キッテル回想記『空の王冠』   作:c.m.

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※2020/3/4誤字修正。
 水上 風月さま、オウムの手羽先さま、ご報告ありがとうございます!


48 止まれない者達-ターニャの記録16

 私ことターニャ・リッター・フォン・デグレチャフが、中央参謀本部でフォン・キッテル参謀大佐の生存の報を受け取った日まで、時間を巻き戻す。

 我ながら現金だとは思うが、私はこの日からというもの食欲が戻り、日々の軍務にも目に見えて活力が灯っていたのを自覚できていた。

 恋する女には力があるというが、精神論で出せる力など高が知れていると以前までなら鼻で笑っていただろう。だというのに、今の私はそれを馬鹿に出来ないでいた。

 参謀連たちもフォン・キッテル参謀大佐の生存報告を受けており、つまりはそういう事なのだろうと誰もが苦笑するか、或いはこれが本当に『錆銀』なのかという疑いの眼差しを向けてきた。

 中でも若手のエリートたるフォン・レルゲン参謀大佐などは顕著で、信じ難いという目で私を見てきたものである。これまでの自分を見返せば納得できるし気持ちも分かるが、流石に失礼ではなかろうか?

 

 しかし、私の快復を私人としては喜びたいが、公人としては喜べないという立場の方もおられた。誰あろう、小モルトーケ参謀総長だ。

 フォン・キッテル参謀大佐という戦力が失われず済んだ事は喜ばしいし、死に体だった私が精気を取り戻している事自体は悪い話ではない。

 ただ、私の目から憎悪の火と、泥のように濁りきった復讐心が薄らいでいる事に関しては、参謀総長も難色を示さざるを得なかったのだろう。

 たとえフォン・キッテル参謀大佐が生存していたとしても、私自身は、それでコミーに手心を加えてやるつもりはない。

 むしろ、二度とフォン・キッテル参謀大佐が危険に晒される事のないよう、一人残さず共産主義者を殺し尽くしてやるつもりでいたのだが、一つだけ以前と違うところがあった。

 最早、私は自分の命まで復讐の火にくべようという意思がない。共産党に与するコミー共には容赦なく死を運ぶことを誓っていても、友軍や周囲の人間まで巻き込もうと思えるほど、今の私は狂い切れていないのだ。

 

 私の能力なら、小モルトーケ参謀総長のお役に立つ事は能う。だが、能うだけでは駄目なのだ。全てを祖国の為に擲ち、魂の一欠片まで燃やし尽くす狂気があってこそ、初めて参謀総長の片腕たる資格がある。

 つまり、今の私は副官懸章を右肩に着ける資格が無い。お役に立てるという程度なら、参謀連には相応しい人材が山程いる。悔しいが、今の私では小モルトーケ参謀総長の望む殲滅戦争には役立てない。

 復讐を、国家の勝利こそを全てとする将校でなく、個人的幸福を願う女となってしまった以上、私は必ず、何処かで自分に歯止めをかけるだろう。

 私はもう、非道になりきれない。将校としても、女としても、フォン・キッテル参謀大佐に『そんな人間だとは思わなかった』と告げられてしまうことを、そう思われてしまうことを恐れて止まない、弱い存在になってしまったから。

 小モルトーケ参謀総長は、私以上に私の心を、生まれてしまった弱さを理解されているのだろう。精気を取り戻した私を見るや「惜しいな」とため息を零しつつも、参謀総長は私の肩に手を置いて、副官懸章を外すよう命じられた。

 

「明日一五時。中央参謀本部を代表して、キッテル参謀大佐の面会に行って貰う。後の配属は追って知らせるが、最前線でも遺漏のないよう整えておくように」

 

 これまで通りの最前線勤務の前に、短い休暇を楽しめということだろう。赤小屋を代表しての面会というのも、かなり粋な計らいだ。

 私は小モルトーケ参謀総長に抱きついて感謝を述べたくなったが、流石にそれは階級的にも立場的にも不敬であるから、敬礼して礼を述べるに留まった。ただ、この時に見せた私人としての参謀総長の顔は、私は今でも忘れられない。

