キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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※2021/2/14誤字修正。
 みえるさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


02 士官の卵-夢と初恋

 ベアリーン上級学校の卒業式、私は空に心奪われた。

 いいや、本当はもっと前から、私の心は空にこそあった。

 

 私が父上から、陸軍軍人としての薫陶を授かる事が決定した五歳の日。私は健康診断で、魔導師としての適性が皆無であると宣告されたのだ。

 幼い頃の私は、その意味を深く理解してはいなかった。そも、父上も祖父も曽祖父も、我が家は皆陸軍軍人を輩出し続けてきた。

 キッテル家は地を駆け、時にサーベルを、時に指揮銃を掲げ、時には砲弾の驟雨を敵陣に注いできた。だからこそ、父上は宣告に対して涼しい顔であったし、私も深く考えはしなかった。

 

 ……父上が、兵舎に訪れた私に、彼らの姿を見せるまでは。

 

 幼き日の私には、それが現実のものとは思えなかった。首に下げられた演算宝珠なる魔道具によって、世界に術式という形で干渉し、人の身でありながら天を駆ける、超常現象を科学の力で支配する現代の魔法使い達。

 朝口に運んだハーファーフロッケン(オートミール)の一粒より、私の目に小さく映る彼らの英姿が、どうしようもなく私の胸を沸き立たせた。

 背中に翼も無ければ、頭に光の輪もつけず、天馬に跨ることもせずに、彼らは誰より自由に空を駆けている。

 

「父上、彼らは! 彼らも帝国軍人なのですか!?」

 

 幼い私は、無邪気にも袖を引いて訊いてしまった。

 決して、私には届かない夢を。

 

 

     ◇

 

 

 そして今、晴れがましき上級学校の卒業式に、私はまた空を見上げた。憧憬と、羨望と、そして僅かながらの嫉妬を込めた眼差しで。鮮やかな編隊飛行で手を振る彼らの英姿を、重力という軛に繋がれた大地に立って!

 

 張り裂けそうな胸が、叶わない夢を見たあの頃を思い起こした。

 忘れかけていた夢が、再び現実となって打ちのめしてくる。授業で彼らを改めて目の当たりにし、適性ある学友達が航空魔導師の道を志す中、私は一人、叶わぬ望みに背を向けて上級学校を後にし、帰郷する事もないまま、推薦合格を勝ち取った士官学校の門を潜った。

 士官学校では、前もって兵科の希望があれば一号生から、そうでなければ二号生から兵科を選択し*1、専門的な講義を受ける。

 幼い夢から逃れたい一心だった私は、せめてより自由に大地を駆けたいという願いから、騎兵の道を選択したが、斯様な私の心根など知らぬ父上は、この選択を歓迎した。

 

 私の曽祖父も祖父も、騎兵として戦地を駆けたからである。

 

 一八七〇年。フランソワ共和国との間に勃発したプロシャ・フランソワ戦争は、父、エドヴァルドから祖父に当たるフィリップを奪い、父に当たるフランツは、砲弾の破片による後遺症に苦しめられた。

 我が祖父フランツと私との間に直接的な面識はなく、祖父は第一子たる我が姉上、コンスタンツェ・フォン・キッテルの誕生を見届けて名付け親となり、静かに息を引き取ったという。

 

「お前の祖父。私の敬愛する父上は上官を庇い、背に砲弾の破片を受けながらも立ち上がり、朦朧とする上官を馬に乗せ、窮地を救った。お前もまた、我らの父祖に恥じぬ振る舞いを心がけるのだぞ」

 

 父上の掛け値ない期待は、現実から逃げたいという一心であった私の醜く、破廉恥な心を深々と抉った。

 後悔が早鐘のように私の胸を叩き続ける。現実の苦しみから逃れたいが故に、斯様な選択をしたと知れば、父上はどれほどお嘆きになるだろう?

