キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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※2021/2/15誤字修正。
 みえるさま、八連装豆鉄砲さま、佐藤東沙さま、ドン吉さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


45 脚色-ターニャの記録15

「早期決戦? 馬鹿も休み休み言え。連邦との決着には最短でも二年はかかると見るべきだ」「補給線と冬季装備の確保は不可欠だ。鉄道課の要望は幾らでも聞け。ダキア方面での占領地の架設を急がせろ」「宣伝局を蹴り上げろ。市民への戦意高揚は後で手を打つ。東部戦線は帝国の『防衛戦争』であると同時に『イデオロギー戦争』だと全世界に伝えるのだ。民間新聞社にも記事を載せろ。亡命者の義勇軍部隊を組織する」「捕虜はどれだけ多かろうと取れ。ヨセフでなく我々に付くのであれば、戦後は英雄だと伝えろ。無理なら労働力に回す」

 

 矢継ぎ早に繰り出される小モルトーケ参謀総長直々の命令は、中央参謀本部をシュリー伯時代の不夜城に戻した。

 参謀連の誰もがかつてない仕事量に忙殺され、これまで穏やかな性格ゆえに敬慕されていた参謀総長の豹変に絶叫し、「大総長*1に取り憑かれておられる」と恐怖した。

 小モルトーケ参謀総長は繰り出す命令以上に先陣を切って職務を遂行し、一分一秒の無駄とて惜しいと早朝から深夜まで戦争計画を練りつつ書類を決裁しては、各所に電話をかけ続けるという有様だった。

 ルーシー戦役当時の参謀連は、かつてのシュリー伯の姿を重ねずにはいられない参謀総長の姿に、何が起きたのだと瞠目していたが、戦後になれば誰もが、この時のことを思い出しては目を細める事になる。

 

『参謀総長閣下は、ご自身の死期を悟っておられたのだろう。残された時間、その全てを、帝国の勝利と世界平和の為に捧げられたのだ』

 

 参謀連の若手にして秀英。そして後に数多の武功を重ね、枢要なる地位に就かれる事となるフォン・レルゲン参謀大佐(当事)が、自著(『レルゲン回顧録』一九五九年、出版)でこのように回顧した通り、小モルトーケ参謀総長は蝋燭がその最後に一際激しく燃え上がるように、自らの命を燃やしながら終戦の日まで戦い続けるのである。

 

 

     ◇

 

 

 小モルトーケ参謀総長にとって、開戦からの一年は帝国の準備期間だと割り切っていた。瀉血戦術と縦深防御を組み合わせ、攻勢に出る連邦軍の出血拡大を狙いつつも、東部戦線に完全勝利をもたらす為の布石を打ち続けていたのである。

 まず、航空優勢を確保した空軍が空から前線と言わず連邦領と言わず連邦公用語の伝単(ビラ)を撒き、ラジオでも連邦公用語での放送を始めた。

 

『ルーシー連邦の善良なる民よ! 共産党の侵略戦争などに加担する必要はない! 我々帝国は独裁者から諸君を解放する! 我々の呼びかけに応え、我々と共に銃を執る事に応えてくれるならば、必ずや諸君にパンと自由を、命の脅かされる事のない明日を約束しよう!』

 

 皮肉な話だが、旧体制の頃において著しく低かったルーシーの識字率は、共産主義者らのイデオロギー教育によって大幅に改善され、兵卒であっても何十人かに一人は文字を読む事が出来ていた。

 一〇〇人に一人でも良い。彼らの口から他に広まり、語られ、一〇〇〇人に一人でも帝国側についてくれるならば、それだけでも効果はある。

 ルーシー人は母なる祖国の防衛においては死力を尽くすナショナリストだが、侵略戦争などというのは支配者層が私腹を肥やすものに過ぎず、自分達には関係ないという見方が一般的であるのも大きい。ツァーリの時代においても防衛戦争は成功したが、侵略戦争では士気の低さから何度も統治者は手痛い目に遭っている。

 戦争に勝利したとしても得るものはなく、たとえ敗北したとしても関係ないというのであれば、士気は著しく落ちるだろう。

 