 小モルトーケ参謀総長は私の背に合わせて屈むと、小さく耳打ちしたのだ。

 

「式の招待状は、私にも出してくれたまえよ?」

 

 私は顔を真っ赤にすると、今度は我慢できずに抱きついた。フォン・ゼートゥーア中将には見られたが、まぁ、微笑ましい少女と老人の思い出の一ページだとでも思って頂きたい。

 

 

     ◇

 

 

 ここから先は更に時系列が前後するが、私の副官職を一時的なものだったという事にして解任してからすぐ、小モルトーケ参謀総長は直々に第二〇三航空魔導大隊を基幹とした新編部隊の編成に動かれた。

 私が提出した『今次戦争における部隊運用と作戦機動』における諸兵科の統合運用を、試験的措置という名目で実施したのである。

 新編される戦闘団は東部戦線で即実戦運用される手筈となっており、この時点で一時的な運用でなく、第二〇三航空魔導大隊のように中央参謀本部直轄部隊として、東部戦線全域で酷使する事を前提としていたのだろう。

 即時編成というものを何処まで突き詰められるかという名目で、参謀総長という立場を利用した人事裁量や装備課と交渉──という名の恫喝を──した時など、傍で耳にしただけでも目を回しかねなかったと当時の人は語る。

 

「班長。私は最大限の努力を装備課に求めた筈だが、報告書には運用予定の戦車がⅣ号G型とあるな? 私の要請と知りながら、サボタージュとはいい度胸だ」

 

 無論、装備課とて必死にやりくりをしている。前線では何処だろうと戦車は奪い合いになっており、新編部隊に回す余裕などないとしどろもどろに応えたが、相手が悪すぎた。

 

「私が全軍の補給を把握していない無能だと言いたいのかね? 直ちに親衛師団用に確保しているⅣ号H型とⅥ号E型を回せ。装甲車のリザーブも忘れるな」

 

 言うだけ言って一方的に切られる電話。相手からすれば悪夢以外の何物でもないが、既にして情け容赦など皆無であり、この程度は序の口に過ぎない。

 

「小モルトーケだ。東部戦線勝利の為、人員を回して貰いたい。そうだ、近衛連隊にだよ。間違いではない。良いかね? 私は皇帝陛下より、人事裁量のみならず『勝利の為に必要な』全ての権利を保証されている。

 帝室保全こそ近衛の務めであろう? この戦いにこそ、彼らの力が必要なのだよ」

 

 かくして近衛連隊において、最も精強でありながら最も実戦から遠いとされた近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊の機甲部隊がほぼ全て引き抜かれたに留まらず、各近衛歩兵連隊からも少なくない人員が抽出された。だというのに、まだ終わらない。

 

「教導隊に繋げ。一個小隊回して貰う」

「参謀総長閣下、それだけはご自重下さい!」

 

 臨時の副官に抜擢されたフォン・レルゲン参謀大佐は、血を吐かんばかりに訴えた。全軍の教育・質的改善を担う後方の要の、その中でも更に貴重な魔導師を小隊で引き抜くなど正気ではない。

 

「帝都防衛などとは訳が違います! 教育を疎かにしては、軍のみならずあらゆる組織は成り立ちません!」

 

 どうかご再考をと迫るが、フォン・レルゲン参謀大佐はまだ甘い。止めるなら、それこそ拳銃自殺する気概で行かねば小モルトーケ参謀総長が止まる筈もないのだ。

 

「デグレチャフ中佐も教導隊出身だろう? 今更四名引き抜いたところでどうという事はないわ。我々は祖国の存亡を賭けておるし、前線志願者は教導隊にも多いと聞く。不足しておる一個中隊全員分を引き抜かんだけ有難いと思え。

 残り二個小隊は再編中の第二親衛師団から引き抜く。リストを急がせろ」

 

