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三国介入戦争。ネーデル王国、フランデレン王国、レツェブエシ大公国間での紛争は、
だが、この要衝は帝国・
一九二三年時点では共和国と共に植民地軍を動かし、防衛が手薄になる帝国保護領を強奪しようと画策するだけの余裕が見られた連合王国も、直ちに各植民地から軍を派遣し、海岸線から大規模増援を送る事を決定。
ダキア大公国にも匹敵する規模の、しかし錬度も装備も段違いの軍勢が大地を埋め尽くし、航空魔導師と航空機の絶え間ない爆撃と、砲兵の間隙なき砲弾が両陸軍に降り注いだ。
「この地では、五〇〇メートルの進軍さえ偉業となる」
北西部(三国介入戦争)に派遣されたロメール軍団長はそう漏らしつつも、アルビオン・フランソワ派遣地上軍を相手にお家芸の機動戦でもって各個撃破を完遂。
数多の武勲を重ねたロメール軍団長は、後世においても機動戦の最高権威として、また同時代最高の将の一角として名を馳せたが、彼の活躍に関しては、既にして多くの自伝や伝記が発行されている為、そちらをご参照頂きたい。
◇
三国介入戦争にあって、ネーデルは
フランデレンの攻勢を食い止め、背後の護りを磐石とした上で短期間でレツェブエシを攻略し、帝国介入の余地を無くすという共和国と連合王国の方針にネーデルは乗ったが、既にして帝国の守りは固く、最前線で指揮を執っていたネーデル国王と侵攻司令部は、二カ国の背後からの空爆によって、文字通り跡形もなく吹き飛んだ。
大混乱に陥ったネーデル国軍の隙を帝国が見逃す筈もなければ、敵の意図を察せない程愚かでもない。
これからの相手は、フランデレンと背後に控える共和国・連合王国を中心としたものとなるだろうと帝国は迅速に方針を切り替えつつ、二カ国の思惑に乗る形でネーデル国軍を徹底的に蹂躙した。
◇
ここまでが、一九二三年の一〇月まで。そしてここからが、地獄の釜が開かれる本当の意味での惨劇の幕開けだった。
帝国は軍備を整えたフランデレンと、その背後に控える二カ国を相手に、レツェブエシ国軍と共に戦った。始めは弱国の脆弱な軍隊など、ダキア同様敵の弾を消費させるだけだろうと帝国軍は侮っていたが、予想に反して彼らは士気旺盛で、錬度もまずまずだった。
一九二三年までは比較的安全な後方に下げた自国民がいた事も、彼らの士気を高めるきっかけになったものと思われる。自国民を守るのは自国の軍こそという使命感が、彼らを帝国軍さえ大いに頷かせる程の軍人にさせたのであろう。
しかし、戦意旺盛な彼らや歴戦の帝国兵であっても、この地で足を竦ませない者はいなかった。絶え間ない重砲の炸裂音。機関銃の掃射。対人馬用集束爆弾が驟雨となって降り注ぐ時、敵味方を問わず平野で、山岳で、塹壕で四肢の欠けた死体が折り重なる。
僅かな時間、砲撃が耳を聾しなくなれば、次に生存者の耳に届くのは死に切れなかった者の絶叫だ。殺してくれと漏らす事もできず、意味も無い叫びと呻きが、耳にへばりついて離れない。
いっそ、砲撃で鼓膜が破れて音の無い世界が続くか、一思いに死にたいと誰もが恐怖したのは当然の心理だっただろう。
だというのに、敵も味方も前進を、進軍を止めようとはしない。ヴァルハラにでも送り込まれ、死んでも無限に蘇ることを信じているかのように、彼らはひたすら死に急ぐように進み続けた。
当然、帝国空軍としては友軍の犠牲は最小限に留めねばならない。ラインや北方にも可能な限り増援を送ったが、全てに優先して北西部に航空機を送り、徹底的に制空権を確保しつつ敵地上軍の制圧に務めた。
一九二四年は、共和国にもスピットファイア程でないにせよ、帝国と戦えるだけの戦闘機が現れ始めた頃である。
