早朝特有の、静謐で満ちる【フェアベルゲン】の都。
その凪いだ水面のような静けさに波紋を広げるが如く、小鳥の囀りが少しずつ大きくなっていく。葉擦れの音と相まって優しい森の音楽のようだ。
だが、そんな【フェアベルゲン】にあっても、都の外れ――森の奥の人気のない場所では、相反する鋭い音が響いていた。
「疾っ! ふっ! はっ!」
短く鋭い呼気に合わせ、ヒュッヒュッと空気を裂く音が鳴る。
同時に、霧を散らす様に黒線が宙を奔った。それは、淀みなく、水が高きから低きへと流れるような自然さを以って振るわれる黒刀の軌跡。
使い手の動きも極めて洗練されていて、翻る特徴的な黒髪と合わさると、まるで神に捧げる神楽舞の如き神秘性すら感じられた。
円を描くようにして、木の葉が舞い落ちる森の中で踊る黒刀と黒髪。
彼女の作り出した剣界に入った木の葉は尽く四散し、それに交じって玉の汗が飛び散る。
一体、何時間そうやって踊り続けていたのか。
彼女――雫の足元には、すり足が地面に刻んだ幾条もの円と、細切れになった木の葉の残骸が無数に散らばっていた。
一本芯を通したような美しい姿勢で、ただひたすら無心となって刀を振るう。
「――っ」
が、このまま永遠に踊り続けるのでは思われた雫の演舞に、突如、乱れが生じた。
剣筋がぶれて斬るはずだった木の葉をすり抜ける。
くるりくるりと地面に落ちる木の葉と同じく、雫も円運動の遠心力に弄ばれてくるりくるりとバランスを崩した。
辛うじて転倒するという無様だけは避けられた雫だったが、たたらを踏んで黒刀の鞘を支えにする己の姿には、剣士として苦い顔をせざるを得ない。
「はぁはぁ……あぁっ、もうっ!!」
苛立たしげに頭を振る雫。トレードマークの黒髪ポニーテールが、その心情を表すように右に左にと盛大に荒ぶる。
「明鏡止水。明鏡止水よ、私」
わざわざ言葉にしつつ、大きく深呼吸をして心に静謐な泉を思い浮かべる。
精神を整え、静かな状態を保つ練習は、日本にいた頃、それこそ剣術を習い始めた当初からやっていることだ。もはや習慣にすらなっているそれにより、雫の荒れた心は直ぐにと、思われたが、その水面にゆらりと浮かび上がる少年の姿が……
「ぬぁああああいっ!!」
途端、そんな女の子にあるまじき雄々しい絶叫を上げながら、雫は心に描いた水面を叩き斬るように、黒刀を大上段から振り下ろした。
「何やってんだ、アホ」
ガキン、と金属同士が衝突する音と共に呆れを滲ませた声音が響く。
「こ、浩二!?」
予想外の人物の登場にぎょっとする雫に浩二は雫にタオルを投げ渡す。
「汗だくじゃねえか。それにその様子だと睡眠も取ってないだろ? これ以上はドクターストップ。鍛錬を終わらせて部屋に戻って眠りなさい。はい、浩二さんお手製の疲労回復薬」
「あ、ありがとう……」
手渡される回復薬を口にする雫は飲んですぐに体の疲れが取れていくのを実感する。
「反省会が終わって部屋で休んでいると思ったら、まったく……」
呆れてものも言えない、と言いたげだ。
「眠れなくても横になっているだけでだいぶ違う。心は休めなくても身体だけでも休ませておけ。これ以上はどちらにも影響が出てくる」
どちらにしても雫のこれ以上の鍛錬は見過ごせないようだ。
「……浩二はどうしてここに?」
「ティニア達の反省会を終わらせて部屋で薬の補充をしていてな。それが一段落したから気晴らしに素振りでもしようと思ったら雫がいた」
(ということは浩二も寝ていないんじゃ……)
そう思うも自分もほぼ徹夜で黒刀を振り続けていた為に人のことは言えない雫さんだった。
「それよりもどうしたんだよ? 少し前から見ていたけど、ここが道場だったら叱責ものだぞ。師範がいなくてよかったな」
(誰のせいで……ッ!?)
