キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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表紙 
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※2024/8/24誤字修正。
 TiELさま、410さま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!



01 誕生-軍人となる為に

 しんしんと降る雪が屋根へと積もり、いよいよ本格的な冬の到来を知らせる頃、私は暖炉の温もりと、家族の愛情に守られながらこの世に生を享けた。

 普段であれば黒檀に銀細工の握りをあしらったステッキを手に、厳しい表情を崩さぬ父上が、その相好を好々爺のように崩し、蓄えた髭を私の頬にこすると、私は一層声を上げて泣き腫らしたと言う。

 一八九九年の一一月。帝国北東部の片田舎といっても差し支えない、長閑な土地に生まれたキッテル家の長男は、四つ程離れた姉上と両親の接吻と、父上が帝都ベルンより招き寄せたヨハン・クラメル上級宮廷説教師の洗礼によって、この偉大なる祖国に尽くす栄誉と機会を与えられた。

 

 帝国北東部は他に知られている通り、土地こそ痩せていたが、幸いにして我が家の領地に餓死者が出るような飢饉は一〇〇年以上なく、従って私ことニコラウス・アウグスト・フォン・キッテルもまた、逞しい肉体を作る事に不自由しなかった。

 

「ニコ、お祖父様に挨拶なさい」

 

 金髪の美しい母上は、物心ついてすぐの私の手を引いて肖像画の前に立たせた。

 そこは、今日という日まで入る事を許されなかった父上の──より正確には歴代キッテル家当主の──執務室であった。

 

「ニコラウスよ、忘れてはなるまいぞ。我が家はかの兵隊王の治下より、この地の領民に尽くし、身命を以て忠を捧げた。我が家は過去も未来も、そして現在も、帝国に仕え続ける」

 

 無論、お前も。と父上は私の肩に手を置いた。肖像画の祖父は煌びやかな勲章を胸に飾り、プルシアンブルーの軍服を纏う厳格な武人であり、正に帝国の範とする質実剛健なる軍人を体現する人物だった。

 決して大きくはない肖像画に描かれた祖父は、しかし物心つくかどうかという幼子の私にさえ、威風堂々足る風格を知らしめていたのである。

 執務室に飾られている我が家の人間は祖父のみであり、他は全て当家が仕えてきた歴代の国王ないし皇帝(カイザー)であった。

 これはキッテル家の慣習であり、執務室に置かれるのは他界した先代当主に限られ、次代の当主がその席に就く毎、先代の肖像画は他の父祖の肖像画と同じく広間に飾られる。

 この時の私は執務室に漂う、独特の空気に圧倒されて固まるばかりであったが、父上は自分もそうだったと言うように微笑を浮かべ、壁に立てかけられた宝剣を、白手袋の填められた手にとった。

 デュペー、アンゼン、グレツケニッヒ……何れも祖国の歴史に名だたる激戦地の名で飾られた剣身の飾り文字は、その地でキッテル家の父祖が赫々たる武功を重ね、古プロシャ王(◆1)から現代の帝国までの時代に送られた物である。

 

「私は未だ、この剣に新たな土地を加える事は叶わない。だが、お前ならば叶うやも知れん」

 

 前もって告白すれば、父、エドヴァルド・フォン・キッテルのそれは、息子への期待ではない。あくまでこれは、貴族として当然の義務を果たせと言っていたのだ。

 自分で言うのも何であるが、貴族とは恵まれた存在である。孤児のように親を知らず、或いは親や世を憎み生まれ育つ事もなければ、寒さに凍え震える事も、飢餓に苛まれる事もない。

 多くの特権を持つ事を人生の中で約束されている以上、それに相応しい勤めを果たす事は、当然の義務に過ぎない。

 例えそれが、いま齢五歳になろうという子供の理解には及ばずとも、これは時が経てばその肉体と魂が、高潔な義務を果たせるよう動ける為の、将来に向けての儀式なのだ。

 

 

     ◇

 

 