 震えそうになる唇を、私は真一文字に閉じる事で隠し、粛々と頷く事でこれを誤魔化した。

 だが、たとえどのような過程や挫折があろうとも、私は騎兵科の道を確かに己の意思で選択したのだ。ならばこそ、この道にて軍人としての勤めを全うしようと──少なくともこの時は──そう決意した。

 

 元より物心つくより早く、馬の背に跨ってきた私である。峻厳な山々であろうと、鬱蒼とした森であろうとも、幼少の頃の私は馬の呼吸を乱す事なく駆け回ることが出来た。

 上級学校でも模範生として通っていた私は、今年帝国軍士官学校をご卒業なされたバイアーン王国(バイアーン州)第二王子、ルイトポルト王子が招かれた席においても軍馬に跨り、先頭に立って行進を指揮したものである。

 上級学校時代の私は背が伸びきっていなかったが、それでも一度馬に跨がれば、それは何処に出しても恥じることない、英姿颯爽の武人である。

 

 膝から下の足を膝より()()と引き、弓なりになるこの姿勢は肉に負担こそ多少かけるが、凛と背の筋は伸びる為、衆目には「おお!」と目を開かせる堂々たる騎手が出来上がる。

 私は畏れ多くも式典でルイトポルト王子にお声をかけられ、前もって用意されていた『曲馬徽章』を直接下賜された日の事は、今も時折夢に見る。

 

 馬となれば、何者であれ右には出さぬ。

 士官候補生時代の私は、父上への罪滅ぼしの気持ちがあってか、このような大言壮語と言わざるを得ない自負を抱き、現実に帝国国内での障害競技をはじめとする各種馬術大会で優勝しては、優勝杯と賞を攫って行ったものである。

 騎兵隊の卵として、また騎手としての私は、帝国馬術協会から惜しみない賛辞と共に『黄金(最優秀)馬術徽章』を授与され、その将来を嘱望された。

 私の道は、結果として彼らの望みとは異なるものになったが、この日々の中で培った技術と目が、今日の私を築いたのだと信じる。

 

 

     ◇

 

 

 士官候補生時代の私は、元来友人家族らに見せてきた柔らかさはなりを潜め、将来への責任感から、兎角プロシャ軍人的な厳格な気風に全身を支配されていたが、それが良い方に出た事もあった。

 

 士官候補生の中で貴族ないし官吏の子息に当たり、かつ素行優良なる成績優秀者は、侍童(パージェ)として皇帝(カイザー)に拝謁する栄誉を授かるからである。

 無論、士官候補生である以上、本分たる学業を疎かにする事は許されず、侍童(パージェ)に選ばれた候補生は、その期間を内心悲鳴を上げつつ過ごす事になるが、現代に至るまで、侍童(パージェ)を辞退した者が現れたという話を耳にした事はない。

 

 こう書いては侍童(パージェ)とは、実に肩肘の張る仕事なのだなと思われるだろうが、我々の侍童(パージェ)としての仕事は短く簡潔なものである。

 我々の仕事は皇帝(カイザー)の入来に際し、所謂「皇帝陛下のおなり」を当日の催したる騎士叙任式と宮廷演奏会に示すだけであり、それ以外の宮中の貴人や廷臣に付き従う、本来の意味での侍童(パージェ)はより年若く見目麗しい、代々帝室に仕える家令の子息達に任されている。

 我々士官候補生はあくまでゲストに過ぎず、将来有望なる士官の卵を、国内の有力者や海外の大使達にお披露目する為のものなのである。

 とはいえ、その短く簡単な仕事の中にもこと細かな作法が求められているだけに、誰もが失敗を恐れて萎縮するものである。かくいう私も表向きは泰然としながら、手の内にはじとりとした汗をかいたものだ。

 そして来る日。宮中に招かれた侍童(パージェ)は優美な帯剣を腰に吊るし、羽飾りの帽子を脇に抱えた姿勢で式典参加者の列を見送るが、歴代士官候補生の侍童(パージェ)らが必ずそうであったように、私もまた例外なく偉大なる皇帝(カイザー)の玉体に目を奪われた。

 祝典で歩を進める皇帝(カイザー)は、正しく帝国の威を示すに相応しき、天上人を彷彿とさせた。雷光のように激しくも魂に通る声音と、峻厳なる山のような体躯。空の様に澄んだ色素の薄い瞳は、我々帝国臣民の心を、何処までも深くご理解されているようであった。

 

 

     ◇

 

 

 短くも簡潔ながら、一瞬の気の緩みも許されない騎士叙任式と宮廷演奏会が終われば、最大の特典が待っている。

 当日の祝祭夜舞踏会の参加を両親と共に──侍童(パージェ)が貴族と官吏子息に限るのは、両親に(・・・)最低限の宮廷作法が備わっている事が前提である為だ──許されるのだ。

 官吏子息は宮廷人らとの繋がりが持てる事を両親と共に喜び、滅多に王宮に立ち寄れぬ下級貴族達もまた、同じくその栄誉に浴する訳であるが、この日の私は生涯忘れ得ぬ、しかし許されざる初恋を経験してしまう。

