水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!
憲兵にクローデル中尉の身柄を引渡した際、私は彼が捕虜となることを選んだ一部始終を説明し、決してクローデル中尉の名誉と尊厳を傷つけぬよう、念を押した上で基地に戻った。
クローデル中尉といえば帝国でも高名なパイロットで、私も共和国の号外で幾度となく写真を拝見したものである。
列強の中でも抜きん出た帝国空軍機は、一機の撃墜が列強諸国の三機に等しいとされているが、クローデル中尉は今日までに公式記録で三三機もの帝国軍機(内一機はゾフォルト)を撃墜した、共和国空軍の最多撃墜王であった。
身柄を引き渡した翌日には、私の説明の甲斐あったのか、はたまた帝国が最多撃墜王同士の交友を絵にしたかった為かは定かでないが、クローデル中尉が本国の捕虜収容所に赴く前に、私は中尉と朝食を摂ることを許された。
「正直、『討伐隊クラブ』で指揮を執れと言われた時は気が乗りませんでした。到底名誉ある戦いとは言えませんでしたし、
昨日と違い、柔らかくなった口調で語りつつ肩を竦めながら前菜を口に運ぶクローデル中尉は、ライン戦線初期の、哨戒任務だけの気楽な戦場に戻りたかったと零していた。
「意外でしょうが、僕は帝国の人達が思うほど、威風四辺を払う英傑という人格ではないのですよ? むしろ、臆病者と呼んでも差し支えないでしょうね」
「それにしては、昨日は随分と堂に入った軍人ぶりだったが?」
「死なないと分かれば、堂々と振る舞えるものです」
そう言ってクローデル中尉が笑うと、成程と私も釣られて笑った。こうして会話を弾ませれば、敵味方の別や、今が戦時であることさえ忘れてしまいそうになる。
ましてや私は何度もクローデル中尉を殺そうとしたというのに、この清々しさなものだから、話せば話すほどに自分が恥ずかしくなっていき、それと同じぐらい、会話を重ねるほどクローデル中尉を好きになっていく自分がいたのに気付いた。
この年若い、朗らかな好青年の態度は私の心をいとも容易く解してしまっていたのだ。
私は罪悪感に耐え切れなくなって、クローデル中尉を鹿猟の如く追い立て、殺めようとしたことを心から詫びた。しかし、そんな私の謝罪はかえって不興を呼んだようで、中尉はむすっとした顔をした。
「中佐殿、これは戦争なのです。僕は死を恐れていますが、同時に多くの帝国将兵を殺めても来ました。互いが公平に命を賭けている以上、殺意を向けられるのは当然のことと覚悟しています。そのような謝罪は、好ましいと感じません」
「すまない、貴官を侮辱するつもりはなかったのだ。ただ、振り返れば、私は勝ちに拘り過ぎていたと思う。殺し屋などと言われるのも、当然のように思えてな」
「ご自身を卑下なさいますな。祖国に尽くし、勝利を希求するは軍人であれば皆同じこと。負けを認めた以上、僕はこの戦争を見届けるしかありませんが、こうしている間も、絶えず祖国の勝利を願っていますよ?」
「そうか……、そうだな。私もまた勝ちたいと思う。年端も行かぬ子供が、銃を執る時代を終わらせたいのだ」
「ご立派です。その思いあらば、やはり中佐殿は古き良き騎士なのでしょう。一個人に過ぎませんが、我が国の心無い中傷をお詫び申し上げると共に、改めて剣をお受け取り下さいますよう、お願い申し上げます」
「謝罪は受け取ろう。しかし、私は貴官を撃墜出来なかった以上、剣を折る事は出来ない。貴官との思い出の品として、一時お預かりする。終戦の後、再会出来たなら、その時に剣はお返ししたい。どちらに勝利の女神が微笑むとしても、終わった後には遺恨なく友誼を結びたいと思うが、貴官は受け入れて下さるかな?」
「光栄です。立場上『どうか息災で』と申すことは出来ませんが、戦争が終わった後には遺恨を持ち越さぬこと。中佐殿がご存命であられたのならば、是非友と呼び合う仲になりたいと思います」
私達は食事の後、力強い握手をして別れた。クローデル中尉とはアルビオン・フランソワ戦役の後、予期せぬ場面で再会するが、それはその時に語りたい。
◇
