は立ち上がって長瀬の肩に手を置いた。
「それからね、もう一つ頼みたいことがあるの」
「綾香、様?」
もう決意を翻すつもりのない私は、微笑みながら長瀬に頼み事の内容を話し始めた。
* *
集まった人々はそろそろ帰宅の途に着き始めていた。そうなればパーティはお開きだ。
宗也氏――これからは「お父様」とでも呼んだ方がいいのだろうか――はまだ渋い顔をしていたが、オレと芹香の関係をいまさら壊そうとは考えていないみたいだった。無事に婚約の宣言は終わり、オレたちの結婚は晴れて確定事項となった。
いまだ至らないオレはここまでこぎ着けられたのは、なんと言っても綾香がいてくれたからだ。
今になってやっと集まってくる人々から解放されたオレは、あらためて綾香に礼を言おうと思って彼女のことを探していた。
「芹香っ」
まだかなり多い人をかき分けて、オレは芹香の側に寄っていった。
この前のパーティのときの純白のドレスも良かったけど、今の薄ピンク色のドレスも見惚れるほど似合っていた。ワイン……じゃないよな、たぶんジュースが入っているグラスを片手に、芹香は表情に見えるようになった静かな笑みで会場内を眺めていた。
「綾香どこにいるか、知らないか?」
フルフルと首を横に振る彼女。
「そうか。礼のひと言でもしようと思ってたのに、あいつはどこに行ったんだ?」
ずいぶん大きくなったけど、それでもまだしっかり聞こえるほどじゃない声で芹香が教えてくれる。
「婚約宣言の後からいなくなったって? そうか。どこ行ったんだろうなぁ」
そんなことを言いながら会場内を見回していると、セバスチャンを見つけた。
「おぉ~い、セバスチャン。綾香がどこ行ったか知らねぇか?」
「藤田様っ! これからあなたは来栖川家の人間になる方です。言葉遣いにはお気をつけ下さいっ」
近づいてきたセバスチャンは開口一番、耳に来る声でオレの言葉遣いを注意した。
「まったく、厳しいんだから……。って、それよりも、綾香だ。綾香」
再び注意の言葉がかけられる前に話題を戻した。
「綾香様は……」
なぜかセバスチャンは顔を曇らせる。
「あいつ、どうかしたのか?」
「藤田様。綾香様からこれを渡すように言われておりました。『餞別だ』とのご伝言です」
オレの目の前に突き出されたのは、鍵。それもその鍵は綾香のお気に入りの車、AZ―1のキーのはずだ。
「どういうことなんだ?」
キーを受け取らずに訊く。
「綾香様はもうこのお屋敷にはおられません」
「パーティ抜け出してまで、どこに行ったんてんだ?」
「綾香様の高校卒業後の進路を、藤田様はお聞きになりましたか?」
「進路?」
計画を実行したパーティからこっち、オレはいろんなことに追われてまともに綾香と話すことなんてなかった。もちろん、綾香の進路なんて聞いてない。
「綾香様は、海外に留学されることになりました。そして本日の最終便で、日本を発たれます」
「今日の、最終便?」
すぐさま腕時計で時間を確認した。出発時間はわからないが、まだ最終便が出る時間じゃないはずだ。だからって、空港に行くのに余裕があるほどでもない。
「何でいきなりそんなことになってんだ? オレは聞いてないぞ。どうして何も言わずにいきなり……。セバスチャン、お前は何か知らないか?」
「いくらか存じております」
「だったら教えてくれっ!」
セバスチャンに詰め寄った。しかし彼の答えは素っ気ない。
「それは、綾香様に直接お聞き下さい」
再び、キーが目の前に突き出された。
――オレは、どうすればいいんだ?
一応オレはパーティの主役だ。そのオレが完全にお開きになってない会場から抜け出していいのか?
「芹香?」
芹香がクイクイとオレの袖を引っ張っている。
「綾香のこと、頼みます」
なにかを訴えかけるような目で、はっきりと耳に聞こえる声で、彼女が言った。
長瀬からキーを奪い取る。車で突っ走ればまだ間に合うかも知れない。
「後のことは頼んだぜ、セバスチャン」
「かしこまりました」
「行ってくるぜ、芹香」
力強い頷きを見た後、人をかき分けつつガレージへと急いだ。
* *
「これで良かったのよ」
つぶやきを漏らして、私は鞄を床に置いて待合室のソファに座った。
私の乗る飛行機はやっと到着したところだ。これから乗客を降ろして、客席を掃除するとの放送があった。
さすがにこの時間ともなると、待合室に人影は少ない。出張するらしい鞄一つの会社員姿の人たちが、新聞を読んだりノートパソコンを広げてたりするだけだ。
「ほぉ」
まだ心の底では浩之のことを諦め切れてないらしい。空港に来る途中も溜め息ばかり漏らしていた。
――だからこそ、これで良かったのよ。
留学を名目に、私は二人の前から姿を消す。
このままあの屋敷にいたら、私は浩之を奪おうとしてしまうだろう。そんな悲しいだけの争いをしないためにも、私は日本から離れないきゃいけない。
これが最良の方法なんて思ってなかった。根本的な問題の解決になんてならない。処理できない私の心を、どうにか抑えるための苦しいやり方。
――なんて言うのかな、こういうの。言葉じゃないから、『言葉の綾』じゃないわよね。
そんなことを考えながら、私は飛行機に乗り込めるようになるまでの時間、その場所で過ごしていた。