これまで一方的に敵機を駆逐してきた帝国空軍は、初めて大挙して出現した高性能敵機の物々しさに汗を滲ませ、対等な戦いを忘れたが為に墜とされた者も出た。
なんたる様か! と激怒したのはフォン・エップ大将を始めとする指導部ばかりではない。私とて、これが勝利と技術優勢に驕り、安易無為に月桂冠の上に座り続けた者の末路かと目を覆ったものである。
しかし、幸いなことに動揺はすぐに静まった。敵が自分達と同じ土俵に立ったというだけで、航空機そのものの優位性は依然こちらに有り、操縦経験も帝国空軍が圧倒的に上なのだから、無闇に恐れる事はないのだ。
帝国空軍は体勢を立て直し、再び戦線を押し込むべく前進を再開したが、空と違い地上では更なる悪夢が続いていた。
一九二三年に帝国化学者、プリンツ・ファーバー博士が開発した、毒ガスが敵陣地に散布され始めたのだ。
開発初期の塩素ガスだけでも一定の効果は見込まれたものの、北西部で実戦投入されたホスゲンやマスタードガスは、水分やアンモニアを含んだ布程度では毒性を中和出来ない凶悪極まりないもので、後に化学兵器の効果を目の当たりにした共和国・連合王国が帝国軍以上に化学兵器を開発・使用したことから、地上は本当の意味で地獄になった。
敵も味方もガスマスクを装着し、毒々しい黄緑色の煙が晴天の中でも大地を覆っていたという。マスタードガスは浸透性が高い上に、当時のガスマスクは余り性能が宜しくなかった事もあって、敵も味方も時間を置いてバタバタと倒れていった。
マスタードガスは士気低下を狙ったものであるから、どれだけ肺や内臓をやられても死にきれず、解毒処置を受けた兵士たちも、戦後は後遺症に悩まされることになる。
毒ガスの実戦配備報告を受けたエルマーが、フォン・シューゲル主任技師と大急ぎで収納缶と全ゴム製の直結濾過式ガスマスクと、マスタードガス用の化学防護服を作成していなければ、帝国軍の被害は想像を絶するものになっていた事だろう。
この毒ガスは敵陣地確保や兵器の鹵獲には非常に優秀であった反面、かねてから北西部への配属を希望していた私が、戦場に足を運ぶ事を許されなくなった原因にもなった*1。
私だけでなく、ダールゲ少佐やフォン・デグレチャフ参謀少佐麾下の魔導大隊といった虎の子も同様で、毒ガスを完全に無効化出来るようになるか、国際法で使用が禁止されるまでは絶対に北西部に行くなと厳命された。
エルマーとフォン・シューゲル主任技師の手掛けたガスマスクと化学防護服は確かに有効だったが、地上軍に最優先で配備されていた為、空軍には行き渡らなかったのである。
航空魔導師に関しても、化学兵器用防護術式の研究が急がれ、フォン・デグレチャフ参謀少佐も『ライン戦線から離れられない状況を喜ぶ日が来ようとは』と、この時の事を手紙で語っていた。
しかし悲しいかな、化学兵器の生産が禁止されたのはこの三国介入戦争以降であり、つまり北西部では、最後の一兵が倒れるまで使用され続けたということを意味している。
戦場の大地を進む兵士は、空の青さも、曇天の灰色も目に映らない。砲弾が炸裂する度、空には黒々とした油じみた煙が上り、黒煙が毒ガスに混じって魔女が大鍋をかき混ぜたようなマーブル模様の景色が満ちる。
毒ガスの煙で覆われ続ける大地を進み、敵陣地を奪い人心地付きながらも、ガスが晴れるまでは食事にありつく事も出来なかったという。
「戦場に、かつてあった煌きは消えた」
フランソワの老将軍は、この戦場を見て思わず呻いたそうだが、その思いは私にも分かる。我々の目指す勝利とは、こんな名誉も何もない、効率化された死の果てに有るというのか。
我々の戦いは、確かに殺し合いであったが為に、憎しみも怨嗟もあった。それでも人として残すべき尊厳は、欠片といえどもこれまでの戦いの中には有った筈ではないか。