 事実、この一手は連邦の支配者から、共産党から掲げるべき『大義』を奪った。

 連邦が「攻め入ったのは帝国の側であり、この戦いはフランソワ大陸軍(グランダルメ)が母なる大地を簒奪しにやってきた『祖国戦争』と同じなのだ」と叫ぶよりも、『第二次祖国戦争』だの『大祖国戦争』だのと銘打つよりも、帝国の方が早かった。

 諸君らが行っているのは防衛戦争ではない。侵略戦争なのだという伝単(ビラ)は長距離爆撃機から連邦の都市にも撒かれ続け、連邦がそれに気付いて敵の策謀だと訴えても、それを信じようとするルーシー人は少なかった。

 最大の危惧であった、モスコー襲撃が早期過ぎる点を突いて「帝国が開戦と同時に首都を襲撃した!」と騒ぐ手を連邦に使われるとどうしようもなかったが、党幹部らが自らの保身に動いてしまったのと、何より攻撃目標を党と軍関係に留め、集中した為に、予期せず相手の立ち上がりを鈍らせることが出来たため、結果として成功に繋がった。

 

 次に、この戦いはイデオロギー戦争であると称したように、帝国が連邦と対決するのは共産主義者の圧政からの解放のためであるとして、世界各国の亡命者や反共勢力に『聖戦』参加を訴えたのである。

 これはすぐに結果が出た。亡命していたスオマ人は若人から老兵まで帝国に結集し、ツァーリ時代の白ルーシー軍将兵は言うに及ばず、フランソワ共和国やアルビオン連合王国からも少なくない親帝国・反共主義者が集ってきた*2

 

 帝国に集った義勇兵は打倒ヨセフ、打倒共産主義(ボルシェビズム)を謳い、十字軍の如き苛烈なる熱狂と士気を維持したまま兵営での養成訓練を受け、東部戦線に配置された。

 ルーシー解放軍、アルビオン自由軍団と国籍に応じて各々の部隊に分けられた彼らであるが、特に勇名を誇ったフランソワ・スオマ両義勇軍は後にその栄誉を讃えられ、フランソワ義勇軍は親衛擲弾兵師団『シャルルマーニュ』、スオマ義勇軍は親衛装甲師団『ヴィーキング』と改名。

 幾人かの将兵は終戦後も帝国に残り、正式な帝国国籍を得て将官にまで上り詰めた*3

 

 これらに加え、帝国は連邦内に激震に近い二つの政治的揺さぶりをかけた。

 

 一つは、今は亡きツァーリの忘れ形見にして唯一生存していた、ルーシー帝国の正統なる帝位継承者、アナスタシア大公女が、当時見習い親衛隊員であったドミトリィ・ザイツェフ士官候補生と共に帝国に亡命していた事を発表した事だろう。

 ツァーリと現帝国皇帝が又従兄弟である関係を縁に、辛くも革命真っ只中のルーシーから脱してベルン宮中に身を潜めていた二人であったが、ルーシーから共産主義者を殲滅する御旗となる事を決意され、王政復古を宣されたのだ。

 アナスタシア大公女はルーシー国民に、帝国勝利の後に王位を継承したとしても、あくまで実権を伴わぬ、国家の『象徴』たる立場に留まること。

 アルビオン連合王国に代表される立憲君主制の政治形態*4を確約すると切々に呼びかけ、アナスタシア大公女が皇帝(カイザー)との連名で発言を宣誓したことで、これが権力を求めての事でなく、未来のツァリーツァとして人民に尽くしたいのだという意思を顕にした。

 社会主義の統治より、帝政の頃が遥かにマシだったと嘆く連邦人民にとってこの効果は大きく、前線では白軍主義に鞍替えする将兵が相次いで現れた。

 王政復古に同調する白軍派は急速に規模を拡大したことで、ルーシー解放軍とは別に、ザイツェフ王室親衛隊長兼帝国軍歩兵大佐*5率いるルーシー狙撃軍団や白衛軍が結成された。

 

 二つ目は、連邦に『分離主義者』と唾棄された、自由と祖国を求めやまない人々に、帝国政府が和解と共存・共栄を訴えた事だろう。

 

『帝国は領土的野心など有してはいません! 占領した都市を、村を、領土を併合する意思は我々は持ち合わせないのです! やがて“赤匪”との戦いに勝利したその暁には、我らはその地を、その地で生きる者の物なのだと保証しましょう!