 

 この初恋を本著に記す事は聊か躊躇われたものの、当時からして宮中では語り草となり、私が帝国軍の最多撃墜王として世に出た折には、イルドア王国に嫁がれたヴィクトル・ルイス王太子妃(後のイルドア王妃)ご自身が、うら若き日のロマンスとして打ち明けられた以上──当時の新聞記事には理想の帝国騎士というプロパガンダの意味合いもあってか、かなり脚色されていたが──包み隠さず語る事にしたいと思う。

 

 

     ◇

 

 

「もし」

 

 空に星が瞬く頃。ホールではシャンデリアと壁灯に明かりが灯され、この日の為に研鑽を積んだベルン・フィルの演奏団が優美な音で皆を天上の別世界に誘う中、私は短くかけられた声に。そして、目の前に立つ淑女の姿に、思わず喉からせり上がった声が出かかったが、ぐっ、とそれを飲み込んで、士官候補生の代表として、また王宮に招かれた貴族として、かくあるべしと示すように腰を折った。

 

「拝謁の栄に与り、恐悦至極。自分は」

「名乗らないで下さいまし、紳士殿。どうか、一曲踊って下さい」

 

 私の口を噤ませた淑女はドレスの裾を恭しく持ち上げ、誰もが見惚れる挙措で一礼すると、私は請われるがままに、細い、手袋に包まれた手を取った。

 

「光栄です、殿下」

 

 そうしてホールの中央へと、私を紳士としてお声かけ下さった方をエスコートする。

 ヴィクトル・ルイス皇女。我が祖国で知らぬ者のない、帝国が世界に誇る宝石を一目見ただけで、私は不覚にも心奪われた。

 ルイス皇女のお姿は、幾度となく新聞で目にしてきた。その美貌が如何に素晴らしいか、私は幾度となく宮廷人の子息やラジオで流れる美辞麗句から耳に憶えて来たものである。

 だが、音は私に姿を捉えさせず、新聞に写るルイス皇女の姿は、近衛騎兵の名誉連隊長としての、戦乙女の如き麗しくも凛々しい宝剣の如き御姿だっただけに、白薔薇を思わせるドレスに身を包んだルイス皇女の姿は、ホールに集まる全ての人間を魅了し、釘付けとさせるには十分であった。

 

 ホールの端で爵位の近い将軍や官吏らと談笑していた父上など、私がルイス皇女のお手を取る姿に息を呑み、手にしていたグラスを震わせていたらしい。

 らしいというのは、私には父上の顔を横目見る余裕さえこの時は失われていた為、後日人伝に耳にしたからである。

 もし、私が第三者の立場であれば、列席した武官らと同じく、狼狽する父上の姿に仰天したに違いない。

 軍務に就く父上は、まことプロシャ軍人を体現する豪胆かつ冷静なる武人であり、揺り籠で生まれてから死の間際まで、一度として動じる事はないだろうと、冗談交じりに同僚らから語られるようなお方であったから、その日の父上が如何に狼狽えていたかは、今となればその様子が手に取るように分かる反面、この時の私は父上以上に気が気でなかった。

 肩甲骨に当てた手の震えを抑え、ドレス越しに触れ合う手の温もりに、耳朶まで赤く染まっている事を自覚してしまう。

 熱を持った心臓が、まるで教会の鐘のように鳴り響き、ルイス皇女の耳にまで届いてはいまいかと危惧していた程だ。

 

「楽になさって」

 

 我が身を案じて下さがったが故のルイス皇女の言葉と微笑は、しかし私の心を静めるには至らない。軍人として生きるべく、泰然自若を貫かんと日々己を戒めてきた心の鎖は、今日という日に限って、枯れ草のように容易く引き千切られてしまう。

 だが、ルイス皇女はそんな私に気を悪くするどころか、一層笑みを増して、私と目を合わせて下さった。

 皇帝(カイザー)譲りの、大空を映すような群青の瞳が私の顔を映し出す。私は自分の顔がどうなっているのかつぶさに観察できてしまう程、その瞳に魅せられ、呑まれてしまう。

 自分が都合の良い夢を見ているのではないかと、私は頬を抓りたい気持ちになった。

 微睡みの中から目覚めれば、宿舎のベッドと朝日が出迎え、意識が定まらぬ中で前日に磨き上げた長靴を履いているのだろうと、そのような事を僅かに考え、しかし、この感触と温もりと、何よりも鼻腔をくすぐる芳しい香水の香りが、私を後暗い幻惑から引き戻してくれる。