私は初めての空爆で死んだファメルーン人を初めて目の当たりにした時よりも、より痛烈な衝撃を受けた。爆撃機のそれは、魔導師や砲兵の地上支援を効率化した物であり、友軍支援の為だと割り切る事も出来た。
しかし、毒によって苦しみ喘ぐ敵味方の姿は、痛々しい姿で野戦病院内に横たわる戦友達の報告は、それを直接目にしていない私でさえ、兵器という物の在り方を問いたくなる代物であった。これも時代の流れと受け入れる他ないのか。人の死を数字と、戦果と割り切りながら進むしかないのか。
私の苦悶とは裏腹に、総監部は新たな兵器が完成したと空軍に朗報を届けた。航空機から投下する化学爆弾(KC)を完成させたと伝えたのである。
エルマーの作品ではない。弟に頼らず、効率的な殺戮兵器を作れたことが、総監部にしてみれば何よりも喜ばしかったのだろう。これまでのように噴霧器で撒くよりも、遙かに友軍に安全で効率的に敵を殺傷できる兵器を、総監部は自慢話のように語ってきた。
既にして陸軍にも、大砲から射出する化学砲弾を配備済みだという。
当然私は良い顔をしなかったし、フォン・エップ大将も指導部も、無邪気に喜ぶ総監部に上辺だけの対応を行ってお引き取り頂いた。
「使わねば、ならんのだろうな」
有効だというのは分かる。
「閣下、私は」
「言うな。貴官は正しい」
私以外の、若手の指導部勤務の将校が己の名誉と良心に従って口を開くも、フォン・エップ大将はそれを止めた。誰だとて、こんな物を使いたくはない。使わず済むならばそれで良いのだ。
しかし、我々は軍人だ。それが名誉に悖る行いであろうとも、為せと言われれば成さなくてはならない。一日でも、一刻でも早く戦争を終わらせる為にそれが必要だと言うならば……。
「閣下、投下命令は私が」
「英雄は英雄らしく振舞っておれ。余計な荷物を背負うのは、老人の仕事なのだよ」
フォン・エップ大将は、二度とそのような提案はするなと私に言った。そして言葉通り、自らの命令で化学爆弾を投下させ、三国介入戦争を勝利に導いた。
◇
一九二五年、一一月。フランデレン王国は既にして消滅していた。国土は朽ちた。兵も潰えた。逃げ遅れた民間人は、風に流れた毒ガスで苦しみ倒れた。
それでも、フランソワ共和国もアルビオン連合王国も、フランデレンを舞台から下ろさない。既にしてネーデルが存在しない以上、フランデレンしか自分達が覇者に据える国は存在しないのだ。
「この地を見よ、何もない大地を。無慈悲な空を。お前達は余の民全てを殺した。不遜な野心に駆られた余も、命じて死地に送った。皆で等しく、地獄を作り上げたのだ」
フレンデレン国王は王妃と王太子を亡命させ、官吏らに降伏の使者を出そうとしたが、共和国も連合王国も、頑としてそれを認めなかった。王族は軟禁の上に監視が付き、まるで受刑者の如く扱われたという。
だからこそ、フランデレン王は最後の抵抗を示した。死という抵抗を。
「余はこれより裁かれる。その方らの席は、余が手ずから準備しておこう」
食事を運ぶ監視から銃を奪うと、不敵に笑いながら口に咥え、引き金を引いた。王の遺体は伝統通り、可能な限り清めた上で教会に安置されたそうであるが、それで戦争が終わる訳ではなかったのは、フランデレン国王の誤算だっただろう。
残された王妃と王太子は連合王国に亡命という形で連行され、軟禁状態に置かれながら、祖国を取り戻す口実にされた。
王妃と王太子が解放されたのは連合王国の敗戦後、帝国に亡命した官吏が解放を訴えてからであるが、連合王国は当初、妻子は自らの意思で連合王国に亡命したと事実を否認。
後に帝国がコマンド部隊を率いて精根尽きていた王妃と王太子の救出に成功した後、全世界の記者に共和国・連合王国に受けた軟禁の日々とフランデレン王の死を暴露するまで、北西部は幾度となく王妃と王太子を祭り上げた、偽りの亡命政府が失地回復を訴え続ける事となる。