 もし、貴方方の中に連邦からの独立を求める声があるなら、我らは良き隣人として、その道を寿ぎましょう! 未来のツァリーツァも、既にして貴方方の分離・独立を皇帝(カイザー)と共に承認する用意があるとの声明を、書面に記しておいでです!

 我らの輝かしい勝利の後、“圧政からの解放”の後に、貴方方は真に価値あるものを、望み止まないものを手にする事が出来るでしょう!

 国旗を、国歌を、何者にも犯されてはならないという国土を、子々孫々に続く“祖国”という我が家を、愛する地に築く事が出来るのです!

 温かな家庭を築く権利が、どうして誰かに侵害されねばならないでしょう? 我が家のもとで子を愛し、育む権利を、誰に咎められることでしょう?

 もしそれを否定するものがあるとするならば、それは侵略者であり、暴君に他なりません。私達は未来を望む者達に、強制も強要も致しません。ただ、誤解して欲しくないのです。私達が望む明日は、世界を支配しようと言うインペリアリズムではありません。

 そうした支配を誰より強く望むのが他ならぬ連邦であることは、虐げられ続けた皆様は、既に承知しておいででしょう。

 遠くない明日に、手を携え合える国が生まれてくれることを。

 スオマのように失われた国が、再び穏やかな平和に包まれることを。

 私達が心から望むのは、そうした“圧政からの解放”であり、世界が僅かにでも平和である事なのだと知って頂きたいのです。

 願わくば、どうか帝国が良き隣人として貴方方と手を携えられる日が近づく事を、帝国政府は、そして帝国軍は望みます。我ら偉大なる皇帝(カイザー)が、そうお望みであるように』

 

 この声明は連邦内だけでなく、全世界に対しての発信であり声明でもあった。帝国はかねてから伝統的領土権を主張し続けたオストランドから東にかけての領土は、たとえ勝利したとしてもルーシーと分離・独立派に要求せず、また共産党に代わる将来の新政府も、多民族国家からなる統治の限界を認め、独立を是認すると正式に確約したのだ。

 それも、軍も政府も絶対の忠誠を誓う、皇帝(カイザー)の名を出した上でである。如何にインペリアリズムの権化と、軍国主義と敵対諸国から唾棄されていた帝国だとしても、その名を出してしまった以上撤回はできない。

 

 世界において、最も権威ある皇帝と称された皇帝(カイザー)の名は、たとえ軍においては名誉階級を持つに留まるとしても、未だに重い物だった。

 プロシャ貴族の大多数が未だ軍の枢要を占めているというだけでなく、騎士道精神こそを美徳とする価値観が帝国男性に根付く社会において、皇帝(カイザー)と国家に対して捧げる忠誠宣誓は、神への誓いにも等しい。

 帝国政府の発言力が、連戦連勝の輝かしい栄光を祖国にもたらした軍部のそれより一段劣ることは他国も、連邦内のパルチザンも承知していた。だが、帝国が帝室を全ての頂点としているのも事実であり、その名を出すという事は、錦の御旗を掲げるのと同義だ。

 だからこそ、パルチザンは納得する。独立を望む市民は渇望する。一刻も早く自分達の都市を、土地を、いいや『祖国』を『解放』してくれと。

 自分達の子や孫が、二度と共産主義者に苦しめられない未来を与えてくれと。

 その為には協力など惜しまない。歓呼の声を上げて、帝国軍を迎え入れようと急き立てる。

 当然のことだが、帝国軍にはこれに伴って幾つかの軍令が発布された。占領地での略奪や現地民との諍いは決して許さず、常に現地民に尊敬されるよう振る舞えというのだ。

 

「諸君らは解放者であり、悪を討ち、弱きを救う英雄でなくてはならん。連邦軍のように徴発と称して略奪を行う事も、不遜な振る舞いも厳に慎め。麦一粒とて占領者として奪う者があれば銃殺に処せ。庇い合いも同罪とする」

 

 帝国軍は常に軍規に則り行動するが、それでもこういった命令を小モルトーケ参謀総長直々に喚起せねばならないほど、神経を尖らせねばならないデリケートな問題なのだという事は、命令を受けた前線将兵には嫌と言うほどに分かった。