暢気にそんなことを言ってくる浩二に雫はキッと睨みつける。
「別に。ずっと刀を振るっていたから疲れているだけよ……」
「そうか」
ムスッとした表情ではぐらかすかのようにそう答える雫に浩二は納得しておいた。
「それじゃあ俺は少しだけ鍛錬するけど、雫は部屋に戻って休んで――」
「浩二」
おけよ、と告げようとした浩二の言葉を雫は遮るように言った。
「最後に少しだけ手合わせをお願いできないかしら?」
まるで何かを確かめたいかのように黒刀を構える雫。その構えに呆れながらも「最後だぞ?」と言いながら了承する浩二もまた自身の刀を構える。
似ているようで似ていない両者の構え。二人は同時に刀を振るう。
キンッと互いの刀が衝突して両者の間に激しい火花が飛び散る。
黒と紅の斬閃を描きながら互いの得物を時に衝突させ、時に受け流し、時に躱し合う二人の動きはやはり似ているようで異なる。
(八重樫流改だったわね……)
大迷宮で見せた浩二だけの八重樫流。同じ流派の剣術でありながらそうではない浩二だけの剣術。対峙することでそれがどういうものなのか見えてくる。
(なるほど、これは確かに浩二だけの剣術ね)
根本は八重樫流。しかし、そこから浩二自身にとっての無駄を省き、より実戦的に改造を施したのが‶八重樫流改〟なのだろう。
いつの間にそんなものを……と思いながらも雫は速度を上げる。
‶無拍子〟からの‶縮地〟。緩急自在、予備動作なしの移動術と‶地を縮めたような速度〟が合わさって、常人では視認すら難しい超高速戦闘を実現し、‶縮地〟中に‶縮地〟を重ねることで超高速を維持したまま方向転換、更なる加速を実現する‶重縮地〟まで使い出す。
超高速の世界に突入した雫は神速の速度を以て浩二に黒刀を振るう。
――しかし。
(嘘でしょうッ!?)
浩二はその速度に対応している。
正面からのフェイントを交えた攻撃も、背後からの奇襲も、死角からの不意討ちでさえ浩二は対応してみせた。
ありえない。ステータスにたいして差はない。それどころか速度に関しては雫の方が上手だ。雫以上に速い剣士なんて他にいない。
(まだ……ッ!)
超高速戦闘から雫は技を繰り出す。
――八重樫流刀術 無明打ち
わざと鍔迫り合いに持ち込み、刀身で作り出した死角から鞘による殴打を繰り出す技。
――八重樫流刀術改 流麗独楽
その技に対して浩二は独楽のように身体を回転して鍔迫り合いになっている雫の黒刀を受け流し、鞘による攻撃を弾いた。そこから回転の向きを変えて雫の頭部に鞘による一撃が雫を襲う。
――八重樫流体術 雷突
それを、雫は黒刀で受け止めつつ、深く相手の懐に潜り込んで肘鉄を打ち込む。
――八重樫流体術改 弧輪破肘
肘が腹にめり込む瞬間、その肘を支点に回転ドアのように回った浩二は雫の後頭部に肘鉄を当てようとするも、雫は肘鉄の踏み込みをそのままに、前方に躍り出ることで回避する。
即座に‶縮地〟からの‶重縮地〟。一瞬で浩二の背後に回り込み、同時に納刀して黒刀の鯉口を切る。リンッと、澄んだ音が鳴り響いた。鞘走りと技能による斬撃速度の上昇が合わさって、剣閃すら知覚させない一撃が放たれる。
――筈だった。
「はい。お終い」
その声は雫の背後から聞こえた。
雫の眼前にいた筈の浩二は気がつけばそこにはおらず、首筋にはひんやりとしたものが当てられている。
「え?」
視線を下に向け、雫は首筋に刃が当てられていることに気付き、背後に振り返ると息一つ乱していない浩二がそこにいた。
(いつのまに……)