 フォン・レルゲン参謀大佐は泡を吹いたそうだが、以前までのそのポジションが論文執筆に務める傍らの私で、今の小モルトーケ参謀総長の副官となった以上避け得ない道だ。習うより慣れろとはよくぞ言ったものである。

 

 こうした無理を続けた結果、恐るべきことに戦闘団編成は六日で完了。結成式を七日目に終了し、部隊配置は三週間後を予定しているという。

 中央参謀本部よりサラマンダーと銘打たれた戦闘団の指揮官は私であり、その運用は小モルトーケ参謀総長……ではなく、フォン・ゼートゥーア中将に一任された。

 

「参謀総長が、使用されるのではないのですか?」

「私は中央参謀本部の棟梁として、全軍を差配する身だぞ? 戦闘団の運用までやっていられんよ。使い易くしてやったのだから、相応の結果を出して貰うぞ」

 

 最後の一言で、フォン・ゼートゥーア中将は小モルトーケ参謀総長が私欲しさに副官につけたのでなく、私と意見を交わした上で、こうなるよう動いていたと勘違いするには十分だった。

 結果だけ見るならば、より大規模かつ実用性の増した部隊を丸々渡したのだからその通りなのだが、真実はお払い箱になった私を最大限有効活用する為の措置だ。フォン・ゼートゥーア中将の感動は、事の裏側を知る私にとって、喜劇以外の何物でもなかった。

 

「中佐は、この事を?」

「はい、閣下。プレゼントは当日まで秘密にするものだ、と」

 

 リップサービスもここに極まれりだ。後に戦闘団のことを聞かされて驚いていたのは私も同じで、当然ながら小モルトーケ参謀総長の本意も承知していたから、私が使えるなら一生手放す気はなかったと真実を伝えることは容易い。

 容易いが、わざわざ中央参謀本部に内部崩壊の種を撒くほど悪趣味ではないし、勝手に誤解してモチベーションを高めて貰えるなら、それはそれで構うまい。

 フォン・ゼートゥーア中将は小モルトーケ参謀総長へのこれまでの非礼を心から謝罪し、親心というものを初めて理解した子供のような純粋な面持ちで精力的に仕事に励まれた。

 

 尤も。フォン・ゼートゥーア中将が精力的に動かれるということは、サラマンダー戦闘団と私も比例するように働かねばならないのだが、共産主義を滅ぼすと誓った以上、私が嫌々前線で戦う事はなくなったし、部下は生粋の戦争狂ばかりなので問題なかった。

 

 むしろ、一日でも早く平和な祖国で式を挙げるために、私はまるでフォン・キッテル参謀大佐のように最前線行きを希望したほどだ。だが、この時の私は知らなかった。帝国の結婚式は、これ以上ないほど大変なのだという事実を。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 中央参謀本部内での妻の動向や、新編部隊の編成やらで時系列が混乱しそうであるが、一先ずは病室での再会まで話を戻そう。

 憲兵らはフォン・デグレチャフ参謀中佐を最後の面会人だといったが、どうやら嘘だったらしい。

 

「随分とお痩せになられましたな」

「お前は少し太ったようだな、エルマー」

 

 良いことだと私は笑う。どうにも昔から小食なので、もう少し食べねば健康に差し障ると何度も言っていたから、今ぐらいが丁度良い。

 

「力をつけることも、必要になりましたのでね。フロイライン・デグレチャフ、席を外さずとも構いませんよ。貴女はもう、家族同然なのですから」

 

 憲兵らを顎で使って運ばせた椅子に腰掛けたエルマーは、ベッドの脇に腰掛けたフォン・デグレチャフ参謀中佐に対し、まるで私や姉上に向けるように微笑んだ。

 

「エルマー、お前は正しかった。私は」

「皆まで言わずとも宜しいですよ。申し訳ない、フロイライン。兄上は少々、いえ、かなり鈍感な男でしてね。嫌わず居て頂けると嬉しいのですが」

「大佐殿を嫌うことなど、有りませんよ」

 

