リリアーナとバイアス皇太子の婚約パーティーの前にリリアーナはヘリーナを筆頭に、帝国側の侍女達を交えてドレスの選別などに精を出す。
「まぁ、素敵ですわ、リリアーナ様!」
「本当に……まるで花の妖精のようです」
「きっと、殿下もお喜びになりますわ!」
帝国側の侍女達がこぞって称賛の言葉を並べた。
決してお世辞ではない、純粋な称賛であることは、彼女達のうっとりした表情が証明している。
十四歳という、少女と女の狭間にある絶妙な魅力が、淡い桃色のドレスと相まって最大限に引き立てられていた。まさに花の精と表現すべき可憐さだ。
「ふっ、当然でしょう」
「ヘリーナ、どうして貴女が胸を張っているのですか」
何故かドヤ顔のヘリーナに小さく笑ってから、リリアーナ自身も自分のドレス姿に納得したように頷く。
いくらこれが政略結婚であり、バイアス皇太子がレイナの言っていた嫌な奴でも夫になる相手であることには変わりない。であるなら、パートナーとして恥をかかせるわけにはいかないし、自分の婚約パーティーでもある以上、リリアーナも最大限に着飾ろうと思っていた。
それでも‶憧れ〟がある。絶体絶命の姫を、颯爽と現れて救う英雄のお伽噺。偶然の出会いに惹かれ合って、身分違いでありながらも多くの障害を乗り越えて結ばれるというラブストーリー。
馬鹿馬鹿しい。あり得ない未来だ。
頭を振って頭から追い出す。
リリアーナは聡明であったが故に、幼い頃から自分に課せられた使命とも言うべき在り方を受け入れていた。だから、心の底では嫌悪感を抱く相手であっても、立派な妻になろうという気持ちは本当であり、今夜のパーティーも立派に皇太子妃として務め上げようと決意していた。
叱咤するように、自分に言い聞かせる。
と、その時、部屋の外が騒がしくなった。かと思った次の瞬間、ノックもなしに扉は開け放たれ、大柄の男が遠慮の欠片もなくズカズカと部屋の中に入ってきた。
「ほぅ、今夜のドレスか……まぁまぁだな」
「……バイアス様。いきなり淑女の部屋に押し入るというのは感心致しませんわ」
「あん? 俺はお前の夫になる男だぞ? なにを口答えしてんだ?」
注意したリリアーナに、粗野かつ横暴な言葉で返した者こそ、リリアーナの婚約者であるバイアス・D・ヘルシャーだ。外見は父親であるガハルドに似ている年齢は二十六歳。
リリアーナは王族同士の付き合いで一年ほど前にも顔を合わせているが、相も変わらずといった態度だ。その度の過ぎた横暴振りも、他者を見下す態度も、嗜虐的な雰囲気も、リリアーナをまるで玩具を見るような目で見てくるところも、まるで変っていない。
上から下まで舐めるように見てくるバイアスの目に、リリアーナは悪寒を感じてぶるりと震えた。
「おい、お前ら全員出ていけ」
ニヤァと口元を歪ませると、侍女や近衛騎士達にそう命じた。帝国側の侍女達は慌てて部屋を出て行ったが、当然、近衛騎士達は渋る。ヘリーナなど露骨に不審と憤りを瞳に浮かべている。
それを見てバイアスの目が剣呑に細められたことに気がついたリリアーナは、何をするか分からないと慌ててヘリーナ達を下がらせた。
「何かありましたら、必ず大声をお上げください」
去り際にヘリーナが小さな声で耳打ちする。リリアーナも小さく頷いた。
最後まで心配そうにしながら全員が部屋から出て扉が閉まる。
「ふん。飼い犬の躾くらい、しっかりやっておけ」
「……飼い犬ではありません。大切な臣下ですわ」
「相変わらず反抗的だな? ククッ、まだ十にも届かないガキの分際で、いっちょ前に俺を睨んだだけはある。あの時からな、いつか俺のものにしてやろうと思っていたんだ」
そういうと、バイアスは顔を強張らせつつも真っ直ぐに自分を見るリリアーナに心底楽しげで嫌らしい笑みを向けた。そして、いきなり彼女の胸を鷲掴みにした。