クローデル中尉と別れてからというもの、私には日課が一つ増えた。
死者を悼む気持ち、強敵を称える気持ちを改めて終生忘れぬよう、敵味方の為の黙祷を捧げることとしたのである。私は軍人である。軍人である以上、敵を殺め、味方の窮地を救い、祖国を勝利に導かねばならぬ。
だが、敵もまたそれは同じなのだということを、私は忘れまい。たとえ私自身の手で無残な屍の山を築くのだとしても、死者への礼だけは、損なうことは許されないのだから。
◇
ライン戦線に参戦して早二ヶ月。月としては一一月を迎えると同時、私は本国に戻るよう指示を受けた。既にしてライン戦線は安定の兆しを見せ、航空戦力も適切な戦力を配備している以上、これ以上私が残る意味はないというのが、空軍指導部の見解だった。
勿論、前線将兵やフォン・ハンス元帥も引き止める為に尽力してくれたが、流石にこれ以上は無理だろうというのは私も分かっていた。
私がライン戦線に足を運ぶことが許された理由は、逼迫した状況を打開する為であって、無条件に空を飛ばせる為ではない。空軍総司令部としては、私に将官となる為の経験を一日でも早く積ませたいのだから、戻って来いと言うのも当然であった。
「ご帰還なされるのですね、中佐殿」
典型的な帝国人らしい金髪碧眼と長身の、パイピングと襟色を黄橙色に改造した歩兵将校のダブルブレストを着込んだ青年将校は、私に送還命令が下されてから、間を置かず足を運んでくれた。
彼の名はヘルムート・イェーリングといい、元はその軍服が示す通り歩兵将校であったが、膝の負傷が原因で前線将校を勤めるのが難しくなったこともあって、空軍パイロットへの転籍を決意したという。
イェーリング少尉が空軍への転籍を決意した時点で、既にして航空学校の倍率は鰻上りである事に加え、空という未知の分野にして、多くの専門知識を要するパイロットの道は相当に険しいものであった。
しかし、イェーリング少尉は座学と航空基礎訓練で文句のつけようのない成績を叩き出し、航空戦技でも卓越した格闘戦技能を見せ付けては空戦技能章を取得して、悠々と操縦士課程を修了。
激戦地たるライン戦線に志願し、同地で撃墜王となる事を望んだ野心家でもあったが、私は始めてイェーリング少尉を見たときから、彼が可愛くて堪らなかった。
この時期の若手パイロットの多くがそうであったように、イェーリング少尉もまた、空への憧れ以上に英雄として持て囃されたい、戦功を立てて出世したいという意識を前面に出していたが、私はそれを悪い事や不純だとは思わなかった。
男として生まれた以上、立身出世を夢見、栄達を求めるのは当然の事であるし、何よりイェーリング少尉の帝室と祖国に対する忠誠は揺るぎないものだと私は確信していたからだ。
だが、そうしたパイロットなど五万と居る中で私がイェーリング少尉を好いたのは、彼が私に取って代わるのだという気概を持っており、それに相応しい、輝くような天分を有していたからである。
勿論、イェーリング少尉は着任してからというもの、私に直接そのような事を打ち明けた訳ではない。あくまで同階級の将校と、そのような話をしていたというのを人伝に耳にしただけであるが、私は少尉の野心が、果たして何処まで本気なのか気になっていた。
周囲はイェーリング少尉を、威勢の良い新品少尉程度にしか見ていなかったが、私は彼の闘志に溢れた瞳や、貴族など何するものぞと言わんばかりの我の強さ。何より愛嬌を感じる図太さに対して、自分には持てない魅力を感じていたのである。
そうした好奇もあって、イェーリング少尉に始めて話しかけた時、彼は他の空軍将校がそうであるように、私に対して最敬礼で出迎えてくれたが、私は礼儀正しい少尉を見たかった訳ではなかったから、少々不満だった。
当然だが、私は自分が軍機構の中で、無理無茶を言っている事は重々承知している。上官と部下の、ましてや陸軍将校として多少経験があるといっても、殆ど新品少尉に等しい新米パイロットと、最多撃墜王とでは壁が出来て当然なのだ。
だから私は、部下としてでなく、パイロットとしてのイェーリング少尉を見るために、ある提案をした。