 

“明日、死するとも悔いはない”

 

 かの童話で、灰かぶりの姫を見初めた王子は、このような思いだったのかもしれない。

 この世のものと思えぬ美貌。世界に誇る帝国の宝石は、私にとって、手を伸ばせど届かぬ月だと理解していている。だが、輝く月に。深海に沈みながら永劫輝く宝石に、一度でも触れてしまえたなら、誰であろうと二度と手放せはしないだろう。

 たとえそれが、明日の我が身の破滅だとしても、私はきっと後悔しない。

 音楽が強くなる。小さな声なら、誰の耳にも届きはすまい。

 この猛る思いを伝えたら、ルイス皇女はなんと答えて下さるだろう? いいや、たとえ拒絶されたとしても、この胸の裡さえ明けられたなら……

 

「ひと月の後、私は婚姻を結びます」

 

 音楽が、私の耳に届かなくなった。いいや、音楽もダンスも、周囲の視線も、私には何も届かなかった。ルイス皇女との蜜月だけが今の私の全てだった。

 

「心より、お慶び申し上げます」

 

 だが、貴族として。帝国臣民としての私は、意思に反して言の葉を紡いでいた。

 実際、私はその事を知っていた。知っていながら、受け入れるべき現実から目を逸らしたのだ。空に憧れを抱きながら、地を駆ける道を選択したように。私は決して覆らない現実の無常さを、違う何かで誤魔化したのだ。

 

「気持ちの込もらぬ言葉ですね」

 

 お叱りの言葉の筈だ。どうしようもない、俗な男の心を見透かしての叱責の筈だ。

 だというのに、どうしてルイス皇女はそのような弾む口調なのであろうかと、私は耳を疑った。

 

「誤解なさらぬよう。私は、夫となる方を愛しております」

 

 妻となり、他国の王族に嫁ぐ事に否はない。それは紛れもない本心で、だからこそ私は胸が苦しかった。

 

「あの方は、善き方です。高潔で、慈愛に満ち、後世も民に愛されると信じております」

 

 私の心は、一語一句が耳に入る度にズタズタと短剣で引き裂かれる思いだった。

 自分の両耳に万年筆を突き入れて、鼓膜を破りたい衝動に駆られながらも、私は自制しつつ耳を傾けた。

 

「けれど」

 

 そう短く漏らされた言葉が、聴き違えたものと、或いは私が願った幻聴のものではなかろうかと疑い、しかし、もの悲しげな瞳が私に目を離さぬようにと訴えていた。

 

「生涯、一度だけは、自分の意思で殿方を選びたかったのです」

 

 貴顕故の付き合いからでなく。定められた人生からでもなく。

 ただ一度、一人の女性としてと。

 込められた言葉と思いに、私は微かに握る手に力が入ってしまった。

 

「ふふっ」

 

 こんな、恥じるべき粗相にさえ、ルイス皇女は微笑んで下さる。私のような男に、至高の笑顔を贈って下さった。

 音楽は止む。一曲限りの蜜月の時間。魔法の解かれる灰かぶり姫の時間より短い出来事。

 

「生涯、今日という日を忘れません」

「はい」

 

 私も、と。礼の後に別れたルイス皇女は、そのままホールから去って行く。

 その背を見送り、腕に残る余韻を感じながら、私は給仕が運んだライン産のワインを一口含む。生涯の中でこれ以上ない筈の美酒はしかし、この日の私には、何処までも苦かった。

 

*1
 例外は先天的素質を持つ魔導士官候補生で、航空戦での生存率を上げるため、志望者は一号生から魔導将校としての勉学に勤しむ。




 ルイス皇女の元ネタのルイーゼ王女様は17歳で親衛驃騎兵第2連隊の名誉連隊長をお勤めになられておりますので、軍服姿の写真がいっぱい残っております。軍服萌えの読者様がおられましたら、是非一度ご覧になってくださいませ。

※また、史実においてルイーゼ王女様は英国に嫁ぎましたが、本作品のルイス皇女はパスタの国に行っちゃいました。
 今後もこうした元ネタの人物とは異なる部分が出てくる予定です。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物】
 ヴィクトリア・ルイーゼ王女→ヴィクトル・ルイス
【戦争】
 普仏戦争→プロシャ・フランソワ戦争
【地名】
 バイエルン→バイアーン

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