◇
最早この地に、ネーデルもフランデレンも事実上存在しない。官吏達も拘束され、恭順を示さぬ者は敗北主義者として投獄された。
こんなやり方が正しいなどとは、共和国も連合王国も思っていないだろう。それでも、やらなくてはならない。やらなければ、滅ぼされるのは自分達なのだという恐れが、彼らに止まることを許さなかった。
この地を奪われる事の意味を、共和国・連合王国は誰よりも理解している。だからこそ、どんな非道に手を染めてでも、勝利を希求し続ける。ここは趨勢を決する天王山。悪魔の笑う地上の地獄にして、最後の生き残りを求める蠱毒の壺だ。
連合王国は本土から直接スピリットファイアと爆撃機を飛ばし、共和国も空と大地から最後の一兵まで使い切る覚悟で戦力を投入した。だが、それでも帝国には勝てない。
主力戦闘機たるJä001-1ヴュルガーは次々と敵機を墜とし、北方の勝利を目前にした時点で、地上軍にも増援が決定した。エルマーのガスマスクと化学防護服も着実に行き渡っており、彼ら歩兵の手には正式に量産が決定されたStG25が握られている。
制空権を得た軍がどれ程の優位に立つかは、もはや語るまでもない。地上を埋め尽くしていた敵軍は空と大地から蹂躙され、
そうして、一九二五年の聖誕祭までには、この地の戦いは終わった。
◇
「レツェブエシ大公。汝をネーデル、フランデレン、レツェブエシを統一した新たな州、レランデル州の王と認める。これよりはレランデル王を名乗り、帝国を支える王の一人として、余と共に身命を祖国に捧ぐ事を願う」
一九二五年、一二月二五日。ベルン王宮にて新たなる王の即位式が行われた。
一九二三年時点にして、レツェブエシ大公を王とする事が既定路線であった帝国は、イルドア王国を通じて教皇庁に交渉を開始。王冠、王笏、王剣、宝珠、印章収納箱を事前にベルンの金細工師ら、一級の職人に作らせていた。
教皇庁との交渉は困難を極めたものの、そこは
新王として即位したレランデル王は、帝国の一員となる栄誉をお与え下さった
全ての帝国国民は新たなる州の誕生と新王の即位に快哉を叫びつつも、正午に黙祷を捧げ、レランデルで息絶えた全ての魂が、高き所に逝く事を心から祈った。
そして、慈悲深き
一九二六年、一月。森林三州誓約同盟にて化学兵器・細菌兵器の生産・使用を禁止する国際条約、通称『ジェノヴァ議定書』が定められた。
条約に批准したのは
元よりルーシー連邦は、ヴォルムス陸戦条約を始めとする国際条約の類には一切批准せず、帝政時に批准した条約も「ブルジョワ国家であった頃の条約などは、革命後の我々とは無関係である」などと言っていただけに、そこは問題にはしていない。
だが、帝国と同盟を提案してきた秋津島や、中立を謳う合州国までもが、この戦争の中で生まれた悲劇の産物を言外に使用し、研究する方針を明らかにした事は、複数国には衝撃的ではあった。
おそらくだが、秋津島は国際法に批准していないルーシー連邦への対策として。合州国は国際法に批准していない途上国にでも使うのだろうと当時は考えられた。
我々帝国はまだ、合州国がどのような本性を持っていたかを悟る事が出来ていなかったのだ。
◇
有毒ガスを開発したプリンツ・ファーバー博士は、軍にとって多大な功績を収めた優秀な研究者であり、数多くの勲功章・名誉章を授与された。博士は化学兵器が人道に悖る物と承知していながらも、自らの兵器が祖国を救うと信じていたのだ。
その熱意も、意志も、帝国人として帝国に尽くしたいと言う純なる物であった事に疑いの余地はない。
確かに毒ガスは恐ろしい兵器ではあった。世に生み出すべきでない物だったのかもしれない。しかし、戦争を終わらせようとするファーバー博士の願いと決意まで、どうして否定する事が出来るだろう?