「邀撃任務の為、即応戦闘部隊の志願者を募っているのだが、興味はあるかな?」
イェーリング少尉は目に見えて食いついた。戦果を欲したのもあるが、私も一緒に飛ぶ事を約束したからである。
既にして私は上に、芽のあるパイロットに経験を積ませる為、数日に一度新人パイロットと飛ばせて欲しいと交渉し、許可を勝ち取っていた。
私はイェーリング少尉に日程を告げて搭乗割(出動メンバー表)に彼の名を加え、当日になれば一緒に飛んだが、評価としてはまずまずと言ったところだというのが、素直な感想だった。
粘りのある格闘戦や、パイロットらしい負けず嫌いな部分は評価できる一方、功を焦って動きに無理が出ていたのだ。
私がイェーリング少尉をはじめとした僚機と地上に降り、反省を求めると、少尉も自分の技量の問題点や、危うくなったところを私や他の戦友に助けられた事を振り返り、次はこのようなミスをしないと声を張った。
実際、イェーリング少尉は経験から学べるタイプの将校であったことに加え、ヴュルガーも実戦の中で見事に乗りこなせるようになっていたから、私が送還を命じられる頃には、十二分にエースとして活躍も出来ていた。
だが、そうしたパイロットとしての実力が私にも、そして周囲からも評価される一方、私はイェーリングが望むほど、出世は出来ないだろうとも考えていた。
口さがない戦友たちは、イェーリング少尉は短気で気位が高いというし、何より自己の戦功にばかり目が行っていて、部下の統括に関しては能力に疑問の声が出ていたが、私自身、それを誹謗中傷に過ぎないとは、言い切れないところがあった。
「少尉。正直に言えば、私は貴官と離れるのが惜しくある」
送還を知って足を運んでくれたイェーリング少尉に、私は素直に感謝を述べた。イェーリング少尉も満更ではなさそうだが、しかし、私の顔を見て、上官として離別を惜しむだけの言葉では終わらないと察したのだろう。
釣り上がりかけた口を閉じて、静かに次の言葉を待っていた。
「少尉、貴官は何になりたい?」
言っている意味が分かりかねたのだろう。或いは、私の質問は含意の広過ぎるものであったが為に、考えあぐねているのかも知れない。
私は素直な気持ちで、夢を打ち明けるような思いで言って欲しいと頼むと、イェーリング少尉は大人になってから、親に夢を語るような羞恥の感情を覚えつつも、私に本音で語ってくれた。
「他の戦友から、聞き及んでいるやも知れませんが、小官は栄達を望んでいます」
自分は英雄として認められたい。一日でも早く撃墜王となり、大部隊を率いる顕職に就き、いずれは将軍を目指すとも言う。
私は、イェーリング少尉の夢を笑わなかった。その一つ一つを、真摯に受け止めて、ゆっくりと口を開いた。
「酷なことを告げるが、現時点での貴官に、高級将校としての適性を見出せない」
イェーリング少尉は、顔を真っ赤にしながらも耐えていた。相手が私だからというのもあるのだろう。これが同階級の相手なら、間違いなく口角泡を飛ばしていた筈だ。
「貴官は、常に経験を糧にする。一個人として、前線将校としては、その向きは非常に良く作用している。現に、貴官は直面した問題点に対し、常に勤勉で実直に取り組んできた。兵卒や下士官も、貴官を負けん気の強い兄のように見ている。私も、そうした貴官を誇らしく思う内の一人だ」
だが、それで通用するのは、現場に立ち続ける内だ。進級を重ね、後方に身を置き続ける立場となれば、必ず現場との齟齬が出る。過去の経験則を重視するあまり、発達し、変化していく事象に追いつけなくなっていくだろう。
私の発言に、思うところはあった筈だ。だが、それでもと目に強い反骨心を宿しているのが分かってしまい、私は何故こんな事を口にしてしまったのだろうと遣る瀬無くなった。
いいや。分かっている。このままでは、イェーリング少尉が自覚しないままでは、少尉にとっても、少尉が将来持つ部下にとっても、不幸になるからだ。
だが、別れの際に足を運んでくれた相手に、まして私自身好ましいと感じる相手に、わざわざ嫌われるような事を言ってしまう必要はあっただろうか?