「っ!? いやぁ! 痛っ!」
「そこそこ育ってんな。まだまだ足りねぇが、それなりに美味そうだ」
「や、やめっ」
乱暴にされてリリアーナの表情が苦痛に歪む。その表情を見て、ますます興奮したように嗤うバイアスは、そのままリリアーナを床に押し倒した。
リリアーナは悲鳴を上げるが、外の近衛騎士団は反応しない。
「いくらでも泣き叫んでいいぞ? この部屋は特殊な仕掛けがしてあるから、外には一切、音が漏れない。まぁ、仮に飼い犬共が入ってきても、皇太子である俺に何ができるわけでもないからな。なんなら、処女を散らすところを奴等に見てもらうか? くはははっ」
リリアーナはこれからされることに顔を青ざめてようやくレイナの言っていた言葉を実感した。
バイアスは自分に楯突く奴を嬲って屈服させることが何よりも好きで、自分はその標的になっていることを。
「あなたという人はっ……」
「なぁ、リリアーナ。結婚どころか、婚約パーティーの前に純潔を散らしたお前は、どんな顔でパーティーに出るんだ? あぁ、楽しみで仕方がねぇ」
レイナの言う通り、この男はある意味正しく帝国皇太子である。それでもと妻として支え諫めていけば、いつかきっと立派な皇帝になってくれる、いや、自分がそうしてみせるという考えも決意も甘かった。
バイアスに恥をかかすまいと選んだドレスが、彼の手により引きちぎられる。
シミ一つない玉の肌が晒され、リリアーナは羞恥で顔を真っ赤にした。
唇を奪うつもりなのか、バイアスの顔がゆっくりと近づいてくる。まるで、リリアーナの恐怖心でも煽るかのように目は見開かれたままだ。
片手で顎を掴まれ、顔を逸らすこともできないリリアーナは、恐怖と羞恥で遂に流れ落ちた涙すら気づかずに、ふと思った。
望んだ通りの結婚なんてあり得ないと覚悟はしていたけれど、こんなのはあんまりだと。本当は、好きな人に身も心も捧げて幸せになりたかったと。
それは、王女という鎧で覆った心から僅かに漏れ出たただの女の子としての気持ち。そうして、香織や雫に聞いた話を思い出す。
ピンチの時に颯爽と現れて、襲い来る理不尽を更なる理不尽で押し潰し、危難の沼から救い上げてもらったという、まるでお伽噺のような物語。
もし、願ったなら、自分にも救いが訪れるのだろうか。
リリアーナは、王女としての自分が「何を馬鹿な」と嗤う声を聞きながら、それでも止められず心の中で呟いた。
――――助けて
その時だった。
「こういう時は助けてって言えばいいんだよ、王女様」
聞き慣れた声と共に打撃音がリリアーナの耳朶を震わせた。
「え……?」
突然の事に目を見開いたリリアーナの視界には浩二がいた。
「少なくともお前を助けに来る奴はここにいるんだから」
ポンと優しくリリアーナの頭に手を置いて撫でる浩二にリリアーナは‶どうしてここに……?〟と目で訴える。
「この帝城に入る前からずっと傍にいたぞ? ‶改造〟」
浩二は自らの身体と装いを改造するとそこには見覚えのある近衛騎士の姿が。
「それと俺はオリジナルの
浩二は浩二αをハジメ達と共に浩二βを近衛騎士に変装してリリアーナの傍にいた。万が一に原作知識とは違う場面に遭遇しても大丈夫なように。これは原作通りではあったものの思わず浩二βはバイアスを殴り飛ばしてしまった。するとここで浩二βに殴り飛ばされたバイアスが怒りで顔を歪ませながら起き上がる。
「クソガキがぁ……ッ! いったい誰に手を出したのかわかってんのか!? 俺はこの国の皇太子だぞ!? 神の使徒だがなんだか知らねえが俺を殴ったことを後悔させてやる!?」
怒り狂うように吠えるバイアス。しかし、ここにいるのはかつて皇帝陛下すら漢女にしようとした男である。
「ん?
ビキリ、とバイアスの中で何かが切れた。しかし浩二βは止まらない!