時間が待ち遠しかった。早く日本を発たなければ、決意が揺らぎそうで、私は手を握ったり開いたりして、必死で耐えていた。
そんなことをしている内に、乗り込み可能となったことを告げる放送が流れた。
鞄を手に取り立ち上がる。ゆっくりと乗り込み口に向かって歩き始めた。
――莫迦だな、私。
ゆっくりと歩いているのは、浩之が来ないかと期待してるから。
もちろん彼が来ることなんてあり得ない。準備から何からを手伝ってもらった長瀬以外には、親くらいにしか話していないことなんだから。
「さよなら、浩之」
ゲートをくぐる一瞬、小さくつぶやいた。
まさにそのときだった、背後から私の名前を呼ぶのが聞こえてきたのは。
――まさか、そんなはずは……。
そう思いながら振り向いた。
そこに見えたのは、私に向かって走り寄ってくる浩之。
「うそ……。なんで? 何で浩之がここに来るの?」
「セバスチャンに、言われたんだ、自分で、確かめて来いって」
膝で身体を支え、浩之は息も絶え絶えになりながら言う。
「だから、確かめに来たんだっ」
顔を上げた彼が真剣な目で私を見つめる。
答えに詰まった。正直に、あなたのことが諦められないから、なんて答えられない。仕方なく、私はごまかしの言葉を並べる。
「修行をしに行こうと思うの。アメリカなら、日本よりも世界が広いわ。エクストリームで負けちゃったからね、もっと強くなって、それから帰ってこようと思うの」
微笑みで彼に答えた。
でも本当は、今にも泣きそうだった。姉さんに対して感じるのとは違う熱さが、こみ上げてきそうになってる。
「本当に、本当にそれだけなのか?」
「もちろん、それ以外にどんな理由があるって言うの?」
「それは……」
目をそらしてうつむいてしまう彼。
――鈍感。
心の中で罵りつつも、そんな彼のことが今でも好きな自分が悔しくて、微笑みが苦笑いなった。
「今日はありがとう、会いに来てくれて。私は今よりもっともっと強くなって帰ってくる。……姉さんと、幸せにね」
口を開こうとした浩之の頬に手を当てた。そのまま顔を近づけて、キスをした。
唇と唇とつけるだけの、短いキス。
言葉には出来ない私の気持ちを伝えるためのキス。
――これで、もう思い残すことはない。
「あや、か?」
「ご褒美よ。それとも不満?」
「い、いや、そんなことはねぇっつうか……」
おもしろいくらいうろたえている浩之に、私は口元を押さえて笑った。
「じゃあね、浩之。さよなら」
彼に背を向けてゲートをくぐろうとする。
そんな私を浩之は肩をつかんで引き止めた。
「違ぇだろ、綾香」
「え?」
振り向くと、彼は私に真っ直ぐな目を向けてきていた。
「帰ってくるって言ったじゃねぇか。『さよなら』じゃなくて、『またな』だろ?」
「浩之……」
目の前に、浩之の小指が突き出された。
「指切りだ。また帰って来るって、約束してくれ」
「……」
少しだけ困って、少しだけ嬉しくって、私は彼の小指に自分の小指を絡ませた。
「約束、したぜ」
「えぇ、約束よ」
もう止められなかった。涙が溢れてきて、それでも彼に向かって微笑みかけて、私はすぐに顔を片手で覆ってゲートをくぐった。
「またな、綾香。絶対帰って来いよっ!」
泣き笑いの顔なんて見せられず、手だけで応えて飛行機に乗り込んだ。
座席に着いても涙は止まらなかった。こみ上げてくる嬉しさが、いつまでもこぼれ続けている。
ふと窓の外に目を向けると、飛行場の建物の屋上に上がった浩之が手を振っていた。
――私が、私自身より強くなったら、帰ってくる。約束よ、浩之。
* 5 *
――もっと早くオレが綾香の気持ちに気づいていれば……。
そんなことを考えることがあった。
でも、気づいたところであのときのオレじゃどうにもならなかっただろう。
――たぶん、これで良かったんだ。
それが長い時間悩んだ末に出したオレの答えだった。あのときの綾香も、オレと同じ答えを出したんだろう。
かすかに感触が残る小指を眺めながら、オレはそんなことを思っていた。
まもなく結婚式が始まる。
これは、あくまで通過点だ。
これから先、オレにはまだまだ乗り越えなくちゃ行けない難関が待ち受けてるはずだ。
――乗り越えてみせるぜ、綾香。お前がせっかくつくってくれた道だからな。
決意を固めて立ち上がった。
鏡の中にいる自分を見て、顔を引き締める。
「行ってくるぜ」
自分に言い聞かせるように告げたとき、ドアを誰かがノックした。
「誰だ? 開いてるぜ」
その声に入ってきたのは、芹香だった。
「……」
オレは芹香の姿に言葉を失っていた。
きらびやかなウェディングドレスに身を包む彼女。ほんのりと頬を赤く染め、うつむいたその様子は、これまでに見たこともないほど美しかった。
「芹香――」
彼女に近づいて、その手を取った。
――オレは、こんな人と結婚するんだ。
身体が震え出しそうになっていた。色々な気持ちがこみ上げてきて、それ以上言葉が続かなかった。
「浩之さん」
顔を上げ俺の名を呼んだ芹香が、自分の背後に視線をやった。
何があるんだろうと、オレもそっちの方を見る。
「っ!」
再び、オレは何も言えなくなった。
「まさか……」
「そのまさかよ、浩之」
いいながら部屋に入ってくる一人の女性。
「約束通り帰ってきたわよ」
七年の歳月が経ってなおかわらない面影を持つ彼女が、あのときの小指を見せながらウインクした。