私の危惧は、漠と感じる不安は、的外れなものかも知れない。
私が
仮に指摘されないままであったとしても、進級して大隊指揮官の席につき、困難を受け止めれば、自ずと意識が変わり、成長してくれるかもしれない。
それでも口にしたのは、きっと私がイェーリング少尉に、えこ贔屓にも似た感情を持ってしまったからだろう。
誰かが、いつか何処かでイェーリング少尉の欠点を直してくれる事を。或いは少尉が、自分自身で気付いてくれる筈だと期待するのでなく、直接言葉にして、見つめ直す機会を与えたかったからなのだ。
彼が、イェーリング少尉の行く末が不安で、目にかけているからこそ、大成して欲しいという思いが出てしまったのだ。
だから私は、イェーリング少尉により学んで欲しいと、自分が居なくなって、いつか教えてくれる人が居なくなっても、新しいものを取り入れて、少しでも思慮深くなって欲しいと説諭した。
「そうすれば、佐官には手が届くだろう。貴官は努力の出来る男で、気骨もある。老い、頑迷になるには早すぎる、溌剌とした若さを振りまく少壮の軍人だ」
「……将軍になれるとは、言って下さらないのですな」
不服であり、不満なのだろう。礼節の中にある反骨の声音は、しかし私には決して不快ではない。そういうところが、果てなく上を目指そうとする心こそを、私は好ましいと思って接したのだから。
「将器を形成して欲しいとは思っている。告白するが、私は貴官を好いているのだ」
男同士で気持ち悪い事を言っているという自覚はあるが、イェーリング少尉とて、私が男色家だとは欠片ほども思っていまいから、そこは安心して胸襟を開ける。
「光栄であります、中佐殿」
「だが、納得はしていない」
そうだろう? と問う私に、イェーリング少尉も素直に頷いた。
「今はお眼鏡に適わずとも、いずれはその域に達してみせます」
実際、イェーリング少尉は諦めなかった。戦後は中佐まで進級したものの、将校としての実務能力は、そこまでだという自覚もあったのだろう。
四〇代にして軍を退役したイェーリングは、撃墜王としての知名度を活かして地方選挙に出馬し、その後は着々と実績を重ね、叩き上げとして州議会議員にまで上り詰めるが、この頃の私にとっての彼は、撃墜王の座を求める少壮の少尉に過ぎない。
いや、既にしてこの頃から、私に『敵意』を抱けるほど高みに視線を向けていた。
「その意気だ。貴官なら、私から『王冠』を奪えるやもしれん」
「奪っても、宜しいので?」
皮肉屋と周囲から見られるように、その薄い唇の一方を吊り上げる。ようやく砕けてくれたかと、私はその、周囲から嫌われる笑みを自分に向けてくれた事に歓喜して釣られるように笑った。
ただ、イェーリング少尉にとって、私の笑顔は小童の意気込みを含み笑ったように映ったのだろう。思わずむっとした表情を見せたが、私は別れ際の会話だったこともあって、そうした表情の変化が一層愛おしく感じられた。
「勘違いしないでくれ。将器こそ未だ成らずとも、パイロットとしての貴官には、私は一目置いている。半月と経たずエースになれたのだ。私の座など、そう時をかけず得られるだろうさ。……私も、いずれは飛べなくなるのだから」
「ご冗談を」
私が墜落する姿など、想像できないとイェーリング少尉は笑う。だが、実際に私は将来撃墜されるし、そうでなくとも、このまま進級していけば、操縦桿を握ることが出来なくなる日も来るだろう。
「冗談ならば、良いのだがね。私とて人間だ。亡霊だの魔王だのと言われたところで歳を取るし、病に倒れもするだろう」
どんな人間でも、若いままではいられない。久遠の玉座を占めるのは軍神だけであり、神ならざる人の身は、死という退位か、老いの禅譲を受け入れておくべきなのだ。
今はまだ壮健であろうとも、いずれその時は来る。なら、目にかけている者に王冠を奪われたいと思うのは当然だろう。
「小官は、中佐殿が老躯になっても操縦桿を握る姿が想像出来ます」
「叶うなら、そう在りたいものだ」
少なくとも、この時はそう思っていた。私に限らず、空に焦がれる人間なら、強敵を求めるパイロットなら、誰だとてそう思うものだろう。