 多少の不満はあれど命令はすんなり通り、帝国軍人は襟を正し、規律を保って良好な行軍軍紀を心がけたのだ。

 常に隣人に手を差し伸べるべく、将兵らは道行く人々に「困っていることはないか」と声をかけるところから始まり、壊れている塀や柵があれば直し、道が荒れればこれを整備し、村々で家畜の具合が悪くなれば、馬匹の健康管理を務める獣医を送って診察に励んだ。

 

 特に、農村部から徴兵された兵卒などは、東部の何処にいても重宝された。中には娘を嫁に貰って村の一員にならんか、という声までかけられたというのだから、彼らがどれだけ額に汗して帝国の為に、そして現地民の困苦欠乏に貢献したかが分かろうというもの。

 占領地では、まるで絵本の中から現れたように騎士然とした帝国軍人が街を闊歩しては、花を子女から受け取る場面も多く見られた*6と後世の『解放国』で美談として語り継がれているが、こうした地道な努力が裏にあってこそ、帝国と占領地は手を取り合い、和解することが出来たと言えるだろう。

 

 こうした政治・軍事双方の視点を有しながらの計略は小モルトーケ参謀総長の非凡なる才幹を顕著にするものであったが、当人は晩年、それを笑いながら否定された。

 

「私は才の足らぬ人間だった。だからこそ、足りないものを他の人材で埋めようと躍起になっていたに過ぎんよ。ただ、運良く私には一つだけ大きな取り柄があった。

 他人の才幹を、欲するものを、動かすのに必要なものを見抜き、それを把握して運用出来た事だ。私自身は参謀総長としては凡百だったが、これのおかげで叔父上の名に傷を付けずに済んだ」

 

 真実そう思っての言葉だったのか、或いは謙遜に過ぎなかったのか。参謀総長亡き今となっては真意の程は分からないが、しかし、その大きな取り柄だけでも帝国にどれだけの恩恵をもたらしてくださったかは計り知れまい。

 小モルトーケ参謀総長はその言葉通り、他人を正しく動かす事にかけても努力を惜しまなかった。

 

 前線将兵の士気と国民の戦意を高める為、新規に従軍章を制定したのである。

 これまでの従軍章といえば、共通の従軍記章に戦地ないしは交戦国の刻印が為された飾版を綬に装着する形式であったが、ルーシー連邦との決戦が如何に重要であるかを訴える為、東部戦線冬季戦記章を制定。

 苛烈な戦闘が予想される冬季において、戦闘に従事した全将兵を授与対象とした。

 戦役記念章の類とは訳が違う。二級鉄十字同様に第二ボタンへのリボンの佩用を許すという点からもこの記章の重要性が窺い知れるだけでなく、前線将兵らは連邦との戦いがどれだけの意味合いを持つかを改めて深く感じ入るだろう。

 実際、記章の制定と授与が発表されて以来、前線ではこれを手にする事がステイタスとなるだけでなく、銃後を預かる帝国臣民も、記章のデザインと共に掲載される檄文に熱を上げ、連邦との対決が世界の命運を決するのだと改めて拳を握って軍の戦いを支持したのだから、如何にこの記章がイメージ戦略に貢献したかが分かるだろう。

 

 さて。小モルトーケ参謀総長の話ばかりとなってしまったので、そろそろ私の話に戻るとしよう。

 

 

     ◇

 

 

 こうした布石の最序盤より早く、私は共産主義廃絶を迅速かつ確実に遂行する為の前段階として、参謀連の支持を得る為の論文『今次戦争における部隊運用と作戦機動』を完成させた。

 前々から構想は有り、着々と準備を進めてはいたものの階級の壁に加え提出の機会にも恵まれず、肥やしになっていた案を再編纂した物だが、流石に軍大学校時代から練っていた労作を自身の実戦経験で裏打ちしただけあって、臆面もなく自画自賛出来る代物に仕上がった。

 

 単一兵科による部隊編成でなく、諸兵科を統合する事で互いの弱点を補いつつも、管理体制の複雑化を避ける為に必要に応じ流動的に編成するカンプグルッペ・ドクトリンを提言した論文は、確実に参謀連も気に入ることだろう。