 浮気でもするようなら別ですがね、とフォン・デグレチャフ参謀中佐は微笑む。

 その女性的な仕草には思わずどきりとさせられたが、以前までのエルマーから見れば、考えられない程の距離が近い。いや、純粋に私とフォン・デグレチャフ参謀中佐のやりとりを知って、このような態度を取ったのだとも思えるが。

 

「それは良かった。それから、以前も言いましたが敬語は止して下さい。兄上の……」

「いいえ。私は大佐殿の妻になるのですから、そうなればエルマー氏は私の義弟です。ただ、私は齢が齢ですので、不快でさえなければ、今後はエルマー兄様とお呼びしても?」

「是非!」

 

 義姉となるならば、エルマーを弟と称すのが自然なのだろうが、そこは口にした通り、実年齢故の配慮なのだろう。『兄』となったエルマーの顔は喜色満面だ。

 大方、年の離れた妹が出来た事が嬉しいに違いない。以前に自分の気持ちには正直だと言っていたが、我が弟は本当に正直な男だった。

 そして、やはり私達は兄弟だからだろう。気持ちに正直なところは一緒で、妻になるというフォン・デグレチャフ参謀中佐の発言に対して、私も顔を赤くしながら、エルマーと同じように口元に笑みが出来てしまった。

 

“妻か……”

 

 私は帝国貴族で、しかもキッテル家の長男であっただけに、自由恋愛など考えてもいなかった。だが、両想いとなった以上は、何としてでもフォン・デグレチャフ参謀中佐と添い遂げるつもりだ。

 

「実は、一六時に父上から電話がかかると報せがあった」

「では」

 

 エルマーに大きく頷き、フォン・デグレチャフ参謀中佐の手を握った。私はこれを機に、父上に結婚を前提とした交際を認めて貰う気でいたのだ。

 私は意を決して鳴り響く電話を取り、受話器に耳を当てればまず響いたのは、フォン・エップ上級大将以上のお叱りの言葉だった。

 

 何故あのような無茶をした!? 何故お前は自制というものを覚えられんのだと、おそらくは顔を真っ赤にして怒鳴る父上に、私は申し訳なさからと同時に、隣で笑いを堪えるフォン・デグレチャフ参謀中佐への気恥ずかしさから、項垂れながらも粛々と謝罪するしかなかった。

 

「……それで、改めて問いたいのだが、何故あのような真似をしたのだ?」

 

 私は乱した息を整えた父上に、洗い浚い話した。査問会議の出席のことも、単独飛行のことも、そして、この病室のことも全てだ。

 

「待て、今そこにフロイラインが居るのか……?」

 

 父上は目に見えて狼狽し始めた。正直に答えるべきかどうかは悩んだが、結局父上には居ませんと嘘を吐いた。もしフォン・デグレチャフ参謀中佐が居ると知れば、婚約を認めるか否かは口論になり辛いだろうが、本音を語ってくれる機会が失われるとも考えたからだ。

 反対なら反対と、正直に言って欲しい。その上で、私はフォン・デグレチャフ参謀中佐の魅力を余すところなく語り、婚約に向けての道を正面から切り拓くつもりでいた。

 だが、父上は私の言葉に安堵すると、ゆっくりと微笑するように声をかけた。

 

「安心したよ。未来の義娘にこのような無様を晒したとあっては、面目を失いかねん」

「いま、なんと?」

「認めてやると言っているのだ。エルマーから、お前が『白銀』に自覚のないまま焦がれていると聞いたときは耳を疑ったがな。今の今まで、私が縁談の話を持ち込まなかったことに疑問はなかったのか?」

 

 だとしたら間抜けだよと父上は嘲笑した。私としては、空軍の英雄となって以来、軍にも実家にも無数の縁談が舞い込んできた事を知っていたので、てっきり父上や母上が厳選しているとばかり考えていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。

 