「不謹慎だが、私は祖国の為に戦争を終わらせたい一方で、戦場で競い合う事に喜びを感じて止まない。イェーリング少尉。貴官もそれは同じだろう?」
「否定しません。小官は自分が俗な男だと自覚しています」
名声を、地位を、金銭を、女性を求めて止まないと、イェーリング少尉は、そう豪語して。
「……それら全てを得ても、飛べなくなれば、つまらないと思うのでしょうね」
イェーリング少尉は多趣味な男だ。美術品を好み、模型に手を出し、狩猟や弓を嗜んでいるという。だが、それら全て以上に、空にこそ情熱を注いで止まない馬鹿だと己を笑った。
「なら、飛べる内に悔いなく飛ぶといい。余裕を持って、充実した日々だと思えば、貴官のスコアはより伸びるだろう」
そうなれば、あっという間に撃墜王だと私は笑う。
「無論ですとも。中佐殿がご不在の分、これからは獲物も多くなる事でしょうしな」
「言うようになったものだ。だが、貴官なら期待に応えてくれると信じているぞ」
「期待以上の活躍を本土にお届けしてみせます」
イェーリング少尉は、この言葉を本物にした。彼は瞬く間に撃墜王の座を掴んだばかりか、友軍の窮地には率先して駆けつけ、銀翼突撃章を受章。
多くの戦友達は敬意を表し、彼を『鉄人』ヘルムートと讃えることになる。
◇
「中佐、貴官の叙勲を申請しておく。必ず通すので期待していてくれ」
「ありがとうございます、ハンス元帥閣下」
私はフォン・ハンス元帥に挨拶に伺った後、戦線を発つ前に可能な限りの前線将兵に握手と抱擁をして別れた。集まってくれた者の中には陸軍軍人も多く含まれていたが、どうやら日記を確認する限り、この時私は幼年学校から派遣された、砲兵隊支援観測班の少女とも話していたらしい。
この時のことは最早定かでないのだが、当時の私には幼年学校生というのは保護欲をくすぐる存在だったのだろう。
今となっては顔さえ思い出せないが、余程印象に残りでもしない限り容姿を書き留めない私が、エーリャという少女に対しては『溌剌とした赤毛の美少女』『サインや握手を頬を染めながら強請られた』と日記に記載していたから、当時の私はこの少女の事を大層気に入っていたようである。
◇
ところがこの文を書いた後日、それはヴィーシャ(セレブリャコーフ女史の愛称)の同期生の名だと妻が教えてくれ、面会の機会まで得るに至った。
殆ど記憶にない私とは違い、彼女はこの時の事を克明に覚えていたそうで、今も昔も私のファンだと語ってくれた。
フラウ・エーリャは戦後すぐ結婚し、多くの子をもうけて幸せな家庭を築かれていた。人の縁というものは、本当に馬鹿に出来ないものである。
◇
ライン戦線着任から送還まで、私はデグレチャフ少尉と直接出会う事はなく、彼女の安否を確認出来なかった事を惜しんだが、それに関してはすぐに問題ないと知れた。
なんとデグレチャフ少尉はライン戦線での戦功を高く評価され、中尉進級の後に軍大学校の軍功推薦枠での入校を確約されているというのだ。
「シャノヴスキー大尉と、同期生となるのか」
シャノヴスキー大尉もまた、今日までの出撃回数と勤務態度を評価され、軍功推薦枠で入校の権利を得ている身であるから、私は是非二人には仲良くなって貰いたいものだと思いつつも、空軍と陸軍では、余り関わり合う事はないだろうなとも思った。
私がそうであったように、空軍士官は軍大学での講義以外に、空軍司令部からの課題も熟さなくてはならないから、他人と和気藹々と話すような時間は取れないだろうからだ。
余談だが、もう何年も会っていないダールゲ少佐(一九二三年、進級)も軍功推薦枠での軍大学校入校を薦められた事があったのだが、彼はこれを辞退してしまったので、この当時も前線指揮官として北方で活躍していた。ダールゲ少佐が軍大学の推薦を蹴ったのは、例によって空に居たいからだった。
「軍大学なんかに入ったら、地上勤務漬けになっちまうだろ? できれば前線、そうでなくても教官として、自分はずっと飛んでいたいんだよ。万年大尉でも、別に悔いはないんでね」