人を殺してはならないと言うならば、祖国と愛する者を守る為に銃を取る者も、戦地に行く親兄弟の為に、銃後の守りとして工場で弾丸や銃を生み出す婦人達も、皆等しく否定されねばならない。ファーバー博士は祖国を守らんとした一人の愛国者であり、博士自身に、殺戮と苦痛を快楽とするような歪んだ思想は欠片もなかった。
この時代、この戦乱の世界においてファーバー博士を非難する事が出来る者が居るとするならば、意図せず毒ガスの犠牲となった、フランデレンやネーデルの無辜の民だけだろう。彼らは武器を持たなかった。平和に生きる事を望んでいた。争いなどとは無縁の、のどかな生活を続けたかったに違いない。だからこそ、彼らだけは否定出来る。
戦後生まれた者達が、訳知り顔でファーバー博士を非難する事は正しくない。何故なら彼らは、この時代に、戦争を終わらせようという努力をしていないからだ。
自己陶酔に近い平和運動に勤しむ者達に、ファーバー博士を否定する資格はない。何故なら、彼らは現実を見ていないからだ。人と人との、個人と個人の争いと、国家同士の争いは異なるのだという事を理解出来ていないのだから。
だからこそ、私は何度でも言おう。真に予期せぬ犠牲となった者達だけは博士を『否定』する資格があると。誰にも望まれない『痛み』を与えられた彼らにしか、否定する『資格』はないのだと。
そして、本著を手に取って頂いた読者諸氏は、これだけは知っていて欲しい。ファーバー博士は悪魔ではなく、何処までも善良な個人であり、人間として恥ずべき所など何一つとしてない人物だった。
だからこそ、ファーバー博士は自らの発明を否定された時、強く苦しみ、悩み続けた。博士には祖国愛があった。たとえ全ての人間から否定されたのだとしても、祖国が永遠である限り、博士は最後まで化学者として誇りを持って生きて行けた筈だった。
だが、一時と言えど、我が祖国はファーバー博士を突き放してしまった。
しかし、ファーバー博士にとってそれは紛れもない国家からの、唯一の縁からの否定に他ならない。祖国のため。終戦のため。博士は善良であるからこそ、直向きに走り続けていたからこそ、立ち止まらざるを得なかった時には、深い絶望に包まれた筈だ。
ジェノヴァ議定書が定められてすぐ、ファーバー博士は軍を去った。そして博士は、奪われた命への償いとして、多くの偉大な発明を世に残した。
ボール・カッシュ博士との共同研究によって、一九二七年五月に発表されたファーバー・カッシュ法は窒素肥料の製法確立により、水と石炭と空気からパンを作る方法とまで言われ、全世界の農業法に大革命をもたらした。現在においても、その恩恵に預からぬ国は未開の途上国にさえ存在しないと言われている。
かつては帝国内にさえ居たファーバー博士を悪魔のように忌み嫌っていた人々は、博士の発明と世界への貢献、そして自らの私財を擲ち、生涯に渡って有毒ガスの深刻な土壌汚染に晒されたレランデル州の復興と、毒ガスの犠牲となった全ての人々に尽くし続けたその姿に、二度と博士を悪魔と呼ぶ事をしなくなった。
ファーバー博士は、それらに伴う年金や賞与金さえも平和と復興の為に投じ、自らの財は、妻子や孫たちが慎ましく暮らせる分しか、遺そうとはしなかったという。
加えて、共和国・連合王国が開発に成功したのは、帝国の有毒ガスの実戦投入から四ヶ月後であり、一日でも早く損耗比を逆転させたいという思惑が有った事も、有毒ガスの使用戦域が限定される要因となった。
帝国は教皇猊下から、レツェブエシ大公がレランデル王となるご裁可を得たという事を喧伝する為、また、既成事実を作る為に戴冠式と即位式を行ったのである。
レツェブエシ大公が名実共にレランデルの王となったのは、共和国・連合王国が降伏した上で、講和条約に調印してからである。
補足説明
【本著の内容と現実に起きた事実との差異について】