 そこから先、私が育った環境はプロシャ軍人としての厳格なる道であった。

 父上は私に家庭教師を付ける一方、自らもまた軍務の傍らに教鞭を執り、古今東西からなる戦史と作戦、そして兵卒としての基礎を私に叩き込んだ。

 丸一日の休みなど存在せず、安息日の午前か午後の一方、或いは教会のミサだけが、与えられた自由な時間であったが、私自身、厳格な家庭というものが当然であり、それを苦と思う事は一度としてなかった。

 むしろ、軍隊という世界を伝説の英雄譚の一幕のように見ていた感が否めなかったし、何より両親や家令らの愛情は本物であったのが大きかったのだろう。

 それこそ、休みなどあろう筈もない父上が、幼い頃の私を腕に抱きながら馬に乗せては湖畔を駆け回り、九になり手足が支えられるようになれば、猟銃を手にしては私に狩りの作法を教えてくれた日の事は、今も瞼を閉じれば想い返すのに難はない。

 

 目まぐるしいまでの毎日は、常に青春と情熱と、何より新しい物を見つける事に溢れていた。私は家庭教師がいる為に学校には通っていなかったが、それでも運動は学校の施設を父上の口利きで使わせて貰い、生徒らとも友誼を育んだ。

 学校一背が高く、腕も長いミールケのフェンシングの剣捌きは鋭く見事で、器械体操で柔軟な動きを見せるアルフォンスは、中性的な顔立ちと肉体美も相まって、同年代の子女らに大層人気であった。

 私はこの二人に取り入ろうという気はなく、むしろやんちゃ盛りで負けず嫌いであった為に、何としても勝ってやろうと躍起になったものだが、結局剣士としてはミールケには及ばず、動きの精細さでは、やはりアルフォンスこそ一番だと膝を折ったまま、私は彼らが卒業するより早く、士官候補生になる前段階として、帝都の上級学校に送られる事になってしまった。

 キッテル家の男児は皆、一一になる年に軍人としての一歩を歩むのがしきたりだったからだ。

 

「ニコ。お前、言ってた通り、本当に軍人になるんだな」

 

 何を今更と肩を竦める私に、アルフォンスは目尻に涙を湛えて私を包容し、次いでミールケも私を抱きしめた。

 

「腕を磨いて、俺に一本取れるようになって来い」

 

 平民でありながら敬語を用いないのは同年代ということもあるが、それ以上に私が彼らを対等な存在としたかったという我が儘からでもある。

 とはいえ、この時代でも、未だ封建的な習慣が根強く残る地方のことだ。当初、親友の御両親は私との会話に目を丸くし、実家に謝罪に来たことがあるが、私の両親は二人の父母に笑って。

 

「息子を負かせるような強い御子息をお持ちとは。帝国臣民として、誇らしいものです」

 

 と。そのまま夕餉に招いて、貴重な仔羊をテーブルに載せて振舞った。

 常に質素と清貧を尊ぶあの父上が、私に友人が出来た事を喜んで大盤振る舞いをして下さったのは、私の思い出の中でも特に喜ばしい一幕である。

 そんな二人の親友との別れには、私も胸にじんと込み上げるものを抑えきれなくなりそうであったが、しかしこれは帝国軍人としての門出であり、感情を爆発させるなどというのは、将来の士官には許されざる事である。

 喜びも悲しみも、理性の内であらねばならぬ。私はぐっ、と拳を握り、涙も声の震えも飲み込んで、凛と背筋を伸ばして胸を張り、二人を優しく、卵を割らぬようにするように包容し返した。

 二人の目には、自分がまるで年の離れた大人のように映ったのかも知れない。だが、それが貴族というものなのだ。キッテル家の長男、ニコラウスは上級学校の門を未だ潜らずとも、折り目正しき軍人の卵なのだ。

 

「二人に出会い、友誼を結べた事は何物にも代え難い宝だった。勤め故、死の淵に立つ事になるとても、この日を思い出せば、私は孤独を思わず高き所に逝けるだろう」

 