この言葉通り、ダールゲ少佐は終生空に生きたのだが、それを今語る事は止めておこう。
ともあれ私は本来の予定通り、本国指導部で歴戦の魔導将校とフォン・エップ大将に、日々己の作戦方針や運用案を説きつつ、時に修正され、時に賛同され、時に叱責されながらもノウハウを得るに至っていた。
一九二四年には晴れて大佐に進級し、指導部の職務にも慣れた私は、ランチの時間に軍大学校に通っては、図書室の資料庫に足を運んで論文や蔵書を片端から読み耽っていた。
持ち出し禁止とされるだけあって、やはり図書室の質は世界最高。若手の優秀な論文も次々に入る為、一生通いつめても決して飽きは来ないだろう。私にとっては、天国にも等しい空間である。
しかしながら、この空間は私だけの物でないのは当然であるからして、私と同様に資料庫に足を運ぶ将校や将官は多かった。
特に印象に残るのはフォン・ゼートゥーア准将で、流石に小モルトーケ参謀総長がお目にかける方だけあり、常に哲学者のように地図や資料を眺める姿に、私は小モルトーケ参謀総長が、中央参謀本部で地図を眺めていた姿を重ねてしまう程だった。
ただ、私にとっては彼らの存在は、言っては悪いが厄介でもあった。何しろ私の姿を見るや否や、彼らは事あるごとに空軍の状況や今後の作戦案をこと細かに訊ねられ、私自身の私見も問われたので、貴重な読書の時間が流れてしまうのだ。
だから私は、図書室に足を運ぶなら、人の少ない日を狙う事にした。お偉方も教会に足を運ぶ事が多い、安息日を狙って入室したのだ。出来れば私も教会に足を運び、デグレチャフ中尉の分も祈りを捧げておきたかったが、背に腹はかえられない。
出来る限り蔵書に目を通しておかなければ、すぐに新しい物が入って追いつかなくなってしまうからだ。
私は我が身の不幸を嘆いたものの、予期せず災い転じて福となった。私が書架の一つを端から端まで読了し、次の書架へ移ろうとした時、最上段の棚に必死に手を伸ばす、デグレチャフ中尉の姿を見て取ったからだ。
私は背後から無言で本を取り、差し出す。しかしやはりお節介が過ぎたのだろう。デグレチャフ中尉は胡乱げな視線と不快感を醸し出しつつ私に振り返り、相手が私と知るや否や息を呑んで、不敬を詫びるように、きびきびとした敬礼をしてみせた。
「失礼を致しました! 大佐殿!」
「いや、非を詫びるべきは、私の方こそだ。士官を子供のように扱ってしまったのだ。謝罪を、受け入れてくれるだろうか?」
「勿論であります!」
答礼と共に本を差し出しつつ謝罪すると、デグレチャフ中尉は元気よく首肯した。その素直さは微笑ましくもあるのだが、やはりここは図書室であるので少し声のトーンを抑えて頂きたくあった。私が人差し指に口を立てると中尉もすぐに察してくれたようで、こくりと可愛らしく首を縦に振ってくれた。
こうして見ると、とても『白銀』などという勇ましい二つ名で恐れられる魔導将校とは思えない。何処にでもいる、普通の愛らしい少女ではないか。
「ありがとう。中尉の勇名は、かねがね伺っていたが、息災で何よりだ」
「小官は、一帝国軍人としての責務を果たしているに過ぎません。この身は、帝国に捧ぐものと誓いを立てておりますれば」
軍人としては、これ以上ない模範解答ではあるのだろう。力に溢れた言葉と瞳。直立不動で胸を張る姿は、デグレチャフ中尉が少女としてでなく、一軍人である事を私に強調し、そのように扱って欲しいと訴えているようにも見える。
「そうか……ならば、重ねて非礼を詫びねばならないな。覚えておいでだろうか? 私が、貴官に文を差し上げた事を」
「はい。ですが、私は嬉しくもあったのです。大佐殿のように、戦場という狂気の中にあって尚、人として健常な精神と、温かな心をお持ちの方が居られた事が」
「ありがとう」
私は、その言葉に救われたような気がした。少なくとも、先程の軍人としての範たる言葉よりも、その言葉の方が、ずっと本音に近いとは分かる。私はこれでも、人の裏表というものはそれとなく分かるのだ。