今回のお話ですが、この物語はニコラウス・フォン・キッテルの回想記であります。
つまり、ファメルーン人の差別の時のように、現実と乖離する部分があるという事ですね。
今回主人公が意図的についた嘘は、フランデレン国王の死についてです。といっても、これに関しては嘘を吐いていたというより、主人公自身『真実は闇の中』だった、という方が正しいですが……。
実はこの国王の死は、詳細については誰も何も分かっていません。
遺体の状況から拳銃自殺したことは確実なのですが、何時、何処で、どのように死んだのか。そして誰が原因を作ったのかは全く分かっていません。
主人公が本作品内で語ったのは、飽くまでも『帝国に救出された』王妃と王太子の証言を採用し、帝国側の用意されたストーリーと組み合わせつつ、最も現実的でベターな内容に整えていましたが、主人公自身、執筆した時も、その後も納得はしていませんでした。
共和国・連合王国にしてみれば、何が何でもフランデレン王には死んで欲しくない筈です。監視をつけるなら徹底的に、確実にやっていた筈ですし、王妃や王太子も後年の調査で、別々に監禁されていたことが発覚しました。つまり、二人が王の死を詳細に語れる筈がないのです。
主人公は帝国こそ黒幕であり、少数精鋭のコマンド部隊や情報部の人間を送り込み、国王を暗殺したのではないかと考えましたが、これも辻褄が合いません。
もしも帝国が行動を起こすなら、国王だけでなく王妃と王太子も殺害リストに入っている筈であり、完璧な警備の敷かれた王宮に踏み込んで国王を殺せていながら、二人を見逃す理由は何処にもないからです。
デグ様にも、この件は話しました。元中央参謀本部直轄の魔導大隊指揮官の彼女ならば、真実に繋がる何かを知っていても可笑しくないと考えたからです。
ですが、デグ様もこの件については全く何も知りませんでした。これはデグ様が機密保持の為に主人公に嘘をついたのではなく、本当に何も知らなかったのです。
そして、デグ様も帝国の関与を否定しました。デグ様と大隊ならば、こうしたダーティな仕事の話はその規模や錬度からも確実に回ってくる筈ですし、中央参謀本部がこんな重要な案件に絡まない筈がないからです。
王妃と王太子が国外に脱出した事から考えても、帝国の仕事にしてはお粗末極まりない有様でした。
後年、主人公は本著を執筆する上で、WTNのアンドリュー特派記者からフランデレン王の死についての情報はないか確認しましたが、逆にアンドリューさんが驚きました。
何故ならアンドリューさんは逆に、主人公程の地位のある帝国軍人なら、真実を知っている筈だと考えていたからです。
結局、主人公の存命中に真実は分からず、遥か未来の二〇〇〇年代に入ってさえ、フランデレン王の死は多くの憶測を呼び、無数の著作が出版されました。
『誰がフランデレン王を殺したか』。細部は異なれど、このような本やTV特集は、未だこの世界のありとあらゆる国々で、語り続けられるものとなったのでした。
……どうしてこんな面倒くさい設定にしたのかと。書き終えた後で首を傾げるばかりの作者です。多分アナスタシア様関係の本を読んで、歴史に謎があった方が面白いんじゃないか? みたいな軽いノリだったんだと思います。
こんな意味不明な設定作るぐらいなら、もっと誤字脱字のチェックをしろとあれほど……。
以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【勲章】
ドイツ芸術科学国家賞→帝国芸術科学国家賞
【国名】
ベネルクス→レランデル
【条約】
ジュネーヴ議定書→ジェノヴァ議定書
【人物名】
フリッツ・ハーバー→プリンツ・ファーバー
カール・ボッシュ→ボール・カッシュ
【生産法】
ハーバー・ボッシュ法→ファーバー・カッシュ法