油断なんてしていない。目も逸らしていない。本当に気がついたら浩二が背後に立っていた。
いったいどうやって……? と疑問が過るなか、浩二は刀を鞘に納める。
「ほら、雫はもう部屋に戻って休みなさい。これ以上続けるのなら強制的に眠らせるからな」
部屋に戻るように促す浩二。その気遣いに雫は気付いた。
‶少しだけ〟手合わせをお願いした雫に浩二は本当に少しだけ手合わせしたに過ぎない。これ以上、雫の身体に負担がかからない程度に留めたのだ。
要は手加減されたのだ。浩二に。
(前はこうじゃなかったのに……)
以前なら間違いなく私が勝っていた、と雫は確信とまでは言わないが、その自信はあった。道場で一緒に稽古していた時も、試合や模擬戦だって雫は浩二に勝ってきた。
それなのに今は違う。本気を出したのに手も足も出ずに雫は負けた。それも手加減された状態で。
いったい今の雫と浩二とでは何が違うのか、雫は思わず問う。
「ねぇ、浩二。どうして貴方はそこまで強くなれたのかしら?」
いつまでも部屋に戻らない雫に浩二は早く休めよ、と思いながらう~んと首を傾げ、こう答えた。
「自分に正直になれたから、かな?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
言葉の意味がわからず、困惑する雫に浩二は言葉を続ける。
「雫、もし俺がお前や光輝達の事を憎んでいると言ってもいいぐらいに妬んでいたと言ったら信じる?」
「え?」
唐突に告げられた言葉に驚く雫。一瞬、冗談だと思いたかった雫だけど浩二のその顔がそうではないと語っている。
「だってそうだろ? 光輝は言わずとも才能の塊で、雫だって剣の才能があるし、龍太郎は脳筋だけど格闘技の才能がある。香織は……まぁ、香織だし」
最後、ちょっと言葉を濁らせた。
「まぁ、とにかく俺にはお前等のような才能なんて欠片もなかった。そんな天才達の傍にいたら劣等感を抱くのも妬むのも当然だろ?」
「それは……でも浩二は今でも道場を続けているでしょ? 努力をし続けるのも一つの才能じゃ」
「違うな。努力をするのも、努力を続けるのも、目的や目標の為に行う‶手段〟や‶方法〟であってそれは才能とは呼ばない」
雫の言葉を浩二ははっきりと否定し。
「それに雫は知らないだろうが、俺は子供の頃に師範から才能がないことを理由に道場を辞めるように言われたことがある」
衝撃な事実を口にする。
「うそ、お父さんがそんなこと……」
「事実だ。まぁ、師範は俺の身を案じてそう言ってくれたんだろうが、取り敢えず腹が立ったから脳天をカチ割ってやろうとした」
返り討ちにあったが、と当時のことを思い出したのかチッと舌打ちする。
「今思えば劣等感に苛まれる前に雫達と距離を取らせたかったのかもしれないな」
しかし、浩二は道場を辞めることなく続けた結果、劣等感に苛まれて自分に自信が持てず、自分は脇役だとそう強く認識するようになっていた。
「……」
その言葉を聞いて雫は無言になる。
知らなかった。幼馴染である浩二がそんなにも悩んでいたことも、自分に嫉妬の感情を抱いていたことにも全然気づかなかった。
雫はそんな自分に酷く嫌気を差した。
「……それなら浩二はどうして道場を辞めなかったの? どうして私達の傍から離れようと思わなかったの?」
それでも訊きたかった。
辞めようと思えば辞めることもできたはずなのに、離れようと思えば離れることもできたはずだ。それなのに今でもこうしてずっと傍にいてくれる。何故か?