デグレチャフ中尉は、決して自ら胸を張った時のような、勇ましい女傑ではない。瞳で、言葉で、態度で偽っても、それが嘘だというぐらい私には分かる。
むしろ、デグレチャフ中尉は戦争が嫌いなのだろう。事前に用意したような言葉と身振り手振りでは、軍隊という組織に慣れきってしまった者は騙せても、私は無理だ。
だって私は、彼女の偽らざる本音を口にした時の表情を、しっかりと記憶してしまっていたのだから。
「中尉、貴官に再会出来て良かったと思う。また、便りを送っても良いだろうか?」
「勿論です。それと、これをお返し致します」
彼女が差し出してきたのは、私が渡したハンカチだ。しかし、私はそれを断った。
「いや、それは貴官に持っていてもらえると嬉しい。ツキを呼ぶのでね」
「……ご婦人から、譲り受けた物とお見受け致しましたが?」
ああ、成程。妙に表情に戸惑いがあったのはそういう事かと私は得心した。確かにそれなら、早く返してしまいたいと思うのも当然だろう。
「私の姉上から、幼い頃贈って頂いたものでね。私にとっては、お守りだった」
だから、気にしなくて良いと私は言った。少なくとも、これまで私が一度として傷を負ってないのは、ハンカチが文字通り幸運を運んでくれたのかもしれないだろう? とも付け加えて。
「勿論、迷惑ならば構わない。私は少々おせっかいが過ぎる質でね。気を悪くしないで欲しいのだが」
「いえ、そういう事でしたら、有り難く頂きます」
ハンカチを丁寧に仕舞うデグレチャフ中尉に、私は頷きつつ時計を横目に見た。どうやら、この逢瀬も終わりらしい。
「では、職務があるので失礼するよ。中尉の前途に『幸運』があらん事を祈る」
答礼と共に別れを告げ、私は静かに退室した。一刻も早く、こんな戦争は終わらせたいものだと思いながら。
主人公はエーリャさんの事について、他にも日記に『女優のようなスタイル』『見惚れるような……』とか色々書いてたので、執筆中大慌てで日記を万年筆でぐりぐり塗り潰したようですw
でもデグ様にはすぐバレました。
デグ様「おうちょっと日記見せろよ他にもなんか書いてただろこれ」
主人公「私にもプライバシーっていうのがあるし(震え声)」
補足説明
【エーリャさんついて】
本来であれば、この作品にエーリャさんは登場しない筈でした。
ですが、漫画版幼女戦記17巻で情報部の人間として出演しており、デグ様が後に従事する『衝撃と畏怖』作戦を本作でも同様に行う予定の為、ここで彼女の生存を明らかにしておかないと、出番が一切ないので丸焼きになっているのでは? と読者様から疑問に思われかねないので、生存を主張させるために登場させて頂きました。
ていうか、なんでこんな超絶出来る女スパイが居て、書籍版は全く仕事してないんですかね情報部。
お前らのせいで、デグ様は部下を失ったんやぞ!(憤怒)。
【ヘルムート・イェーリングについて】
経歴や異名、名前で気付かれた読者様も多いと思われますが、ヘルムート・イェーリング少尉の元ネタは、WW1においては頼れる兄貴分だったリヒトホーフェンサーカス最後の指揮官『鉄人』ゲーリングさんです。
なんでモルヒネデブ優遇してんの? という読者様も居られるでしょうが、これは完全に作者がミリオタの世界に踏み込むきっかけとなった女性向けライトノベル、コバルト文庫の『天翔けるバカ』が原因です。
この作品、リヒトホーフェン様も出るし、ドイツ軍人がカッコ良すぎるから困る。どれくらいカッコイイかってーと、作者の二次元の初恋がモルヒネデブになったぐらいヤバイ。
そんで歴史に興味持ってドイツスキーになったぐらいヤバイ。
もしナチ嫌いでモルヒネデブ嫌い。活躍させんなって読者が居られましたらこの場をお借りして謝罪させていただきます。
でもこの作品の彼はWW1の(より正確には『天翔けるバカ』の)イケメン仕様ですので、何卒ご容赦を! この作品のゲーリング様、本当にかっこいいんですマジで!
以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
ヘルマン・ゲーリング→ヘルムート・イェーリング