 芝居掛り過ぎている事は承知している。しかし、こうした大仰な仕草でなければ、大人のように背伸びをしなければ、私は頬に雫を垂らしてしまう。

 私は纏めた荷を手に馬車へ乗り、家族の待つ駅へと向かった。

 

 駅での別れ際、嫁ぎ先から見送りの為だけに足を運んで下さった姉上は目元を拭いつつ、私にリネン生地のハンカチを手渡された。私のイニシャルに加え、『幸運を』という言葉の入った刺繍は、姉上が手ずから針で入れて下さったものだ。

 将来は自分と同じように列車に乗るだろう弟も、誇らしげな中に寂しさを隠していたが、それを必死にこらえていた。

 胸を張って見送って下さった母上は出発間際、私の首に銀のロザリオをかけられ、軍人の、キッテル家の夫人に相応しい、堂々たる声で激励を送った。

 

「お行きなさい、ニコラウス。逞しい軍人におなり」

「行って参ります、母上。皆も、どうか息災で」

 

 濛々と煙を吐き、高い音を響かせて、列車は私と故郷を引き離して行く。

 窓辺から、姉上と歩んだ湖畔が見えた。父上や弟と共に馬で繰り出した草原が見えた!

 これぞ我が故郷! 西部の神々しい聖堂と古城の聳える古都よりも、南部のバロック様式溢れる絵画の如き都よりも、私にはこの長閑な大地こそが素晴らしい!

 私がキッテル家の人間でなければ、一人の貴族でなければ、今すぐにでも窓を開け、身を乗り出して涙を風に運ばせただろう。

 

 母上! 姉上! 我が弟、エルマー! エミール! アルフォンス!

 

 親しい人の、肉親の名前を次々に叫びながら、私は嗚咽と共に故郷に別れを告げられたならば、この胸の裡を吐き出せたならば、どれだけ幸福なことだろうか?

 だが、それは決してしてはならない事である。軍人の卵が、別離を惜しむ妻や子女のようにわんわんと泣き腫らしてしまうような真似が、どうして出来ようか?

 私は一冊だけ家から持ち出した詩集を開く。文学は偉大だ。感動も、情熱も、文字の中に閉じ込めて万人を何世代に渡って魅了し、大人へと教育させてくれる。

 

 この世に本がなければ闇とは、正しく至言である。

 

 私は本の世界に入ることで、現実と切り離そうとした。だが、今まさに本著の執筆を務める傍ら、私の執務室にあるその本には、数滴の涙の痕が残っている。

 

 

     ◇

 

 

 長いようで短く、遠いようで近く感じる列車での短い旅を終え、私は上級学校の宿舎に足を運んだ。

 既に日は沈み、夜も更けていたが、私が今日この時間に来ることは前もって電報で報せていた為、分厚い格子の門を潜る事に問題はなかった。

 上級学校は基本的には私と同じ貴族か、或いは中流階級以上の比較的裕福な家庭の子息が入校するが、宿舎に関しては連帯感を高める為と、何よりも温室育ちからの脱却の為に、相部屋となる事を定められている。

 入寮し初めのヒヨっ子は抵抗があるだろうが、士官学校に入校すれば──少なくとも貴族は──個室が与えられる為、この()()で六年間の、それなりに長い宿舎の生活を苦難の時と割り切るのであるが……この程度のものは、後に語る逃れられぬ問題に直面するまでの、ささやかな準備期間に過ぎない。

 消灯時間はとうに過ぎていたが、幸いにして入校前に地方から訪れる者は自分を含めて多く、晴れがましい席に着く多くの少年少女らを迎え入れる為に、入校前のひと月は、列車の最終便から二時間は明かりが灯されていた。

 

「私はノルケ・フォン・ヘルドルフ。西部から来た。貴君は?」

 

 相部屋となった同期生からかけられた、簡素ながらも宮廷作法に則った優美なイントネーション。フォン・ヘルドルフは、そのベッドからの立ち上がりも動作も含めて、実に非の打ち所のない都会人という様を有りありと見せつけた。