 兵力の効率的運用を中核とした統合運用は、損耗を抑えたいフォン・ゼートゥーア中将にも、敵に多大なる損耗を強いたいと考えているフォン・ルーデルドルフ中将(一九二六年、四月進級)にも、そして社会主義国家の完全なる殲滅を求める小モルトーケ参謀総長にも、ご賛同頂けるに違いない。

 私の論文は正式な手続きを踏んで受理され、査読されている段階だが、すぐに試行段階に移り、一年以内には正式に運用される事だろう。

 私は仕事をやり遂げた満足感から、数分程の小休止を満喫すべくフォン・キッテル参謀大佐との私信に目を通す。

 

 大佐殿の顔を忘れない為に。声を忘れない為に。

 敵への憎悪を忘れない為に。復讐を遂げる為に。

 

 数分後、卓上電話が響いた。小休止を終えて、丁度良いと思っていた所だ。

 

「はい。デグレチャフ中佐であります」

 

 おそらくはダキア方面での反攻と油田確保の作戦に関してだろうと、私は粛々と言葉を待ち……。

 

「え……?」

 

 落としかけた受話器を、手放すまいと強く握る。嘘ではないかと。本当に現実なのだろうかと戸惑いながらも、歓喜から涙が込み上げる。

 

「そう、か。ありがとう、エルマー」

 

 私は静かに。震えながら、受話器を置いた。

 

“生きて、おられたのですね”

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 長く妻が紙文を割いたが、読者諸君には私の過去に話を移す前に、妻が語った内容の多くが、事実に反するという事を述べておきたい。

 妻は私を失ったと誤解したことから、ルーシー連邦への復讐を決意し、まるで古典文学のヒロインか鬼女のように、大英雄たる小モルトーケ参謀総長を手玉に取り、その死期さえ早めさせた張本人であるかのように綴ったが、当時の妻にそんな真似が出来る筈がない。

 

 如何に妻が最年少士官学校・軍学校卒業記録を誇る神童といえども、あの小モルトーケ参謀総長を動かせるとは到底思えないし、何より原因を作ってしまった私が言うのは大変心苦しい話であるのだが、当時の妻、フォン・デグレチャフ参謀中佐は殆ど茫然自失に近い有様だったというのは、参謀連では誰もが知る事実である。

 

 伽藍堂のような瞳に幽鬼めいた足取りで赤小屋を歩み、質疑応答の類にも殆ど掠れ切った声で応える程度。書類仕事はこなせていた様であるし、各種業務も凄まじい早さと正確さだったそうだが、それが現実からの逃避めいた行動だったのだろうと、参謀連は顔を伏せて述べられていた。

 食堂での食事も殆ど手をつけず日に日に痩せ、輸液を行いながら職務に取り組み、職務中静かに涙をこぼしたり、深夜に嗚咽が響くというのは毎日の事だった。

 フォン・ルーデルドルフ中将など、入院措置どころか病気退役も必要ではないかと考えていたようで、とてもではないがフォン・ゼートゥーア中将がフォン・デグレチャフ参謀中佐を前線に戻そうとしていたというのは無理がある。

 小モルトーケ参謀総長がフォン・デグレチャフ参謀中佐を副官に任命したのは、中佐が大隊長を続ける事は不可能だと察し、壊れかけた心を、時間をかけて戻す為に手元に置かれたのだろう。

 

 文に目を通した私は妻に対して、流石に演出過剰に過ぎると言ったのだが、妻は頑としてこのまま掲載して欲しいと言って聞かなかった。

 だが、何故妻が意固地になってまで、このような文を載せたがったのかは、大凡であるが察しはつく。

 小モルトーケ参謀総長はご存命の頃、妻を孫娘のように愛して下さり、妻もまた父や祖父という存在を知らなかった為か、大層深く心を寄せていた。

 その妻にしてみれば、ルーシー戦役での己に課せられた使命を遂行する為に、人が変わられたような小モルトーケ参謀総長のお姿を目にして、心を痛めたのだろう。

 小モルトーケ参謀総長が、偉大なる叔父上の後継に相応しき赤小屋の頂点にして、共産主義の脅威から世界に救済をもたらした大英雄と各国から讃えられ続ける一方、ルーシー戦役の苛烈な戦争計画と指示に対しては、非難の声が今も続いている事は周知の事実である。