「あれれ~どうしたのかなぁ~? もしかして泣いちゃう? 泣いちゃうの? 赤ちゃんのようにえ~んって泣いちゃうほど痛かったんでちゅか? ごめんね~、一応手加減してあげたんだけど……あ、回復魔法はいるかな~?」
それはもう煽る煽る。うぜぇと思わせる某ゴーレムさんのように煽りまくる。
「この―――」
クソガキ!! と吠えるよりも早く浩二βがバイアスの顔を鷲掴みにして宙づりにする。
「――――!? ――――――っ!!」
「大人がガキみたいに吠えるなよ。みっともない」
冷淡に告げられるその言葉と一切の熱を宿さない冷酷な眼差しを向けるバイアスはそこで初めて戦慄する。
(う、動けねぇ! この俺がこんなガキに……ッ!!)
鷲掴みにされた顔を引き剥がそうと暴れるも浩二βはビクともしない。自分よりも年下の子供相手にまるで手も足も出ないバイアスは生まれて初めて他者に対する恐怖心が生まれた。しかし、バイアスは何かの間違いだとその恐怖心を誤魔化すかのように両手両足を動かして浩二βに拳や蹴りを入れるもまるで鋼鉄でも叩いているかのようにピクリとも動かない。それどころか鷲掴みにされている手に力が込められる。
「……っ……っ……ぅ」
声も出せない激痛。バイアスの顔が苦悶に歪む。
「……ああそうそう。オリジナルから共有された情報ではバイアス皇太子様は自分より弱い者を嬲る趣味があるようですね。ふふ、奇遇ですね。実は私も好きなんですよ。自分が他人よりも強いって勘違いして、他人を見下すお調子者のプライドを粉々にするのが。よく雫や光輝達にもやり過ぎだと注意されましたよ。本当に貴方のような人なんて壊しても誰も困らないというのに」
まるで日常会話でもするかのように穏やかな口調で語る浩二βだが、バイアスの顔は赤を通り越して赤黒くなってきている。ミシミシと自分の頭の骨が軋む音が聞こえてくる。
「どうですか? 私は今、貴方のプライドをズタズタにできていますか?」
バイアスは答えない、いや、答えられない。何故なら今まさにその通りだからだ。生まれて初めて圧倒的で絶対的な力を我が身に受けている。これまでの自分が積み上げてきたものが崩れようとしている最中なのだ。しかし、浩二はそれをするのを止めてバイアスを解放した。
「まぁ、安心してください。私は弱い人を虐める趣味はありませんのでここで解放してあげましょう。但し、よく覚えておいてください」
浩二はバイアスの髪を掴み上げて強引に顔を上げさせ嗤いながら告げる。
「二度目はない。次はお前の身体も心もズタズタにしてやる。消えろ」
そう告げられたバイアスは怒りや恐怖や屈辱など。様々な感情で顔を歪ませながら逃げるように部屋から出て行った。
(あそこまで言えばもう手出しはしないだろう)
バイアスがこのことを皇帝陛下、父親に報告することはないだろう。自分より年下のガキに手も足も出ずに逃げ出したなんて情けないことをバイアスのようなプライドの高い奴が言うはずがない。仮に皇帝陛下に告げたとしてもガハルドなら‶弱いお前が悪い〟と言い切るだろう。
そうして取り残された浩二βとリリアーナだが、浩二βはリリアーナに言う。
「すぐにヘリーナさんが来ますので後処理をお願いします。では」
そうして浩二βは溶けるように姿を消した。どうやらオリジナルの方の浩二が魔法を解いたらしい。
「こ、浩二さん!?」
破れたドレスの前を寄せて肌を隠し、窓際に行こうとするも危機から逃れることができた安心感で腰が抜けて座り込む。啞然とするなか、少ししてリリアーナは思わず微笑みを浮かべた。
「ありがとう……浩二さん」
ポツリと零れた感謝の言葉。
リリアーナがバイアスの婚約者である以上、今、助けられたところで、それはその場凌ぎでしかないと分かっている。だが、それでも、今この時、救いを求める心の叫びに応えてくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
胸元で破れた服を押えてギュッと握られたリリアーナの両手は、あるいは、他の何かを握り締めているかのようだった。