 

「ニコラウス・フォン・キッテル。北東部からだ」

 

 指定された番号の簡素なベッドの下に最低限の荷を置き、差し出された手を固く握り返す。恐らくはフェンシングによるものだろう。右の腕は左のそれと比べやや太く、端正な顔立ちに反して、指も太く硬質なものだった。

 

「貴族の御子息が二人に平民が二人。バランス取りかな? 自分はバルヒェット。こっちの大人しいのがディール。姓はどっちもリューガーだけど、兄弟じゃないし出身も違うから、気を付けてくれ」

 

 私が間違えてね、と。フォン・ヘルドルフが苦笑するが、言われなければ私とて双子の兄弟か、それとも両親が機を見て年の近い兄弟を離れさせまいと、揃って上級学校に入れたのだと勘違いしただろう。

 

「宜しく。親しい者は私をニコと呼ぶ。皆にも、そう呼んで貰えれば幸いだ」

 

 こちらこそと固い握手を交わし、ファーストネームを呼び合う仲になると、私は皆を改めて見直す。この四人の内、全員が揃って卒業する事はない。だが、初めの一年に限っては――脱走や退学といった不名誉な事態に陥るか、何かしらの事情を抱えて去らない限り――私達はルームメイトとして苦楽を共にして行くのだ。

 

 

     ◇

 

 

 翌朝、我々は絆を深め、苦楽を共にする上で、そして軍人のヒヨッ子としての洗礼を入学初日に味わう事になる。

 

「これはまた……」

 

 酷い臭いだと言いたいのだろう。だが、臭い以上にこの光景にバルヒェットとディールは絶句していた。

 朝、尿意を催してトイレに足を運んだ我々が目にしたのは、二〇名は一度に用を足せるであろう共用トイレで、半数近い生徒がチラチラと周囲を窺いながら、或いは気恥ずかしさ故に顔を伏せながら用を足している姿だったのだ。

 

「ドアも鍵もなしなの?」

 

 まるで列車の席の様に、向かい合わせで便座に腰掛ける少年達の姿を前に、神の存在を否定された敬虔な信徒のような面持ちでディールは声を震わせた。

 ここで読者諸氏は、私達の誰もが、宿舎のトイレ事情を知らなかった事に疑問を抱くだろう。しかし、これは上級学校が入学初日の朝までトイレの入口を見張り付きで封鎖し、尿意・便意をこの時間帯に催すように狙って、前日の夜間二〇時まで教官達が使用するトイレを貸し与えていたのである。

 

「ここが特別じゃないぞ。何処の兵舎でも、同じような物だ」

 

 本当に? とノルケの言にディールは耳を疑っているようだが、純然たる事実である。違いがあるとすれば、便座の足元に紙片の入った籠が置かれている事か。

 実際の兵舎に紙はなく、各自が読み終えた古新聞やらビラを破って尻を拭くのだが、どうやら後に聞いた話によると、心優しい上級生らが籠を用意して下さったらしい。

 籠の紙片には『一人じゃ尻拭き紙も用意できないお坊ちゃま達へ』『次は左手で拭くように』などと、実に心温まるメッセージまで寄せて下さっていたが、中には用意周到な手合いも居たようで──私やノルケもその内の一人だが──彼らは腰部のポケットから自前の紙片を取り出して尻を拭いていた。

 とはいえ、いつまでも男共が用を足す姿を眺めている訳にも行かない。

 

「する事をして、早く出よう」

 

 羞恥心もあったのだろうが、バルヒェットの提案は実に合理的である。塹壕で用を足すのに時間を掛け、砲弾で吹き飛ばされるか、間抜けにも尻や逸物を出したまま銃で撃ち抜かれるような死に様だけは、軍人としても一個人としても御免蒙りたい。

 が。ディールと言えば、もじもじとするばかりで動けないでいる。

 