「飛びつきたくなるような縁談は、山程あったがな。エルマーからお前がノルデンでフロイラインを救出したことも。お前とフロイラインが仲睦まじく文通を続けている事も。お前がコンスタンツェのハンカチをお守り代わりにフロイラインに渡したことも、延々聞かされ続けたのだぞ?」

 

 とっくの昔に父上は根負けしていた。私が家庭内で戦争を始めるより早く、同盟を結んでいたエルマーが、私の知らぬ間に勝利を収めていたらしい。

 

「それにだ。お前が負傷したフロイラインの為に後方勤務を用意した事も、査問会に侍従武官を動かした事も耳に入っている。

 ユーディットなど、ようやく息子が相手を見つけたと喜んでおったぞ」

 

 ノルデンでのことや査問会に関しては、流石に教育総監辺りから父上の耳に入っても可笑しくはあるまいと踏んでいたが、よもや、母上までご存知とは思わなかった。

 しかし、宮中に働きかけた以上、横の繋がりの強い貴婦人達ならば、この手の事が漏れるのは、父上のそれより早いのかもしれない。

 特に、世継ぎのことを考えれば、その手の話題には父上よりよほど敏感にもなるだろう。それを考えれば、母上が知っているのも可笑しな話ではない。

 

「さて。フロイラインは兎も角、エルマーはそこに居るだろう? 代わってくれんか?」

 

 勿論です、と受話器を渡せば、エルマーは朗らかな調子で口を開く。

 

「お久しぶりです、父上。ええ、ようやく兄上にも遅い春が来たようでしてね。私? ははっ、ご冗談を。四六時中軟禁されざるを得ない身分である事は父上もご承知でしょう? 総監部で式を挙げて家庭を築くのですか?」

 

 私も私で問題だが、家庭を持たないという意味ではエルマーも十分問題児だろう。姉上は一四で婚約し、一五で幼少の頃より交友のあった官吏子息に嫁がれたが、男兄弟の方はご覧の有様であるから、父上としても胃の痛い話であったに違いない。

 

 前線では英雄で引く手数多な私は、逆に言えばすぐにでも身を固めて貰わなくてはならないというのに相手を作らず、本国勤務のエルマーは私と違って比較的安全だが、帝国内でも代替のない人材であるだけに、暗殺対策として私生活など無い身であるから、妻子を不幸にしたくないという理由で結婚したがらない。

 貴族社会で見れば、ドラ息子より余程始末の悪い兄弟だった。

 

「だが、それも今日までだな」

 

 エルマーから改めて受話器を受け取った私は、そう笑う父上に同意した。

 

「退院の後には、改めてフロイライン・デグレチャフを我が家に招請(しょうせい)したいと思います」

「日取りは早く決めてくれ。お前ももう若くはないのだからな」

 

 耳に痛い言葉と共に電話が切られ、私は横で口を押さえて笑いを殺していたフォン・デグレチャフ参謀中佐に、恥じ入りながらも口を開いた。

 

「そういう事でね。宜しければ、私の退院の後には当家に御足労頂きたい。電話では父上にああ言ったが、勿論無理強いするつもりもない。話が早すぎるというのは当然のことと思うし、私自身、フロイラインの気持ちに委ねたいと思っている」

「喜んでお招きに与りたく存じます。それと、もしよろしければ、なのですが……私人としては、名で呼び合いたく」

 

 いじらしいと私は思った。髪を梳きながら、私は静かに名を紡ぐ。

 

「では、フロイライン・ターニャと。私のことは、ニコと呼んでくれると嬉しい」

 

 姉上や、親しい者がそうするように。ターニャもまたこの日から私をそう呼んでくれた。

 

「ところで、私はフロイラインをどうお呼びすれば宜しいでしょう?」

「エルマー兄様もターニャと呼んで下さい。私だけが、兄様を名で呼んでは変でしょう?」

 

 エルマーは今にも小躍りしそうだった。全く、本当に正直だなぁ、弟よ。

 

 

     ◇

 

 