それは……。
「惚れた女の傍にいたいと思うのは当然のことだろ?」
「――っ」
そういうことらしい。
「それに妬んではいたけど光輝も龍太郎も香織のことも俺の大切な幼馴染だ。嫌いになんてなれるわけないだろ?」
むしろ嫌う理由を浩二は探していた。それを理由に距離を取ろうとさえ思っていた時期がある。しかし、そんなものはなかった。
面倒と思ったことがある。鬱陶しいとも感じたこともある。だけど、それを踏まえて浩二は幼馴染達を嫌うことができなかった。
どうしようもなく妬んでいたとしても、それ以上に浩二は幼馴染との関係が大切になっていた。
けど……。
「だからこそずっと蓋をしていた。
大切な幼馴染だからこそ自分の醜い感情を知られたくなかった。だからそれを隠し続けてきた。
この世界‶トータス〟に召喚されてもそれは同じだった。
「でも、それは間違いだった。そのせいで俺は多くの間違いを犯した。お前にフラれるまで俺はそれに気付くことさえできなかった」
惚れた女に振り向いて欲しかった。雫というヒロインの主人公になりたかった。
そればかりを考え、最低なことをした。本当に目を向けなければいけないことからずっと目を逸らしていた。
「一時は本気でお前のことを諦めようとした。けど、諦めきれなかった。白状すると俺はどうしようもないぐらいにお前に惚れている。お前の全てが愛しいとそう思えるほどに」
「……っ」
その言葉に雫の頬が若干赤く染まる。
「だから俺は南雲と戦った。自分を乗り越える為に‶力〟と‶強さ〟と‶自信〟を手に入れて、今度こそお前を守れる主人公に俺はなりたい」
真っ直ぐ、真意ある瞳を向けながら浩二は己の心情を語り、「話が逸れたな……」と言って話を最初に戻す。
「自分に正直になった、というよりも自分の醜い感情を受け入れるようになったというのが正しいのかもな。それとこんな俺を受け入れてくれる人達の存在も大きい。そうじゃなかったら俺はここにはいない」
「……ティニアさん達のこと?」
「ああ」
肯定した。
「雫から見て俺が強くなれたというのなら、それはきっと強くなりたいという明確な意志があるからだ。だから頑張れるし、強くなろうとその一歩を踏み出せる。仲間の為に、何よりお前の為に俺はもっと強くなる為に前に進む。それだけだ」
告げられたその言葉は普段通りの口調の筈なのにどこか重みと凄みを感じさせる。
「さて、話はこれで終わり。ほら、雫は部屋に戻りなさい」
部屋に戻るように促す浩二に雫はその場に座り込む。
「……少し、見てもいいかしら? 浩二の剣術を参考にさせてちょうだい」
「まったく、少しだけだぞ」
部屋に戻らない雫に若干呆れながらも浩二は刀を抜いて素振りを始める。
その動きはやはり、雫の演舞じみた武芸に比べれば流麗さは欠けるだろう。しかし、その動きにはただ圧倒されるような凄みがある。
(いえ、そうじゃないわね。これはきっと浩二が積み重ねてきた努力が実を結んだ結果ね)
才能がないことに嘆き、嫉妬し、挫け、折れそうになっても、ただひたすら愚直に一歩ずつ前へ進むことを諦めることなく磨き続けたからこそ身についた剣技。その刀の一振り一振りがもはや必殺と呼べる重さがそこにあった。
それは光輝は勿論のこと雫にもないものだ。
(きっと、私の思っている以上に努力しているのね……)
浩二が努力家だということは雫も知っている。けど、きっと雫が思っている以上に浩二は努力しているのだろう。
「……凄いわね」
雫はただそれだけ呟いて、知らない間に目蓋が重くなって意識を手放すのであった。
「まったく、だから部屋に戻れって言ったのに」
座ったまま眠る雫。無防備に寝顔を晒している雫に微笑みながら刀を鞘に納めて雫を抱える。
「お前を食べてしまうオオカミが目の前にいるのに、こんなにも無防備な姿を見せられたらお持ち帰りされても文句は言えねえぞ」
冗談を言いながらお姫様抱っこで雫の寝顔を鑑賞する。
すると。
「……浩二」
ポツリと雫が浩二の名を呼んだ。
起きたのか? と思って顔を見るもしっかりと寝ている。ただ寝惚けていただけのようだ。
「寝言か……」
優しい眼差しを雫に向けながら浩二は雫を抱えたまま部屋に戻る。
「必ず俺に惚れさせてみせるから覚悟してろよ、雫」
眠りについている雫にそう告げながら浩二は雫を香織に預けて自身もまた部屋に戻るのであった。