 ははあ、どうやらでかい方だな、と私は察し、ここは父上に連れられた事で、少しばかりは兵舎生活の経験がある先輩として背を押してやろうと、烏滸がましくも特に便意が込み上げている訳でないというのに、堂々とサスペンダーのフックを外し、どっかりと便座に跨った。

 人間、慣れていればスムーズに行くもので、座るまでは感じなかった便意が込み上げ、ひと際大きな音を立てて糞をひり出していた。

 羞恥心など当然なく、むしろ堂々と新聞か、ポケットの本を広げて一読したいものであったが、そこまでする必要はあるまい。ここまで堂々とした隣人がいれば、誰も彼もと後に続く。

 私は共同トイレの前で右往左往していた、子女の様に貞淑な少年達と共に便座を奪い合うディールの姿を後に、悠々と食堂に向かった。

 

 

     ◇

 

 

 さて。ここで上級学校が、他の幼年学校と異なる点を語る事としよう。

 我が母校ベアリーン上級学校は、その歴史と教育内容の奥深さも然る事ながら、何にも増して特筆すべきは、飛び級を前提とした進級・教育制度を採用している事だ。

 最初の一年こそ皆仲良く手を繋いで横並びであるものの、そこから先は一年間での成績内容と、希望兵科があればそれに沿う形で、専門校や士官学校に向けての勉学が始まる。

 教条主義的な性が強い帝国にあって『質実剛健・用意周到。なれども頑迷固陋せず』を体現する上級学校は、出自に一切の貴賤を設けない。

 求めるは当人の実力のみ。貴族の子息であれ、市井の市民であれ、教会の孤児であれ、相応しければ機会を平等に与えて下さる上、入学に当たっての年齢に上限はあれど下限はない*1

 

 最初の一年は、飽くまで軍隊という環境に慣れるためと、最低限のルールを肉体に刷り込む為の準備期間なのだ。

 最長で六年と上記で語ったのはこの飛び級制度故で、前もって実家で士官となるべく教育を受けてきた貴族達は──よほどの低年齢で入校しない限り──まず一年の短縮を約束されているに等しい。

 入校した時点でそれを知らない者は殆どいないが、中には富裕層の親が物見遊山のつもりで子息を入学させ、定期の筆記試験での出題範囲と難解さに、思わず筆をへし折るというのは、愛しき母校の笑い話の一つである。

 我が同期生にして、背の低さと童顔から皆に可愛がられて止まないディールもまた、その笑い話に上がる一人であったが、彼は生来の努力家であったようで、我々に笑われながらも必死に授業に食らいついてきた。

 意地悪なバルヒェットが「成績が悪いと退学だぞ」と脅したのも、必死になった要因だろう。蛇足だが、ベアリーン上級学校に留年制も落第もない。実力主義であるが故に、付いて行けない者は容赦なく門から叩き出されるのだ。

 

 ともあれ、最初の一年での筆記試験を六〇点以上出せる者は、次代の高級参謀として目をかけられるといえば、その内容の密度と水準の高さが窺い知れよう。

 私も家の名に恥じぬよう他人より多く努力したという自負はあったが、それでも語学以外での自信はなかった。

 同期生の中での私の成績は上の下といったところだったが、それでも短縮出来たのは二年間であり、目標の三年には届かなかった。が、我が友にして最優秀の成績を収めたノルケは、同期生で唯一、三年の飛び級を言い渡された。

 

「四年は行けると思ったのだがな」

 

 ノルケは悔しそうにしていたが、四年間の短縮というのは、ベアリーン開校以来両の指を数えるばかりの俊英達であり、将来帝国の枢要を担うに足る傑物達である。

 三年の飛び級が認められただけでも誇るべきであるし、私はノルケのような優秀な男と同期生の、それも宿舎で同室の親友になれた事は誇らしかった。

 実際、士官学校卒業後のノルケのキャリアは順風満帆そのもので、陸軍の花形である近衛歩兵第一連隊に士官として配属され、見事終戦まで生き抜いて将軍の座を掴んだ。

 