「ターニャ、貴女を除け者にはしたくないが、兄弟の間でしか出来ない会話というものもあります。暫し、席を立って頂いても?」

「構いません。表向き、私は中央参謀本部の代表。これ以上の長居は流石に咎められますので。エルマー兄様、次にお会いする日まで、どうか息災で」

「ターニャも」

 

 優雅にターニャの右手を取って、エルマーは別れを告げる。こうして見ると、私よりも二人の方が仲睦まじい恋人のようにさえ見えた。

 勿論、エルマーは私とターニャの交際を父上に認めさせてくれた恩人であるし、ターニャを義姉として溺愛しているのだから、嫉妬など起きよう筈もない。情けない話だが、私自身がエルマーと比べて、男としての魅力に欠いている事を自覚してしまったというだけだ。

 

「ニコ様も、どうかご自愛を」

 

 ターニャは抱擁と共に私に右頬に口づけ、そのまま拾い上げた軍帽を深く被り直すと、振り返らず足早に去っていった。私はぽかんと口を開け、頬に手を当てて温もりの残滓と触れた唇の余韻を感じると、どさりとベッドに身を横たえる。

 

「初心ですな、兄上」

「家族以外で、経験などなかったからな」

 

 エルマーの皮肉にも上手く返せない。耳朶まで赤くしながら去ったターニャ同様、私も顔を見られたくないと両手で覆ったが、エルマーはニヤニヤとしながらベッド脇の椅子に腰掛け直して覗き見ている。

 

「こうして兄上を見ているのも楽しいですが、真面目な話に移りましょう。正直、兄上の無謀や墜落には、怒りましたし泣きました。ターニャが居なければ、私は狂していたでしょうね」

 

 この日、私は初めて、エルマーの口からターニャが中央参謀本部でどのような日々を過ごしていたかを知った。身も心もボロボロとなり、生気の失われた人形のように、ただ軍務を続けるばかりだったという彼女を想像し、私は先程とは異なる意味で顔を覆った。

 

“私のせいだ”

 

 私が無為無策の出撃などしなければ。査問会議の場に立ち会えずとも、電話なり電報なりで名誉を守れるよう働きかけることを伝えられていれば、ターニャがかくも痛ましい姿になることはなかった筈だ。

 

「ご自身の行動が、どのような結果をもたらしたかお気付きですね? ターニャが兄上を思い、狂してしまわれたから、私は冷静にならざるを得ませんでした。私の代わりに泣いて、私の代わりに何故無茶をしたのかと叫んで……あんな姿を見れば、私も落ち着かずにはいられませんでした」

 

 だが、ターニャもエルマーも、怒ってはいるのだ。私にも、何よりも連邦にも。

 

「私もターニャも、兄上を奪いかけた連邦を許しません。ターニャは、兄上と添い遂げる為に破滅から踏み留まってくれましたが、私には止まる理由などありません」

 

 誰が何と言おうと殺し尽くす。自分の大切なものを、家族を奪おうとするものを、断じて許しはしないとエルマーは私の手をとって誓う。

 

「私は『全力』を出しましょう。持てる全てを注ぎ込みましょう。兄上を、家族を悲しませたくないと出し惜しんだ全てを、この戦争に用いてやるつもりです」

 

 美しかった碧眼を泥のように濁らせて、殺意だけを爛々と灯しながら、それでもエルマーは愛する私の為に誓う。これは私を悲しませる。非道に染まる弟を軽蔑してくれて良いと言いながら、その動機は純粋な家族愛故だった。

 

「止せ。そんな事をせずとも、私達は勝てる。お前と私でなら、どんな相手にも勝てる筈だろう?」

「勝つ事など当然です。私は兄上も、兄上を愛した義姉も死なせたくないと言っているのです」

 

 だから殺す。全てが手遅れになってしまう前に。今日のような日が、二度と繰り返されないために。

 

「私が……」

 

 飛ばないと、そう誓えば良いのか? 二度と、羽ばたかぬ生涯を歩むとここで口にすれば、エルマーは止まってくれるのか?