 

 妻が自らを似合いもしない魔性の女のように書いたのは、小モルトーケ参謀総長への心無い評価が、耳に届く事が耐え難かったという気持ちからだというのは私にも痛い程分かる。しかしながら、本著は虚構でなく回想記である以上、あからさまな嘘をそのままにしておく訳には行かない。

 読者諸氏は、妻の創作に気を悪くされた事と思われる。この場をお借りして、深くお詫び申し上げる。

 そして、どうかご理解頂きたい。妻は自らが吐露したように、早熟であっただけの一人の少女であったことを。クリームヒルトのように、全てを巻き込みながら破滅の道を辿れるような、強くも悲しい女性にはなれなかったのだと。

*1
 前参謀総長、シュリー伯の敬称。

*2
 帝国に敗れた敗戦国人が帝国に与した理由は様々で、無謀な侵略戦争に反対して冷遇・追放に近い措置を受けた者。純粋に共産主義との決戦の意味を理解した上で使命感に駆られた者。戦後の生活の為に帝国国籍を欲した者など、千差万別であった。

*3
 親衛の二文字は帝国内で確たる功績を挙げた部隊に送られる『称号』であり、名目上は帝室が所有権を有する『近衛』とは趣を異にする。

*4
 ルーシー帝国時代にも憲法は存在したが、ツァーリ及び指導者層の権利のみを追求したものであった。

 ここで語る立憲君主制は、旧来のそれと異なる人民の権利保護を確約したものであり、当時は王政復古後に制定予定の憲法条文も公開された。

*5
 ドミトリィ・ザイツェフ親衛士官候補生は、帝国への亡命後はハインツ・トールヴァルトの名で帝国軍人として活躍していた。

 彼は有用な半面、狙撃は卑怯という価値観から浸透していなかった帝国で狙撃手の価値を認めさせ、狙撃兵学校の設立にまで至らしめたほどの優秀な軍人であり、以後はこの狙撃学校の教官を大佐として勤めていた。

 彼の貢献によって、中央大戦が始まる以前から、帝国は狙撃大隊を編制するまでに至っており、ルーシー戦役においてはその素性を明かした事で、既にして壊滅していた親衛隊の隊長職(名目上に過ぎないものだが)をアナスタシア大公女から拝命。

 今日でも知られる『アナスタシアの親衛隊長』として、亡命していたルーシー白軍を纏め上げた。

*6
 この美談ゆえに、ルーシー戦役後に『解放』された各国は、ルーシー戦役を『花の戦争(ブルーメンクリーク)とも称し、少女から花束を受け取る軍人の銅像も建てられた。




 アナスタシア大公女と、お連れした親衛隊長の元ネタは『将国のアルタイル』4巻の読み切りの主人公、ザイツェフ君とアナスタシア皇女そのままです。クロスオーバータグはこの二人のために有ったのです。
 本筋には一切絡まないので、無理に出す理由は何処にもなかったのですが、あの読み切りの二人が、幸せになって欲しかったんや……!(切実)

【後年、旦那が自分の回想記なのに、めっちゃ言い訳する羽目になった件について】

 主人公「嘘はいかんやろ、嘘は」
 デグ様「(散々皇帝(カイザー)のスキャンダル伏せたり、国の都合の悪いところ隠してる人が言う台詞じゃないんだよなぁ。それはともかく)いや嘘は何一つ言ってないから。全部本当だから」
 主人公「はいはいクリームヒルトしたかったんでしょ。ヒロインやりたかったんでしょ。今日からクリームヒルトって呼ぶからね」
 デグ様「お姫様扱いかよ(案外悪くないぞ旦那。頭に『私の』も付けろ)」

 こいつら爆死しねぇかなぁ……。

補足説明

花の戦争(ブルーメンクリーク)の元ネタは、ナチのオーストリア合邦とズデーデン進駐のプロパガンダなのですが、本作品では連邦構成国の『解放』というプロパガンダに使用させて頂きました。
 理由は特にないのですが、どっちもプロパガンダだし、イメージ戦略に使えるなと思いましたので。
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