「世の中、そう上手くは行かんよ」

 

 ノルケに対し、溜め息交じりに肩を竦める私だが、多くが一年の飛び級に留まる中、二年間も士官学校への道を短縮出来たのは大きかった。

 二つ下の弟も上級学校に入る手前、抑えられる学費は抑えておきたい。貴族といえども、少尉任官の際に何かと物入りとなることを思えば、これは当然の考えだ。

 

 しかし、仮に飛び級が一年であったとしても、私は弟の将来を気に病みはしなかっただろう。何せ我が弟エルマーは、一族きっての天才である。

 エルマーはどのような数学の公式であろうと、一目見るだけで写真を写したかのように暗記し、両親の期待が肥大化し過ぎないよう、気を回した家庭教師が出した士官学校の入学試験すら、何と九歳で合格水準に到達した神童なのだ。

 長男としては実に鼻が高い反面、将来上級学校に入校すれば、間違いなく私を追い抜いて卒業する事が予想し得ただけに、兄としての尊厳が崩れはしないだろうかと戦々恐々としてしまったものである。

 

 だが、嗚呼、だがなのだ。世の中は上手く行かない。

 

 この言葉を、私は正に翌年の冬に思い知る。

 実家から私宛に届いた電報は『本日、エルマーが高熱を発症。危篤状態に有り』というものであった。

 統一歴一九一一年、一二月二日。このひときわ寒い冬以上に、私の心を恐怖で凍らせた日を、私は忘れる事は決して出来ない。

 出来る事ならば、今すぐにでも列車に飛び乗り、実家の弟の元へと向かってやりたかった。

 

 可愛いエルマー。姉上と私によく懐いてくれた、あの利発な男の子。父上からは未来の大モルトーケになると惜しみない期待を込められ、母上からも誉れの息子と愛された弟。

 誰からも愛され、やがては帝国の未来を背負って立つであろう、キッテル家の希望の光。

 それが、途絶えてしまうのか? 主よ、この聖なる帝国に必ずや必要となる逸材を、その芽が出るより早く御身の御手に委ねねばならないのですか?

 電報が届いたその日から、授業の終わりと共に、帝都の教会で私は膝をついて腕を組んだ。

 祈るときは、眠りの前に。家族と帝国の安寧を願うだけであった私は、おそらく敬虔なる帝国臣民にあっては、信仰心の足りぬ存在であることは間違いない。

 だが、遠く離れたこの地において私に出来るのは、ただエルマーの命が救われる事を祈るより他に何もなかった。

 

「いと高き主よ、貴方が神敵を滅せよと命じられれば、私はその勤めを果たしましょう。慈悲深き聖母よ。貴女が敵を赦せと命じるならば、どのような怨敵とて、どのような罪人とて、赦しましょう。

 私の身に適う全ての事を、貴方方の求められるままに果たしましょう」

 

 たとえそれが、この魂を炎にくべる事なのだとしても、私は一切躊躇すまい。

 明日この命が尽きるとても、それでエルマーが明日の光の中を歩めるならば、私はそれに悔いはなかった。

 私は教会で日夜祈りを捧げ続け、そして一週間後、新たな電報が私宛に届けられた。

 

『峠は越え、意識明瞭なれど、左足に麻痺。快復の見込みは───』

 

 そこから先の文を、本著に記載する必要はないだろう。

 エルマーは、あの天童は、武人の道を完膚なきまでに閉ざされてしまった。

 父上は嘆かれるだろう。母上と姉上も、さぞ悲しまれるだろう。

 だが、私は落胆の中でも希望を見出していた。

 我が弟、エルマー・フォン・キッテルは死の運命に抗い、勝利したのだ!