 

「いいえ。兄上が何を誓おうと、私の為に全てを擲ってくれたとしても、私は決して止まりません。お忘れですか? フロイラインもまた、前線に立つのですよ?」

 

 戦争を終わらせる為に。平和に満たされた国で添い遂げるために。穏やかな未来を歩む為に、ターニャが今日という地獄を闊歩するという覚悟を決めてしまったから。

 

「だから私は、嘆かれても悲しませても、人殺しの道具を産み落とします。兄上と義姉、どちらもかけがえがないからこそ、私はその覚悟を抱いて進むことが出来るのです」

 

 虐殺者と呪わば呪え。悪魔と叫びたくば天まで声を張り上げろ。有象無象に言われたところで、知った事ではないとエルマーは吐き捨てた。

 

「止まっては、くれないのか?」

「答えは(ナイン)です」

 

 誰に泣きつかれたとしても、否定されたとしても。もうエルマーは止まってくれない。愛の為と口にすれば詩的だが、エルマーの覚悟とは、虐殺者として永遠に歴史に刻み込まれる悪夢の未来だ。

 

「ならば、私が終わらせてやる」

 

 手を握り返し、瞳を真っ直ぐに見つめ返して私は誓う。エルマーが一つの兵器で万軍を焼き払うというのなら、私はそれを完成させるまでもなく、勝利の道を用意しよう。エルマーの名が悪として世界に刻まれるなど許さないし、ターニャも決して死なせはしない。

 

「では、競争ですな。兄上」

「追いかけっこでは、私の全勝だったがな」

「ですが、チェスは私が上でした」

 

 戦争という盤面では、自分が必ず上を行くと息巻くエルマーに、一足先に逃げるだけだと私は笑う。だけど、私の笑いは弟のそれと違って無理に作ったものだった。

 屈託のない笑顔で。家族と家族の生きる世界の為に死力を尽くすと誓うエルマーは、その心のあり方を後世の誰に知られることもないまま、唯歴史に殺戮者と、虐殺者として刻まれることを是としている。

 如何なる道徳律も、良心の呵責も、正義さえ知った事かと投げ捨てる気でいる。

 それを思うと、私の胸はずきずきと痛んだ。決して負けられない。敵に対してだけでなく、エルマーにも。

 

「勝つのは、私だよ」

「兄上はいつも、負けず嫌いでしたからね」

 

 だけど、これは譲れませんよとエルマーは杖を突いて去ってしまう。残された私は、ぼんやりと白い天井を見て漏らした。

 

「そうだよ、お前の兄は負けず嫌いなのだ」

 

 お前に、他愛のない男だと思われたくなかったから。お前のような、誇らしい弟の兄で居たかったから。

 

“駄目な兄なりに、頑張りたかったのだよ”

 




 ドイツの結婚式はマジ大変超大変。ウェディングプランナー居ないから式のスケジュールは夫婦で組むし、ウェディングワルツ踊らないといけないからダンス教室に通ったりもするそうです。
 この作品も当然そんな感じの式です。デグ様頑張れ超頑張れ。

 さて。唯でさえ時間のかかること前提の、東部戦線にタイムリミットが設けられました。
 本気出したエルマー君が世界を焼いちゃう前に、決着つけようとニコ君が頑張ります。
 つまり、主人公も本気出します。これでようやく帝国チート四天王が揃いました。
 デグ様(未来知識:但しIF歴史)、エルマー君(開発チート)、主人公(武力チート)
 そして手段を選ばぬ我らが参謀総長閣下です! え? 四天王じゃなくて三羽烏だろって?
 ……。しゅ、手段を選ばないやり口と、的確な人員配置あるからチートの枠にギリ入れるし(震え声)

 まぁ、ぶっちゃけどんだけブースター入っても、参謀総長は、原作最新刊の覚悟完了したゼートゥーア閣下には負けるんですけどね。
 というか、マジでゼートゥーア閣下が化け物過ぎる……何だこいつ。

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