 それを思えばこそ、嘆く理由が何処にあろう? いいや、本当は嘆くべきなのだ。もうエルマーは、私と戦場を駆けたいという願いを果たせなければ、中央参謀本部*2でその天才的頭脳を活かす事も出来なくなった。

 軍人として、キッテル家の人間としての人生を、病魔の闇に閉ざされてしまった。

 だが、私は知っている。エルマーは強い男の子なのだ。キッテル家の誇りたる次男坊なのだ。病魔は弟から左足の自由を奪ったが、神より与えられた頭脳までは奪えなかったではないか。

 私はすぐさま、エルマーへと電報を打った。

 

『如何なる道を歩もうとも、兄はお前を誇りに思う。フォン・キッテル家の次男、我が愛しの弟へ』

 

 電報の返信として届いたのは、家紋の封蝋が為された母上からの手紙だった。

 エルマーは機能訓練故に病院にいるが、それでも人生に絶望はしていないこと。

 将来はベルン大学にて工学を専攻し、造兵廠の一員となって、祖国に尽くしたいと胸を張っている旨が記されていた。

 ああ、やはり我が弟は逞しかった。私は胸を撫で下ろし、感謝の祈りを主と聖母に捧げた。

 

 

     ◇

 

 

 その後、今日の帝国国民の多くにおかれてはご承知の通り、エルマーは新たなる志を貫徹した。我が弟は一三で一般高を飛び級し、歴代最年少でベルン大学へ入校。

 大学でも飛び級を重ねたばかりか、在学中に三つの博士号を取得し、一五で卒業した後は技術将校として軍服に袖を通し、造兵廠で辣腕を振るった。

 現在、エルマーが発明した数々の兵器に対し、世界中の人間から賛否の声が上がっている事は承知の上である。

 だが、どうかこれだけは疑わないで頂きたい。

 

 私の弟は家族と祖国を心から愛していたからこそ、帝国の発展と勝利に、その生涯を捧げてくれたのだと。

 


訳註

◆1:帝国統一以前のプロシャ王国(統一歴一七〇一年~一八七一年)までを指す。

*1
 但し、教育に手厚い反面、学費の面から入校出来ない者もいれば、自らの能力に自信がある者は学費の免除される各州の幼年学校に入校する者も多い。

*2
 正式名称は帝国陸軍参謀本部。

 参謀本部は陸のみならず他軍種(海・空)にも存在するが、戦時下においては陸軍参謀本部が上位となって帝国軍全体の軍令事項と戦争指導を──陸軍大臣の承認を得て──行う事から、このように称される。




補足説明

※この作品のデグ様はBL要素がないので、ボーイズラブのタグは付けずに行きたいと思います。

※原作4巻で第二『親衛』師団が登場したので、本来なら『近衛』でなく『親衛』とすべきなのですが(第二親衛師団は宮中の繋がりがあるとのことでしたし[4巻P451])、後々に登場させる部隊のために、本作品では『近衛』と『親衛』を分けさせて頂きたくあります。
 本作品内での設定としては、
 親衛=帝国軍内で称号を与えられたエリート部隊(ソ連まんま)。
 近衛=帝室の持ち物(建前)。
 といった感じで行こうと思っています。
 実際のドイツ帝国には親衛ないし直衛とつく近衛的ポジションの部隊も存在するのですが(親衛驃騎兵などが有名)、部隊ごとに親衛と近衛双方を出すのは紛らわしいので、この作品では帝室が関わる部隊は近衛で統一させていただきたくあります。

※古プロシャ王国について。
 本作品内での帝国は史実ドイツ同様、統一戦争の後に帝国が誕生したという設定となっております。ですので帝国建国以降、プロシャ王が皇帝(カイザー)を務めるよりも『前の時代』を、古プロシャと記載しています。

以下、名前・地名等の元ネタ
※兵隊王やプロシャといった名前と元ネタが一致するものは元ネタの欄から除外していく予定です。
※名前の元ネタとなった実在人物と、本作品のキャラクターの設定は乖離する場合がございます。予めご了承ください。
【史実→本作】
【地名】
 デュッペル→デュペー
 アルゼン→アンゼン
 ケーニヒグレーツ→グレツケニッヒ
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